聖書の探求 002a 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ(1)個人的タイプ

前号は、ほんの導入部分でありましたのにも拘らず、大勢の方々からお励ましのお手紙をいただき感謝致します。特に、年配の方々が聖書の探求に真剣に取り組もうとされているお姿に頭が下がります。

さて、私たちは日頃、集会をとおして、あるいは信仰の書物をとおして聖書の言葉から神の恵みをいただいております。その場合、ほとんどが聖句の数節か、ある部分をとおしてであります。しかし聖書の探求には他にも方法があります。

その一つは聖書全体の骨組を調べ、聖書全体の流れはどこに向かっているのか、あるいは各書の持つ意味を考えることです。この探求の仕方は聖書を健全に理解していく上で非常に重要です。集会で語られる一節一節のメッセージや、ある部分の霊的教えは、私たちが聖書全体に対して健全な理解を持っているということを前提にして語られているのです。もしあなたが未知の国のある都市に行くとしたら、二枚の地図を買うでしょう。一枚はその国全体の大まかな地図、もう一枚はその都市の詳しい地図です。もしあなたが、どちらか一枚の地図しか持っていかないとしたら、随分不便な思いをすることになるでしょう。

この聖書の探求では、聖書全体の骨租と流れを考えてみようと思います。そのために、まず聖書をお読みください。この冊子に出てくる引照聖句は、必ず聖書を開いて読んでください。比べてください。いろいろご自分の探求の材料にしていただきたいのです。また各書に入りましたら、その書を三~五回練り返して読んでいただけると、聖書全体があなたの中で生きて働き始めるようになることを保証します。

それでは、前回に続けて、聖書の探求を始めましょう。


聖書を探求していく上で、どうしても知っておかなければならないことがもう一つあります。それは、聖書に度々出てくるタイプ(ある本体を表わすために影のように用いられている予型)です。

皆さんはすでに、旧約聖書の中に多くのタイプがあることを御存知でしょう。このタイプについては不明確なところもあって、しばしば行き過ぎた解釈をされる方もいますので、ここで少しふれておきたいと思います。

新約聖書は、旧約聖書中の人物や出来事、儀式、建物などを、新約の本体をあらわす予表や預言として取り扱っています。この新約聖書のタイプの取り扱い方は、神の霊感によってなされたものです。しかしそのような霊感は、聖書の完成と共に終わりましたので、今日の私たちは自分勝手に新しいタイプや預言を作り出してはいけないのです。

第一に、聖書のあらゆる箇所、すなわち、あらゆる出来事、あらゆる行動の中にタイプが隠されていると考えてはなりません。オリゲネスや、ヒエロニムスやアンブロシウスというすぐれた教父たちですら、この極端の誤ちを犯してしまったのですから、よくよく注意する必要があります。彼らは、最も簡単なことの中にも、最も深遠な真理が隠されていると信じたのです。たとえば、幕屋の綱やクイ、野生の果実、家畜などの中にも神の奥義があると考えたのです。このような考えは行き過ぎで、聖書を独断的で架空のものにしてしまう危険があります。

第二に、聖書の歴史的事実を無視するタイプを考えてはいけません。これは、聖書中の歴史的事実を無視して、聖書の記録の真実性を破壊しようとするものです。

第三は、モーゼス・スチュアートという人が言い出したことですが、それは、「新約聖書は、旧約聖書のタイプを使い果しているので、新約聖書中にタイプとして採用されている旧約聖書の箇所に限り、タイプとして取り扱う。」という見解です。これは、熱さに懲りて、なますを吹いているのです。これも、もう一方の極端です。もし新約聖書を学んでみるなら、新約聖書は旧約聖書中のタイプの見本を取り出しているに過ぎないことが分かります。私たちは、新約聖書の模範に従って、もっと多くの有意義なタイプを捜し出すことができますし、また捜し出すことを期待されているのです。もしそうしなければ、私たちは旧約聖書の大部分を無用なものとして捨ててしまうことになるのです。

1、タイプの条件

タイプとして正しく使われるためには、次の四つの条件が備わっていなければなりません。

①原罪(あがない)が真実に措かれていなければならない。
②神の命令によって行なわれたものでなければならない。人が決めた儀式や出来事などを、神のみこころを表わすタイプとすることはできない。神だけがタイプを造ることができる。
③将来、実現する神のみこころか、あるいは霊的何ものかを預言するものでなければならない。
④邪悪な事柄を、良いタイプに使ってはならない。

2、旧約聖書中のタイプの種類

(1)個人的タイプ

旧約聖書中の人物で、その生涯があがないの真理または本質をあらわしているような人物、すなわち、アダム、メルキゼデク、アブラハム、モーセ、エリヤ、ヨナなどです。

彼らが用いられている実例をいくつか挙げてみますと、

アダム (創世記1~3章)

最後のアダム(キリスト) コリント第一15:45,47
Ⅰコリ 15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

誘惑、堕罪 ローマ5:14、テモテ第一2:14
ロマ 5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

Ⅰテモ 2:14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。

アダムというのは、「人」という意味があります。最初の「人」アダムは、罪を犯して人類に滅亡をもたらしました。しかし最後のアダム、すなわち完全な人キリストは、全人類の代表者としてあらゆる誘惑、あらゆる罪に勝ち、死にまでも勝って、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。ここにキリストが最後のアダムと呼ばれているタイプがあるのです。

メルキゼデク (創世記14:18、詩編110:4)

創 14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

詩 110:4 【主】は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」

大祭司なるキリスト (ヘブル5:5,6,10 6:20 7:1~27)
ヘブル 5:5 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。5:6 別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

ヘブル 5:10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

ヘブル 6:20 イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。

ヘブル 7:1~21(聖書参照)

イスラエルではアロン以来、大祭司はレビ系のアロンの子孫がその職につくことになっていました。ところがメルキゼデクはアロンよりも先の人で、レビがまだ生まれる前のサレムの王であると共に、至高なる神の祭司であり、アブラハムから十分の一を受け取ってアブラハムを祝福したのです。

ここでキリストがメルキゼデクに等しい祭司とされているのは、二つの理由からです。
一つは、キリストご自身もレビの族ではなく,ユダの族であったことです。レビの族であれば、血統によって立てられた祭司ですが、メルキゼデクも、キリストも直接、神によって立てられた大祭司であることを強調しています。
もう一つは、キリストがただ祭司であるというだけでなく、王でもあり、また預言者としての職分をお持ちだったからです。これらの点で、メルキゼデクがイエス・キリストのタイプとして用いられたのです。

アブラハム

創世記11:27以後(聖書参照)
夫婦関係(ペテロ第一3:6)
Ⅰペテ 3:6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。

創世記12章(聖書参照)
信仰生活(ヘブル11:8~10)
ヘブル 11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

創世記14:13~20
創 14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

祝福を受ける(ヘブル7:1~10)
ヘブル 7:1 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。7:2 またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。7:4 その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。7:5 レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。7:6 ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。7:7 いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。7:8 一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他の場合は、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。7:9 また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。7:10 というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

創世記15:6
創 15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
信仰義認 (ローマ4章)
ローマ4章(聖書参照)

創世記16章(聖書参照)
キリストにある自由 (ガラテヤ4:22~5:6)
ガラ 4:22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。4:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。4:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。4:27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」4:28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。4:29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。4:30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」4:31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。

ガラ 5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。5:2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。5:3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

創世記22:1~19
創 22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。22:15 それから【主】の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、22:16 仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」22:19 こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。

献身による信仰、信仰の試み(ヘブル11:17~19)
ヘブル 11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

行ないによって全うされる信仰(ヤコブ2:21~26)
ヤコブ 2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。2:25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

創世記1:18,19 22:21 26:5
創 18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
創 22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
創 26:5 これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」

信仰と品性(ガラテヤ3;6~9、14)
ガラ3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

歴代誌第二、20:7、イザヤ41:8
Ⅱ歴代20:7 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜ったのではありませんか。

イザ41:8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。

神の友(ヤコブ2:23)
ヤコブ2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖  書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

アブラハムのふところ (ルカ16:22)
ルカ16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

アブラハムの子 (ルカ19:9)
ルカ19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

アブラハムは、信仰、あるいは信仰の人のタイプとして用いられています。新約聖書中に「アブラハムの子」といわれているのは、アブラハムの血統にある人のことではなく、アブラハムと同じ信仰を持っている人のことを指しているのです。彼は信仰の父として多くの信仰者に親しまれてきました。アブラハムは新しい民、すなわち、信仰による神の民の祖とされているのです。

モーセ

出エジプト記2章
罪の楽しみを捨て、キリストにある苦しみを選ぶ信仰(ヘブル11:24~27)
ヘブル11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

出エジプト記20章~34章、申命記全体
律法(ヨハネ1:17)
ヨハ1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
神の家の忠実なしもべ(ヘブル3:1~6))
ヘブル3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。3:2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。3:3 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。3:4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。3:5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

モーセは律法を代表するものとして、また神の家を司る忠実なしもべとして表わされており、これに対してイエス・キリストはさらにすぐれた恵みとして、また神の御子として神の家を忠実に治める特権が与えられています。このタイプにおいては、キリストがモーセに勝っていること、モーセの律法の完成者としてのキリスト(マタイ5:17)が強調されています。といっても、モーセの律法が無効なもの、無意味なものとなったというのではありません。律法はそれだけでは罪を裁くものでしかありませんが、キリストの恵みによって律法は命を得たのです。

マタ5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

エリヤ

列王記第一、17:1~7、同18:30~46
Ⅰ列王17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」17:2 それから、彼に次のような【主】のことばがあった。17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」17:5 それで、彼は行って、【主】のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。17:7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

Ⅰ列王18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた【主】の祭壇を建て直した。18:31 エリヤは、【主】がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。18:32 その石で彼は【主】の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。18:33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ」と命じた。ついで「それを二度せよ」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ」と言ったので、彼らは三度そうした。18:35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。18:37 私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」18:38 すると、【主】の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「【主】こそ神です。【主】こそ神です」と言った。18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。 18:41 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」
18:42 そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。
18:43 それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」
18:44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
18:45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。
18:46 【主】の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。

私たちと同じような弱さを持つ人の祈り(ヤコブ5:17,18)
ヤコブ5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

列王記第一、17:9~24
Ⅰ列王17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」17:12 彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。17:14 イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」17:19 彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。17:20 彼は【主】に祈って言った。「私の神、【主】よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、【主】に祈って言った。「私の神、【主】よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」17:22 【主】はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。17:23 そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある【主】のことばが真実であることを知りました。」

郷里で歓迎されないイエス(ルカ4:24~26)
ルカ4:24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。4:25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、4:26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。

列王記第一、17章~19章(聖書参照)
バプテスマのヨハネの奉仕(ルカ1:17 マタイ11:14 同17:10~13 マルコ9:11~13)
ルカ1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

マタ11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

マタ17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」17:11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。17:12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。

マルコ9:11 彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」9:12 イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。9:13 しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」

エリヤは、特に、熱心な祈りの人として、また主イエスの先駆者となったバブテスマのヨハネのタイプとして、また変貌の山マタイ17:3においてはモーセ(律法の代表)と共に、預言者の代表として現われています。ここで、死んだモーセと、死なずして天に昇ったエリヤ(列王記第二 2章)の出現は、キリストの再臨の時に起きる死人の復活と、生きていてキリストを迎え、携挙されるクリスチャンのタイプであるといわれています。
とにかく遠い過去の二人がここで同時に出現していることは、肉体の死後も人間の霊魂が生きていることを証明しています。またキリストによるすばらしい復活が間違いのないものであることを裏付けています。

マタイ17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

ヨナ(ヨナ書)

キリストが地の中で三日三晩いること(キリストの死)とキリストの復活(マタイ12:39,40 同16:21)
マタ12:39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

マタ16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

人々の悔い改め  (マタイ12:41、ルカ11:32)
マタ12:41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

ルカ11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

ヨナよりまさっているキリスト  (マタイ12:41 ルカ11:29~30,32)
マタ12:41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

ルカ11:29 さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。11:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

イエス・キリストはヨナが三日三晩、大きな魚の腹の中でいたことを事実として取り上げています。だから、このヨナの経験は本当にあったことであって、だれも勝手にこれを作り話だったということはできません。このような経験をしたのはヨナだけでなく、大きな魚に呑み込まれた後、生きて吐き出された人の記録が残っています。
しかしヨナが三日三晩、魚の腹の中でいたことは、特殊なタイプです。すなわち、イエス・キリストが十字架にかかって死なれて、三日目に甦ることを示しているのです。さらにヨナがニネべの人々に叫んだ神のメッセージはすなわち、キリストが全人類に向かって叫ばれるメッセージでもあるのです。そしてヨナ自身が神から逃れようとしたときに滅び(魚の腹の中)の経験をした故に、ヨナ自身がニネベの町の人々に警告のしるしとなったように、キリストは罪なきお方であったけれども全人類の罪を背負われて十字架にかかられた故に、キリストご自身がすべての人への警告のしるしとなられたのです。キリストの教えとは、キリストご自身であり、キリストご自身が道であり、真理であり、いのちなのです。ここにヨナのタイプの重要性があります。


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