音声と文書:ヨハネの黙示録(04) パトモスで幻を受けたヨハネ 1:9~11

上の写真は、エーゲ海に浮かぶパトモス島(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。

下記に、音声を聞きとって文書化しましたので、お読みください。
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PDF文書(印刷用):ヨハネの黙示録(04)

ヨハネの黙示録(4) パトモスで幻を受けたヨハネ 1章9~11節

「ヨハネの黙示録」の初めのほうですね、序論のまた序論、挨拶の当たりでまだまだ、まごまごしているわけですが、でも非常に大事なところです。
「ヨハネ黙示録」の1章9節から11節をご一緒にお読みいたしましょう。

黙 1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

今日はこの3つ、3か節をご一緒に学んでみたいと思っているわけです。

ここにパトモスっていうのがありますね。これ、島なんですが、エーゲ海にあるんですね。エーゲ海というと今日では観光地ですが、是非お家に帰って世界地図をご覧になって頂きたいのですが、このパトモスにヨハネは島流しにあっていた。ミレトという所からちょっと先にあるのがパトモス島なんです。昔は、岩だらけの見る影もない島だったんだそうです。当時ローマはいろんな島に島流しにしていた。エーゲ海に浮かぶ島は、ほとんど島流しにするような島だった。日本では八丈島ですか、今では飛行機で行く観光地ですが、昔は島流しの島だった。
あんなところに行くと一生もう親にも会えないようなところで、寂しい思いをしたんですね。
こういうような状況、島流しにあるヨハネと、当時のローマ帝国の中でクリスチャンが非常に苦難にあいながらいる、という事を前提にして書かれているわけです。

この地図は、パトモス島とエペソをはじめとする7つの教会の位置を示す。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)

Ⅰ.9節でヨハネは、自分のことを話しながら、真の教会のあるべき姿を述べています。

A.まず、「私ヨハネは」と言っていますが、ヨハネは自分の名前を自ら言っています。

4節でも自らを「ヨハネから」と言っています。これはヨハネにとっては非常にめずらしいんです。皆さんは手紙を書くときに「わたし、誰々が、、、」とあまり書かないでしょ。
ヨハネの福音書を見ますとね、ヨハネは自分の名前を一度もだしていないんです。ところが、ヨハネの黙示録になると、何度も自分の名前を出している。これは意味があったんですね。何も自分の名前を売り込むためにしたんではなくてね、ヨハネっていう人はとても謙遜で愛の人でしたから、わざわざ自分の名前を書いたからにはそれなりの意味があった。

① 一つは、これはヨハネが神様から頂いた啓示であること、これは間違いないものだってこと、ですね。
難しい書類はですねえ、判子をべたべた押してね、捨て印というのも押すんですよ。名前の横にも捨て印というのを押すんですよ。袋とじにすると、そこにも判子を押す。全部で20も30も判子を押すんですよ。それは「私が書いた事」に間違いがない、ってことを意味しているんですね。
「ヨハネの黙示録」に書かれている様な事が本当に起こるのか、と言われた時にね、本当に間違いがない、信じてよろしい、ということを意味するためにね、「私ヨハネ」と書いたんです。

② それから、「私ヨハネ」という切り出しによって、ヨハネはクリスチャンたちに強い愛を示したんです。
「ヨハネの黙示録」が書かれてから、約1900年たっているわけですが、聖書は2000年前に書かれたとは限っていない。
黙示録はヨハネの晩年に書かれているから、だいたい1900年くらい前なんですね。
1900年もたっていますとね、私達は手紙のやり取りをしている人達の間柄というのを、あまりよく理解できなくなっていると思うんですよね。
「私ヨハネから」という言い方から、ヨハネの心の中に秘められた思いというのをね、汲み出すことがなかなか困難になってきていると思うんですよね。

じつは、彼は切実たる思いで「私ヨハネは」と言っている。
なぜならば、この黙示録を受け取るクリスチャンたちは、ヨハネをこよなく愛していたんです。ですから、ヨハネさんから書簡がきたということはね、本当に彼らにとって喜びであったんです。ヨハネを恋い慕っているということなんですね。しかも彼らはローマの迫害の中にもあったわけです。
ヨハネは非常に強い愛を持って書いたんです。

最近は「書く」ということが少なくなってきましたね。なんでも電話で済ませてしまう時代です。私のところに来る相談事も、電話が多くなって来ている。
チリチリ、チリチリ鳴るんですよね。
でもね、中には手紙で相談される方もいらっしゃる。
こういう時、手紙で返事を書くっていうのはとても大変です。10枚も20枚も書いてこられる、そういうのに返事を書くのは大変です。読むのも大変ですけれどもね。
けれども随分前に私が出した手紙を、問題に突きあたる度に何度も何度も読む、って方もいらっしゃる。
中にはね、返事をこのはがきに書いてくださいっていうのもあるわけなんです。悩みの時に読むからっていうんです。
手紙とか、はがきっていうのは残りますから、非常にいい。
しかし書く方は大変ですね。電話だと、音声が消えますからね。適当なことを言っても構わない場合もありますでしょう。しかし、書いたものは残りますから、大変なわけです。心込めて書かなくちゃいけない。
ですからね、私はこういうことを通して、文章の力というのを感じますね。文章の力というのを痛切に感じますね。

大事なことは、文章の一つ一つに深い愛がこめられていなくてはならない。
ヨハネの文を読む時にもですね、ヨハネがいかに読む私達を愛していたか、愛をこめて書いていたかということが伝わってくるんです。「私ヨハネは」なんて普通なら言わない言葉なんです。読む者達が大きな苦難に会うことを予測して、ヨハネはこの黙示録をしたためている。

私達も手紙を書くときにね、時候の挨拶ばかりでなくてね、
残暑お見舞い申し上げます、とか、大分涼しくなりました、とか、またぶり返すかもしれません、とか、最初から最後までそんなことばっかり書いていないでね、やっぱり愛をこめて書く必要があると思いますね。
相手がどういう問題にぶつかっているか、とかね。
やっぱりそうじゃないとね。理論的に正しい文章でも、死んだ文章になってしまう。
そこに愛がなければ、相手に神さまの恵みが分け与えられない。

ですから彼は「私ヨハネは」と、こういったんですね。
私達もどうか、筋道が通っているだけでなく、愛がそこにこもっているようにしたい。

B. その次に彼は「あなた方の兄弟である」と、自分を紹介しています。

クリスチャンは同じ主を信じる者を、「友」と呼ばないで「兄弟、姉妹」と呼んでいます。「兄弟」とか「姉妹」とかは家族を表しているわけですから、これは神の家族の一員であるという呼び方です。
ブラザーとかシスターとかですね、カトリックでは修道女の人をシスターというんですけ
どね、私達の教会では、シスター、姉妹ですけれども、兄弟もみな同じなんです。

1.日本ではですね、家族っていうとね、血を分けた肉親だけが家族だと呼んでいますね。
ところがイエス様によると、マルコ3章35節では、家族の定義をされているんです。
ちょっとそこを読んでみましょうか。
マル 3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。
とこう言われています。
神様のみこころを行う者が、兄弟であり、姉妹であり、また母だと、こう言っているんですね。

最近一般社会で問題になっていることはね、産んだ親が親なのか、産みっぱなしでも親なのか。それとも愛をこめて育ててくれた人が親なのか。こういう議論が起きているわけですね。産んでは捨てる人が多くなってきているので、法律上でも問題になってきている。
中々難しいでしょうかね、どうですか、みなさん。
昨今は自分の都合だけ言って、権利だけを主張する世の中ですからね。
だんだん血筋の関係も薄れてきているんです。まして、愛も極端に覚めてきている。

2.聖書はもう一つの全く異なった種類の家族、ファミリーを紹介しています。
それが神の家族です。現代のクリスチャンは、このことをもっと意識するべきだと思うんです。もしこの世界に愛のファミリーが増えてくればね、家族っていうのは利害関係を超えているでしょ。私も哲学の時間にゲマインシャフト、ゲゼルシャフトというのを教わりましたがね、聞かなかったですかね、利害関係の社会と利害関係を抜きにした社会とがあるっていうんですがね。「ああ、そうか」と思って、その頃はとても偉いことを知ったものだと思いましたが、ずうっとさかのぼってみると、聖書にはもうそんなことが書いてある。なんかハーバート・スペンサーが言った論理なんだそうですがね。

政治とか経済の関係を乗り越え、利害関係を超えているっていうのは、家族では普通ですね。ですから世界がもし一つの家族、神のファミリーになったら、今のように飢餓の状態におかれている人と、贅沢な生活をしている人との差が、あまりなくなってくると思うんです。この世に存在するあらゆる差別とか、虐待とか、憎しみとか、争いってものは、経済協力と政治的な協力によってだけでは決して解決しないんです。
これはもうファミリーになるしかない。お互いが兄弟、姉妹、神の家族になるしかない。神の家族になって解決が可能なわけですねえ。
ある人たちに言わせると、「これはきわめて理想主義だ」と言ってあざ笑います。誰がどうあざ笑おうと、これ以外に人間の問題を解決する方法は世界にないんです。

今、日本では血を分けた家族でも、互いにあまり愛し合っていませんね。親子でもあまり愛し合わないし、兄弟でもあまり愛し合わない。
「あなた方の兄弟である。」とヨハネは言いましたが、素晴らしい言葉だと思いますよ。

ある人がこんなことを言いました。
「親子は切っても縁が切れない。夫婦は別れたら、赤の他人になる。」という。だから、どっちを大切にしたらいいか、っていう話なんです。「だから、夫や妻よりも息子や娘を大切にした方がいい」って、こういう人がいるんですよ。「わたしもそう思う」って、その人は言うんですがね。
私は、どうかなあ、って思うんですよ。皆さんはどう思います? 中々難しいですかね?
親子って、本当に切っても切れない関係でしょうかねえ。どうもそうじゃないような気がするんです。
だから今の時代は、関係というのが非常に薄れてきているっていうことですね。愛情の関係も血筋の関係も薄れてきている。

ですから、最も良い模範として、この世の人々に示すことのできる関係っていうのは、神の家族としての関係、これをはっきりさせる必要があると思います。
ですから、神にある兄弟姉妹というのは、肉親以上に互いに助け合って、励まし合って、この世の旅路を辿る必要があるんです。
この世の親子も兄弟も夫婦も、やがては消えていってしまう。しかし神の家族の関係だけは永遠に切れることがない。

旧約聖書に「ルツ記」っていうのがあります。モアブの女の人で、ルツっていう人がいるでしょ。ルツはね、モアブ人でしたけれども、モアブ人という関係を断ち切って、神の選民のイスラエル人の関係に入っていったわけです。この世における一時的な関係ではなく、永遠の関係を彼女は求めていったということです。そこに彼女の祝福があったわけです。

現代は、家族関係というのが非情に薄れてきている時代ですね。

3.さてここで、「あなた方の兄弟であり」と書いてありますが、
兄弟という特徴は一体何であるか。
箴言の17章17節をご覧いただきましょうか。後半ですが。
箴 17:17 兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

これは肉親の兄弟でも同じです。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。
苦しむ時に、人間は助け合うかどうかなんですね。
これはクリスチャンの兄弟にも求められているわけです。お互いがクリスチャンになった一つはですね、互いに苦しみを分け合うことだ、ってことですね。
パウロもローマ人への手紙でそういうことを言っていますね。泣くものと一緒に泣きなさい、とね。
苦しみを分け合うことをイヤがる人は、やがて信仰から脱落していきます。苦しみを分け合うってことはね、互いに愛し合うことを学ぶのに一番良い状況なんです。箴言の中にも互いに肉を争って食べるよりは分け合って食べるのが良い、っていうでしょ。
時々カラスがね、肉をくちばしで引っ張り合いっこして食べているのを見るとね、何とも言えない人間の姿を感じさせますねえ。
だから苦しみを分け合うかどうかということは、その人に本当の愛があるかどうかということの良い試金石になる、テストになる。

苦しみの中に二人の兄弟の人を置くと、互いに助け合いながら励まし合いながら行くならば、その人たちに愛があるってことですね。けれども、どちらか一方に苦しみを押し付けて、自分は楽をしようという態度に出るなら、その人には愛がないってことになる。
現代人の多くは、どういう態度をとるだろうか?

C. ヨハネは、「あなた方の兄弟である」と言うことができた。これは素晴らしいですね。

私達もそう言えるでしょうかねえ。
9節の中ほどをみますとね、
「あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である」と、こういうふうに言いました。私達がともにイエス様にあって、兄弟姉妹といえる資格はここに書いてある。

ともにイエス様にあって苦難に預かっている、
ともにイエス様にあって御国に預かっている、
ともにイエス様にあって忍耐に預かっている、

そうならば、兄弟姉妹と呼び合うことができる。

ここを見ますとね、洗礼を受けたから兄弟姉妹という印ではない、教会に出席しているから兄弟姉妹という印でもない、ともにイエス・キリストにあって、苦難と御国と忍耐にあずかっていることが兄弟姉妹の印です。こうおっしゃったわけですね。

ヨハネは自らの経験を話しているわけですが、実はここには世々の教会のあるべきクリスチャンの姿が記されている、って言ってもいいでしょうね。
ともにあずかる、これは至る所で言えると思いますよ。
うまくいく方法は何かというと、苦難をともにする。
家族でも同じですね。苦しみを片一方ばかりにやらせる、イヤな仕事はみな片一方にやらせる、自分だけ楽な好きな仕事をする、会社だって同じことだと思うんですね。
どこに行っても同じ。兄弟でも親子でもなんでもそう。

クリスチャンは同じ苦しみを分け合っている時に、互いに神の愛を実感するんです。そして一つの家族であることを覚えるようになります。
だからクリスチャンが苦しまなくなったならば、その代わりに私達は互いに争ったり、不平を言ったりするようになってしまう。
「私が苦しまなかったら、神の愛は知らなかったでしょう、イエス様が苦しまなかったら、私達は救われなかったでしょう。」という賛美歌がありますね。苦しみをともに分かち合うということはね、クリスチャンだけではなくて、人間が本質的にね、必要な事なんです。愛し合うためには必要なことなんです。ですからね、今の子供たちは、親が苦しまないように、苦しまないようにとお膳立てしやすいわけですけれども、結果はね、愛が分からなくなってしまう。お互いに助け合う喜びを知らなくなってしまう。かえって互いにいがみ合ったり、自己主張したりしますね。
大事な事は、やはり苦しむことが大事なんじゃないでしょうか。
キリストにある、ともに苦難と御国と忍耐に預かる、こうして兄弟が愛し合うってことを学ぶんじゃないでしょうかね。

パウロはこんなことを言っていますね。 使徒の働き14章22節をご覧戴きましょうかね。
使 14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。

これも意味がある言葉ですねえ。天国に行く前に多くの苦しみを経験しなくてはならない。多くの苦しみを経験することによって、何が分かるようになるのか。
それは互いに愛し合うようになるんです。
多くの苦しみを経て、天国に行くことを教えている。
天国っていうのは一人だけでは入れないんです。互いに愛し合って助け合って入るんです。

もう少し前の使徒の働きの5章41節では、
使 5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。

「イエス様のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ」と、この世的に考えると、変な喜びですね。バカにされて喜んでいる。
しかしこれこそ、人間の心の底まで満足を浸透させる喜びだと思います。
クリスチャンはこうでなくてはいけない。
イエス様を信じているが故にはずかしめを受け、失望してグシャーッとなっていてはならない。
ああ、やっと自分ははずかしめを受けるほどのクリスチャンにされた、と喜んでいるんですね。相手の側からすると、始末が悪いですね。迫害すればするほど喜ぶ。
私達クリスチャンは、もっともっと苦しみを分かち合う、そうすればもっともっと大きな喜びをもたらしてくれるわけですね。
ヨハネはこのことを話してくれたわけですね。
「兄弟」というのは苦しみをともにして、また、喜びもともにしている人である。

D. さらにヨハネは自分について、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」とありますが、これはすでにお話したことですけれども、ローマ皇帝ドミテアヌスの時に、ヨハネはパトモス島に島流しにあったことを言っています。

ヨハネは島流しにあって苦しみの中にありましたが、教会に残されていた信者の一人ひとりも苦しみの中にありました。ともに苦しみを味わっていた。ともに苦しみにあるという気持ちの通じ合いですね。

このあたり、人間がともに生活していたら、気持ちが通じ合うばかりになるとは限りませんね。同じ屋根の下に何十年と一緒にいながら、一つも気持ちが通じ合わないということもあれば、遠くに離れていても、箴言にあるように、水に顔を映した時の顔と顔がよく似ているように、心と心がよく似ている。どんなに遠く離れていても愛ある者の心は、やはり分かるようになってくる。

最近、賀川豊彦という人の伝記が映画になったそうですが、この方も同じような事を言っている。「神さまは愛だ。愛のあるところに神様は現れてくださる」と言っているところがある。
そうだと思いますよ。本当に愛があるところには、心と心は似たような心を持つようになる。それが兄弟である。
ヨハネはここではっきりと「神のことばとイエスのあかしのゆえに」と、言っています。
彼は自分の罪のためでもなく、貪欲のためでもなく、義のために迫害されている。福音宣教のために迫害されている。

イエス様は山上の説教の中で、こう言っていますね。
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだ。」とこういっています。ヨハネは、「ああ、神の国とはこういうものだ」と、じかに感じていたんではないでしょうかね。

クリスチャンにとって、最も重要な仕事は何かというと、これではないかと思うんですね。
神のことばを伝えキリストを証するときは、必ず問題が起きてくるわけです。不利な状況にも置かれる。しかしそのために迫害を受けるなら、もっと大きな名誉を受けることになると、こうヨハネはこう教えてくれました。

Ⅱ. 次にヨハネは、10節で「私は主の日に御霊に感じ」たと言っています。

A. これは大事なところです。「主の日」というのが大事なところです。

この「主の日」というのはなんの日のことをいっているのか。
これはイエス様が、復活した日、ということです。つまり、日曜日のことをいっている。これは重要なことであった。ユダヤ人は旧約の安息日、土曜日に神を礼拝する、という状況であったわけですが、「主の日」というのは復活した日に、この幻を受けたことを語っているわけですね。
今でもセブンスデイの人達は、旧約の土曜日に礼拝すると主張しているわけですが。
けれどもね、ヨハネは日曜日にこの幻を受けた、と言っているんです。これはとても大事な事です。なぜ日曜日に礼拝を捧げているかということは、これらの事が裏付けになっているんですね。

B. さらに「御霊に感じ」と書いてありますでしょ。

「ヨハネの黙示録」で一つの大きな大事なことは、この「御霊に感じ」なんです。これは現代の私達に与えられる「御霊のそそぎ」とはちょっと違うんですね。これは異常な状態の中で、通常ではない状態の中でこの幻を受けた、ということですね。そして、自分の後ろにラッパのような大きな音を聞いた、とありますが、新約聖書の中にも、神の啓示を受けた箇所がいくつかありますね。例えばペテロの経験、使徒の働き10章にあります。ペテロが御霊に感じている経験を記してしているところです。

使 10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。
10:18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。
10:19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
10:20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

ざっと目を通していただきますと、10節では、お腹がすいて夢ごこちになっていると、大きな敷布のような入れ物が四隅をつるされて、とあって、それからいろいろとやり取りがあって、19節に御霊に言われて、コルネリオという人のところに出かけて行って、イエス様の話をする。
彼は10節で、「うっとりと夢ごこちになる」、そして御霊の声を聞いている。
これはペテロが経験した啓示の様子であります。

それから、少しさかのぼって使徒の働き9章3節~6節。

使9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

これはパウロが経験した神の啓示の経験ですね。
ここでは「光」ですね。ダマスコの近くに来た時、「突然天からの光が彼を巡り照らした。」 そして「彼は地に倒れて、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
ここでパウロは強い光を受けている。そして声を聞いている。これがパウロの経験だった。

そして黙示録1章10節は、ヨハネの経験です。ヨハネは自分の後ろに「ラッパの音のような大きな声を聞いた」と、こう言っているわけですね。

そして11節にはその内容が記されています。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
「ヨハネの黙示録」が具体的に記されるようになった第一の理由は、神のご命令であったということです。見ることを巻物にしなさい。この巻物、今は綴じられた形、本のスタイルの聖書になっていますが、昔は巻物だったんですね。
そしてこれを七つの教会に送りなさいと。

この七つの教会の特徴は、これから、2章3章でお話したいと思っています。
この七つの教会は具体的には今のトルコ半島、小アジア、エーゲ海に突き出た半島ですけれども、その地方にあった教会なんです。
実は、ある見方からすれば、七つの教会は2000年間の歴史に見られる教会の特徴である、とも言われている。そういう見方をしますと、この七つの教会に送りなさい、っていうのは、これからの教会時代に築かれるすべての教会にこの「ヨハネの黙示録」を伝えなさいと、こういう意味を含んでいるということができるでしょうね。

ですからこの「ヨハネの黙示録」は、現代の私達に対する神の幻でもあるわけなんです。私達もヨハネとともに、この「ヨハネの黙示録」を是非自分のものとしたいですね。

パトモスというところでヨハネは幻を受けた。
そこで彼は自分自身を「兄弟である」と、そして証している。この兄弟という意味は一体なんであったのか、よく心に留めさせていただきたい。外側だけでなくね。
そして彼は特に、「神のことばとイエスの証によって」苦難をともにしている。
ですから私達も苦難をともにし、また、神の御国に預かり、この地上の生涯では忍耐をともにしながら、ヨハネとともに兄弟と言われるに相応しい者とされたいですね。

ある教会の一人がですね、お父さんが信仰をもって救われました。みんなから「兄弟、兄弟」って呼ばれたんです。生まれて初めて呼ばれたんですね。奥さんが来てこんなことを言われたんです。「あんたは兄弟って言われて、どういうことか分かってんの」といわれてね、あまりよく分からなかったらしいですけれども、後で私の所に来てね、「みんなに兄弟っていわれて、もう死んでもかまわないんですよ。」なんて言われましたけれどもね、私達もね、「兄弟」っていわれることが何を意味しているか、よく知る必要があると思うんですよね。

ヨハネが「兄弟」といった時には、クリスチャンたちは大きな励ましを受けたと思います。
願わくは私達もそういうクリスチャンになりたいものです。

12節からはいよいよイエス様の幻が、第一番目の幻が出てくるわけです。
福音書に見られるイエス様の姿はしもべの姿でしたけれども、ここは違います。
「ヨハネの黙示録」に出てくるイエス様は支配者としての姿、審判者としての姿、王としての姿、が出てくる。
ヨハネがこれを見た時に肝を冷やしてね、畏れおののいている姿が見られるんですね。
どうか私達はイエス様が一体どういうお方なのか、「ヨハネの黙示録」をさらに学んでいきたいと思います。

〔お祈り〕

「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」

恵みの深い天の父なる神様、ヨハネはその晩年において、島流しに合うような大きな苦難を経験しました。なおも彼は、神の愛のゆえにクリスチャンたちを励まし、また兄弟である、という大きな恵みを証しながら、その福音を伝え続けました。
私達もこの世の中にあって、家族の絆も、愛の絆も消えてしまうような世の中でありますが、どうか永遠までも続くところの神の家族としての関係を、この世の人々に強く証できる様に、さらにもう一歩、神の家族の一員として成長させてください。
この「ヨハネの黙示録」を進んでいこうとしていますが、続いてくるところの時代をはっきりと極めて、今の生活を営むことができますように、どうか顧みてください。尊いイエスキリストの御名によって祈ります。アーメン、
地の塩港南キリスト教会牧師
まなべ あきら


上の写真は、聖ヨハネの黙示録を表す正教会のイコン「Видение Иоанна Богослова на острове Патмос(パトモス島の使徒ヨハネの見た幻)」。作者不明、16世紀前半に描かれたもの。(Wikimedia commons より)