書籍紹介 「子どもの心を育てる」

まなべあきら著 B6判 162頁

目次

1章 しつけの不安
1、親離れと子離れのできない親子
2、本が好きな子どもに育てるには
3、字は何才から教えればいいのか
4、子どもを叩くべきか、叩いてはいけないのか
5、子どもの非行防止策
6、「しつけ」とは何か
7、変わったのは、子どもか、親か
2章 子どもの心の成長
1、大きくなるということは
2、子どもの考え方は、トンチンカン
3、子どもの道徳教育
4、習いごとと芸術教育
3章 子どものあそび
1、遊びと娯楽
2、おもちゃの遊び方
3、テレビは子どもの教育によいのか、悪いのか
4、マンガの影響
5、子どもの本の世界
6、子どもと映画
4章 「こまった子」と言われるが
1、子どもの残虐性
2、不器用な子
3、ひとりっ子
4、遅れている子ども
5章 子どもの心を知る

は  じ  め  に

教会の婦人会などでお話をさせていただいた後、しばしば耳にするお母さんたちの会話の中に、「最初の子で失敗したので、二番目の子ではうまくやりたいと思います。」とか、「初めての子は甘やかしすぎて、二番目の子は厳しくしすぎたので、三番目の子でほうまくやりたいと思います。」というのがあります。これでは子どものほうが、たまったものではありません。最初の子も、二番目の子も、失敗して欲しくないのです。しかも近頃は、ほとんどの親がひとりか、ふたりの子どもしか生みませんから、日本中の子どもはみんな、失敗児はかりということになってしまいます、これでは大変です。
今は、両親が、子どもの心を育てるために、真剣に取り組まなけれはならない時です。一番目だって 二番目だって、決して失敗は許されないのですから。勿論、しつけに一度も失敗しない完壁な親は、一人もいないでしょう。しかし、ある程度十分な知識をもっていれは、取り返しのつかないほどの失敗をすることはなくなります、また不必要な心配をすることもなくなります。子どもの体の成長や健康は、保健婦さんや医者に頼むことができるでしょう。しかし、子どもの心を育てることは、保育園にも幼稚園にも、まかせることはできません。また、そういう所に責任を押しつけることもできません。それは親のしなけれはならないことであり、親の責任なのです。どんなに世話の行届いた保育園や幼稚園にあずけても親が子どもの心を育てなけれは、子どもは健全に育たないのです。
たとい、子どもが体に障害を持って生まれてきても故意に親が薬や酒やタバコをのんでいたのでなけれは、親の責任ではないでしょう。しかし、子どもの心を育てることに失敗したならそれは親の責任です。
その意味で、この本が、子どもの心を育てるのにお役に立ては、これ以上の喜びはありません。この本とともに、小生著の「家庭の幸福と子供のしつけ」を合わせてお読みくださると、さらに多くの知恵と助けが得られることと確信しています。

一九八四年六月二八日
著者 まなべ あきら

第一章 しつけの不安

一、親ばなれと、子ばなれのできない親子
これは悲劇です。野性の動物の世界では、親ばなれ、子ばなれをしなければ、生きていけません。この為に、親たちが冷酷と思われるほどの厳しい態度をとっています。それは、彼らが生きていく上で、どうしても必要なことだからです。厳しい自然の中で生きていく力は、親の過保護によっては養われないからです。このことは、私たち人間も十分に学ぶ必要があります。

親の責任

昨今、私たちのところに相談に来られる方の中に、夫や妻が親ばなれしていないために、離婚問題にまでなっている夫婦が何組かあります。これも結局は、親が子どもから切れないから、子どもも、結婚しても親から独立し切れないで、悲劇をひき起しているのです。子どもが親ばなれしないのは、
親に責任があるといわなければなりません。
もっと困ったことには、親ばなれ、子ばなれできないことが、個人個人の問題ではなく、社会一般の傾向になりつつあることです。結婚した娘を親が自由自在に振り廻して、若い二人の家庭をぶちこわし、娘に対する親の権利を主張したり、妻よりも母親の言いなりになる夫が増えつつあることは事実です。これは、大変恐ろしいことです。こういうことが、一般化して正当化されるようになれば、崩壊していく家庭がますます多くなることは、確実です。
親ばなれ、子ばなれの問題は、第一に親の人格が十分に成長し切っていないところに、原因があります。体は、子どもを生むことができる大人であっても、その人格が独立心や、責任感や、信頼感や、忍耐といった面で大人になり切っていないのです。確かに子どもが結婚して親元から独立していくとき親は非常に寂しさを感じるものです。しかし、人格的に成長した親は、子どもが一人前になって、幸せになることを願い、我慢しながらも喜びを感じるものです。

父親の役割

現代は、家庭の中に二人の母親がいる時代だと言われています。つまり父親が母親化してしまっているというのです。母親は子どものささいなところまで世話をします。そういうところから母親は小言を言いやすいのですが、父親までが小さいことに感情的になって口出しするようになって、しばしば母親といっしょになってカンシャク玉を落しています。これが父親の母親化です。
母親が感情的になっても、これを冷静にみつめていて、最後に英断を下すのが父親です。そもそも母親と子どもとの関係は、胎内にいるときからの関係ですから癒着型になりやすいわけです。これは母親にとっても、子どもにとっても、当然のことでしょう。自分が生んだ子を「わが子」と実感し、生まれたときから腕に抱き、あやし、ミルクを与えてくれた母親を「わが親」と実感するのは、極く自然のことです。そこに母子の間の深い関係が成立するのです。しかし、父親のほうといえば、子どもが二、三才になるまでは、全く親として子どもに意識されていないと言ってもいいくらいです。幼児の目に写る親の顔、耳に聞こえる親の声は、圧倒的に母親のほうが多いのです。しかし、子どもが父親を親として意識するようになったならば、父親の役目は重大です。子どもが人格的に一人前の大人に成長できるかどうかは、父親の存在の関わり方にかかっているのですから。
父親は、母親の腕の中に閉じこもっている子どもに、人間社会の窓を少しずつ開いてのぞかせ、人間が幸せに生きていくには、どうすればいいのかを、冷静に、正しい判断を教えていくのです。このようにして甘えっ子の子どもは、段々と母親の腕の中から身をのり出して独立していくのです。
父親は、いつも冷静で、大きく物事を考え、教え、社会に対する興味を子どもの心の中に呼び起こし、責任、勇者 忍耐、働く喜びなどを教えていくのです。勿論、母親がこれに加わっていいのですが、どちらかといえば、母親は子どもの痛みを和らげる働きをし、父親はその痛みに耐えて、乗り越えていくことを教える働きをするのです。子どもが成長していく段階では、この二つの要素が必要なのです。ですから、この段階で父親が母親化してしまったら、子どもの成長はメチャクチャになってしまいます 「やさしい母親に、こわいお父さん」というのは、やはり理想的な姿でしょう。ところが今は、「やさしいお父さんに、こわい母親」と言われています。これは逆転しています。こわいのはやはり、お父さんであってもらわないと困ります。「こわい」といっても、いつも怒っているというわけではありません。父親の言うことには、子どもが一目おいている、という存在であることです。
やさしくっていいのです。しかし、言うべきときには、きちんと筋道を立てて教え、子どもに納得させることができ、子どもがそれに従うまでは、後に引かない存在でなければなりません。また広い視野を持って、子どもに夢を描かせ、安全を見守りながらも子どもに選択の自由を与えることができるお父さんなら、子どもから尊敬されることは間違いありません。お父さんは、家庭の切り札なのです。
子どもに愛される母親、子どもに尊敬される父親のもとでは、子どもは健全に成長していきます。親の役目は、いつまでも子どもを手元にひきとめ、巣箱の中に押し込めておくことではありません。親の元から飛び立って、一人前の大人となることではありませんか。
親が子ばなれできないから子どもが親ばなれできないのです。子どもは、親が突き離すまで、後を追ってくるものです。昔の人が、「心を鬼にして」とか、「他人の飯を食わせろ」とか言ったのは、みな子どもが一人前に独立し、人格的に成長することを願っての親の愛のあらわれなのです。
子どもは、あなたの宝でしょう。宝ならますます磨きをかけなければなりません。宝の持ち腐りにしてはいけません。親ばなれ、子ばなれの問題は、親の意識の持ち方一つで決まることなのです
聖書は、
「人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」 (マタイの福音書一九・五)
と言っています。人は精神的にも、経済的にも、両親から離れて独立することが、一人前の大人となることであり、それが結婚するためには、必要なのです。

以上、一部抜粋