聖書の探求(001a)聖書探求のルール(通巻1号_創刊号) 

「けれども、あなたは学んで確信したところにとどまっていなさい。」(テモテ第二 3:14)


これから私たちは、66巻の聖書に取り組もうとしています。この学びは、聖書の研究というより、「探求」です。ですから、神学的な研究よりも、聖書の中から、神の恵みを掘り起こすことを目的にして試みてみようと思っています。それはちょうど石炭や石油の層を発見するためにボーリングするのと似ています。私たちはこれから神も恵みの金脈を発見し、それを掘り起こすために聖書の中にもぐりこんでみようとしているのです。しかし幸いなことに、これまで2000年の間に大勢の信仰の先輩たちが、この金脈を探求してくださっていますので、私たちはその足跡にそって進んでいけば、手さぐり以上の探求ができると確信しています。

この聖書の探求が、最後のヨハネの黙示録まで到達するには何年かかるか分かりませんが、私の生涯の仕事の一つとして掘り進んでいきたいと思っています。末長くご同行いただければ幸いです。また、お祈りをもってお支えいただければ感謝です。

聖書の探求のためのルール

先ず、聖書を探求する上での心得、すなわち、決して忘れてはならない、また、はずれてはならないルールをご紹介しておきましょう。これまで多くの聖書学者や神学者たちは、このルールから離れてしまったために、聖書の光(権威)を消してしまい、人類に莫大な損害を与えてきたのです。しかし幸いなことに、最近、再び福音的な多くのクリスチャンがこのルールにしっかり立って歩み始めましたので、聖書の光は再び赤々と燃え始めています。私たちもこのルールに沿って探求しなければなりません。

さて、聖書は、書かれるに至った神的起源や、神の救いのご計画の内容からして、他の書物とは、本質的に全く異っています。聖書は、神から人類に与えられた、唯一の生ける神のみ言葉です。聖書は、聖霊の霊感によって書かれたものですから、敬虔な信仰の態度で読むべきです。このような意味で、私は、聖書は研究するよりも、探求するもの、すなわち聖書の中に神の恵みを求め、尋ね、叩き、そして発見すべきものであると思うのです。(マタイ7:7,8)

マタイ
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

1、聖書は神の言葉です。

聖書は、その記者 (モーセ、サムエル、ダビデ、預言者たち、使徒たちなど) の言葉ではなく、神ご自身の言葉です。聖霊の霊感を受けて書いた記者たち自身が、聖書の言葉は彼ら自身の考え出した言葉ではないと言っています。

ペテロの手紙第二1章20,21節を読んでみましょう。

1:20それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言は   みな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

これは、ペテロの書いた言葉が、ペテロ自身が考えて作ったものではなく、またペテロの時代の人々のためだけに書かれたものではないことを物語っています。

しかしまた、聖書は、人を通して、人に対して書かれたものであり、各記者の人間的特質を含んでいることも確かです。神は、それぞれの人間的要素をこわすことなく、しかもご自身のみこころを誤ちなく示されたのが聖書です。それ故、聖書に示されている真理は、限界のある人間の理性と知能によって理解されるように記されています。ここに聖書は、人の手によって書かれたにも拘らず、誤りなき神の言葉であると断言することができるのです。ですから、私たちは聖書を読む時、神が聖書の言葉を通して私たちに語りかけてくださるという確信を持たなければなりません。

聖書には、神のみこころの啓示と、神ご自身がいかなるお方であるのかという啓示と、人間の罪や救い(あがない)についての啓示が記されているのです。(テモテ第二3:16、ヘブル1:1~2、ペテロ第二1:20~21など)

Ⅱテモ 3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

ヘブル 1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

Ⅱペテ 1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

2、聖書には統一性があります。

旧約聖書の神と新約聖書の神とは、同じ神です。ヘブル人への手紙1章1,2節を読んでみましょう。

ヘブル 1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

これは旧約の時代に多くの預言者たちが語ったのも、新約になってイエス・キリストが語られたのも、同じ神によって語られたことを表わしているのです。

旧約は、新約を示す影であり、新約を約束するものであり、新約を預言しているのです。そして新約は、永遠の栄光の約束であり、永遠の預言なのです。ですから、聖書を旧約と新約に分けてしまって、新約は大切なもので信じられるが、旧約は価値がなく信じられないとしてはいけません。旧約も新約も同じように重要な神の言葉なのです。

3、聖書の中心は、イエス・キリストです。

(ルカ24:27、44、ヨハネ5:39、使徒28:23)

ルカ 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

ルカ 24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

ヨハネ 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

使徒 28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

聖書は、大勢の記者たちによって書かれました。その中には、モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、ソロモン、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、エズラ、その他の預言者たち、またキリストの弟子たちやパウロなど、その数は40人にものぼります。この中には大律法家、詩人、思想家、賢人、預言者、王様もいれば、羊飼い、農夫、漁夫、税金取りもいました。

それだけでなく、聖書が書かれた期間は約1600年にもわたっています。それにもかかわらず聖書全体は一つの目的で貫かれています。その目的とは、救い主イエス・キリストです。聖書は、イエス・キリストの第一回降臨(聖誕)とその人格、そのみわざ、その御国、その御教え、そして第二回目の降臨(再臨)と永遠の統治の主題であふれています。

聖書中のすべての約束と預言は、イエス・キリストによって実現します。それは新約においてだけでなく、旧約においても同じです。(コリント第2の1:20)

Ⅱコリ 1:20神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

4、聖書は罪からの救い

(あがない-キリストの十字架によって私たちの罪の代価が払われて、罪が赦され、私たちが神の子となること)を強調しています。

(1)神の言葉と聖霊による生まれ変わり (ヤコブ1:18、ペテロ第一1:2~3)

ヤコブ 1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

Ⅰペテ 1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

(2)神の言葉によって救われる (ヨハネ5:24、テモテ第二3:15)

ヨハネ 5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

Ⅱテモ 3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

(3)キリストの言葉によって信仰が養われる(ローマ10:17)

ロマ 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

(4)聖書の証言によって、神を信じる者は義とされている (ローマ4:3)

ロマ 4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

(5)真理のことばによって、聖められる(ヨハネ17:17)

ヨハ 17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

(6)神の言葉によって成長する(ペテロ第一2:1~3)

Ⅰペテ 2:1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。2:3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。

(7)神の言葉は罪を予防する (詩篇119:11 )

詩 119:11 あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。

(8)神の言葉は毎日の生活の光である (詩篇119:105)

詩 119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

このように、神の言葉は、私たちのあらゆる状態と生活に当てはまるのです。ですから、聖書を深く探求していくことによって、私たちの信仰は成長していくことができるのです。

5、聖書の啓示には、徐々に順を追って進展していく性質(漸進性)があります。

聖書は、すべての真理を一度に発表していません。神は、人類の歴史に沿って、徐々にそのみ旨を啓示されていったのです。(ヘブル1:1~2)

ヘブル 1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

創世記は、聖書全体の真理の苗床です。モーセの律法の中には潜在的に人類に必要なすべての律法とすべての預言が含まれています。神は、堕落したアダムとエバに福音の最初の種まきをし、イスラエル民族の発展と共にそのみこころを徐々に明らかにしていったのです。そしてそれはイエス・キリストによって、全人類に拡大されたのです。

この漸進的な啓示の中で特に重要な教理は、神の唯一性とあがないです。旧約聖書においては、神の唯一性が強調されていますが、これは偶像と明確に区別されるためであり、新約聖書においては、三位一体の神が明らかにされております。

また、あがないについては、旧約の獣の血によるイスラエル人のあがないという狭い思想から、新約においてはイエス・キリストの十字架による全人類のあがないという神のみこころである大真理が明確にされたのです。

6、聖書の権威

聖書は、単なる意見ではなく、単に真実であるというだけでもありません。聖書は絶対的最終の真理なのです。

この聖書の言葉には、人間の言葉を付け加えても、また削ってもいけない、と聖書自身が言っています。(黙示録22;18~19)

黙 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

人間の考え出した言葉は、不信仰と霊的暗黒を生み出すからです。また、神の言葉と人間の言葉がまぜ合わされると、迷信になってしまいます。

聖書は、聖書だけで完全無欠の真理です。神は、私たちに、この聖書の言葉を信じ、従うことだけを要求しておられるのです。聖書の言葉は、信じて従ってこそ、私たちの霊的知識となるのです。神の光に従う者は、さらに多くの光を得るようになります。しかし神のみこころを行なうことを拒む人には、段々と聖書の言葉が無味乾燥になり、聖書がとざされた書物になって、その人の心から光が消えていくのです。(ヨハネ7:17、8:12)

ヨハ 7:17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

ヨハ 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

7、旧約聖書中の神の名前の意味

神の名前は、神ご自身がどういうお方であるかを表わしています。

(1)神(エロヒム)創世記1:1

 創 1:1 初めに、神が天と地を創造した。

創造の神、さばきの神、救いの神、そして悪人に対して刑を執行する神という意味です。

(2)全能の神(エル・シャダイ)創世記17:1~2、48:3~4、49:25など)

創 17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

創 48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』

創 49:25 あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。

無限の力をもち、すべてを満ちたらせるお方という意味です。神の全能は二つの面で表わされています。

第一は、神と神の民との間で結ばれたすべての約束を実現されるために力をあらわされています。

第二は、神が語られたすべての言葉を実行される誠実さの中にあらわされています。

(3)主(エホバ-新改訳聖書では太字で「主」と書かれている)出エジプト記3:4、14、16 レビ記16章、イザヤ書53章など。

出 3:4 【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。

出 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたが たのところに遣わされた』と。」

出 3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、【主】が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。

レビ記16章、イザヤ53章は、聖書参照

神は独立、不変のお方であると共に、神の民との間に聖なる贖罪(あがない)の契約を結ばれ、これを成就されるお方です。エホバとは、聖なる贖罪の契約の関係をあらわす御名前です。

(4)主(アドナイ) 創世記15:2~8、同22:14、マラキ3:1など

創 15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。15:4 すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。」15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」

創 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

マラ 3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の【主】は仰せられる。

この名は、神は神の民の主人、夫、所有者という意味をもっています。

ここにあげました神の名称は、神の人間に対する様々な関係を表わしていることが分かります。神は、創造者であり、王であり、審判者であり、主人であり、信じる者の父でもあるのです。この関係は、今日においてもなお変わっていません。

これで、聖書を探求するための七つのルールをご紹介しました。これに沿って聖書を探求してまいりましょう。


創刊号のあとがき

ずい分前から、お金ができたら、聖書の学びと信仰生活に役立つ、力強い、しかも少し内容に深みのある月刊誌を出したいと思っていました。しかし、いつになってもお金は貯まりそうもありませんので、いつもの如く、こんな形でも出してみたらと思って、思い切って始めることにしました。

内容には、あれもこれもと思っていましたが、とりあえず聖書の学びだけで始めました。これに信仰のことや、教理的学びや、月間の霊想、あかしなどを加えられたら、さらに充実したものになると思いますが、今はまだそこまで力が及びません。

この「聖書の探求」では、あまり細いところまで触れることができませんが、聖書中の金脈部分には触れていきたいと思っています。私もこれを通してもう一度、新に聖書を学びたいと思っています。みなさんの聖書の学びに、また教会やグループでの聖書研究に少しでもお役に立てれば幸いです。なお、浅学な者のためにも、お祈りください。


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日で、2019年3月現在、通巻420号、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。バックナンバーも注文できます。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」
電話・FAX 045(844)8421