音声と文書:ヨハネの黙示録(03) キリストの再臨の予見 1:7~8
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PDF文書(印刷用):ヨハネの黙示録(03)
ヨハネの黙示録 1:7~8
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
1:8 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」【新改訳改訂第3版】
ヨハネの黙示録(03) キリストの再臨の予見 1:7~8
この7節と8節は、「ヨハネの黙示録」全体の中心的な真理を記しています。
この「ヨハネの黙示録」では何を言わんとしているのか、こういうのを「命題」というわけですが、この7節、8節は、命題ですね。命になる題、中心の題ですね。ですから今日はこの2か節を取り出しているわけです。
昔、子供のころ、笹の枝をポンポンと取りましてね、その先に糸をたらして池に行くと、鯉が釣れた。それと同じように、竹の枝をはらうと、一本のまっすぐの竿が残ります。それが中心になるもの、7節、8節ですね。これから後、ずうっとですね、黙示録はこの7節、8節について、様々な事を語っている、ってことなんですね。
私たちは常日頃、聖書を知らないことが、自分にどんな大きな損失をもたらしているか、あまり気遣わないことが多いと思うんですよね。私も長い間、聖書が何を意味しているか、ただの古文書か、古い昔の何世紀も前の話が書いてある、ぐらいにしか考えていなかったのですが、だんだんと聖書を読むにつれてですね、20年以上読んでいますが、50回、60回、聖書を読んでいるわけなんです。死ぬまでには100回以上は読めるかなあ、と思うんですがね。
ジョージ・ミューラーって方が100回以上読んだってことですが、それに挑戦して、ね。
読むだけなら、一生懸命読んでりゃ、読めるわけですが、そこに何が意味されているのか、だんだんと読むに従ってわかり始めてくると、聖書を知らないということは、自分に無限の損失を与えている、ってことに気づき始めたわけなんです。
私たちは本当に自分が損をしてきた、ということに気づき始めたなら、これは聖書が分かりはじめておる、ということです。
日頃、人間は、金銭的な損失、物質的な損失には心が向くわけですがね。損失にはもっと重大な損失もある。しかも決して取り返せない損失がある。それは、
・霊的な損失、である。
・永遠的な損失、である。
・天の御国の損失、である。
パウロもこの損失について語っています。
ピリピ3章7節~11節でね、こういっています。
かつての時代はね、パウロは自分の特権、ベニヤミンの輩、生粋のユダヤ人、であるということは彼の誇りであったわけですが、このままいけばイスラエルのサンヘドリンに入れた、トップクラスにいた人間である。しかしイエス様を知ってからは、それは無駄な塵芥のように思えた、っていうんですね。イエス様を知らなきゃ、これは大いなる損失をする、ってね。
イエス様もこう言っていますね。マタイの16章26節で、
「もし全世界を手に入れても、自分の命を損したら、なんの益があろうか」
とおっしゃった。
実は聖書を読んでいた頃は、そういう言葉は知っていたわけなんです。でもその「損失」がね、どういうものであるかということが、全然分からなかったわけです。ところが、聖書を読み進んでいって、この黙示録に来た時、
「いや、これは大変だ、もし聖書を知らなかったら、この世で何を得たとしても、全てを失ってしまう。」
ということに気づき初めましてね、遅まきながら、この世の富、名声、地位を求める生き方をやめさせていただいたわけです。それで聖書に全力投球するようになった。聖書にはそれほど豊かな恵みが隠されている。
この世でも隠されているでしょ、石油でも石炭でも。
子供の頃、私は香川県に生まれたのですが、「さぬき富士」っていうのがあったんですよ。その麓に私の叔母が住んでいましてね、そこに水晶があるっていうんで子供のころにその水晶を取りに行ったことがある。行って見ると、がらんとしていてね、水晶どころじゃない、何もない。みんな取ってしまってね、滅多に水晶なんてない。
聖書も隠されている。
そのことがだんだんと分かり始めてきたときに、聖書を知らないと、これはとんでもない事になるって、気づき始めたわけなんです。
そして聖書を読むと、自分の人生、生涯が、何をしているかが分かるようになる。
この前も北海道のある方からお電話をいただいてね、まだ信仰をもって2年くらいの方なんですけどね、聖書を読むってことがこんなに素晴らしい、ってことがやっとわかり始めましたって、仰っておられました。
どうしてそういうことに、早く気付かなかったんでしょうね。気づいていれば、もっと早くから読んでいたんでしょうがね。
私も振り返ってみますとね、中学の1年か2年の頃にね、英語の先生が、英語と日本語の対訳になっていた聖書をくださったように思うのですが、その頃は聖書がそんなに大事なものだとは気づかなかったものですから、どこかにやっちゃったのですがね。愚かな事をしたなあと思うんですが、その頃から読んでいれば、今頃は100回以上読んでいたと思うんです。今はまだ50回か60回をウロウロしているんですがね、
まあ、しかし、「ヨハネの黙示録」を読み始めたらね、
「大変なことだなあ」
と気づいた。
Ⅰ.今日、7節に入っていくわけですが、ヨハネはこの冒頭で、「見よ」といいましたね。
A.この「見よ、彼が雲に乗って来られる」を何度も何度も、繰り返し読んでごらんなさい。
ヨハネはまさに、イエス様が雲に乗って、スーっと近づいてこられる、この姿を見ているようですね。あたかも自分の目の前で演じられているかの様だといっているんですね。つまりキリストの再臨の姿を予見したんですね。だから、「見よ」って言ったんですね。
子供がよく、「ねえ、見て、見て」っていうでしょ。大して驚くべきことじゃないかもしれないけど、本人にとっては驚くべきことがあるから、「見て、見て」っていうわけでしょ。
ヨハネが見たのは、これは幻であった。
私たちは、主イエス様の再臨の時まで、地上にいることが許されたのならば、幻ではなくて、実際にこの目で、「雲に乗って来られる」のを見るかもしれない。私たちはそういうきわどい時代に生きているわけですよ。もしかして私たちは、死を見ずして天に移されるやもわからない。そういう時代に生きている。20世紀の終わり、今年は1988年ですけれども、あと11年くらいすると21世紀ですよ。長生きしていれば、やもすれば、子供たちの代か孫たちの時代には、再臨をこの目で見るかもしれないという、きわどい時代に生きている、ということを忘れないで戴きたい。
彼は 来るか来ないかわからないお方、ではないんです。
「必ず」来られるお方。
皆さんは誰かと待ち合わせをしている時、何時間ぐらい待ちますか?
30分くらい待ちますか? 3時間くらい待ちますか? 半日はどうでしょう?
ところがね、イエス様はね、「必ず」来られるんです。
ある時、私は有楽町で待ち合わせをしたんです。教会にいくから、有楽町で待っていてくれ、ってね。日曜日の朝です。ところが、待てど暮らせど、お昼になっても来ないんです。もうダメだと思ってね、3時間くらい待ったんですけれども。
でも、イエス様は、必ず来られる。
私たちは「必ず来る」と待ち望んでいるんですね。
彼が来るときに、地上ではキリストの再臨を、人々は全く気に留めていない、っていうんです。
イエス様は、「盗人のように来られる」と仰いましたね。
盗人なんて、事前に、予鈴を鳴らして来ないですよ。
「今から、行きますよ、行きますよ」なんて言ってこない。
ですから、世の中の活動がいつものように変わりなく営まれていても、「イエス様が来られない」証拠にはならないんです。イエス様が来られる日も、相変わらず今日と同じような日なんです。
広島に原爆が落ちた日も、同じような日だったでしょう。
原爆とキリストを一緒にしてはいけませんけれども、一瞬にして来られる。
B.ヨハネは「雲に乗って来られる」と言いました。
この言い方はね、今、目の前で見ている驚きを表している。イエス様は雲に乗って来られるとありますが、これは彼の「超自然性」を表しています。スーパーナチュラルを表している。
聖書をみますとね、キリストの超自然性というのは幾つかある。
そういうことばっかり研究した方がいらしてね、亡くなった方ですが、アメリカのウィルバー・スミスって方がいらっしゃったんですけどね、この方はね、「キリストのスーパーナチュラル」っていう本を出したんです。イエス様の超自然性を研究した方ですね。この方ね、独学で学んだ人なんですが、偉い人がいるものだなあと、思いますね。日本語に訳されていないんですが、読みたい方がいたら御貸ししますがね。これは驚くべきことですよ。
人間は何でも超自然性を拒否してしまう、合理主義者がいますね。
「そんなことわぁ、ない」っていってね。たとえばイエス様は乙女マリヤから生まれたっていうと、「そんなバカな」、キリストが死から甦(よみがえ)ったというと、「そんなバカな」ってね、そういう人はいっぱいいますよ。
この世の中を見ても、スーパーナチュラルなんていっぱいありますよ。
奇跡的な事ってたくさんあるんですよ。
キリストの超自然的な来臨は、人間の知性からみた合理主義でもなく、なんでも受け入れてしまう神秘主義でもないんです。キリストのスーパーナチュラルっていうのは、これは、「神的」なことなんです。「神様」なんです。これを忘れないで戴きたいんですよ。
人間というのはいつも下から上を見ますけど、たまに、上から下を見なくちゃいけない。
飛行機から下を見ますと、家が箱庭のように見えますよね。逆に、下から上を見ますと、ああ、飛行機が飛んでいるなあと。
いつも私たちは、人間の知性から神を見ようとしますが、このスーパーナチュラルは、神の側から人を見るんです。これは素晴らしいと思いますよ。これが超自然的。
ですから私たちはね、神様の本質にかかわることは、下から覗いてもわからないんです。
自分の理性で理解することは不可能なんです。
彼は「神」だからですね。
私はね、ようく考えてみて、そうかなあと思わされることがあるんですが、一つは何かと言いますと、科学者の多くの人がキリストを信じているってことなんです。それ、分かると思いますよ。
ホントに人間の限界というのを知るんです。いろいろ研究していくとね、もう人間はそれ以上分からない、それ以上は理解できない、人間の限界っていうのを知るんです。
マクロの世界でも、宇宙の向こうまでは理解できないし、ミクロの世界、細かい分野に進んでいっても人間がもう進んでいけない限界、っていうのがあるんです。
ある人は、こういうことで神様を信じる様になったというんですがね、
原子核の周りに電子が回っていてね、それは宇宙の構造とよく似ている。
ミクロの世界とマクロの世界は同じだ。
こういうのは誰かが設計したのに違いない。創造された神がいらっしゃる。こう言って神を信じた方がいらっしゃる。
どうにも動かせないあるところまで来ますとね、人間がいかにあがいても到達できないところがある、と思って、それで信じるようになった、というんですよね。宇宙飛行士だった人ですが、もうやめてね、あっちこっち行って、伝道している、っていうんですよ。イエス様を伝える人になった。
宇宙にいって宇宙を見たらね、神がいる、としか考えられない、っておっしゃった方もいる。
私たちもね、スぺースシャトルに簡単に乗れるようになって、宇宙から地球を見たら、もう少し考え方が違ってくるんじゃないかなあ、って思うんですよね。
イラクなんて、バカげた喧嘩なんてしなくなると思うんですよ
私たちは「神の側から見る」必要があると思います。
私たちがいくら神様を覗いてみても分からない。
私たちができることは、「キリストを信じ受け入れて、従っていく」こと、だけなんです。
そうすれば、それがやがて分かってくるんです。
そのあとは、やがて私たちが「天の御国」に行った時にね、全ての事が分かる。
7節に「雲に乗って来られる」ってありますが、
まさかみなさんは、「これはきっと、きんとん雲だ」なんて思わないでしょうね。
これは、水蒸気が固まってできた雲、のことではないんです。
これは「神の臨在」を表す、「栄光の雲」なんです。
度々、聖書の中に出てくる「雲」なんです。
「雲に乗って来られる」とは、メシヤであるキリストが御国を受け継ぐために、神の御前にお姿を現した、っていうことなんですね。
いよいよキリストが御国のご支配を握るために、お姿を現した、預言であったわけなんです。
こういうような事は、キリストの再臨の時だけ行われたのではなくて、イエス様の「変貌の山」でも起きているわけです。
マタイ17章5節をご覧いただきましょうか。
マタ17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
雲の向こうに太陽があると、雲が光り輝くのを見ることがあるでしょう。
私はね、そういう光り輝きは違うだろうなあ、と思うんですよ。
ルカ9章34節~36節当たりも読んでみましょう。
ルカ9:34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが
雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。
9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り
その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。
36節に、「この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。」
とあるでしょ。
弟子たちは自分たちが経験したことを理解できなかったようですがね、少なくとも、今、弟子たちが経験したことは、全く異質のものであった。
私も山に登って雲に包まれた事があるんですが、右も左も何も見えなくなる、そういうのとは違うんです。
「弟子たちは、自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった」と言っていますでしょ。
これは「神様の臨在」、神様がともにいてくださるという経験なんですね。
とかく私たちの信仰は、聞きかじりの知識で終わってしまいやすいです。だから「信仰の力」というのが、だんだんとなくなってしまう。私たちクリスチャンは、「神の臨在」、の経験が必要だと思うのです。クリスチャンはね、これが大事だと思います。
どうしたら「神の臨在」を経験できますか?って方がおられるんですけれども、何かの「方法」で「経験」できるものではない。
「神」はどこにでも「臨在」しておられるのですから。
空気はどこにでもあるでしょ。空気はどうやったら吸えますか、なんて誰もきかないでしょ。
神の臨在も同じですよ。
神のみ言葉を真剣に求めるようになると、分かるようになる。
要するにね、目を開いたら見えるようになるのと、同じなんですよ。
神様と二人きりになる。
神様にすべてを任せる。
神様のみ言葉に取り組む
なら、神はその人に、ご自身を現わしてくださいます。マタイ5章8節にですね、心のきよい者は神を見る、とおっしゃったでしょ。「見る」っていうのは「体験する」、ってことなんですよ。
マタ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
体験するってことはね、言葉をもって、ああだ、こうだと言えないんです。「神様の臨在はね、甘くて辛くて、しょっぱいの」、なんていう風には言えないんですよ。
口では表せないんですよ。「弟子たちは誰にも言わなかった」と、こう言っていますねえ。
使徒の働き1章9節でも
使1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
これはね、「神の臨在」の中に入っていった、ってことでね、目に見えなくなったとか、視界から消えたということではないんですよ。
これはね、肉体を取られたイエス様がね、霊界にうつられた、ことを意味しているんですよ。
イエスさまが「雲に乗って来られる」というのはダニエルが預言しているんですね。
ダニエル書7章13節を見てみますと、
ダニ7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
とあるでしょ。
「人の子のような方」というのは、イエスさまのこと 、「年を経た方」というのは、父なる神様のこと。ですから、これは、「ヨハネの黙示録」よりもっと分かりやすく言っていますね。
イエス様が雲に乗ってやってこられて、父なる神様のみもとに歩みよられ、14節に
ダニ7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
とあります。
つまり、このキリストの再臨によって、あらゆるものはキリストの主権に握られるようになる。
それで千年王国が始まるわけです。
ダニエルは、なんと二千数百年以上も前に、キリストの再臨を適格に預言したんです。
今の大型コンピューターを使っても難しい、驚くべきことだなあ、と思います。
パウロもこの雲について預言していますよ。
これは、私たちにもっとかかわることです。
Ⅰテサ4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
ですから、「見よ、彼が雲にのってやってくる」とヨハネが言ったのはとても大事な事を意味していたんです。
Ⅱ.次に「ヨハネの黙示録」7節にもどりますがね、「すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」と、言っています。
A.「すべての目が・・・彼を見る」とは、キリストの再臨というのは、あまねく普遍的であるということを示しています。
「すべての目」というのは、その時に生き残っている人だけでなく、生死にかかわらず、善人も悪人もなく、キリストの再臨が現実であることを証明するようになることです。
今の時代は、いろんな宗教というものを、人間が考えだしている。哲学とか、偽りの論理でキリストの再臨を否定して、人を欺く事ができる。「私がキリストの再臨である」とか、いろんなことを言いだす人もある。しかしこの時には、もう人を欺くことはできないということです。
「すべての人がそれを見る」って言ってんです。
最近亡くなった者も、生き残っている者も、善人も悪人も、祝福を受ける者も、滅びに行く者も、キリストの再臨が事実であることを認めざるを得なくなる、ってことを言っているんですね。
こりゃあ大変だと思います。
集中豪雨がきてね、家を押し流してしまう時にね、どうです、悪人の家だけ押し流して、善人の家だけ押し流さないなんて、できないように、キリストの再臨ていうのも同じです。
ここに「見る」と書いてありますねえ。
必ずしも同時に「見る」ということではないんですが、最近は衛星放送というのができて、地球の裏側にある事が、生中継できるようになってきましたね。「見る」っていうのは確かにこの目で見ることですけどね。歴史的事実である、そして可見的であって、触って知ることができる、ということを、意味しているんです。
現在キリストは、肉体を取らない御霊ですから、私たちには信仰が必要なわけです。
でも再臨の時はそうじゃないんです。目にみえる姿で、触る事もできる。
「見る」って言っても、いろんな見方があるでしょ。
脈をみるときは手でみますね、温度計を見るときは目でみますね、風呂の湯加減はなんでみます?
いろんな見方がありますね。
現在、キリストを「見る」には私たちは、信仰がいるんです。
キリストの再臨の時はもはや信仰はいらないんです。
私たちが天国に行ったら、イエス様を信じる必要がないんです。
だから、「彼を見る」と言うときにね、「彼を信じる」とは書いていないんですね。
キリストの再臨は歴史的事実であって、可見的で、触る事ができるというんですね。
B. ここに「彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」と、書いてあるんですがね、
実はこのことがゼカリヤ書に預言されている。
ゼカ12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
嘆き、激しく泣く、というところはね、あとで話しますが、キリストを直接、十字架にかけたのはローマ人なんですが、ユダヤ人もキリストの十字架については、深いかかわりがあった。彼らは妬んだ。しかし、刺したのはローマ人だけでもなく、ユダヤ人だけでもなく、現代の私たちも各々の罪によっても、キリストを十字架に刺し通したわけなんですね。
つまりここでは、救われなければならない全ての国々の人が、キリストの顕現、現れに注目するようになるってことなんです、
C.しかしさらに「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。」と書いてあります。
この「嘆き」は二つの事を意味しています。
① 一つはゼカリヤ12:10の後半にあるような嘆きです
ゼカ 12:10、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
ゼカリヤは、イスラエルが、自分たちが拒み退けてきた主イエスが、真のメシヤであることを主の再臨の時に突如として悟り、自分たちの罪を、激しく嘆いて悔い改め、その結果、イスラエルは熱心にキリストに立ち返る事を、預言しています。
次にマタイ24:30をごらんいただきますか。
終末のことについて書いてあるんですが、イエス様が直接御語りになったところですが、
マタ 24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
地上のあらゆる種族は、悲しむとありますね。
さっきのは、エルサレムに住むユダヤ人たちが悔い改めて自分の罪を嘆く。
これは、パウロが、迫害中のサウロですけれども、ダマスコ途上で突如キリストの顕現に触れて、悔い改めて悟って、主を受け入れる経験によく似ています。
② もう一つの嘆きは何かと言うと、ますますキリストを拒む者、の嘆きなんですね。
キリストを拒む者はですね、キリストに逆らったさまざまな欲深い計画を立てている。それがキリストの再臨によって打ち壊されてしまう。期待が打ち壊されてしまう。そのことの故に、嘆く、というわけなんですね。
イエス様を拒むこの世の業績っていうのは、海辺の波打ち際にある砂山のようなものなんです。波が打ち寄せるとすぐ崩れていく。このことを意味しているんですね。
そのことがですね、「ヨハネの黙示録」の18章17から19節に書いてあるんですね。
バビロンが滅びていくところですがね、
黙 18:17 あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった。』また、すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、
18:18 彼女が焼かれる煙を見て、叫んで言いました。『このすばらしい都のような所がほかにあろうか。』
18:19 それから、彼らは、頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、叫んで言いました。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。』
一瞬のうちに荒れ廃れる。
バビロンの繁栄がですね、永遠にその繁栄を築こうとしてきた、それがですね、一瞬のうちに壊滅していくのを、商人たちが悲しんでいる、驚いて呆れている姿なんですね。これが、もう一つの「嘆き」なんです。
ですから、すべての人がイエス様の来臨を喜ぶわけではない。地上の多くの者は、自分たちの計画が破壊されてしまうので、歯嚙みするようになる、ということを言っているんですね。
18章にきたら、もっと詳しくお話しますがね、
全ての者が嘆く、というのは実はこういうことなんですね。人間というのは、自分の思い通りにならないと嘆くではありませんか。
Ⅲ.さて、8節に戻りますが、
A. 8節の前半は、4節にも出てまいりました、「常にいまし。昔いまし、後に来られる方」、ですが、これは永遠の神の事を言っているんですが、ここをよく見ますと、その前後に「神である主」、「万物の支配者」が、「こう言われる」と、ついていますね。
ですから、キリストを示すよりも、父なる神を示している要素が強い、と思われます。
勿論イエス様なんですがね、永遠にして全能の神、そして、今も万物を支配しておられるお方。
しかしここでは、黙示録の中で、次第に明らかにされていこうとする内容が、厳粛な神によるものであることが提示されています。
人間の業じゃないということですね。
8節にある「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者」ほど完璧な言い方はないと思いますね。
簡潔で、これほど力強い言い方は、ほかにあまり見当たらないと思いますね。
B. そのお方が「わたしは、アルファであり、オメガである」、と、こう言われたんですね。
この、あまりに簡単すぎる言葉というのはね、難しいと思いますね。説明がつけば、ある程度分かるんですが。
1.アルファとオメガはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字ですが、それが、どういう意味で、神に関して言われているのか。
2.電話がかかってきてね、
「どなたですか」というと、「ワタシ」、「おれ」っていうのがありますが、それじゃ分からんですねえ。
「わたしはアルファであり、オメガである。」「私は最初であり最後である。」どちらも分からん。いったい何を意味しているんでしょうかね。
「神は永遠の初めから永遠の終わりまで、すなわち、神は永遠の存在者である」
これは分かりますね。確かにそうなんです。
3.でも、この言い方には、それだけではないんです。
さらには、神は、宇宙が存在するようになった最初の原因であり、最後の原因であることも意味しているのでしょうね。この地上に、生きとし生ける者が存在する、この地上に生きているあらゆるもの、人間はいろんなものを探っていますね、宇宙の探査衛星とかいろんなものを打ち上げていますが、それで分かるようなものではないんです。
宇宙に存在する、最初のものの最初の原因。神が存在しないで、宇宙も存在しない、
ということなんですね。このことを意味しているんでしょうね。
4.実は、もっと大きなことをここで言おうとしているんじゃないかと思うのです。
つまり、ここでアルファとオメガを取り上げることによって、アルファベットのすべてを総括している意味なんじゃないかと思うんですね。始めと終わりを取り上げて、その間にあるすべてを含み存在を締めくくっている、つまり神聖なすべての存在の締めくくりである、
神はすべてを超越している、すべての者を包含する無限の命である、ことを表している、
それが、この短い「わたしは、アルファであり、オメガである」にあると。
神様がいらっしゃらなかったら、「私」という存在もない、もちろん、地球という存在もない、
よく年寄りはこういうことを言いますね。
「先祖を大事にしなさい。先祖がいなかったら、お前はいなかったんだよ。」って。
でもね、「おじいちゃん、おばあちゃん、もうちょっと先を考えて。神さまがいなかったら、おじいちゃんおばあちゃんもいなかったんじゃないの」
こう言ってほしいですよね。
神が存在しなかったら、人間は誰一人存在しない。
神さまは、「わたしは、アルファであり、オメガである」ということばによって、実はこのことを言わんとしている。
ですから、私たちは自分がここにいる、今生きている事は神がおられることの証拠です。
神はいるかいないか。
あなたがいるなら神はいる。
私がこの地上に生きているってことは、神がいる証拠なんですね。
このようにヨハネは「黙示録」の命題であるところの中心的真理を話しました。
私たちは、イエス様を信じるときは、
① まず、自分の罪のために十字架に架かってくださった、キリストを見上げますね。
② そして信仰生活を営んでいくときに、自分の内側に住んでくださる内住のキリスト、自分の内側にいて働いてくださる、力を発揮してくださる、キリストを体験します。
③ そして、天の御国を慕うようになると、ここに記されていましたように、雲に乗って来られるキリストを待ち望むようになるわけです。
私たちは、やがて主とお会いするようになる。
実は「ヨハネの黙示録」は、このことを中心にして、解き明かそうとしているわけですね。
私たちは、そのときにキリストを必ず見るんです。
ですから、「待ち望む心」をもって、日ごとの生活を営んでいく。
私たちはこの20世紀の終わりに生きているわけですね。
イエス様のお出での時を、この目で見ることができるかどうかは、もしかしたら、見ることができるかも分からない、こういう際どい時代に生きているわけです。
このことを良く覚えながら、毎日の生活を営ませていただきたい。
とにかく、今私たちは心の内側に神を持っている、そしてキリストの来臨を待ち望みたいと思います。
よくこんなことを話すんですね。
イエス様が再臨されて、この地上で生きている者は、雲のなかでイエス様とお会いする、ってテサロニケの第一のところにかいてあるんですがね。浜辺に行って砂をとってきて、下敷きの上にパラパラっと播いて、それで磁石で動かすと、動く砂と動かない砂があるでしょ。鉄分を含んでいる砂は磁石に反応するんです。ですから、さかさまにしても鉄分のある砂はくっついているし、鉄分の無い砂は落ちてしまう。鉄分のある砂は磁石を動かすと踊るんです。
同じなんです。
40億か50億いる地球上の人間は、その人の心の中に、「神の質」、神さまを磁石にしては申し訳ないんですけれども、この磁石に動く心を持っている人といない人がいる。
大きなイエス様の磁石が、神の国からから吊るされた時に、キリストの性質を宿している者は、グーンと吸い付けられていく。砂だけの人は、どんなに飛びあがっても、ジャンプしてもダメなんですね。
これなんです。
私たちがこの地上で生を受けている時に、キリストに携え上げられるものを持っているということが大事なんですね。
今日は、7節と8節、その中心的な命題となるところを、ご一緒に学ばせてていただきました。
「ヨハネの黙示録」、少しずつ学んでいきたいと思います。
7節と8節、「彼が雲に乗って来られる、すべての目が彼を見、地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く、しかりアーメン。」
このあたりでもヨハネは本当に神を礼拝している。6節でアーメンと言って、またすぐに7節でもアーメンと言っている。ヨハネは近づいてくるキリストを、身近に感じていたんでしょうね。
彼がひれ伏す思いをもって讃美しているってことが分かります。
どうか私たちも臨在を知る者とさせてください。
〔お祈り〕
恵みの深い天の父なる神様、「全ての者の突き刺した目が彼を見る」とあります。
私たちもいずれこの目で、キリストの来臨をまざまざと見ることでしょう。
その日が一日一日近づいていることを覚えて、心から感謝いたします。
今の残された地上生活がありますが、心には復活の命、神の命をいただいて、
主のおいでの日には、携え上げられる性質をもったこの命をいただいて、生活できることを
心から感謝いたします。
ヨハネは「見よ、雲に乗ってくる」と、もうすでに来ておられる方のごとくにキリストを予見して、神を礼拝しています。
私たちもこの思いをもって、この20世紀の終わりを生き抜く者としてください。
心からお願いします。
この時を感謝して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
まなべ あきら
上の写真は、フランスの画家Jehan Cousin the Younger (1522–1595)により描かれた「The Last Judgement(最後の審判)」(ルーブル美術館蔵、Wikimedia Commonsより)