書籍紹介 「勉強ができる子できない子」

まなべあきら著 B6 226頁

子どもの生涯を支えるものは、ただ記憶した知識ではありません。真の学力とは、何か?
それは信頼と生活体験から生まれるものです。それをわかりやすく解説。在庫少。

目次

第1篇 信頼
1章 子どもは信頼を求めている
1、信頼を失うと、安らぎを失う
2、信頼から意欲がわく
2章 信頼関係のない社会で生きる子どもたち
1、取りかえせ、愛と信頼のぬくもり
2、カタログ理解と間接体験
3、ナウイということ
4、なぜ、こうなったのか?
3章 信頼と成長
1、子どもの成長とは、何かを失っていくことである
2、子どもの成長をはばむものは何か?
3、大人はわかってくれない
4章 人間のつながり
1、つながりの難しさ
2、ふれ合いから、はばたきへ
3、言葉によるつながり
5章 つながりをつくっていく
1、心の痛みがわかる人になろう
2、心の幅の広さ、柔軟さ
3、子どもから学ぶ
4、子どもの可能性を信じる
5、いつわりのない心
第2篇 学力
1章 生活に根ざした学力
1、落ちこぼれは、どうしてできるのか?
2、基礎学力とは何か?
3、生活体験と学力
4、親子の会話と学力
5、読書と学力
6、遊びと学力
7、しつけと学力
8、最悪のテレビづけ
9、がんばりがきかない
10、学力の根
2章 学力をのばす
1、読解力
2、音読の効果
3、書くことは、知識を定着させる
4、計算力
5、子どもが勉強したい気持ちになる時

はじめに

かわいた砂は降った雨をみな吸い込んでしまいますが、コンクリートの道は雨をみなはね付けてしまいます。恵みの雨も、受ける土壌によって、その及ぼす効果が全く異なってしまうのです。
教育の荒廃が叫ばれるようになってから、随分たちましたが、議論百出してもその解決の道はまだ見い出されていないようです。「ゆとりの時間」というものをつくってみたり、「体罰禁止」という規則をつくってみたり、ハイテク機器を導入してみたりして、四苦八苦しているようですが、結果はますます悪くなっています。それは問題の要点を突いていない、小手先の対症療法だからです。
健全な教育をしようと思うならば、教育以前の土壌づくりから始めなければなりません。すなわち、まず子どもが生まれてから小学校にあがるまでの生活体験を通して、人格が豊かに養われてくる必要がありますその中で、親子、教師と生徒の信頼関係が育ってくる時、子どもたちの心は、恵みの雨を吸い込む、かわいた土壌となるのです。このことに手を抜いておいて、勉強させようとしても、子どもははね付けるだけです。ただ勉強しないだけでなく、親も教師もはね付けて人間不信に陥っていきます。
イエス・キリストは人間の心の土壌を四種に分けて教えておられます。
第一は道ばたです これは全く無関心な心の状態です。
第二は岩地です。これは最初、興味を示しますが、ちょっとやってみて大変だなと思うと、すぐに止めてしまう人です。興味を持続する持久力や集中力を欠いている人です。
第三はいばらの地です。これは他の様々な楽しみ、遊びに心が奪われて、一つのことに集中して最後までやり抜くことのできない人です。
第四は良い地ですこれは脇目もふらず、教えられやすい心で、集中して学び、忍耐強く励む人です。この人だけが多くの実を結びます。
これは真理です。教育においても、何を、どう教えるか、ということと共に、学ぶ生徒の人格をどのように耕すか、ということが重要問題です。否、先決問題です。畑を耕さずに種をまく農夫はいません。子どもに知識を教える前に、それを吸収できる人格がつくられていなければなりません。現代の教育の荒廃の原因はここにあるのです。そしてこの解決のための仕事は、家庭の中から始めなければなりません。本書には、家庭でできる多くのことを記しました。それらをぜひ、読者の方のご家庭で実行していただき、実を結ばれることを、お祈り致します。
一九八七年七月四日
著者 まなべ あきら

第一篇 信頼

一章 子どもは信頼を求めている

一、信頼を失うと、やすらぎを失う

親子が信頼し、教師と生徒が信頼し、友だち同志で信頼し合っている時、心には「やすらぎ」があり、自分を愛し、信頼してくれる者がいる時、否、それを実感している時、手伝いのし甲斐があり、勉強のし甲斐があるのです。
ある時私は、私たちの教会学校の中学生たちに、
「みんなの両親は、みんなのことをどう思っているだろうか?」
とたずねてみました。すると全員が、
「あまり私たちを信頼していないみたい。」
と答えました。
案外、親は、「勉強しなさい。勉強しなさい。」と言っている割に、子どもたちを信用していないのではないでしょうか。いや、信用しているのかもしれません。しかし、その信用していることを、子どもたちが実感できるような方法で現わしていないのではないでしょうか。信頼はコミュニケーションです。コミュニケーションは相手に通じていなければ役に立ちません。親の信頼が子どもへの押しつけの信頼になるなら、子どもたちはそれを拒絶します。
しかし人間は本来、本能的に信頼を求めています。人間は孤独では生きていけないからです。刑務所の独房にいる人は、時として、「お母さん、お母さん」とつぶやくそうです。つぶやいてもお母さんにすぐに会うことができるわけではありません。しかし、つぶやくことによって、お母さんと会ったような感じを味わって、慰めを得ようとしているのです。これは考えてしているというより、本能的に愛する人との信頼の交わりを求め、やすらぎを得ようとしているのではないでしょうか。
団地住まいの奥さん方が孤独に耐えられなくて、毎日働きに出ていくのも、他人との信頼の交わりを求め、しばしのやすらぎを得ようとしているからです人はなぜ、繁華街に群がるのでしょうか。それは、繁華街には人の匂いがするからです。人の匂いがする所で安心を得ようとするのです。それが人間の本能と言うべきものでしょう。
ですから子どもたちが親や教師や友だちに対して強い信頼を求めていることは確かです。そして、こういう強いつながりのある人間関係においては、強い信頼を期待するのが当然です。ところが大人のほうは、子どもたちが求めてくる信頼の代わりに、「勉強しなければ、有名校に入れない。」という圧力で応答しているのです。
こういうようにして信頼を失った子どもは、糸の切れたタコと同じで、どんどんと悪い風に吹き飛ばされていってしまいます。
また信頼は対話です。山の上で「ヤッホー」と叫ぶのも、ひとり言をいうのも対話を求めているのです。日記は自分との対話であり、読書は作者や主人公との対話であり、勿論、手紙や電話や話し合いは、互いの信頼を確かめ合うための対話です。
ところが現代の家庭から対話がなくなってしまいました。対話が乏しいことは信頼がとぎれていることを示しています。そのような中で子どもたちがスクスクと成長して、実力をつけるということはあり得ないことです。
私はある若い牧師から一通の手紙を受け取りました。その手紙の中には、テレビのコードをペンチで切ってしまったら、家族の対話が回復して楽しい家庭が帰ってきたと書かれてありました。食事の時間は家族の対話の最も重要な時間と言えるでしょう。しかし食事の時にテレビを見ている家庭が沢山あるのではないでしょうか。みんなテレビを見ながら食事をしているのですから、向かい合って坐っていません。ですから親も子どもも互いの目や顔を見ていません。これでは対話どころか、子どもたちが示す心の反応も見抜くことができません。しばしば、子どもが事件を起こしてから親や教師が「少しも気づきませんでした。」と言っているのを聞きます。これは対話が少な過ぎたからです。
最近は、左右の目の視力が極端に違っている子どもが増えていますこれは、寝ころがってテレビを見たり、いつも家族と一緒にテレビを斜めの席から見たり、勉強しながらテレビを見たりするからです。
特に、青年期に向かう年令の子どもたちは、親しい家族や友人たちとの語らいを求め、その中で孤独にあこがれ、未知のものを追求しょうとするのです。また孤独な内的状態の中から親しい者と対話することによって、安心を求めようとするのです。これが若者の特長です。
このように少年期から青年期にある子どもたちにとって信頼と孤独は相対立するものではなく、車の両輪のように人格的成長への大きな動力となるのです。

以上、一部抜粋