音声と文書:ヨハネの黙示録(17) 大コーラス 5:11~14
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PDF文書:ヨハネの黙示録(17)
ヨハネの黙示録 5:11~14
5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。【新改訳改訂第3版】
上の写真は、13世紀頃に描かれた聖画「The Lamb takes the book from Christ(子羊はキリストから書物を受け取る)」(作者不明、Wikimedia Commonsより)
はじめに
今読んだ部分は、5章の中ではクライマックスですね。私達はこうして読んでみますと、スラスラっと読んで終わりになりますがね、この場に立ち会っていると、大変なことだと思うんです。やがて私達はこういう場面に出くわす。
大勢の賛美をマスクワイヤと言いますがね、何百人というですね、人達のコーラスを聞く。これはそれどころのものじゃない。
Ⅰ.この前は、長老たちの新しい賛美についてお話をしました。
長老たちの新しい賛美が終わると、無数とみられる万の幾万倍、千の幾千倍ですから、これは数の事を言っているのではなくて、もう、無数ということです。これを見ると、御使いを数えるのに何人ていうのかわかりませんけれども、御使いは一体何人くらいいるのかなあと思いますけど、数えられない。無数とみられる御使いの賛美があったわけですね。
11節で「また私は見た。」と書いてありますでしょ。こういう言葉って見落としちゃいけないと思うんですね。つまりヨハネはあらためてこう言っているわけですから、この光景は通常の光景ではなかった。驚くべき光景であることを意味している。
この光景を絵にすることは到底できません。
外国の映画監督がですね、聖書の出来事を是非映画にしてみたいというのが一つの願いなんだそうですが、ヨハネの黙示録をですね、こういう賛美のところを映画にしたのは、ない。とてもできないんだと思うんです。
私達もあまり描写することができない。大まかに見るならば、御座がその中央にあると、そのまわりに四つの生き物がいらっしゃって、二十四人の長老がおり、それを取り囲むところの無数の御使いが陣取っている。
さらにそのまわりに「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」、つまり被造物が取り巻いている。こういう光景が見ることができる。
その中に、これは幻ですが、自分がいなくちゃならないんです。タイム・マシーンていうんですかね、ヨハネの黙示録というのはやがて私達が行くべきところの、この御座の周りの事を見ているわけです。
もし私達が光より速いロケットか何かに乗って行っているならば、こういうのが見れるのかもわかりませんがね。
ここでわかります事は、天の御国においては御座が中心である。そして全ての被造物が御座に向かっている、ということなんです。
ところが地上はこの逆なんですね。地上は楕円形どころではなくて、中心がみんな自分に向いている。自分が中心であって、全てのものを自分に向けようとしている。だから、小さい丸みたいのがたくさんある、ということですね。
御座は違うんです。同心円っていったらいいでしょうかね。中心は一つで、ぜんぶ御座を向いている。
子供のころにね、「水金地火木土天海冥」なんて覚えさせられました。太陽を中心に惑星が回っているんだ、なんて教えられたけれども、そんなことを教えるものだから、太陽を神にしてしまうんですねえ。
ここを見ますと、御座が中心で、全ての被造物がこの御座に向かっている。これが天の御国の特徴である。
Ⅱ.ここで天の軍勢は、大勢の御使いは、ほふられた小羊に向かって賛美をしている。
A.私達が思い出す、天の御使いが賛美しているのは、ルカ2章13,14節でみることができますね。
ルカ 2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
天の軍勢というのは、大勢の御使いのこと。
ですからここにも御使いが現れている。時々この御使いが現れるわけですが、この時にはまだイエス様はほふられていなかった。
このルカの方では、この賛美が、いと高きところにいらっしゃる神と、地上の御心にかなう人の、二つに向けられているんですね。
ところがヨハネの黙示録の5章12節では、ほふられた小羊だけに賛美が向けられている。これがその特長でしょうね。
B.もう一つの特長は、5章9節。
黙5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方」
として賛美を受けているんです。
ところが、5章12節ではそうではないんですね。「ほふられた小羊」を神として賛美しています。
ですからこれは、ますます「ほふられた小羊」を賛美している。つまり十字架に架かられたキリストの素晴らしさを賛美している、ということになる。お分かりいただけるでしょうかね。
9節の方では、何かをしてくださるというので賛美をしている。12節の方はそうではないんですね。十字架に架かられたその方を賛美している。
こういう点でキリストの素晴らしさをみることができる。
ここに小羊が受けるのにふさわしいものが七つ、歌われていますね。今日はその七つを少し取り上げてみたいと思います。
① 第一は「力」。
人間はみな力を求めているんですね。ある人はお金の力を求める。ある人は健康の力を求めますね。あるいは名誉の力、権力の力。
最近リクルート何とかとか、いろいろ出てきますけれども、あれはお金の力ですね。
あういうのを見ますと、やたらとお金をばらまく世界なんだなあ、なんでもお金で物事を片付けようとする、そういう世の中なんだなあ、と、イヤというほど見せつけられますね。
何か問題が起きると、お金を持って行って、黙っててくれとか。
あういうやり口、どうも子供がね、「お母さんに言わないでね、おやつを半分あげるから」って、同じやり口ですね。
人格的に言うと、劣っているんじゃないかなあと、気がしないわけでもないですね。
キリストが受けるにふさわしい力とは何か。
もちろん全被造物を支配する力、王の王としての力なんです。
この「力」はすでにキリストはお持ちであるんですけれども、さらにキリストにはどういう力があるかというと、キリストは罪を赦して救う力がある。
お言葉を一つ拾い出していくと幸いですがね、時間が許されませんから、省略をさせていただきますが、さらに彼は罪を潔めて、御霊を満たす力がある。
私達はねえ、御霊に満たされようと思って、一生懸命に努力しても無理ですね。
このあいだもある方から、「先生、どうしたら聖霊に満たされるんですか」と言われたんですが、「それはあなたが求めて、信じるしかないんです」。これ以上に言う方法はない。
あとは、キリストの力なんですね。
満たされようと思ってね、人間は自分の力で満たされようとするんです。
これは逆なんですね。キリストの力で満たされなければならない。
どうしても力みすぎるんですね。
また、キリストは裁いて地獄に陥れる力もある。これは恐ろしい。イエス様を甘く見てはいけない。
さらには、もっと私達の地上の生涯にかかわりがあることは、地上で生かす力があり、終わらせる力も彼は持っている。これは人を生かしたり、終わらせるだけではなく、宇宙を終わらせる力もある。
最近のニュースを聞きますと、アルメニヤ地方に大地震が起きている。何十万人かの人が亡くなられた。あういうのをみますとね、もう人の力を遥かに超えていますね。
アルメニヤ地方というのは、おそらくノアの箱舟がついたんじゃないかといわれていますが、もしあの当たりに到着していれば、跡形もなくあの地震で消えたかなあと、考えているわけですが。
しかしまあ、人の力を遥かに超えたものを、神は宇宙を終わらせる力も持っている。
さらにこれを見ますと、キリストはすべての天の軍勢を従える力もある。イエス様が十字架に架かられる前に、ゲッセマネの園で、12軍団にあまる御使いを引き連れてくることも可能なんだ、と仰いましたね。キリストには人を滅ぼす力があり、またよみがえらせる力もある。ほふられた小羊は力があるわけですね。
そしてイエス様は、その時代、その時代に応じて、力を行使されてくださったわけですね。そして、今や刻一刻と最後の力の行使が訪れてこようとしている。
ソ連とかいろいろと違いがみえてくるようになって、世の中的にみると経済的な関係として見えるでしょうけれども、そればかりではないようです。刻一刻と最後の行使の時が近づいているといって、よろしいと思います。
② 第二番目は、「富」ですね。彼には富がある。
人はこの世の富を求めて一生を終えるわけですね。もし人間が、食べるものと住むところを手に入れるためにだけに、自分の人生を費やすとすれば、これは虚しいと思います。あまりに虚しすぎる。人は目先の貪欲といいますか、自分の人生を浪費してしまうんです。これ、気を付けなければいけない。
私達が、最も有意義な人生を送ろうと思うならば、なくならないようなものに生涯を使わなくてはならない。結局私達は、なくなるものに人生を費やしやすいんです。なくならないものは、必ず報いをもたらしますからね。
イエス様がこういう言葉をお話になりましたので、これは私が、 生涯で深く心に留めている言葉ですね。
ヨハネの福音書の6章27節です。これに従って生きる。そうすると必ず報いがある。
ヨハ6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
朽ちる糧のためでなく、朽ちない糧のために働きなさい。
確かに私達は食べ物のために働く。しかしこれは一部分でなければならない。自分の一生涯をこれに費やしてしまうならば、朽ちないものを、何も得ることができなくなってしまう。
現代人はこれを見失っていると思いますね。ですから最も虚しい生き方をする。
現代人は非常に忙しくなっていますが、朽ちるもののために忙しくなっている。
しかし、かつての人達、昔の人達は、朽ちないことのために生きていたんですね。
神を賛美することだって、これは大事なことなんですね。朽ちないことのために生きている。
ところが、今は最も朽ちることのために人生を使い果たしている。やつれているといってもよろしいんです。
朽ちるものはやがて消えていくものです。そのためにおのが命を費やしてしまうということは、人間としては愚かですね。自分の生涯で何も得られなくなってしまう。
どうか私達は、朽ちるものも多少は必要ですけれども、朽ちないもののために働くということを、イエス様は仰いましたね。
おそらくイエス様も、30歳までは朽ちるもののために働かれたわけですね。
朽ちないもののために働くならば、人は朽ちるものすべて与えられるということを知るようになる。
私の人生のこれまでを考えてもそうです。かつては私も朽ちるもののために働きましたがね、あまり得られなかった。どんなにこの地上で優秀な人であっても、それは終わりになっちゃうんですね。その頭脳は終わりになってしまう。
朽ちないものとは何か。パウロはそのことを教えていますね。ピリピ4章19節です。
ピリ4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
私達の必要はどうやって満たされるのかというと、「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」満たしてくださる。この富はどういう富かというと、キリストにある富、栄光の富、そしてあなた方の必要とする富、すべて満たすんです。
こう約束されたんですね。これは素晴らしいことであると思います。
皆さん、パウロの伝道旅行、パウロがあっちこっちまわって教会を建設したのには莫大な費用が必要であったわけです。彼はテントを作っていましたけれども、それでは間に合わなかったでしょうね。しかし彼はすべての必要は神によって満たされた、ということをいっているんですね。ですから私達は、本当に朽ちないもののために働くならば、朽つべきものは備えられていくことを教えてくれる。今でも同じことです。
もう一つみ言葉を読んでみましょうかね。ローマ人への手紙8章32節。これはクリスチャンは、よく知る必要があると思いますね。有名な言葉なのでご存じと思いますが。
ロマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
ここには、「御子といっしょにすべてのものを」といっていますね。ですから私達は御子のために働くならば、全てのものは神の恵みとして与えられていく、ということですね。
私達は理屈として、これを知ることができるかもしれません。しかしこれは一つ一つ課題を乗り越えていくことで、知るんですね。これもね、私達は一挙にというわけにはいかないんですが、私達の信仰が少しずつ少しずつ神によって養われていくと、わかる。
私も振り返ってみますと、神様は少しずつ少しずつスケールを大きくしてくださっている。最初は聖会に行く費用、数千円くらいから与えられる、ということを経験させられる。
キリストと一緒にすべてのものを恵んでくださる。ですから私たちの信仰生活の中で、神によって恵みが与えられるということを、経験させていくこと。
ということは、いい加減にぶらぶらして生活をしていればいいっていうことではありません。決してそうではありません。私達は、労するということは大事なことですがね、それがいつも朽ちるものにだけ焦点をあててたら、全ては虚しくなってしまいますよ、ということですね。
もう一つ読んでみましょう。コロサイ2章3節。これは決定的な言葉ですね。
コロ2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
私は今の日本の状況をみますとね、だんだんと日本人は中流意識を失われつつあると言われている。企業はたくさんお金を持っているらしいのですが、個人はあまりお金を持っていないというんですね。だんだんと中流じゃないという言い方をする人が多くなってきた、というんですが、一つは、やはり、日本人は朽ちるものにだけ生きているというんでしょうね。だから、豊かになっていかないんじゃないのかなあと思いますね。朽ちないもののために生きる。そうするとね、人間は必ず豊かになっていくわけです。ここには、「知恵と知識との宝がすべて隠されている。」
大事なことは「隠されている」ということです。
人間は富を得ようとして、この世の地面を汗水たらして掘り周りますけれども、そこから出るのはいつでもがガラクタですね。
花咲じじいの話ではありませんけれども、悪い爺さんがきてですね、金銀がでてきた話をきいて、自分も掘ったらガラクタばかりが出てきたっていう話を、子供のころに聞いて、そんなもんかなあと、思いましたけれどもね、
聖書は、富みというのはキリストにあると教えているんです。しかも聖書は「隠されている」といっています。
富みというのは私達は、形あるものとしてそこに存在する、と思いやすいんです。でも富みは隠されている。この「隠されている」という意味をようく考えなければいけません。
例えば氷のようなものは、水は氷にすれば形です。でも水蒸気にもなるわけですね。液体としてたくわえることもできる。水蒸気にすると、私達には見えないわけです。
氷として、あるいは液体としてたくわえられている時は、みんな見える。
イエス様が与えてくれる宝というのは、いろいろな意味があるわけですね。それを見出して活用しなくちゃいけない。
例話ですがこんな話がある。皆さんもご存じかもしれない。
ある父親が、臨終の時に息子たちを集めて、枕元によんで話をした。
「財産はみんな畑の下に深く埋めてある。わしがいなくなったら、お前たちは力を合わせて、畑を深く掘れ」といって、死んでしまったというんですね。
それで息子たちは、お父さんがいなくなったから、畑を掘りまくったけれども、どこからも宝は出てこなかった。なんの財産も出てこない。
しかし、その年は、田畑をいつもよりも深く掘ったので、収穫が多かったというんですね。
もし、父親が壺でも小判でも埋めて置いたら、それで終わりですね。
働かなくなってしまって、小判を分けて終わりになってしまう。
けれどもお父さんは、息子たちの遺言としてね、こういうふうに深く掘る生涯を送れば、そこからは何年だって豊かな収穫を得ることができる、それが財産であると父親は教えた。
これは形ある財産ではないんです。
キリストの宝も隠されているんです。だから見る目がないと、これを見つけることができないんです。キリストの言葉を浅く読んではならないということですね。
この間もある人の話をちょっと聞いていましたがね、聖書のどこかにこの重要なことが書いてある。自分はどこに書いてあるかわからないけれども、どこかにこのことが書いてある。どこかの大学の先生でしたがね、だから探してください、って言っている人がありましたけれどもね。
浅くキリストを信じていると、キリストの富を手にすることができない。キリストの富とは、知恵と知識の悟りだからです。
それで私達が、それを実際の生活の中で活用するためには、
それをそのまんま富としてね、金銀財宝として使うわけにはいかないんです。
小切手というのがありますね。株券でも同じですが、あるいは手形でも同じですが、そのものは金銭ではないわけです。日本の銀行券ではないわけです。
けれどもそれを換金することができる。
知識と知恵の宝を、私達は生涯のなかで用いることができる。
ところが、信仰が分からなければ、キリストの知恵と知識の宝は何の役にも立たないではないかと、思いやすいんです。ですがそうじゃないんですね。
信仰が分からないとそう思いやすいかもしれませんが、実はそこには無限の宝が隠されているんです。
それを活用した人と、活用しなかった人の差だけなんです。
私の事を考えてみますと、この十年間を考えてみましてもね、やはりイエス様の知恵と知識が与えられたからだなあと、思うんです。
この教会も本当にゼロからですからね、ご存じの通り、ずっと向こうの高いところから見るとね、トタン板が錆びていてね、これじゃだめだなあと、思うようなところだったんです。
しかし神様は、知恵と知識を与えて導くんです。そして助けるんです。これは現実なんです。
そんな話を、証をね、よく聞くんです。
この間もね、「先生、聞いてください」っていうから、「どうしたんですか」って。
「これ本当に神様しかできないことなんです」とおっしゃるんですが、
「他のだって、みんな神様にしかできないことなんだけれども、それに気づいていないだけなんだよ」って言ったんですけどね。
特になにかが起きると、「もう神様にしかできないことなんです」っていうお話を聞きますけれどもね。
ほんとにそりゃそうだと思います。えらいことなんですね。
そういうものはお金に計算すると、何十万、何百万に変わっていってしまうわけですね。それが10年、20年たつと、大きな差がでてきてしまうんです。
私達は知らないうちに、キリストの知恵と知識の悟りというものを、過小評価しやすいんですね。わずかなこんなものと、思いやすいわけです。
これは、隠されていますよ、っていうことですね。
どうぞ、このことに、目がカッと開かれて頂きたいと思います。
宝なんです。キリストは富をお持ちなんです。その富は隠されている、ということです。私達はそれを探り当てなければならない。
頭もですね、聖霊によって血の巡りを良くしていただいて、これを私達のものとしていただきたい。本当にそうです。
③ 三番目「知恵」。
これは神様の知恵ですから、人間の知恵とは違いますのでね、難しく言えば、神の包括的洞察力という。あらゆる面において洞察する力を、知恵と、呼んでいるわけですね。
私達はいつも、地上的な知恵で物事を考えて行動していますと、いつも道が開けてこないわけです。神様の知恵が必要。
先ほども知恵と知識と宝とありましたが、これは考えの基準がこの世のものだからですね。この世の知恵を使っていれば、この世のやり方しか出てこないんです。これは常日頃、私達がやっている方法なんですけれども、これは問題がありますね。
この世の、人間の知恵をいくら絞っても、出てこない。
子供たちにいろんな言葉を教えるんです。このあいだは「ざ」がつくものはなにかって、「ざる」とか「ざぶとん」とかね、大人が考えるとこういうものしか出てこないですが、こどもたちからは「ザーカイ」なんて出てくるんですね。おとなと違うものが出てくる。
やはり神の知恵があってこそ、私達は上からものが見ることができる。
何とか北壁に登る人だって、下からばかりから見ているんじゃなくて、ヘリコプターか何かで上の方も見て、上はどういうふうになっているか研究してから、登る事もできるわけです。
知恵というのはそういうことですね。洞察力。
私達は、神の洞察力をいただくならば、今まで見えてこなかったことが見えるようになってくる。これは大事な点ですね。
人間は洞察力というのはね、非常に乏しいんですよ。それは自分の主観とか先入観とか、自分の考えとかに縛られているからなんですね。ですから、上から見ることがなかなかできない。
この知恵というのは、包括的な、あらゆる面から洞察する力。これを知恵とよんでいるわけです。英知ということができますね。
④ 四番目は「勢い」。
この「勢い」というのは聖霊の力のことですね。人の勢いと神の勢いの違いを最もよく表しているのが、イザヤ書ですね。イザヤ書の40章28節から31節は、最もよく人の勢いと神の勢いの違いを表しています。
イザ 40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
ここで私は気に入る言葉があるんですけどね、そこは、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
どんな元気の良い者も、若者も、若い男もつまずき倒れる。
盛んなる者、意欲十分な者もやがて疲れ、たゆみ、つまずき倒れる。
4種類書いてありますね。疲れて、たゆんで、つまずいて、倒れる。
どんなに若い人でも。疲れを知らない人でもそうだ。
私は子供たちをみていますとね、非常にね、クターっと寝たあとに、ケロっとまた走り回りますね。回復力が早いんです。だんだん年をとってきますと、いくら寝ても、まだ疲れが残っていることがあります。その差を感じますね。
しかしあの若者も疲れ、たゆみ、つまずき、倒れていく。
私達がいくら忍耐強くやり通す力があっても、私達の忍耐は何年くらい通用するだろうか。もし一生涯忍耐のし通しだとしたら、私達の忍耐は続くだろうか。
人の勢いというのは、すぐに衰えて、うなだれて、失望する。これが人の勢い。
私達は、毎日キリストの勢いによって新たにされる必要がある。
私も今、家内からですね、冬枯らさないように、ベコニヤを一鉢あずかっているんですがね。
「もう枯れちゃってもいい」っていうんですけれどもね、可哀そうだから、窓際に日のあたるように吊るしてあるんです。
月、水、金と水やりしているんですが、一週間にいっぺんくらいでいいんじゃないの、とか、いや、一週間にいっぺんだと枯れるかもしれないとか、月、水、金と決めておかないと、いつやったか忘れてしまうからとかね。
今日は日曜日だからいいな、と思ってやらないですけれども、月、水、金、水やりしているんです。あまりやらないと、うなだれてしまいますね。
随分まえ、私がまだ勤めていたころ、サボテンを貰ったんです。
枯らさないようにと思って毎日水をやったら、枯れちゃったんですね。知らないものですからね。
一週間たって、「枯れちゃったよ」て言ったら、「どうしたんだよ」と言われて、
「毎日、家を出る時に水をびちゃびちゃやってきたの」って言ったら、
「根が腐って枯れちゃうんだよ」って言われましたがね。
「お前には何もやれないな」っていわれて、それっきり、くれなくなりましたがね。
私達はキリストの勢いによって、毎日新たにされる必要がある。
31節をみますと、「【主】を待ち望む者は新しく力を得」る。「新しい力」ですね。
「待ち望む」というのは霊的な充電を表している。バッテリーですね。昔のバッテリーはなかなか充電しませんでしたけれども、今のは、早く充電できるようですがね。昔のは、7時間も8時間もかかったんですが、最近のは性能が良くなりましたから、どんどん充電ができるわけです。
私達もね、充電をする。そうしたら新しくなる。「鷲のように翼をかって上がることができる。」この充電によってですね、「鷲のように翼をかって上ることができる。」
鷲というのは、一年に2回くらい羽根替えをする、生え変わる。
今日もですね、子供が「先生、私、空を飛びたい」っていうんですよ。「先生も子供のころ飛びたかったよ」。そして「どうして羽根がないの」っていうんですよ。
私達は空を飛んだことがありませんから分かりませんが、
鷲は飛んでいると、おそらく羽根が傷むんだろうと思うんですよ。
子供のころ、私は鳩を飼っていたことがあったんですよ。羽根の先がバラバラになっていく。そしてそこが抜けていく、あとから新しい羽根が、生えてくる。そしてまたスイスイ飛べるようになる。
この鷲のように翼をかって上がるようになるというのは、長い間使ってくたびれた羽根が抜けて、新しい翼に生え変わることをいってる。
私達は一日が終わると疲れますでしょ。生え変わらなくちゃならない。
つまり、力の刷新ですね。
そして、「走ってもたゆまず」これはスピードですね。
「歩いても疲れない」、これは忍耐強さ。
迅速さと忍耐強さ。どちらも抜群の勢いを持つようになる、ということですね。
特に人生においては「歩く」ということが大事なんですね。
長き時間をかけてやるということは、非常にたいへんです。
熱いお湯でもね、瞬間的に手を入れることができても、生ぬるいところにずっと入っているのは困難ですね。
キリストはこういう力を常にお持ちである。そしてこの力をキリストを待ち望む者に与えられる。
人の勢いとキリストの勢いの違い、これを私はここに見ることができる。
人の勢いは体力的なものだけでなくて、金の勢いもあるし、お店なんか繁盛している店もあるし、10年も前の物を売っている骨とう品屋みたいのもあるかもしれませんが、人の勢いというのは必ず衰える、ということですね。
⑤ それから、「誉れ」。
これは、救い主としての最も高い名を賜った、ということですね。
これはピリピの2章9節から11節に、イエス様が最も高い誉れをいただいたということが記されていますね。
ピリ 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
⑥ 第六は「栄光」
栄光というのはキリストの尊厳、輝きのことですね。
マタイの福音書の17章2節をみますと、変貌山の出来事があります。
そこではイエス様がですね、白く輝いていますね。白い衣のごとく輝いている。
これは、キリストの尊厳の輝きが、洩れ出たということですね。
イエス様は人の形をとられて、降誕された日に、栄光というものを布で肉体に包んだわけですね。
マタ17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
中々これも大変ですね。
戦争のころは光をつけちゃいけないというんで、いろんなもので囲ってですね、本を読んだって聞きましたがね。私も親父に怒られたことがある。「早く、寝ろ」ってね。
電気代が高かったころですね。しょうがないから、布団で囲ってね、漫画本かなんか一生懸命に読んだのを覚えていますけれどもね。くだらないものを読んで、「早く、寝ろ」なんて言われて。それでも漏れ出てね、見つかっちゃうわけです。
イエス様はそんなものではありませんね。御国ではこの輝きが満ちている。
イザヤは天におけるキリストの栄光は、「その栄光は全地に満つ」、と言っていますね。
イザ6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。」
ヨハネは、ヨハネの福音書12章41節で、イザヤが見たのはイエスの栄光を見たんだと言っていますね。
ヨハ12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
何とイエス様がこの地上においでくださる前、700年前に、イザヤはその栄光を見ていた、ということですね。
やがて私達はこの栄光を、目で見ることができる。
今は、キリストの栄光を内的な経験として、心の内側の経験としてこの栄光を知っているわけです。
やがて天の御国に行ったときはこの栄光に包まれるようになる。これは素晴らしいことですね。
⑦ そして第七番目は、「賛美」です。
「賛美」については、これまで何度もお話してきましたので、もはや語る必要はないと思います。これは、全被造物の礼拝を受けるにふさわしいお方である、ということですね。
ここに七つ、キリストのほふられた小羊としてのふさわしさが、記されていたんですね。
Ⅲ.これらの、無数の御使いの軍勢の大コーラスが終わると、
A.次は、全被造物の賛美が続いていくわけです。
天の御国では讃美から賛美ですね。素晴らしいなあと、思います。マスクワイヤ―がいっぱいあるわけです。御国の賛美というのが、私達にはこれで想像つくわけです。
1.13節に「地の下」というのがありますが、これはハデスのことですね。
すなわち、主にあって死んだ人のいる場所です。まだ復活をする前ですね。イエス様にあって、この地上の生涯を終えた人のいる場所です。
ここからも大讃美がわき起こってきます。
これは素晴らしいなと思いますね。ハデスにいる人は、今か今かと待っているわけですね。讃美のときを、賛美したくてしょうがないと。
この大讃美がわき上がっている。
天と地と、ハデスも海にいるものも、大コーラスに加わったのです。
この時にこのコーラスに加わる事の出来る人は幸いです。
加わらなかったら大変ですよ。加わらないということは、滅びの国で後悔と苦しみに悶えていることになります。
B.この人々の賛美は、御座におられるお方と、小羊に向けられていますね。
12節では、ほふられた小羊だけでありましたが、13節では御座にすわる方と小羊ですね。
そして「賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
この「永遠にあるように」というのは、永遠の永遠にわたって、という意味でありますね。こういう言い方は、いかに被造物が、この讃美をしている人たちが、力を込めて、力を尽くして賛美しているかが分かります。
今はこの力を尽くすというのは、非常に少なくなっていると思います。
力を尽くした賛美、ぜひ私達はパワフルな賛美を歌いたいと思いますね。天の賛美は、蚊のなくような讃美ではないとおもいますね。
これは本当に力を尽くして、永遠の永遠にわたって、この賛美を捧げよう。
C.そしてその後で、四つの生き物が「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して拝む。
天の御国に行きますと、一つのパターンがあるようですね。
礼拝をして、アーメンと言い、ひれ伏して、また賛美が起こる。
その礼拝は、また賛美に繋がる。
イエス様を信じる信仰って何なんだろう、っていうと、私達は一言でいうならば、これだっていうことができる。つまり賛美と礼拝の姿、これがキリスト教だっていうことができますね。キリスト教そのもの。
私達の信仰も、是非ここに到達させていただきたい。もはやここには議論はない。
どうかこの素晴らしい大コーラスに、私達も加わる者に、是非させていただきたい。
お祈り
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
恵みの深い天の神さま、私達のような者にも、あなたはその恵みを与えてくださり、このコーラスに加わることができるように召していてくださることを覚えて、感謝をいたします。
今、この地上にありますが、どうか私達の心の目が開かれて、ほふられた小羊と御座におられる方に向かって心から賛美し、また、私達がこの地上にあってもあなたの恵みに満ちた生涯を、どうぞ送らせてください。
そして、信仰の目が開かれて、深い悟りを与えられ、神の道を歩み、主のみもとまで行くことができる信仰を全うさせてください。心からお願いをいたします。
この時を感謝して、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部