週報No.2180 涙の預言エレミヤ書(87)「死を覚悟したエレミヤ」エレミヤ書38:1~6

2019年5月5日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書38章1~6節
38:1 さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、すべての民にエレミヤが次のように告げていることばを聞いた。
38:2 「【主】はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは彼の分捕り物として彼のものになり、彼は生きる。』
38:3 【主】はこう仰せられる。『この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」
38:4 そこで、首長たちは王に言った。「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。」
38:5 するとゼデキヤ王は言った。「今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」
38:6 そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは彼の分捕り物として彼のものになり、彼は生きる。』」(エレミヤ38:2)

バビロンの包囲と食料攻め、疫病で、エルサレムの住民が締め付けられている間、預言者エレミヤに対する迫害もひどくなり、苦難が増していったのです。

エレミヤは、監視の庭にいる間も、彼に近づいて来る兵士たちや市民にも、神のみことばの預言を語り続けました。

彼のメッセージは「主はこう仰せられる。…カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。」即ち、神のみことばに従う者は救われることを、語り続けたのです。

バビロン軍は、神の審判の道具として主に用いられていたからです。いつでも敵の手に陥れば救われるのではありません。この時は、バビロン軍に降伏することが、神のみことばに従って、罪の刑罰を受けることだったからです。

このことを、今日の私たちの信仰に当てはめて言うなら、神のみことばのご命令は、「あなたの罪の刑罰は、イエス・キリストの十字架によって完了しているから、あなたはイエス・キリストに降伏して、信じて従いなさい。」というメッセージです。

間違わずに、正しく、健全に受け止めて、信仰を生かして下さい。

エレミヤは、神のみことばの真理を曲げたことはありませんでした。しかし、目の前のエルサレムの都と王国が崩壊しつつある原因が、自分たちの罪のためであることを、悔い改めようとしない首長たち、市民たち、祭司、偽預言者たちにとって、エレミヤの預言は、到底受け入れられない、死刑に値する、国家反逆罪だと、王の権力を持って、断定したのです。

「主はこう仰せられる。『この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」(エレミヤ38:3)

バビロン軍の攻撃は、エルサレムとユダの民の偶像礼拝と罪のための神の刑罰の道具であるという認識は、神の啓示を受けた者でなければ受け入れることはできないでしょう。単なる国際紛争として取り扱ってしまうでしょう。

しかし神にとっては、神の民の心根からの偶像礼拝を抜き取ってしまうためには、不可欠な手段だったのです。バビロンは、そのためにその時代に起こされた神の道具でした。

バビロン人は、自分たちが神に遣わされた、罪のための道具でしかないことを、充分に弁(わきま)えるべきでした。バビロンもそれを弁えず、高慢になって滅んでしまっています。

少しでも主に用いられる人は、高慢になる危険を弁えて、へりくだってほしいものです。

「そこで、首長たちは王に言った。『どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。』」(エレミヤ38:4)

神のみことばを拒んでいるゼデキヤ王や首長たちにとっては、エレミヤの預言は、自国の破滅を語っているのですから、戦士の士気をくじく反逆罪に見えます。もし、エレミヤの語ることが、本当に神から出たものでなかったら、国家反逆罪になってしまいます。

そこで、首長たちはゼデキヤ王に圧力をかけて、エレミヤの投獄と殺害に反対させないようにしたのです。ゼデキヤがエレミヤの預言も気にしていることを知っていたからです。

私たちにとって最も大事なことは「それは神が言われていることですか。」ということです。

新約のユダヤ主義者たちは、主イエスが父なる神の語られる真理を語っておられることを信じなかったために、神を冒潰する罪に定めて、十字架にかけて殺してしまったのです。

私たちにとって本当に大事なことは、「神が語られたこと」なのか、どうなのかということです。エレミヤがどんな迫害にも、死の危険にも、預言を全く変えなかったのは、彼の意志が強かったからではなく、神が語られたメッセージを体験していたからです。神の御声を聞いていたからです。

神のみことばに聞き従いたくない者たちにとっては、エレミヤの預言は、絶対に受け入れられない、国家反逆罪に見えたのです。

この信仰の見方と、不信仰の見方の違いは、今日も変わっていません。

<今週の活用聖句>

エレミヤ書1章7~8節
「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。-主の御告げ。-」

<集会案内>

◇5月8日(水)聖別会 午前10時半
「福音的基盤の上に(4)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421