週報No.2176 涙の預言エレミヤ書(84)「エジプトのまやかし」エレミヤ書37:1~10

2019年4月7日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書37章1~10節
37:1 ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコヌヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカデレザルが彼をユダの国の王にしたのである。
37:2 彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。
37:3 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子エフカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、【主】に、祈ってください。」
37:4 ──そのとき、エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられていなかった。
37:5 パロの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデヤ人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから退却したときであった。──
37:6 そのとき、預言者エレミヤに次のような【主】のことばがあった。
37:7 「イスラエルの神、【主】は、こう仰せられる。『わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、
37:8 カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く。』
37:9 【主】はこう仰せられる。『あなたがたは、カルデヤ人は必ず私たちから去る、と言って、みずから欺くな。彼らは去ることはないからだ。
37:10 たとい、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデヤの全軍勢を打ち、その中に重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らがそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この町を火で焼くようになる。』」
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

「…どうか、私たちのために、私たちの神、主に、祈ってください。」(エレミヤ37:3)

 ゼデキヤは、エレミヤに祈りを求め、エレミヤは、ゼデキヤに神のさばきの警告を告げたのです。

 ゼデキヤが、エレミヤに祈りを求めたのは、神を畏れた敬虔さからではなく、自分が不信仰のままで、神の審判から逃れようとして、不誠実に求めたからです。祈りは、神のさばきから逃れるための逃れ口ではなく、きよめの恵みに至る入口です。

 「パロの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデヤ人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから退却したときであった。」(エレミヤ37:5節)

 周りの状況は、一見、楽観的な状況に変わりつつあるように見えました。バビロン軍は、パロの軍隊を迎え撃つために、一時、エルサレムの包囲を解いたのです。

 …しかし、真実に、罪を悔い改めず、神に立ち返らない王と国民に、救いの兆しが見えて来るようであっても、自分の信仰を明確にしなければ、その機会を生かすことができません。

 ゼデキヤは、エジプトのパロの軍勢の情報を聞いた時、気持ちが浮ついてしまい、主が介入してくださったかと、思い込んだのです。しかし彼の神に対する態度を見ると、それはあり得ないことです。自分中心の人は、何でも自分に都合の好いように、解釈して行動するので、滅びるのです。

 「そのとき、預言者エレミヤに次のような主のことばがあった。」(エレミヤ37:6節)神はいつでも、必要な時には、必ず、欠かすことなく、みことばを語って下さいます。ですから、私はいつも、神のみことばが聞こえてくる範囲内で、心を働かせておく必要があります。いっも神のみことばを聞く備えをしておくことです。

 神に祈ることは、自分の思いや願いを神に訴えることと受け止めがちですが、祈りは本来、祭司エリが少年サムエルに教えたこと、即ち、「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」(サムエル第一、3:9)に尽きます。エレミヤは、毎日、神と交わり、神のみことばを聞くたましいの状態にあったのです。これが、「絶えず、祈りなさい。」という状態です。

 エレミヤは、神のみことばを聞いただけでなく、そのメッセージの内容の解き明かしも悟っています。

 エジプトのパロの軍勢は、ユダを助けるかのごとく出て来るが、バビロン軍の攻撃を受けて、エジプトに逃げ帰り、何の役にもたたず、直ぐにバビロン軍は引き返して来るのです(エレミヤ37:7~8節)

 その間、一時、バビロン軍によるエルサレム包囲は解除されますが、そのわずかの時の解放が、エルサレムの人々にとってわなとなり試みとなることを、エレミヤはみことばから悟らされたのです。

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1、121:2、146:3、147:10~11)

 ‥‥‥目の前に自分に都合のいい事が始まる時、自分中心の肉の欲を表わすか、御霊の思いを持って、神の栄光を本気で表わすのか、神は試しておられるのです。

 エレミヤは、神のみことばを聞くことによって、主と深く交わり、神のみこころを悟ったのです。このことをゼデキヤにも分からせようとしましたが、肉の心しか持っていなかったゼデキヤは偽預言者に従ったのです。

 神のみことばから、いのちを汲み取っていない祈りは、神のみわざを成し遂げません。聖書を読んだり、メッセージを聞く時、以前気づかなかった所に、光が届くことがあります。それは偶然ではなく、神がその真理のみことばを通してあなたの心を照らして下さっているのです。その時は、あなたにとってそれが必要な時ですから、生活の中で活用して下さい。そうすれば、更に深く主と交わるようになります。

 神と交わる祈りにおいて必ず必要なことは、口のことばで祈ることを控えて、神のみことばを心で聞くことです。そうすれば、何かを理解すること以上に、主があなたとともに、そして内にいてくださる主の臨在を、みことばのうちに経験するようになります。主はみことばを用いて、生けるみことばである聖霊を経験させて下さるのです。

<今週の活用聖句>

サムエル記第一、3章9節
「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」

<集会案内>

◇4月10日(水)聖別会 午前10時半
  道徳廃棄論者の間違い(4)「試練の中の安息」

地の塩港南キリスト教会
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