週報No.2097 涙の預言エレミヤ書(10) 「偽りの神々」 2:20~28

2017年10月15日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

涙の預言エレミヤ書(10) 「偽りの神々」 2:20~28

エレミヤ書2章20~28節

2:20 実に、あなたは昔から自分のくびきを砕き、自分のなわめを断ち切って、『私は逃げ出さない』と言いながら、すべての高い丘の上や、すべての青々とした木の下で、寝そべって淫行を行っている。
2:21 わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。
2:22 たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。──神である主の御告げ──
2:23 どうしてあなたは、『私は汚れていない。バアルたちには従わなかった』と言えようか。谷の中でのあなたの道を省み、何をしたかを知れ。あなたは、道をあちこち走り回るすばやい雌のらくだ、
2:24 また、荒野に慣れた野ろばだ。欲情に息はあえぐ。そのさかりのとき、だれがこれを静めえようか。これを捜す者は苦労しない。その発情期に、これを見つけることができる。
2:25 はだしにならないよう、のどが渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。『あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです』と。
2:26 盗人が、見つけられたときに、はずかしめられるように、イスラエルの家もはずかしめられる。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちがそうである。
2:27 彼らは木に向かっては、『あなたは私の父』、石に向かっては、『あなたは私を生んだ』と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、『立って、私たちを救ってください』と言う。
2:28 では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ。
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>
 
 ヨシヤの改革が、儀式的面が多くて偶像を取り除くことに偏っていて、霊的に、信仰的に、イスラエル人の心の中にまで、改革が及んでいなかったために、人々は隠れた所で偶像礼拝を行なっていても、彼らは表面上、「私たちは罪を犯していません。」と、堂々と言ってのけたのです。

 信仰改革は、儀式や、神学的知識を整えるだけでは、全く改革されていないのと同じです。私たちの心の内に生けるキリストの御霊が住んで下さり、働いて下さってこそ、本当の宗教改革が行なわれているのです。この御霊による宗教改革は、ペンテコステの日に始まったのです。

 このようなヨシヤの儀式的宗教改革の結果、第一に、改革は偶像を壊したり、祭壇を壊したりする、目に見える範囲での、極めて表面的にとどまり、一人一人の心の中まで届く信仰改革にならなかったのです。それ故、イスラエルの国民の自分中心の肉的欲望、即ち主を捨てて、偶像に頼んで、安心と繁栄を求める強い欲求を変えることが出来なかったのです。

 第二に、この表面的改革は、形の上では偶像を取り除いて、偶像礼拝ではなく、政治的同盟であるという隠れ蓑を作らせてしまっていたのです。それで彼らは、大手を振って、公然と、「私たちは罪を犯していません。」と、言ったのです。形式的、表面的改革は、却って、問題を深刻化させてしまったのです。

こういう状況の中に、若い預言者エレミヤは遣わされたのです。

 彼は先ず、国民の間に広がっていた罪の本質を明らかにしました。人々は、神殿の務めや、儀式を守ってさえいれば、今日風に言えば、毎週教会に行っていれば、それで、本当に、主を礼拝していることになるのか。儀式や決まりを守っていれば、「罪を犯していない」と言い切れるのか。自分たちは汚れていないと、言い張れるのか。

 「これは主の宮。主の宮、主の宮だ。」(7:4)と言っているだけで、いいのか。エレミヤは、こんな偽りのことばを信頼してはならないと、言っています。エレミヤは、宗教儀式を、表面的に、形式的に行なうのは、何もしないことよりも罪深い、悪いことだと言っています。新約の福音書時代の律法学者やパリサイ主義者は、無意味な戒めを守るように教えましたが、その律法や儀式が示している肝心のイエス・キリストを拒んでしまっていたのです。宗教儀式を、形だけ行なうことは神を完全に捨ててしまうことに行き着くことを、エレミヤは警告したのです。

 「子どもたちよ。私たちはことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一、3:18)

 熱っぽい雄弁も、真実な愛がなければ、偽善に過ぎません。名目だけの信仰者は、無神論者であることを覆い隠しているようですが、人を神の道から迷わせる悪質なものとなります。

 イスラエルの民は、偽りの神々を偶像礼拝していても、自分たちは何も、悪も汚れたこともしていないと、罪に対して無自覚で、平然と否定するので、エレミヤは余計に面倒になってきたのです。彼らは本当に罪の自覚がないのか、うそぶいているのか、若いエレミヤの前で、ふてぶてしい態度です。

 そこでエレミヤは、ヒノムの谷における偶像礼拝の事実を指摘して、言い逃れができないようにし、23~24節では、二つのたとえを用いて、肉の欲の放縦と化している激しい偶像礼拝を叱責しています。

 彼らは、異邦人の偶像礼拝を真似ようとする強い欲望を持ってだれにも邪魔させないと、堅く言い張っていたのです(25節後半)。

 これでエレミヤの警告は無駄のように見えました。

 主イエス様は、ユダヤ人の指導者であったニコデモに、次のように言っています。「・・・あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」(ヨハネ3:10)

 このみことばは、当時のユダヤ人の教師は、「御霊による生まれ変わり」があることを、全く知らなかったことを示しています。

 御霊による生まれ変わりがなければ、いくら割礼の儀式を受けていても、神の国に入ることが出来ないことを、知らなかったのです。

 このようなことは、聖書の中でも、決して珍しいことではありません。

<今週の活用聖句>

ガラテヤ人への手紙5章25節

「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

<集会案内>

◇10月18日(水)聖別会 午前10時半
聖潔の諸要素(87)
「聖潔と人間的要素(4)個人的相違」

地の塩港南キリスト教会
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