書籍紹介 「自己建設」

まなべあきら著 B6判 157頁

著者の体験をまじえて、神と自分を愛することから始める自己建設について、わかりやすく書いています。ぜひお読みください。

 

 


目次

1章 あなたほ、どんな人になりたいですか?
2章 自己建設の土台は自己
3章 自分を愛していないと
4章 はつらつと生きるためには
5章 自己建設を妨げるもの
6章 良心の責め
7章 自己建設の手始め
8章 上に伸びるためには下に深く
9章 不利な条件の中での自己建設
10章 心に受けた傷は、いやせるか?
11章 自己建設の輝かしい道

以下、一部抜粋

はじめに

この本は、
「自分と同じように、あなたの隣人を愛せよ。」
というイエス・キリストのメッセージから出発して書かれています。このメッセージは、聖書のただ一箇所に書かれてあるのではなくレビ記一九章一八節、マタイの福音書一九章二九節、同二二章三九節、ルカの福音書一〇章二七節、ガラテヤ人への手紙五章一四節と、何回も何回も繰り返されている大切なメッセージです。

それでは、なぜ、このイエス・キリストのメッセージが自己建設に必要なのでしょうか。
その答えを結論から申し上げますと、私たちは、神を愛することによって、自分の大切さや自分の価値を悟り、自分を愛することを始めるのです。このようにして自分に自信を持ち、自己建設の一大事業をスタートするのです。

今は、家庭の主婦も外に出て働く時代です。若い美人の奥さんが目の前にチラチラし、大学出たての青年があなたの心を引くかもしれません。人はみなアバンチュウルを求めて職場に出かけているみたいです。あるいはまた、定年まで働いて、自分の年金で悠悠自適の生活を計画している人もおられるでしょう。私はそのような計画を立てていた主婦を知っています。しかし彼女は賢かった。彼女は私の著書「妻の役目」を読み「二〇年後には、職についているということ以外に何一つ身につけていない自分と、荒れはてた家庭が残っているに過ぎなくなってしまうのです。」とは、自分のことだと悟ったのです。彼女はその年の暮れ、職場を辞め、神を愛し、夫を愛し、子どもを愛し、家庭を愛する自己建設の道を選んだのです。

自己建設は、家庭建設でもあり、子どものしつけでもあるのです。花が一輪咲くことによって、どれほど多くの寂しい人、悲しい人を慰めることができるでしょうか。それと同じで、ひとりの人が愛に生きることによって、夫も妻も子どもも、老人も 接するすべての人が神の恵みを受けることができるのです。これは決して難しいことではありません。私は、この本で、できるだけ分かりやすく、だれにでもできることをご紹介してみたいと思います。

私がこの本で試みようとしていることは、人間の心の中に巣くう、自分を責める思い、劣等感、空虚な優越感(即ち、虚栄心)などの罪深い否定的な心の態度から抜け出し、神の愛に満たされた積極的な生き方に変わることです。これこそ、自己建設の神髄だと信じるからです。

「おまえはバカだ、バカだ、能なしだ。」と言われつづけた子どもが、有能な人間に育つでしょうか。「おまえはオンチだなあ」と、だれかに言われた言葉が心の中に焼きついてしまい、ついに自信をもって大声で歌うことができなくなった少年がいます。彼は一時、音楽に興味を失ってしまったのです。「おまえ、運動神経がにぷいなあ」といわれた一言で、運動に対する自信を失ってしまうものです。その一言をだれが言ったのかは忘れてしまっても、その一言が一生涯、自分の心の中でこだましてきて、「自分はダメなんだ」と自分に言い聞かせてしまうのです。このようにして大方の人はなんらかの面で否定的な、消極的な性格を身につけてしまい、自信のない生活を過してしまうのです。

何を隠そう、前の二つの言葉は、私自身に言われた言葉で、私はすっかり音楽と運動に自信を失っていました。それだけでなく人の前に出ること、みんなと一緒になって話合うことに、非常に臆病になっていました。

しかし、そのような消極的な態度も、聖書を読み、その意味の深さが多少分かりかけ始めたころから少しずつ変わってきました。その頃のことをお話しますと、私は学校を卒業してから、化学系の会社に就職しました。その就職の時の条件として、大学で研究させてくれるというので、非常に期待して入社したのですが、入社してみると、それは全くのウソでした。それですっかり、自分の将来に希望を失ったのです。もともと私は、研究的な仕事にたずさわりたいと思っていたのですが、来る日も、来る日も決まりきった仕事しか与えられません。それで音楽と運動に加えて、自分の人生にもすっかり失望してしまったのです。もちろん私はもがきました。なんとか単調な仕事から抜け出して、研究の仕事にたずさわりたいと、出口を捜して求めました。ところが出口を捜せば捜すほど、今まで開かれていそうに見えていた出口まで、次々ととざされてしまったのです。

あとで分かったことですが、これこそ神の導きであったのです。そのようなときに、私は一つの聖書の言葉をとおして、神の愛を知ったのです。その聖書の言葉とは、
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書三章一六節)
です。

この言葉をとおして、神が私を愛してくださっていることを知ったのです。私の生き方はこの時から変わり始めました。私は自分の心の中に、「私はこの神のためなら、何でもしよう。この愛を多くの人に知らせてあげよう。この愛こそ、私が求めていたもので、きっと多くの人も求めているに違いない。」と決心したのです。

このときから、調子はずれのくせに、平気で大きな声で歌うようになりました。人の前でも、心をこめて話すことができるようになったのです。気がついたら、消極的な自分はいなくなっており、積極的に生きようとしている自分がいたのです。そして段々と困難をも少しずつ耐え忍んで乗り越えることができるようになったのです。苦しいときにも、希望を見い出すことができるようになりました。そしてコツコツと成功への道を歩んでいるのだという自信を持つことができるようになったのです。

私は、神を信じることにより、神の愛を知りました。その結果、自分は大切な者であり、自分にもっと思いやりを持たなけれはならないことを知りました。また、自分を価値あることのために使えば、それによって自分を高めることができることも知ったのです。

あなたは、他人が言った言葉で悩んでいませんか。そういうことで悩んでいる人がたくさんいます。五年も十年も悩んでいた人がいます。電話口で言われた言葉、職場の同僚に言われた言葉が、あなたの耳にこびりついていませんか。「あんまりだ。誤解もはなはだしい。」と憤慨していないでしょうか。
しかし問題はそれから先です。「あの時、どうして、はっきり『そうじやない』と言わなかったのか。」そう言えなかった自分が情けない。「どうしてあの人が謝ったときに素直に『ゆるす』と言えなかったのか」と、後になって自分を責めることです。私にも、ずい分こういうことがありました。後悔先に立たずで、いつも自分を責めて、悩んでしまうのです。そしてついに自分がほとほと嫌になります。心には、いつも暗い影がつきまとい、「自分はダメな人間なんだ」という声がたえず心の中でこだましてくるのです。これこそ危険な否定的自己暗示です。これにかかると、深い、暗い古井戸に落ちたように仲々抜け出すことができません。どうしても自分が好きになれず、人も好きになることができません。心のやすらぎをどこにも見い出すことができず、自由な心で生活ができなくなってしまうのです。花が咲いても心は感動せず、蝶が飛んでもウサンクサクなるのです。

この古井戸から抜け出すにはどうしたらいいでしょうか? それは確信のある言葉を信じることです。人は必ず、心の中で何らかの言葉を信じています。それは、はっきり文章になっていないかもしれません。しかし、たえず自分に言い聞かせている言葉があります。心の中で繰り返している言葉があります。その言葉が、あなたの人生を決定するのです。ですから、あなたを励ましてくれる聖書の言葉を、心の中で繰り返しなさい。そうすれば、あなたは心の明るい積極的な人間に変わっていきます。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 (マタイの福音書二章二八節)

「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」 (コリシト人への手紙弟二、一二章一〇節)

以上、一部抜粋