聖書の探求 (002) 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ(1)個人的タイプ、(2)歴史的タイプ

上の写真は、イタリアの画家 Orazio Riminaldi (1593–1630)により描かれた「Sacrifice of Isaac(イサク献上)」(イタリア、ローマにある美術館 Galleria Nazionale d’Arte Antica蔵、Wikimedia Commonsより)


前号は、ほんの導入部分でありましたのにも拘らず、大勢の方々からお励ましのお手紙をいただき感謝致します。特に、年配の方々が聖書の探求に真剣に取り組もうとされているお姿に頭が下がります。

さて、私たちは日頃、集会をとおして、あるいは信仰の書物をとおして聖書の言葉から神の恵みをいただいております。その場合、ほとんどが聖句の数節か、ある部分をとおしてであります。しかし聖書の探求には他にも方法があります。

その一つは聖書全体の骨組を調べ、聖書全体の流れはどこに向かっているのか、あるいは各書の持つ意味を考えることです。この探求の仕方は聖書を健全に理解していく上で非常に重要です。集会で語られる一節一節のメッセージや、ある部分の霊的教えは、私たちが聖書全体に対して健全な理解を持っているということを前提にして語られているのです。もしあなたが未知の国のある都市に行くとしたら、二枚の地図を買うでしょう。一枚はその国全体の大まかな地図、もう一枚はその都市の詳しい地図です。もしあなたが、どちらか一枚の地図しか持っていかないとしたら、随分不便な思いをすることになるでしょう。

この聖書の探求では、聖書全体の骨租と流れを考えてみようと思います。そのために、まず聖書をお読みください。この冊子に出てくる引照聖句は、必ず聖書を開いて読んでください。比べてください。いろいろご自分の探求の材料にしていただきたいのです。また各書に入りましたら、その書を三~五回練り返して読んでいただけると、聖書全体があなたの中で生きて働き始めるようになることを保証します。

それでは、前回に続けて、聖書の探求を始めましょう。

聖書の中のタイプ(予型)

聖書を探求していく上で、どうしても知っておかなければならないことがもう一つあります。それは、聖書に度々出てくるタイプ(ある本体を表わすために影のように用いられている予型)です。

皆さんはすでに、旧約聖書の中に多くのタイプがあることを御存知でしょう。このタイプについては不明確なところもあって、しばしば行き過ぎた解釈をされる方もいますので、ここで少しふれておきたいと思います。

新約聖書は、旧約聖書中の人物や出来事、儀式、建物などを、新約の本体をあらわす予表や預言として取り扱っています。この新約聖書のタイプの取り扱い方は、神の霊感によってなされたものです。しかしそのような霊感は、聖書の完成と共に終わりましたので、今日の私たちは自分勝手に新しいタイプや預言を作り出してはいけないのです。

第一に、聖書のあらゆる箇所、すなわち、あらゆる出来事、あらゆる行動の中にタイプが隠されていると考えてはなりません。オリゲネスや、ヒエロニムスやアンブロシウスというすぐれた教父たちですら、この極端の誤ちを犯してしまったのですから、よくよく注意する必要があります。彼らは、最も簡単なことの中にも、最も深遠な真理が隠されていると信じたのです。たとえば、幕屋の綱やクイ、野生の果実、家畜などの中にも神の奥義があると考えたのです。このような考えは行き過ぎで、聖書を独断的で架空のものにしてしまう危険があります。

第二に、聖書の歴史的事実を無視するタイプを考えてはいけません。これは、聖書中の歴史的事実を無視して、聖書の記録の真実性を破壊しようとするものです。

第三は、モーゼス・スチュアートという人が言い出したことですが、それは、「新約聖書は、旧約聖書のタイプを使い果しているので、新約聖書中にタイプとして採用されている旧約聖書の箇所に限り、タイプとして取り扱う。」という見解です。これは、熱さに懲りて、なますを吹いているのです。これも、もう一方の極端です。もし新約聖書を学んでみるなら、新約聖書は旧約聖書中のタイプの見本を取り出しているに過ぎないことが分かります。私たちは、新約聖書の模範に従って、もっと多くの有意義なタイプを捜し出すことができますし、また捜し出すことを期待されているのです。もしそうしなければ、私たちは旧約聖書の大部分を無用なものとして捨ててしまうことになるのです。

1、タイプの条件

タイプとして正しく使われるためには、次の四つの条件が備わっていなければなりません。

①原罪(あがない)が真実に措かれていなければならない。
②神の命令によって行なわれたものでなければならない。人が決めた儀式や出来事などを、神のみこころを表わすタイプとすることはできない。神だけがタイプを造ることができる。
③将来、実現する神のみこころか、あるいは霊的何ものかを預言するものでなければならない。
④邪悪な事柄を、良いタイプに使ってはならない。

2、旧約聖書中のタイプの種類

(1)個人的タイプ

旧約聖書中の人物で、その生涯があがないの真理または本質をあらわしているような人物、すなわち、アダム、メルキゼデク、アブラハム、モーセ、エリヤ、ヨナなどです。

彼らが用いられている実例をいくつか挙げてみますと、

アダム (創世記1~3章)

最後のアダム(キリスト) コリント第一15:45,47
誘惑、堕罪 ローマ5:14、テモテ第一2:14

アダムというのは、「人」という意味があります。最初の「人」アダムは、罪を犯して人類に滅亡をもたらしました。しかし最後のアダム、すなわち完全な人キリストは、全人類の代表者としてあらゆる誘惑、あらゆる罪に勝ち、死にまでも勝って、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。ここにキリストが最後のアダムと呼ばれているタイプがあるのです。

メルキゼデク (創世記14:18、詩編110:4)

大祭司なるキリスト (ヘブル5:5,6,10 6:20 7:1~27)

イスラエルではアロン以来、大祭司はレビ系のアロンの子孫がその職につくことになっていました。ところがメルキゼデクはアロンよりも先の人で、レビがまだ生まれる前のサレムの王であると共に、至高なる神の祭司であり、アブラハムから十分の一を受け取ってアブラハムを祝福したのです。

ここでキリストがメルキゼデクに等しい祭司とされているのは、二つの理由からです。
一つは、キリストご自身もレビの族ではなく,ユダの族であったことです。レビの族であれば、血統によって立てられた祭司ですが、メルキゼデクも、キリストも直接、神によって立てられた大祭司であることを強調しています。
もう一つは、キリストがただ祭司であるというだけでなく、王でもあり、また預言者としての職分をお持ちだったからです。これらの点で、メルキゼデクがイエス・キリストのタイプとして用いられたのです。

アブラハム

創世記11:27以降
・ 夫婦関係(ペテロ第一3:6)
創世記12章
・ 信仰生活(ヘブル11:8~10)
創世記14:13~20
・ 祝福を受ける(ヘブル7:1~10)
創世記15:6
・ 信仰義認(ローマ4章)
創世記16章
・ キリストにある自由(ガラテヤ4:22~5:6)
創世記22:1~19
・ 献身による信仰、信仰の試み(ヘブル11:17~19)
・ 行ないによって全うされる信仰(ヤコブ2:21~26)
創世記1:18,19 22:21 26:5
・ 信仰と品性(ガラテヤ3;6~9、14)
歴代誌第二、20:7、イザヤ41:8
・ 神の友(ヤコブ2:23)
・ アブラハムのふところ(ルカ16:22)
・ アブラハムの子(ルカ19:9)

アブラハムは、信仰、あるいは信仰の人のタイプとして用いられています。新約聖書中に「アブラハムの子」といわれているのは、アブラハムの血統にある人のことではなく、アブラハムと同じ信仰を持っている人のことを指しているのです。彼は信仰の父として多くの信仰者に親しまれてきました。アブラハムは新しい民、すなわち、信仰による神の民の祖とされているのです。

モーセ

出エジプト記2章
・ 罪の楽しみを捨て、キリストにある苦しみを選ぶ信仰(ヘブル11:24~27)
出エジプト記20章~34章、申命記全体
・ 律法(ヨハネ1:17)
・ 神の家の忠実なしもべ(ヘブル3:1~6))

モーセは律法を代表するものとして、また神の家を司る忠実なしもべとして表わされており、これに対してイエス・キリストはさらにすぐれた恵みとして、また神の御子として神の家を忠実に治める特権が与えられています。このタイプにおいては、キリストがモーセに勝っていること、モーセの律法の完成者としてのキリスト(マタイ5:17)が強調されています。といっても、モーセの律法が無効なもの、無意味なものとなったというのではありません。律法はそれだけでは罪を裁くものでしかありませんが、キリストの恵みによって律法は命を得たのです。

エリヤ

列王記第一、17:1~7、同18:30~46
・ 私たちと同じような弱さを持つ人の祈り(ヤコブ5:17,18)
列王記第一、17:9~24
・ 郷里で歓迎されないイエス(ルカ4:24~26)
列王記第一、17章~19章
・ バプテスマのヨハネの奉仕(ルカ1:17 マタイ11:14 同17:10~13 マルコ9:11~13)

エリヤは、特に、熱心な祈りの人として、また主イエスの先駆者となったバブテスマのヨハネのタイプとして、また変貌の山マタイ17:3においてはモーセ(律法の代表)と共に、預言者の代表として現われています。ここで、死んだモーセと、死なずして天に昇ったエリヤ(列王記第二2章)の出現は、キリストの再臨の時に起きる死人の復活と、生きていてキリストを迎え、携挙されるクリスチャンのタイプであるといわれています。
とにかく、遠い過去の二人がここで同時に出現していることは、肉体の死後も人間の霊魂が生きていることを証明しています。またキリストによるすばらしい復活が間違いのないものであることを裏付けています。

ヨナ(ヨナ書)

キリストが地の中で三日三晩いること(キリストの死)とキリストの復活(マタイ12:39,40 同16:21)

人々の悔い改め (マタイ12:41、ルカ11:32)

ヨナよりまさっているキリスト(マタイ12:41、ルカ11:29~30,32)

イエス・キリストはヨナが三日三晩、大きな魚の腹の中でいたことを事実として取り上げています。だから、このヨナの経験は本当にあったことであって、だれも勝手にこれを作り話だったということはできません。このような経験をしたのはヨナだけでなく、大きな魚に呑み込まれた後、生きて吐き出された人の記録が残っています。

しかしヨナが三日三晩、魚の腹の中でいたことは、特殊なタイプです。すなわち、イエス・キリストが十字架にかかって死なれて、三日目に甦ることを示しているのです。さらにヨナがニネべの人々に叫んだ神のメッセージはすなわち、キリストが全人類に向かって叫ばれるメッセージでもあるのです。そしてヨナ自身が神から逃れようとしたときに滅び(魚の腹の中)の経験をした故に、ヨナ自身がニネベの町の人々に警告のしるしとなったように、キリストは罪なきお方であったけれども全人類の罪を背負われて十字架にかかられた故に、キリストご自身がすべての人への警告のしるしとなられたのです。キリストの教えとは、キリストご自身であり、キリストご自身が道であり、真理であり、いのちなのです。ここにヨナのタイプの重要性があります。

(2)歴史的タイプ

これはイスラエル民族が経験した歴史上の事実で、しかも神のみわざと導きを示すものです。その重要なものをいくつか挙げてみましょう。

過越(すぎこし)(出エジプト記12章)

キリストの十字架の血による救い(ヨハネ1:29、コリント第一5:7)
過越(すぎこし)には神の怒りと刑罰からのがれるという意味が強調されています。そのために小羊の血が要求されたのです。罪が赦されるためには、血が必要なのです。キリストの十字架も、私たちが受けるべき神の怒りと刑罰をキリストが代わりに受けてくださったことがその中心です。

なぜキリストが身代りとして神の怒りを受けられたかというと、そこに神の愛があるのです。この真理を単純化してみますと、キリストは神であられますから、神は神ご自身を私たちの代わりに罰して、私たちをお救いくださったのです。これが神の愛です。

エジプトからの救出(出エジプト記13章~14章)

罪からの救出(使徒7:34~36)
イスラエル民族はエジプトにおいて奴隷の生活を強いられていました。それは逃れるに逃れられない苦しい生活でした。自分たちの努力では決して解放されないものでした。この状態は、神を知らない私たちの罪の生活を表わしています。この状態をパウロは、「罪の奴隷」(ローマ6:16~23)と呼んでいます。

しかし神はイスラエルの人々が苦しみ叫ぶ声を聞かれて、モーセをエジプトに遣わし、民をエジプトの奴隷の中から救出されたのです。このとき初めて、イスラエルの民は新しい神の支配される国を建設するようになったのです。彼らには神の約束された地力ナンが待っていました。これこそ、救い主イエス・キリストが私たち罪人を罪の奴隷から解放し、神の家族に加えてくださり、神の国の一員としてくださることのタイプなのです。そして彼を信じる者には天国が約束されているのです。

シナイの荒野の四十年の放浪生活(民数記)

聖化の恵みに至るまでのさまよった信仰生活(ヘブル3:7~19)
イスラエルの民は、奴隷の地エジプトから脱出したときは、紅海を渡るという劇的経験をして感動にわきましたが、その後、熱さのための渇き、空腹、そして旅路の困難さの故に、不平不満のつぶやきを言い続け、ついに約束の地力ナンの人口であるカデシュに着いたとき、不信仰な心になってしまったのです。

その結果、神はカナンを偵察した四十日間の一日を一年に計算して、四十年間民を荒野にさまよわせることにしたのです。この四十年の間にエジプトを脱出したとき成人だった者は、カレブとヨシュアを除いて全員、荒野で死んでしまったのです。これはクリスチャンに対する大きな警戒です。救われたら、躊躇せず、まっすぐに自分のすべてを主に明け渡し、聖化の恵みにあずかり、神の安息に入ることが大切です。低空飛行は墜落のもと。躊躇、不平不満は不信仰のもと、わざわいのもと、滅びのもとになります。

ヨルダン川を渡る(ヨシュア記3~4章)

信仰による安息(聖化の恵み)に入ること(ヘブル4:1~11)
カデシュから神の約束の地力ナンに入ることに失敗したイスラエルの民は、それから四十年後、モーセの後継者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、ついにカナンに入国したのです。しかしその時期は春の雪解けシーズンで、冷い水が川岸まで一杯にあふれていました。普段なら川幅の狭いヨルダン川も、この時期にはゴウゴウと流れていたのです。神はわざわざこの時期を選んで渡らせなさいました。それは民が信仰によって渡ることを学ぶためでした。カデシュで不信仰になって失敗した民に、もう一度チャンスが与えられたのです。私たちは失敗しないほうがいいですが、失敗しても失望する必要はありません。

今回は、見事にヨルダン川を渡りました。これによって、長い間の信仰の放浪生活は終わり、神の安息の生活に入ったのです。このヨルダン川を渡ることは、クリスチャンの聖化の経験のタイプとして用いられています。イスラエルの民がエジプトを脱出して紅海を渡り、再びここでヨルダン川を渡って約束の地に入ったという二つの転機的経験は、私たちが罪の生活から救われることと、その後に受ける聖化の恵みを表わすものです。ここに非常に大切な二つのタイプが示されています。

カナンの地における戦い(ヨシュア記5:13~12章)

信仰生活の戦い(エペソ6:10~18)
イスラエルの民は、神の約束の地力ナンに入国しましたならば、すべての戦いは終わったのでしょうか。いいえ、そうではありません。その時から本当の戦いが始まったのです。ヨルダン川を渡るまでは、自らの内にある不信仰と戦わなければなりませんでした。不平、不満、愚痴のつぶやきをつくり出す内的罪と戦わなければなりませんでした。つまり自分の内側に住む敵と戦っていたわけです。しかし信仰によってヨルダン川を渡り、全く神に信頼して神の安息を得た今は、内なる敵との戦いは終わっています。これからの戦いは、外側から来る敵との戦いです。すなわちサタンの攻撃、誘惑そして困難との戦いです。

しかしこの戦いにはいつも、主の軍の将であるイエス・キリストが戦ってくださいますから、勝つことができるのです。ところがヨルダン川を渡る前は、自分の内側にサタンに味方する敵(罪の性質)がいますから私たちは内と外のはさみうちに会って、大抵負けてしまうのです。しかしカナンに入った今は、敵は外だけです。しかもイエス・キリストが戦ってくださいますから常に勝利することができます。しかしこれは条件付です。すなわち私たちが自分のすべてを主におまかせし、全面的に信頼している時には勝利できる、ということです。

旧約聖書が分からなければ、新約聖書は分からないとよく言われますが、それは旧約の歴史そのものが新約において、重要な意味をもつタイプとして使用されているからです。

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