週報No.2194 涙の預言エレミヤ書(101)「拒絶されたメッセージ」エレミヤ書44:20~30
2019年8月11日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明 牧師
エレミヤ書44:20~30
44:20 そこでエレミヤは、男女のすべての民と、彼に口答えしたすべての民に語って言った。
44:21 「ユダの町々やエルサレムのちまたで、あなたがたや、あなたがたの先祖や、王たちや、首長たち、それに一般の人々がいけにえをささげたことを【主】は覚え、心に思い浮かべられたのではないか。
44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌みきらうべきことのために、もう耐えられず、それであなたがたの国は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖、ののしりとなった。
44:23 あなたがたがいけにえをささげ、【主】に罪を犯して、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と定めとあかしに歩まなかったために、あなたがたに、このわざわいが今日のように来たのだ。」
44:24 ついで、エレミヤは、すべての民、すべての女に言った。「エジプトの国にいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。
44:25 イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束したことをその手で果たせ。あなたがたは、私たちは天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ごうと誓った誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かに果たし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』
44:26 それゆえ、エジプトの国に住むすべてのユダの人々。【主】のことばを聞け。『見よ。わたしはわたしの偉大な名によって誓う。──【主】は仰せられる──エジプトの全土において、神である主は生きておられると言って、わたしの名がユダヤ人の口にとなえられることはもうなくなる。
44:27 見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。
44:28 剣をのがれる少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る。こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る。
44:29 これがあなたがたへのしるしである。──【主】の御告げ──わたしはこの所であなたがたを罰する。それは、あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばは必ず成就することをあなたがたが知るためである。』
44:30 【主】はこう仰せられる。『見よ。わたしは、ユダの王ゼデキヤを、そのいのちをねらっていた彼の敵、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡したように、エジプトの王パロ・ホフラをその敵の手、そのいのちをねらう者たちの手に渡す。』」
【新改訳改訂第3版】
<礼拝メッセージの要点>
このような人間の態度に対して、私たちが学ぶべき教訓はないでしょうか。
「主は、あなたがたの悪い行ない、あなたがたが行なったあの忌みきらうべきことのために、もう耐えられず、それであなたがたの国は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖、ののしりとなった。あなたがたがいけにえをささげ、主に罪を犯して、主の御声に開き従わず、主の律法と定めとあかしに歩まなかったために、あなたがたに、このわざわいが今日のように来たのだ。」(エレミヤ書44:22~23)
どんな信仰的な良い教訓も、まず初めに、真実な罪の悔い改めがなければ、意味も、効果もありません。神のお答えは、ユダの人々に対するわざわいと刑罰は、彼らが偶像に仕え、神の定めに歩まなかったからです。
24~28節には、二つの究極的刑罰を記しています。
第一は、26節「…わたしの名がユダヤ人の口にとなえられることはもうなくなる。」です。
エレミヤは女たちに呼びかけて、「主の臨在とみわざを拒否することは、主のさばきがおそろしく厳しいものになる。」と言っています。このような偽りの神への礼拝や、儀式を行うことによって主なる神への思いを失い、主の御名を口にしなくなります。偽善的儀式は、内なる神経験を失わせてしまいます。クリスチャンの口からイエス・キリストのお名前が出なくなったら、危険信号の一つです。クリスチャンの心から、主イエス様をたたえる賛美と祈りが消えたら、主が去っていかれています。サタンの仕事は、私たちの心の中から、イエス・キリストの御名を消すことだからです。偽りの教えは、イエス様のご人格もみことばも、私の心の中から居所を奪ってしまい、神との交わりを失わせてしまうのです。その結果、坤の聖なるご性質も失い、神の愛も善も神の義の源も、失っていくのです。すべての信仰が、知識の記憶や、儀式だけになっていきます。
私たちの日ごとの思いの中に、みことばと聖霊が働かれる場所がなくなると、私たちは神を知らない者に堕落してしまうのです。
それ故。偉大な神の御身を軽んじることは、「自分が神に見捨てられている」思いを抱くようになる最初の原因です。
「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28)
第二の刑罰は、27節です。
「見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。」
神は、神を拒む者には、わざわいの日を積み上げられるのです。イスラエル人の歴史は、このみことばの成就なのです。
「剣をのがれる少数の者だけが、…ユダの国に帰る。…わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る。」(JJ28節)
主はご自分のことばが真実であり、必ず実現することを証言するために、証言者を残しておかれるのです。この世には、人の数ほど偶像がありますが、私たちは主イエス・キリストのみことばが真実で、必ず実現してきたし、これからも実現することを証しする証人となりましょう。
29~30節では、エレミヤは神のみことばが真実であることは、歴史が証明することになると、言っています。
その証拠となるために、エレミヤはエジプトの王パロ・ホフラを「そのいのちをねらう者たちの手に渡す」と、預言しています。ギリシャの歴史家ヘロドトスは「パロ・ホフラは、その後を継いだパロ・アマシスによって捕えられ、数年問捕らわれの身であった後、紀元前564年頃、絞殺された。」と、記録しています。
エレミヤの締め括りのメッセージは、彼の生涯と奉仕の中で、最も悲しいものでした。彼はユダの国の再建のために、残された残留民たちに罪を悔い改めて、主なる神に立ち返るように招いたのに、彼らは主とエレミヤを拒絶して、偶像礼拝を続けたのです。
もはやエジプトに頼って行ったユダの残留民には、救いの希望はなかったのです。
ユダヤ人の救いと再建の希望は、バビロンに捕え移された捕囚民の中にあったのです。彼らが、神の懲らしめの刑罰を受けて、悔い改めて、主なる神に立ち返って後、彼らはキリストの王国に繋がる新しい時代の信仰の鍵を握ることになるです。
エレミヤ自身は、生きて、この新しい時代を見ることはありませんでした。この残留民との出会いの後、エレミヤの身に何が起きたかは、何も記録がありません。彼は、この最後のメッセージを語って後、間もなくエジプトで主のみもとに召されたようです。
<今週の活用聖句>
ローマ人への手紙8章6節
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
<集会案内>
◇8月14日(水) 聖別会 午前10時半
「福音的追求(4)」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421