音声と文書:ヨハネの黙示録(16) 新しい歌 5:8~10
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PDF文書:ヨハネの黙示録(16)
ヨハネの黙示録 5:8~10
5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」【新改訳改訂第3版】
上の写真は、1846~1848年頃に描かれたドイツのHechingen大学の教会の天井画、作者はドイツの画家Fidelis Schabet (1813–1874)(Wikimedia Commonsより)
はじめに
前回は、小羊なるイエス・キリストが、神の啓示である巻物を受け取ったところまで、お話をさせて頂きました。
Ⅰ.イエス様が巻物を受け取った時、再び四つの生き物と二十四人の長老は、小羊の前にひれ伏しています。
A.ひれ伏す、というのは、礼拝です。
よくご覧いただきたいわけですが、「小羊の前にひれ伏した。」と書いてありますね。
これは大事なことだと思うんです。
4章10節をご覧いただくと、「二十四人の長老は御座についておられる方にひれ伏した」と書いてありますね。
8節では「小羊の前にひれ伏した」と書いてあります。
ですから、礼拝を受けるにふさわしいお方は、神、だということです。
この礼拝はこれから、小羊が巻物を開いて新しい時代を到来させる、という意味で、小羊の前で礼拝が捧げられているということは、非常に重要なことなんです。
私達は、今も確かにイエス様を礼拝しています。
しかしこのイエス様は、やがて驚くべき新時代、新しいことを起こすところのお方なんですね。
私達はこの地上を歩んでいますと、この地上のことしか目に入ってこないんですね。
創世記のところをみますと、蛇が神様から言われていますけれども、
「お前は地上を這いずりまわって、塵を食べるであろう。」とね。
どうか私達もですね、この地上を走りまわって、この世の塵をいっぱい食べて、それで終わるような人生を送りたくはないですね。
天を仰いで、やがて新時代を来させる小羊を、礼拝したい。
ですから四つの生き物と長老は、この方は驚くべき新しいことを起こす、ということを直感して、この礼拝を捧げているわけですね。
私達は本当に天を仰ぎ、小羊を礼拝したいと思うんです。
イエス様による新時代を予期しながら、やがて新しい時代がくる。
そのことに心を向けながら、毎日の生活がしたい。
確かに私達は地の塵に等しい者ですが、しかしですね、いつもうつむいて、この地上の事にあくせくしながら生涯を送りたくはない。
B.さて、彼らの礼拝には、「立琴と香のいっぱい入った金の鉢とを持っていた」と書かれています。
これはとても大事なことですね。
「立琴」というのは讃美ですね。ハープを意味しています。
「香のいっぱい入った金の鉢」とは、後の方をみますと「この香は聖徒たちの祈りである。」と書いてありますから、そっちの方は注釈がついています。
ですから、天の御国における礼拝の中心はなにかというと、賛美と祈りですね。
現代は、これにみ言葉がつきますがね。
1.音楽は、人を堕落させるためにも使われていますが、神様を礼拝する、神を賛美するためにも用いることができる。
神様は人間に賛美する力を与えました。
ところが人間は堕落した結果、これを愚かなことに使っている。堕落のために歌うようなものもあるわけです。
クリスチャンは、天の御国に入ることを約束されているわけですから、もっともっと神を賛美するべきだと思いますし、また、心の中にいつも神様を称える賛美を持っているべきだと思いますね。
もっと心を熱くして神を賛美したいし、もっと高らかに主を賛美するべきだと思いますね。
ここに「立琴」と書いてありますが、他に神を賛美するのにふさわしい楽器は、ラッパがありますね。教会ではあまりラッパが使われていないんです。ラッパもいいと私は思います。
要するに、高らかに神を賛美するべきだと思いますね。
台湾のクリスチャンは、よく讃美すると言われている。韓国のクリスチャンは、よく祈ると言われています。日本のクリスチャンは何をするかというと、よく議論をすると言われていますね。なんとなく寂しい感じになります。
讃美と祈りは神の国の特徴であります。
教会に来てですね、あの教会はよく讃美しているなと、賛美で恵まれているなと、そういう教会になりたいものですね。
2.もう一つは祈りでありますが、祈りも同じですね。
この世には貪欲に満ちた祈りがたくさんあります。しかしまた、聖なる献身と愛の祈りもあるわけですね。
ですから、クリスチャンは、祈りの面においても、潔められる事が大事じゃないかなと思うんです。
賛美も祈りも、この世では人間の堕落のために使われている。
しかし天においては、究極的にはこれが潔められて崇高なものに用いられている。
「立琴と香が入った金の鉢」、賛美と祈り、これは究極的には不可分のものである。
祈りも結局行きつくところにいけば、賛美に変るということなんです。
祈るということは、この世では単なる願い事だと思っているんですが、祈りも結局行きつくところ賛美なんです。
讃美もまた心の中の祈りであります。
この二つのものは、不可分なものである。分けられないところのものである。
そういうところに到達する時に、私達は、天の御国にふさわしい心の状態になっている。
こう言うことができると思うんですね。
8節では、「おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、」と書いてあります。
ということは、自分はあるグループに入っているからよしとするんじゃない、ということでしょうね。一人ひとりのクリスチャンが、一人ひとりの人間が、おのおの自らの心の内側に、小羊に捧げる賛美と祈りを持っていることが、必要だということです。
みんなが集まって賛美をして、一人ひとりの心の中に賛美がなくて、全員が集まって賛美と祈りがある、なんてことはあり得ない。
一人ひとりの心の中に、神への賛美がある人が集まってやれば、大きな賛美と祈りが生まれてくる。
ここに、「おのおの」と書いてありますね。
人間というのはどうも信仰がないと、グループに加わっていることに安心してしまいやすい。これは誤っています。
一人ひとりが心に賛美と祈りを持って礼拝するときに、そこには真の礼拝がある。
逆に、箴言の中にでしたかね、伝道者の書中にでしたかね、一匹の蠅がすべての香料を臭くしてしまうというのがありますけれども、一人の人が不協和音をだせば、その礼拝は乱れてしまうということです。
クリスチャンのハーモニーというのは、これは声のハーモニーだけでなくて、内なるハーモニーがいるということです。これ、非常に大事なことだと思いますね。
声があっても心の中がハーモナイズしていないと、これは神様に受け入れられない、喜ばれないものになってしまう。
この「おのおの」というのは非常に大事なことですね。
天の御国では、この心の中の内なるハーモニーが完成しておる。
地上にあってもクリスチャンは礼拝することによって、最もよいハーモニーを保つことができる。
この世の中には、神様を礼拝しない人が大勢いるわけです。そこには、心のハーモニーがみられない。みんなバラバラなんですね。
神を礼拝するという意味合いが、人間にとって最も重要なものだということがわかります。
Ⅱ.9節を見ますと、彼らは「新しい歌」を歌っている。
何が新しいのか、あるいは、なぜ新しいのか。
このことを考えなければいけませんね。
まず、この歌の主題が、新しいということですね。
全く違った新しさですね。主題の内容についてはこれからお話しますが、
なぜ新しいのか、というなら、新しい時代、新時代が到来するからです。
私達はこれからさき、老人社会になるとかいろいろ言いますけれども、必ずそうなるかどうかはわからないんです。
イエス様がおいでになれば、すべてはおしまい。
新時代というのは、もはや、小羊とその民の上に襲いかかっている苦難の時代は終わる、ということですね。凱旋的な支配の時代がはじまるということです。
ですから私達は、なぜ新しいかといえば、新しい時代に向かって歌われる歌だ、ということです。
そこで次に、新しい歌の内容について考えてみましょう。
A.9節と10節にその内容が記されているわけですが、
1.まず、小羊が巻物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方であることが称えられていますね。
これは2節で、「ふさわしい者は誰か」と問いかけがされていますので、それはその答えである。
天の御国において最も問題にされるのは、富や権力ではなくて、「ふさわしさ」であるということです。
この世の中では、最もふさわしくない者が、支配者の地位に就く傾向があります。
しかし、神の国ではそのような事はあり得ない、ということなんですね。御国ではそういうことは絶対にない。
このことはイエス様が何度もおっしゃったわけです。
御言葉を少し開いてみましょうかね。
こういうような聖書の言葉をみますと、この地上にある矛盾とか、いろんなものは洗い去られていくような気がしますね。
マタ20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
ここには、この世の支配者たちは、彼らの上に権力をふるうけれども、神の国では仕える者となりなさい、イエス様はそうなさった、ということが書いてありますね。
最もふさわしい支配者は、仕える者の姿をとっている。
さらに23章11節と12節をご一緒に読んでみましょう。
マタ 23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
ここで、一番偉大な者とは、どういう人か。
仕える者でなければならない。
自分を高くしようと思うと神によって低くされる。自分を低くする者は高くされる。
実はこの世の中でも、こういうことはしばしば行われている。
その背後に神の支配がある。
人間は自分を高くしようと思うと高ぶりますね。そのことの故に低くされてしまう。
「ふさわしさ」ですね。
もう一つ、み言葉を読んでみましょう。ヨハネの福音書12章26節です。
ヨハ12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
ここでは、イエス様とともにいる者は、仕える者でなければならない、ということを教えておられるんですね。
私達が神の国に入るのに、ふさわしいものとはなにか。
これは確かにキリストに救われ、キリストに仕える者となっていることである。
こうすると、仕える者となるには、この世の権力とは全然違っている。
この世は、ふさわしくない者がふさわしくない地位についている。
2.さて、巻物を解くのに、ふさわしいお方はどのようなお方か。
そのふさわしさは二つ記されています。
① その第一は、キリストの十字架によるあがないですね。
「ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い」
ほふられたと見えた、小羊がそれであります。
イエス様は永遠に「ほふられた小羊」なんですね。
イエス様は一度十字架に架かって、復活なさいましたけれども、十字架の傷が消えたわけではないんです。
彼の十字架による贖(あがな)い、罪のための代価が、「あらゆる部族、国語、民族、国民の中」に及んでいますね。
これらの言い回しは、特に注意深く言われていると思うんです。
私達はここを読みますと、何気なく読んでしまいがちですが、なぜ、あらゆる部族、国語、民族、国民と並べたんでしょうかね。
それはですね、世界をよく見てみますと、国家の中にいくつもの民族がいたり、国家を形成していないような部族もいます。あるいは世界には私達が考えられないほどのわずか、ある時は数千人、数万人だけに使われている国語もあるわけなんです。
ですからここで、国語と言われる意味があるんですね。部族と言われるのも意味がある。民族と言われるのも意味がある。
それは、彼らのためにもキリストは十字架で血を流された、ということですね。
こういうのをみると、聖書というのは細かく、注意深く語られているなあ、と思いますね。
もうひとつ、私達が注意しなければならないことは何かといいますと、二つありますね。
その一つは「中から」という言葉です。
これは、全ての人が天の御国にいれられるのではないことを、示していますね。
全ての人の中から、ほふられた小羊を信じる者だけが、御国に入れられるのです。
「中から」という言葉は、厳粛なものを意味されていますね。
どうか、私達は心に、血によりその「中から」続くと、いうことを覚えさせていただきたい。
さらにもう一つ注目したい言葉は、「神のために人々を贖った」ということですね。「神のために」です。
イエス様が十字架に架かって、贖(あがな)われたところの民を神の国に入れるとは、これは神のためである。
もちろん、私達を本当に幸せにしたいというのは、愛がありますからね。
でも究極的には神のためである。
神の御心であって、神様のご計画であって、神様の栄光を現わすものであるということです。
私達はキリストによって救われて、この人生が幸いであり、豊かであり、私達の力ではどうにもならないところに、神の助けを戴いているんです。
これを己のためにだけと、思わないでいただきたいですね。
そのことを通して、神様の栄光を現わす。
これはイエス様は、いつでも、このことを教えておられる。
神の栄光をあらわすために、である。
ラザロが死んだときにも、信じるならば神の栄光を現わす。
いつでも神の栄光が現われる。
盲人の人に、これはだれの罪ですか、と言った時も、イエス様は神の栄光を現わすためだ、と仰った。
どうか、神様の恵みを、自分のところで留めておかないようにしたいんですね。
私達が贖われたのは、キリストの十字架によって贖われたのは、究極的には、神の栄光を現わすため。
だから、与えられた恵みは感謝であります。
しかしそれは、神に栄光を「帰する」ところまでいかないと、目的を達成しない。
小羊は、そのために忠実に成し遂げられたお方だ、ということですね。
神のため、あらゆるキリストの贖いの根本的な、究極的な目的は、神の栄光を現わすためである。
私達は神から豊かな恵みをいただきます。
しかしそのことで神の栄光を現わさないで、中途半端に自分のところで留めておくなら、もはや恵みは途絶えてしまう。
いかに多くのクリスチャンが神の栄光を現わさなかったために、恵みからもれていってしまったか、私達は多く知らされる。
どうか、与えられた恵みは、神の栄光を現わさなければならないということですね。
第一番目の小羊が、巻物の封印を解くのにふさわしい、そのふさわしさとはこれだったんですね。その血によって、あらゆる人々を神のために贖った。
私達にとっての御国のふさわしさとは何か。
これは先ほどお話しましたが、神の御心に忠実であること。
そして神のために生きることである。
このふさわしさは、神のために、といわれているところに、その内面的な動機が問われている、ということですね。
私達は、ここでいかに業績を上げたかということではない。
この世の中ではそれを競います。それは、ふさわしさではない。
私達がいかに業績をあげたにしても、神の御心に忠実でなかったら、あるいは神のために、という動機からではなかったら、天の国のふさわしさにはなっていない。
② 第二のふさわしさとはなんであるか。それは10節でありますね。
「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
ここにも「私たちの神のために」と、大事な言葉が繰り返されているわけですが、
ここでもう一段進んで、「贖(あがな)われた人々を王とし、祭司とされた」、とこう書いてある。私達がキリストとともに王座につくということは、神の御心です。
それは私達が誉れを受けるためではなくて、神様の栄光を現わすためなんですが、しかし皆さんご自分でお考えいただきたい。
この自分が、キリストとともに御座につき、この世を支配するところの王となるということですね。
これは通常では考えられない。
神の栄光なんです。
オリンピックに出てですよ、金メダルをもらうぐらいの栄光だと思っているんです。
それに比べると、この自分がですよ、この私がキリストとともに御座に座して、王とされる。
それは神の栄光ですね。
最もふさわしくないような者が、キリストによってふさわしくされて、王とされる。
なぜかっていうと、これは神の栄光を現わすためなんですね。
いくつか聖書の言葉をみてみたいと思うのですが、まずローマ人への手紙8章17節。
ロマ8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
これ、とても大事なことなんです。
「キリストとの共同相続人」。普通、こういうことっていうのはないんです。
イエス様が御座に着くなら、私も御座に着くと、こう言っているんです。
畏れ多いことですね。
しかし、本当に神の栄光を現わすことができる。
これ偉大なことですね。
もう一つ読んでみましょう。
エペ 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
ここに「ともに」という言葉が2回ありますね。
ここに書いてある「天の所」というのは、もう「すわらせてくださいました。」と書いてありますから、すでに経験しているということですので、これは地上の生涯における潔められた恵みの状態を表している。
しかしこれは、私達が御国において神様によって応答される、という保証であるわけです。
「ともに天の所にすわらせてくださる」。
これはやがて私達が、「キリストとの相続人」になるということの証でありますね。
さらにエペソの3章6節を読んでみましょう。
エペ3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
パウロは驚くべきことを話した。
ローマ人への手紙をみますと、ローマ人に言われているんだから、異邦人も含まれている。ユダヤ人以外の人であっても、キリスト・イエスにあるならば、「共同の相続者」になる。こういうふうに約束されている。
驚くべきことですね。私達が王になるということは。
最後にもう一つ読んでみましょうかね。み言葉はこういう約束に満ちているわけです。
コロ3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。
ここに「現れる」とあるのは、キリストの再臨の時の事をいっている。
「共同相続人」、あるいは「ともに」という言葉が何度もでてきましたね。
これは私達が受くべき大いなる特権です。
ヨハネもパウロも、キリストによってあがなわれた者は王となる、ということを、これは神学的な学問として話をしているんじゃないんです。彼らは現実のこととして話している。
自分はその王座に座しているところの人間である、ということを自覚しながら話しているんですね。
クリスチャンはあまりこのことに気付いていないんです。
相変わらず学問的にほじくろうとしている。しかしそこには喜びも共感もないんです。
皆さん、今までどうですか。王座に着いたことはありますか。
聖書を見ますと、この人々をとりなす人を祭司というわけですが、私達クリスチャンはこの世にあって、祭司であります。
神と、まだ神を知らない人の間に立って、とりなしをする。
あるいはキリストを伝えるところの祭司である。
ペテロはこう言っているんです。ペテロの手紙は興味深いと思うんですけれども、
Ⅰペテ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
ペテロは不思議な言葉を使いましたね。「王である祭司」。
ヨハネの黙示録のほうでは「王とし、祭司としました」と書いてあるんですが、ペテロは「王である祭司」と言いました。普通は「王である祭司」という存在はないわけですね。
ここでは王と祭司が結び合わされて用いられている。これは非常に素晴らしい。
それで彼はさらに、ここでは預言者という言葉を使っていませんけれども、後半の方をみますと、この「すばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と、こう言っていますので、預言者としての使命もここに記している。
ですから実に、この地上にいるクリスチャンに与えられた最大の特権であるということですね。
「王なる祭司」、私達はこの特権を最大限に生かすべきではないかと思います。
クリスチャンは今、この世の勢力、あるいはサタンの勢力によって苦しめられ、支配されているように見えますが、実はクリスチャンはこの世を支配しているんです。
キリストという偉大なるお方の力と恵みによって、支配しているわけですね。
それは、霊的であって人格的な支配なんです。
この世の人々の心の中に、神の国の支配を拡大している。
クリスチャンがこの世にいなかったならば、もはや神の国はなくなってしまう。
やがて主が再臨されるときに、クリスチャンがこの地上に一人もいなくなってしまう。
もはやこの地上は神の支配がなくなってしまう。恐るべき時が来るんです。
また、現代、私達の支配力というのは、キリストを拒む人の内側にも働いていくんです。
それは何かといえば、キリストのみ救いに与れないという支配力になってしまう。
これは私達にとって非常に大きな支配力なんです。彼らが神の国に入れないという支配力になってしまう。
マタイの福音書の16章をみますと、イエス様がペテロに天の御国の鍵を与えています。そして、あなたがこの地上でつなぐものは天でもつながれている、という言葉がありますから、私達は、クリスチャンの存在そのもの、あり方、証がどんなに大きな支配力を持っているかということを、悟らなければならないと思いますね。
私達の証や生活、存在そのものが、多くの人々の永遠を支配していくものなんだ、ということなんです。彼らが受け入れようと拒もうとです。
これは、支配が及んでいっているということを、クリスチャンはよく心に留めて生活している必要がある。
クリスチャンは日ごとに、他の人に決定的に支配力を行使している、ということなんですね。
それによって人々は御国か地獄を選ばなくてはならなくなってしまう。
しかし、もう一方では、天の御国に入った祭司というのは、これはもはや罪人のためにとりなさないんです。そこでは、もはやとりなしは必要ありませんので、神様に賛美を捧げる、お祈りをする、神に仕える、これだけが奉仕の役目になる。
ここではやはり、祭司であり、王は、ただ支配するだけ。御言葉にあった通り、彼らは地上を支配するようになる。
こういうふうにイエス様はこのみ言葉を教えてくださっているわけです。
私達はですね、この神様が備えてくださった恵みを、思い起こさなければならないと思うんですね。
そして、こういうお方に対して、この二十四人の長老と四つの生き物は、新しい歌を歌った。どうか、私達の賛美は、新しくならないといけないでしょうね。
新しいリズム、新しい歌詞で歌うのが、新しい歌というのではなくて、
新しい歌というのは、
① 新しい主を歌う歌でなければならない。
私達の賛美はやはり、心の中に新しい主をたたえていなければならない、と思いますね。
② さらにこの地上の勝利だけではなくして、神の御座近くで歌う歌でなければならないでしょう。
私達の賛美はこの地上に立って歌っていますけれども、心は、神の御座近く。
この四つの生き物と、二十四人の長老が御座の周りに集まって賛美していたように、私達も神の近くで歌う。
③ しかも御座の中央にいます、ほふられた小羊をたたえる賛美である。これも新しい歌。
④ あるいは、私達を王なる祭司としてくださるお方への賛美である。
こういうものはもはや、私達の心が、この地上のものに繋がれていない時にだけ歌えるところのものである、と思いますね。
私達の関心と興味と欲望が、この地上に繋がっている時に、この種類の新しい歌を歌うことができなくなってしまうんです。
この世から解放されている時に、私達は新しい歌を歌うことができる。
⑤ これは私達の心が刷新している、新しい歌だということができますね。
常に私達の心は、こういう状況で神を賛美すべきだと思うんですね。
そういう歌は心が燃えていますね。絶えず新しい光を放って、輝いている。自分の内側の魂に響いている讃美である。
この世の人々は、世界の人々は、クリスチャンの賛美を聞いて、そして心が開かれるようになっていく。
ですから、彼らをキリストの贖いに導くようなところの賛美を、私達に歌わせていただきたい。
また、新しい祈りをしたいと思いますね。
願いのリストをあげるような祈りではなくて、神様のみもとでの祈り、心で神様とお交わりしているという祈りです。
これは新しい祈りであると思います。
言葉が新しいのではない。スタイルが新しいのではない。心で常に交わるのが新しい。
これは、人間が知っているどんな祈りよりも新鮮な祈りだということができるでしょう。
これは私達の心の中で、賛美と一体になるような祈りである。
先ほどお話しました。賛美は行きつくところに行けば、祈りとなり、祈りが行きつくところまで行くと、賛美に変る。祈りと賛美は全く一つのものとなっていく。
どうか願わくは、そういうような賛美と祈りをもって、神を礼拝したいものだと思う。
天の御国における礼拝とは、こういうものである。
ああ、どうか、香のいっぱい入った金の鉢、それは最も満ちているという意味でしょう。
この祈りは、賛美であろうと思いますね。
それが証拠に、新しい歌を歌っていたと書いてありますけれども、その後に祈りの言葉は、ないわけです。
どうか私達もこの地上にあって、ここに到達しなくてもですね、私達が封印を解くにふさわしいお方に、心から賛美を捧げたいと思います。
そうすれば、この地上にあっても、私達はこの地上を支配しているところのものである。
霊的支配、人格的支配。
とにかくいろんなことを言われます。いろんな苦しみにあいます。しかし、私達は、なお、支配しているということを忘れないようにしたい。
いろいろ受け身で生きているようでありますが、霊的に人格的に、もしクリスチャンがいなかったら、もし私がそこにいなかったならば、そこは憐みがなくなってしまう。
支配者なんだということを、しっかり心に留めていただきたい。
船というのは、エンジンがついてスクリューがついて、風があれば進むだけではなくて、やはり船には重みがいるんです。船の底が軽かったら、ひっくり返っちゃう。
クリスチャンはやっぱり重りでなくてはいけない。どんなに優れたエンジンを備え付けてもどんなに優れたスクリューをつけても、舵を備え付けても、船の底に重りがなければひっくり返ってしまう。
そういう面でクリスチャンは、人類の良心でなければならない。
人格的霊的支配者でなければならない。
また、私達は、本当に毎日その影響を与え続けている。
そして神を知らない人達は私達をみて、永遠を決定される大きな支配力を委ねられている。
「彼らは地上を治める」と仰いましたね。神様の栄光のために私達は王とされ祭司と、この地上にあってもされているわけですし、この地上を去っては、キリストとともに相続人として、神の御座に着くようにしてくださった。
この幸いを深く覚えたいと思います。
この次はさらに、大いなる賛美をご一緒に学んでみたいと思います。
お祈り
「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
恵みの深い天の神さま、私達は本当に取るに足りない小さな人間のように思いますが、しかし神はそれを選んで、この世においでくださり、神を知らない者たちの間において、神の遣いとし、神の王とし、また、祭司として、私達が知ると知らずにかかわらず、霊的人格的な支配力を持って、私達を生かしていてくださることを覚えまして、心から感謝いたします。
私達を見る者が、あなたを見ることができ、私達から聞く者が、あなたを聞くことができるように、あなたはそうされていますから、感謝をいたします。
やがて私達はこの地上を去って、真にキリストの祭司とされますから、今しばしこの地上にあって、私達は自らが置かれている支配者であることを、大きな影響を与えるところの者であることを、深く心に留めさしてください。そしてまた、それにふさわしく生きることができますように、どうぞ助けを与えてください。
私達が受ける苦しみ、あるいは受ける非難、そればかりに心が奪われてしまって、自分が支配者の立場にあるということを忘れてしまう時、私達は力が鈍ってきます。
どうか、イエス様がおいてくださっている使命とその力を自覚しながら、信じて進むことができるように、顧みてくさい。
ここに賛美と祈りにおける大いなる恵みが記されてありましたように、そのことを悟るならば、今でもあらゆるときに、この地上に心をつながれずに、神を賛美することができるようになることを、感謝いたします。
この時を感謝して尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明