書籍紹介 「聖書が答える死と未来」

まなべあきら著B6 83頁
死は、あなたにも直接関係のあるテーマです。キリスト信仰は、最後の敵である死に対して、勝利を約束していますが、その内容を知りたくはありませんか。

 

 

 

目次

1章 死後の世界はあるのか?
2章 死とはなにか?
3章 イエス・キリストの死と復活と昇天が示すもの
4章 死んだら、どこへ行くのですか?
5章 信仰の報酬

以下、一部抜粋

はじめに
最近、ガンでなくなった人の手記や、ホスピスについての本が次々と出版され、また一般社会でも話題になっています。私もそれらの数冊を読み、感動したり、ホスピスの働きの重要性を痛感したりしました。特に「ガンの苦痛を取り除いて、最後まで人格的な信仰生活ができるように。」というホスピスの働きは、人間が人格的に神の似像に造られていることからして、非常に重要なことではないかと考えさせられました。医学界では、心臓の停止を死の時とするのか、脳の働きが止まる時を死の時とするのかで、議論されているように、とかく人間の肉体的死だけに関心が集中している中で、死に向かっている人間に対して、人格的、霊的配慮がなされるようになってきたことは、うれしいことではありますけれども、これは当然のことであり、遅すぎたのではないかという感じがします。
人間が死に直面するとき、何が一番問題になるかというと、霊魂の問題です。肉体は遅かれ早かれ朽ちていくものです。だから肉体だけに終始している治療ならば、死ぬ者に対して全く片手落ちの治療と言わなければなりません。ある大学の病院の医師と話したときのことですが、その医師は、「私の仕事はどんなに成功しても、結局は失敗に終わる時が来るのです。医学は結局、敗北なのです。それに比べると、先生のお仕事はいいですね。永遠の勝利が約束されているのですから。」と、ため息をついて話していました。
死につゝある者に対して肉体の回復の治療は手段が尽きたとしても、霊的治療は十分に可能なのです。私も何人か、死に臨んだ人を主イエスのみ救いに導かせていただきましたが、みな平安と確信と勝利を持って天に帰っていきました。それを見とどけることができましたことは、私にとって大きな喜びです。私が経験したのはわずかの事例ですが、はっきりとキリストを信じる信仰を持った者は、決して死を恐れませんでした。信仰を持つまでは非常に恐れていた者も、信仰を持つことによって、死に対する恐怖が取り去られ、喜びと賛美を持って積極的に死に取り組んでいったことが、その特徴です。多くの人々が、死に対して恐怖を抱いているのは、死とは何であるか、死後の世界はどうなっているのか、そして最も重要なイエス・キリストの十字架と復活の勝利を知らないからです。知らないことは、不安を生み、恐怖をつのらせます。
私は、この小本をとおして、死を恐れ、おのゝいている人に、本当のことをお知らせしたいと思います。そして死後の世界に十分に備えていただきたいと思っています。 最後に蛇足ですが、最近の悲劇とも思われる死を遂げられた方々の手記が次々とブームとなっている世相に一抹の憂いと心配を心に抱かないわけでもありません。つまり、刺激を求めてきた現代人が、刺激に刺激を求めて、ついに人間の死という出来事でなければ、心を感動させなくなってしまったのだろうか、という憂いです。やがて、これらの手記を読んでも心を動かさない人が多くなるのではないかという恐れもあります。これらの手記を読んで、他人事としてたゞ感動するだけなら、危険だと思います。死と戦って勝利した人の信仰を自分のものとし、自分の生きている生活の中に取り入れていくのでなければ、このような感動は、たゞ刺激を求めるだけのブームに終わってしまい、やがて死に対しても心を動かさない人間が出来上がっていくでしょう。
一九八五年 一月 二四日
著 者 まなべ あきら

一章 死後の世界はあるのか?
もし、あなたが地獄に一時間ぶらさげてもらうことができたら、あなたはその後、全く違った生き方を始めるでしょう。そしてきっと、狂気の如くキリストを伝え始めるに違いありません。
もし私たちが死後の世界をもっとはっきりと知ることができたら、私たちの人生は変わってきます。いろいろなことに迷わされることなく、確信をもった足どりで人生を歩むことができるはずです。
しかし、その天国や地獄といわれている死後の世界は、ほんとうにあるのでしょうか。この間題は、今日まで、神秘家たちによって、神秘的に語られ、哲学者たちによって、あるとか、ないとか決めつけられ、宗教家たちによって、幻想的に語られてきました。このことによって多くの人々が確信をもてず、迷い、悩み、苦しんできたのです。しかし、「はじめに」のところでも書きましたように、聖書によって死後の世界を確信した者はみな、死を恐れなくなり、死に打ち勝ってきたのです。それは、人の考えた思想にはなお不安が残りますが、神のことばである聖書には絶対的信頼をおくことができるからです。
死後の世界の問題についても、聖書が何と言っているかということによって、人の推測と議論は終止符が打たれるのです。聖書の解答こそ、私たちの心の目を開き、心に平安と確信を与えて、死を乗り越えさせてくれるのです。
聖書をよく読んでみますと、人間の行くべき次の世界を、「死後の世界」と呼ぶのは適当ではないと思います。なぜなら、次の世界に入る扉は、死だけではないからです。聖書中には、死を経験しないで次の世界に移された人が、少なくとも二人紹介されています。それはエノク (創世記五章二四節) とエリヤ (列王記第二、二章一一節) です。エノクは、ある日突然、家族の前から姿を消したのです。聖書は、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」と言っています。エリヤの場合には、目撃者がいます。エリヤの弟子のエリシャです。エリヤはエリシャと話しながら歩いていたとき、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの闇を分け隔て、エリヤはたつまきに乗って天に上って行ったのです。エリヤはどこへ行ったのでしょうか。彼が消えたのは地上からだけであって、彼は確かにどこかで生きていたのです。というのは、彼が地上から消えてのち、約九〇六年後に、変貌山にモーセと共に現われて、イエス・キリストと会談をしているからです(マタイの福音書一七章)。ここでモーセは死の扉を通って、次の世界に行っていた人ですが、エリヤは死を経ずに行った人です。イエス・キリストを別にして、死後の世界から帰ってきた人は、ほかにもいます。預言者サムエルです(サムエル記第一、二八章)。ここでは悩み苦しんだサウルが霊媒の女に頼んでサムエルを呼び出してもらったようにも受けとられますが、神の預言者サムエルが霊媒の女に従うはずがありませんから、ここでは正しくは、神がサムエルを遣わして、恵魔の手下となって働く霊媒の女の面目を九つぶしにし、長い間心をかたくなにして預言者の警告を無視し続けてきたサウルに決定的判決を下されたのです。
モーセやエリヤやサムエルは、この地上を去ってからどこに行っていたのでしょうか。彼らは確かにどこかで生きていたのです。そのことについては、後程くわしくお話することにしましょう。
それにしても、死を経ないで次の世界に行けるのは、エノクとエリヤだけではないのです。あなたや私にも、その可能性がないわけではないのです。できれば、私も死を経ないで、次の世界に行きたいのですが、聖書はこう言っています。
「眠った人々 (著者注、聖書はキリストを信じて死んだ人を「眠っている人」と言っています。)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになるのです。」 (テサロニケ人への手紙第一、四章一三~一七節)
キリストの再臨(キリストが再びこの地上に来られる)日、まずキリストを信じて死んだ者がよみがえります。その次に、生き残っているクリスチャンは、死を経ず、そのまま肉体に支配されない、地球の重力にも支配されない、朽ちない体に栄化されて、空中にたずさえ上げられて主イエス・キリストとお会いするのです。その時、クリスチャンが一人もいなくなった地上は、大混乱を起こします。その後、クリスチャンは主イエス・キリストと共に地上におりてきて、支配を始めるのです。ですから、もしあなたが生きている間に、キリストが再臨されるなら、あなたは死を経ないで、次の世界に行く一員となることができるのです。しかしこの一員となるための条件は、あなたがイエス・キリストを心から信じ、神のみこころにかなった潔い生活をしていることです。
しかし、もしキリストの再臨がもう少し先に延びるなら、聖書に、
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 (ヘブル九章二七節)
とあるように、私たちは死を通って次の世界に行くことになるでしょう。そうなれば、私たちは死後、キリストの再臨の日によみがえるまで、「パラダイス」とか、「アブラハムのふところ」とか、「よみ」とか呼ばれている一時的な霊魂の休息所に行って、そこで休んでいることになるのです。
ところで、よみがえりの鍵となるキリストの再臨の日はいつなのか。それは誰もが知りたいところですが、神は沈黙を守っておられます。キリストも、
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子(イエス・キリスト)も知りません。ただ父だけが知っておられます。」 (マタイの福音書二四章三六節)
と言われました。ただ、キリストは、思いがけないとき、盗人の如くこられることだけは間違いないのです。神がその日を秘めておかれるのは理由あってのことです。もし、その日は何年の何月何日と言ってしまえば、その日の前日まで自分勝手な生活をしていて、その日になって潔い信仰生活をしようなどと、ずるい考えを起こす者が必ず出てくるからです。神のみこころは、「きょう、キリストの再臨があってもよいような生活を毎日送りなさい。」ということなのです。
さて、もう一度、この章の中心問題にかえりますが、聖書はハッキリと、この地上を去ると次の世界があることを示しています。そして、次の世界に入る道は二つ。すなわち、死を経ないで行く道と、死の扉をくぐつて行く道です。そして、エリヤは死を経ないで行く人の例であり、モーセは死を通って行く人の例なのです。私たちは自分でそのどちらかを選ぶことはできませんが、どちらの道を行くことになっても、イエス・キリストの救いを受け、潔められていなければならないのです。
「きよくなければ、だれも主を見ることができません。」 (ヘプル人への手紙一二章一四節)

以上、一部抜粋