週報No.2111 涙の預言エレミヤ書(22) 「神の嫌われる偽善的信仰」 7:21~29

2018年1月14日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

涙の預言エレミヤ書(22) 「神の嫌われる偽善的信仰」 7:21~29

エレミヤ書7章21~29節

7:21 イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。
7:22 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。
7:23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』
7:24 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。
7:25 あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、
7:26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。
7:27 あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。
7:28 そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。
7:29 『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を唱えよ。【主】は、この世代の者を、激しく怒って、退け、捨てたからだ。』
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

エレミヤがここで痛烈に非難しているのは、心を真直ぐに主に向けないで、悔い改めの心を持たずに、信仰の従順を持たずに、儀式だけ行なう、どんないけにえも、神は拒否されることです。儀式だけのいけにえは、神様を冒潰するものです。

主を礼拝するのなら、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、礼拝しなさい。また、隣人を愛する生活をしなさい。

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては、何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』」(7:22~23)主はエレミヤを通して、神とエジプト脱出時のイ
スラエルとの間に結んだ、契約とご命令に立ち返るように語っています。それは、いけにえをささげる儀式制度を行なうことではなく、「神の御声に聞き従うこと」です。

いけにえが大きくクローズ・アップされたのは、エジプト脱出の直前の、自分たちの罪を過ぎ越していただくために、小羊の血を各々の家の門とかもいに塗った時です。これが常習化していったのは、レビ記の時代に、イスラエル人が幕屋で礼拝をささげる時、罪と汚れを持ったままで、聖なる神に近づくことができないことを教えるために、小羊の血を携えて、聖なる神を礼拝したのです。

これは新約における、イエス・キリストの十字架の血によって、私の罪の身代わりの刑罰が、完全に払われることを、表わしているのです。

旧約の人たちが、この重要な真理を悟れなかったとしても、安易な、むなしい心で、いけにえの儀式を行うだけで、事足れりとしていることは、神を冒涜しています。

「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(即ち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」(マルコ7:10~13)

エレミヤの時代の人々は、むなしい偽善的な心で、形式だけいけにえをささげて、主に対する責任を果たしたと思っていましたが、新約の時代では、もっとひどい状態で、息子や娘たちは、両親の供え物をささげるのを嫌がって、口先だけで、「コルバン」と言うだけで、ささげたことにしてしまっているのです。こんなひどい状態にまで、宗教は堕落するのです。

ユダヤ人は、神のご命令を確かめて従うより、モーセを絶対的に崇めていましたから、モーセの律法にこじつけて、偽善的方法を編み出していたのです。

しかしモーセの命令も、出エジプト記の記事の中ではシナイに到着する前には主の御声に聞き従うことが勧告されています。

人が行き詰まった時に持ち出す言い訳は、儀式を守ったことと、宿命論と、特権意識を持ち出すことです。

儀式を忠実に守ったことの言い訳は、エレミヤの譴責にもしばしば使われています。儀式を守っている国家と人民は、神に守られるという勝手な考えは、あちゆる時代に現われています。

「私は生まれた時から、幼児洗礼を受け、幼い頃から律法を守って来ました。」「雨が降っても、雪が降っても、這ってでも、教会に来ます。」と言った人がいますが、一度もそんな人はいませんでした。「私は、みんなのしもべになります。」と言った人も、本 当のしもべになった人はいません。

このようなことばは、口に出されたものであろうと、心の中で思ったことであろうと、聖書は警告しています。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実を持って愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一、3:18)

神への従順や愛の生活の伴わない、儀式や戒めやいけにえは、神に忌み嫌われていることは明白です。

私の心が聖い神と正しい関係を保っているなら、礼拝においても、賛美と祈りとみことばに恵みがあふれ、主の栄光の臨在を経験します。決して外面的な儀式が、内面の経験に変わることはありません。

<今週の活用聖句>

ミカ書6章8節
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主はあなたに何を求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

<集会案内>

◇1月17日(水)聖別会  午前10時半
必要な諸区別(11)「しみと傷」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421