週報No.2133 涙の預言エレミヤ書(43)「もう主の名で語るまい」エレミヤ書20:7~9

2018年6月17日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

涙の預言エレミヤ書(43)「もう主の名で語るまい」エレミヤ書20:7~9

エレミヤ書20章7~9節
20:7 【主】よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。
20:8 私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。私への【主】のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>
  
「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ書20:9)

 エレミヤの性格は、微風をも敏感に感じ取る鋭敏な心の持ち主で、ある時は悲しみのために涙を流し、またある時は、感極まって歌い出すたましいです。

 エレミヤ書全体が、彼の心の鋭敏な性格を映し出しています。このことを示す記事が多く出てきます。

 たとえば、20:14~18、「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。私の父に、『あなたに男の子が生まれた。』と言って伝え、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。…なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」と言ったかと思うと、20:11で、勝利に満ちた叫びも聞かれます。「しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。…」

 この二つの告白の間には、何と著しい違いが見られるでしょうか。

 初めの告白は、心が暗い谷間をさまよっています。二番目の告白の時は、心はまぶしい輝きの中にあり、地平線まで見渡せる、高嶺に立っています。

 同じような対比する特徴が、20章冒頭のパシェフルとのやりとりの中にも見られます。
 エレミヤは、もうこれ以上、神のことばを宣べ伝えまい、と半ば、決意するのですが、直ぐその後で、心のうちにおられる御霊の燃えるみことばの火によって、押さえ切れなくなっていく自分に気づくのです。

 「…主のみことばは私のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」

 心に神を宿す人には、説明できない不思議があります。神の御霊によって、上り詰めるその高さと、嘆きによって沈む深さを、測り知ることができません。

 その中には、無限の喜びと悲しみがあります。

 ここで気づくべき大切なことは、感情と意志の違いです。

 大抵、喜びでも、悲しみでも、感情が先に反応します。

 そこで信仰の決断を感情に任せてしまうと、大変間違った道に行ってしまいます。

 信仰は、健全な意志に従って、営むべきです。

 私は、その時その時の気分や感情によって生きるのではなくて、従順な意志によって、決断していくことが大事です。

<今週の活用聖句>

テモテへの手紙第二、2章21節
「ですから、だれでも自分自身を聖めて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、きよめられたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」

<集会案内>

◇6月20日(水)聖別会 午前10時半
    聖潔とは何か(6)
     「失敗だらけのクリスチャン」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421