音声と文書:ヨハネの黙示録(39) もう一つの巨大なしるし 15:1~8

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PDF文書:ヨハネの黙示録(39)

ヨハネの黙示録 15:1~8
15:1 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。
15:2 私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。
15:3 彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。
15:4 主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
15:5 その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。
15:6 そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。
15:7 また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。
15:8 聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、入ることができなかった。【新改訳改訂第3版】

中世にフランスで出版されたヨハネの黙示録の彩色写本「Cloisters Apocalypse(クロイスターの黙示録)」の挿絵「Angels receiving seven bowls(天使たちは7つの鉢を受け取る)」(1330年頃の作、Wikimedia Commonsより)

はじめに

(1) ヨハネの黙示録の15章まで進んできましたが、15章は予告的審判ですね。そして、最後的なものになるわけです。ですから、「最後の七つの災害」と書いてあるわけです。

(2) 最初の方でもお話しましたけれども、ヨハネの黙示録はサイクルがあるわけですね。同じ出来事ですけれども、サイクルがある。
この15章からは第三のサイクルの終わりに、丁度当たっている、ということですね。
で、この後16章では、七つの鉢のさばきが語られている。ですから最後の七つの災害というのは、この七つの鉢のことであります。
そして17章に入りますと、ヨハネの黙示録の最後のサイクルが始まる。
ですから、いよいよ第三サイクルの終わりに来ました、ということです。

(3) 七つの封印から始まりまして七つのラッパと続いてきて、七つのさばきのシリーズのさばきの予告も、最後の七つの鉢のさばきで最終になります。
16章から七つの鉢のさばきが始まりますので、15章はその序論的な役目をはたしています。

(4) もう一つ15章がもつ意味は、これは何度も出てきましたけれども、七つのシリーズのさばきの中には、必ずさばきとともに救われる者の天での喜びとか希望のメッセージが入っている、ということですね。
例えば7章の白い衣を着た大群衆、10章、11章では開かれた巻物と二人の証人、14章では贖(あがな)われた人々が出てまいりました。これは7章の白い着物を着た人と同じ人でありますが、こういうことを学んできたわけです。いつもサイクルの中で、7つのわざわいですね、必ず希望が含まれておる、ということがお分かりいただけたと思います。

七つの鉢のさばきの後はすぐに大バビロンの滅亡が続いていますから、いつものようにさばきを書いたそのあとに希望を書く、というわけにはいかないわけですね。雪崩(なだれ)をうつように、最後の警告的さばきから大バビロンに続きますのでね。弾みがつくわけですので、間にちょっと途切れてしまいますと、文章としては途切れて効果が少なくなってしまうと思ったんでしょうね。
ですから、救われた者の喜びと希望というのがいつもとちょっと違いますが、七つの鉢の予告の前に置いている、ということです。

何はともあれ、ヨハネの黙示録というのは神様のきびしいさばきと怒りを記しているんですが、そこには決して救われる者に対する神の憐みは忘れられていない、ということです。これは非常に大事な事であると思うんです。
もし、ヨハネの黙示録で、神の憐みとか救われる者とかを全部取り除いてごらんなさい、絶望です。この世はぞっとする。
ですから、ここはやはり大いなる神様の憐みが書かれている。
預言者ハバククが祈っていますね。こういうところに現れているなあ、ということが分かるんです。旧約聖書にハバククというのがあります。ゼパニヤ書というのがありますから、その前です。

ハバ3:2 【主】よ。私はあなたのうわさを聞き、【主】よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。

ここに、「激しい怒りのうちにもあわれみを忘れないでください。」とありますが、実はこれは神様のご性質なんですね。神様は最後のさばきのような厳しい状況の中でも、決して神の忠実な神のしもべたちを忘れておられない、ということです。
私たちは祈っている時に、何をしても神様が応えてくださらないと、私たちは忘れられてしまったかのように思うことがしばしばありますが、たとえ親がその子を忘れることがあっても、神様が神の民を忘れることは決してない。

イスラエル民族が430年間エジプトの奴隷生活をして、忘れられたのではないかと思ったり、バビロンでもそうです。70年間経つと、エレミヤが、神様が回復してくださる、と言っても、そんなことあるだろうか、神様は私たちを忘れてしまったのではないかと思う人が大勢いたわけです。
で、そこにエゼキエルという人が来て、神様は必ず回復してくださるんだ、と言ってもですね、希望の預言をしても、だあれも信じない。だらだらと堕落していく人を止めるのは難しいんです。だらだらと絶望している人を引き上げるのは大変なんです。

ですから、私たちは、親がその子を忘れることがあっても、神様が私たちを忘れることはない。ダビデもそう言っていますね。たとえ私の父母が私を忘れることがあっても、神は私を捨てないんだと、こう言っています。
このことを私たちは深く覚えておきたいと思います。忘れてはならない。これが、15章の記している意味ですね。
本当に厳しいさばきの中に、神様は希望と喜びを与えてくださる。

Ⅰ.さて、15章に入っていきたいと思います。

A.第1節を見ていただきますと、ヨハネは、「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。」と書いています。

ヨハネの黙示録の一つの特徴は「見た」ということですね。幻を「見た」
ギリシャ語が分かればですね、「見た」という言葉はどういうふうに言われているのか研究してみるのもいいと思うんですね。時間がないからできませんけれどもね、一つ一つ違った言葉を使っている。
ヨハネは今まで何度も幻を見てまいりました。これをずうっと続けているうちに、彼自身自分が見ている幻が、実際に何を意味しているのか、が具体的に分かり始めてきたわけです。ですから彼はこういう言葉を語ったわけですが、私たちにもよくそういうことがあるんですね。

いろいろなことをを教えられます。一応分かったつもりになっている。しかし何度も何度も繰り返し、やったり学んだりしている、あるいは実際に自分の手でやってみることによって、また、経験してみることによって、自分が理解したことよりもずっと深い意味があるということに感動を覚えることがありますね。ヨハネもそうなんです。
最初は確かに、これは神様のさばきの幻なんだ、ということは覚えていたんです。それは分かっておったんです。それがだんだんと回を重ねていきますと、本当に腹の底から分かる感動に到達したようですね。ですから、彼は、これは単なる思想とか、歴史的な事実ではなくて、これは神的な神様のさばきなんだと、究極な理解に到達したようです。
私たちも神学的に学べば、歴史的にこうなるとか、ああなるとか分かると思いますが、しかしそれでも本当には分からない。さばきの中に自分自身を置いてごらんなさい。これは別の違った意味で分かると、思うんですね。どちらかというと、私たちは評論家的な分かり方しかしていないことが多いんです。
ここでヨハネは、「驚くべきしるしを見た」と言ったんです。彼は、これは「しるし」なんだ、と言っているんです。ただの幻ではなくて「しるし」だと。幻の意味することが十分に分かった。だから、「神の怒りがここに窮まる」と言っていますね。

B.さて、このヨハネが見た幻、「七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。」と書いてあります。

なぜ「最後」なのか。

これは、神様からヨハネに教えられなければ誰にも分らないことです。
何が来るのか、いくつ来るのかなんて分からないわけですから、これが最後であるということは、明らかにヨハネが神様から教えられたということです。その啓示を受けたということですね。しかし、この最後という言葉は、あとに出てくる白い御座のさばきのことではないようです。
このさばきとは、警告としての最後のさばきの幻のことですね。最後の災害というのは警告としてのさばき。神様は憐み深いお方ですから、1回だけ警告して、あと刑罰を与えるというお方ではないんですね。何度も忍耐強く警告してくださる。

これは神の憐みなんですけれども、だんだんと人間はそれに慣れてしまって、何度言っても神様は刑罰を下さないんだ、本当は裁かないんだ、とこういうふうに思いやすいわけです。
子供たちと約束するとき、3回やるとお尻をひっぱたくよ、と区切っておかなきゃならない。1回目、2回目はやられなくて言葉だけで済む。3回目にやらなかったら嘘だと思われますから、「ハイ、ズボン脱いで」、バーンとね。本当だって分かるわけですね。100回目に本当にやるよ、なんて言ってもこたえないですね。
神様も私たちに対して、最後の神の警告があるということを教えておられるんですね。ですからいつまでも躊躇(ちゅうちょ)していたり、不服従であったり不従順であったり反抗しているならば、必ず裁かれることになるということです。
人間というのは、ずる賢いところがあります。最後のさばきの前までずるずるやっているということが多いんです。ですから最後の警告が来る前に、できるだけ早く悔い改めてね、神に忠実でありたいと思いますね。

これまでは7つの封印、7つのラッパの警告がありました。
そして、ここで7つの鉢の最後の警告、3×7=21回の警告が来るわけですからね。どうでしょうか、みなさん、21回の最後だなんて、毎回「最後だ、最後だ」と言っている人がいますけれども、「これが最後だぞ」と言いながら、何回も何回もやっている。こういうのはあまり効果がない。
この三つ、封印、ラッパ、鉢、のさばきを見ますと、同じ意味の警告を持っているようですけれども、各々、違った意味を含んでいるんですね。
すでに学んできましたけれども、封印は、歴史的な意味で世界にもたらされる審判を表しているようですね。歴史的な意味を持っているんです。
それからラッパのさばきは、終末に厳しい苦難が起きるということを表しているようですね。終末期の厳しい苦難。
そして、最後の鉢のさばきは、ヨハネが言っているように、一挙に終わりに至らせるところの強力な最終的審判である。まだ警告ですがね。これで終わりになる。

ですからヨハネは、「神の怒りはここに極まる」と言ったわけですね。どっと来るということです。ヨハネはさばきの一つひとつの意味だけではなくて、一連の関連性あるいは発展性というものも理解していったんですね。段々と何度も神の幻を見ているうちに彼は悟ったんですね。
私たちも聖書の言葉を何度も何度も読んでいるうちに、段々分かってくる。最初は断片的です。そのうち、段々つながって点が線になり、線が面になり、面が立体になってくる。通常警告というのは、段々と厳しさを増していくわけですね。そして最初の警告において神に従うのが賢いということが分かる。最後の厳しい警告で従うというより、最初から神に従うというのが良い、ということを教えてくれているわけです。

Ⅱ.ヨハネは、これから厳しい神のさばきを語る、その前に、ここで、神に贖(あがな)われた者の違いがちょっとあるんです。

救われた者の喜びと希望の賛美を記しているわけですね。
これから最後の厳しいさばきが来ますよと言っておいて、2節から、神様を賛美することが記してあるわけです。

A.彼は2節で、「火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。」

これまでも見てきたように、この厳しいさばきを記せば、神によって救われた者でも恐怖を覚え失望するかもしれない、こういう事のための配慮であったわけです。「ガラスの海」というのは4章の6節でも出てまいります。ちょっと見てみましょうかね。違いがちょっとあるんです。

黙4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。

ガラスの海が、神様の御前に広がっているのを言っているんですね。ガラスの海だから波が立っていない、ということなんでしょう。
これは海にしては変じゃないか、という人があるかもしれませんが、これは神の尊厳を表しているんです。
神様の御前に透き通るような海、海といっても私たちが見る大平洋とかそういうような海じゃなくてね、これはソロモンが神殿を建てました時にね、「海」という銅で造った水盤があるわけですね。そこに水を入れて体を洗ったりした。
それは水が入っているわけですけれども、ヨハネはそれを思い出しているわけですね。
私たちが考える海っていうのは江の島あたりの海だと思いますが、ヨハネが言っている「海」はそういうのじゃない。神の前に広がっている。

4章の6節では「水晶に似たガラスの海」とありますが、15章2節では「火の混じった、ガラスの海のようなもの」と、ちょっと違ってきますねえ。
前の方は「水晶」という神の聖さを強くあらわしているようです。15章2節では「火」が混じっておる。終わりの方を見ますと「煙」のようなものが出てまいります。これは明らかに神の尊厳の中から、悪しき者に対する神の怒りが現れ始めているということを表しています。

B.そしてこのガラスの海のほとりには、ある人々が立っていたわけです。

「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。」
「獣」というのは、サタンに支配されているこの世の権力者のことを言っているんですね。おそらくこれは政治的権力者でしょうね、海から出てきた獣と地からでてきた獣と2種類いたわけですね。その海から出てきた獣を拝ませようとしたわけですね。
この日本でも戦時中行われたわけですね。神社礼拝とかいろいろ強要した。
彼らは拝まなかった。「666」、獣を表す数字に打ち勝った人々である。
神につける人、これは贖(あがな)われた人。真の教会、あるいはサタンが立てた神に反抗する強力なこの世の権力者、権力組織に勝った人ですね。

今でも独裁主義者が世界にはいますね。この間もニュースを聞いていましたらね、中国を改革するのはなかなか難しいのではないか。それはどうしてかというと、一つは共産主義を勝ち取った人間がね、まだ生きているということなんですよ。鄧小平さんなんかその一人なんでしょうがね。ああいうのが生きている限り、民主化するとね、自分たちがやったことが無意味になるんじゃないかと、無駄になるんじゃないかとね、そういう気持ちがあるからなかなか難しいんだっていうんですね。あと10年か20年してそういう人がいなくなれば、また変わるんじゃないかという話なんですけれども、さあ、どういったことでしょうかね。

ここに立っている人はみな、勝利を得ている人です。打ち勝った人々。
クリスチャンというのは勝利者であるわけですね。
現在、クリスチャンとか教会は、力のない人、力のないもののように見られていますが、クリスチャンは決してそういうものじゃない。イエス様を信じる信仰はこの世に勝たせる力を持っている。

ヨハネがそう言ったでしょう。ヨハネが、「世に勝つ信仰」と言いましたね。ちょっと読んでみましょうか。ここでヨハネが教えているでしょ。クリスチャンは勝たなきゃいけない。ここには勝利者のことが書いてあります。

Ⅰヨハ 5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

これしか勝つ方法がない。だからクリスチャンの信仰というのはこの世に勝つ。クリスチャンと教会が明確にイエス様を信じていれば、勝てるわけです。
その信仰を失い始めると、弱々しく力のないものになっていく。教会とクリスチャンが力がなくなってきた、ということは、信仰がなくなってきている、ということを意味しています。
信仰が盛り返してくると、勝つ。キリスト教の歴史を見てみますとね、迫害を受け続けたのはクリスチャンですね。よくここまで辿ってきたな、というのは、一つにはその信仰の力を見せつけられるわけです。世の中が平穏無事になってきますと、信仰はいらなくなっちゃう。そうなるとクリスチャンは非常に力がなくなってくる。そしてこの世に飲み込まれてしまう、妥協してしまう。こういうことが何度も繰り返されているわけです。
勝利者のみがこのガラスの海のほとりに立つことができる。ガラスの海というのは神の御前、ほとりのことですね。

C.さて、3節を見ると、「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。」と書いてありますね。

ここに「モーセの歌と小羊の歌」という歌の題がついていますが、これはいくつかの理由があるんですね。

1.一つは、「モーセの歌」という時に私たちがまず思い出すのは、出エジプト記ですね。

イスラエルの人が紅海を渡った時の勝利の歌があるんです。これは出エジプト記の15章、長いですから全部読むことは省略したいですが、そこで、彼らは「モーセの歌」を歌っているわけです。タンバリンとかなんとかで歌っている。
モーセに率いられたエジプト脱出というのは、象徴的な意味もあるわけですね。これはイエス様の救いの御業を表すものである。ですからその本体である「小羊の歌」というのは、ここに並べられても不思議ではないわけです。「モーセの歌」というと、出エジプト記の15章、このエジプト脱出の生活から救われた喜びの歌である。

それからもう一つ、イザヤ書の51章9節~11節でも、出エジプトの出来事と最後の救いとが並べられていますが、これも、一つも不思議ではないわけですね。

イザ 51:9 さめよ。さめよ。力をまとえ。【主】の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。
51:10 海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。
51:11 【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

こういうのをヨハネは知っていたわけですね。ここには出エジプトの出来事と、最後の勝利と重なっていっているわけですね。預言というのはこういうものなんです。なかなか分かりにくいですけれどもね。

ヘブル語というのは非常に便利な言葉なんですね。一挙に何千年でも飛んでですね、預言をすることが出来る。非常に素晴らしいですね。
だからね、この世の中には無駄に言葉があるんじゃないわけですね。ヘブル語は神の預言をするのに最も適した言葉であると言われています。ギリシャ語は神の御業を表すのに最も適した言葉であると言われています。ですから新約聖書はギリシャ語で記されている。
ここを見ますと、紀元前1500年ごろに脱出しました出来事。またこれから先においてですね、神が最後に人類を贖おうとする。偉大なことだということですね。
「ラハブを切り刻み」、ラハブというのはエジプトの勢力をあらわしていますね、竜も同じでしょうね。

2.そのほかにも「モーセの歌」というのは旧約聖書の預言書だとか、詩篇を思い出させるような言葉がたくさん使われている。

今日はその一つ一つを開いて読む時間がありませんけれども、例えば、
「あなたの御業は偉大であり驚くべきものです」
こういうのは詩篇の111篇の2節とかですね、あるいは98篇の1節とか、139篇の14節とかですね、使っているわけですね。

詩111:2 【主】のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。

詩98:1 新しい歌を【主】に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

詩139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。

それから皆さん学んでいくと分かりますが
「あなたの道は正しく、真実です」
こういうのは何度でも出てくるでしょ。詩篇の145章17節、申命記の32章4節、このあたりですね。

詩145:17 【主】はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。

申32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

あなたの道、というのはみ言葉のことです。15章4節で

15:4 主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」

「主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。」
という言葉が出てきます。こういうのはエレミヤの10章7節とか、詩篇86篇の9節に出てまいります。探してみますともっとあると思いますよ。

エレ10:7 諸国の民の王よ。だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。

詩86:9 主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。

それから最後の「あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」という言葉がありますが、これは詩篇の98篇の2節、イザヤの26章9節にも出てまいります。

詩98:2 【主】は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現された。

イザ26:9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。

ですから「モーセの歌」と言われているんですね。それは本体である「小羊」、イエス様の救いを表している。ですから両方くっつけた、ということですね。

この贖われた人の賛美は、よく見ますと一つ大きな特徴がある。
ここを見ますとね、自分が何かしてもらったから賛美しているというのは一つもないわけです。
全く神様に魅了されているというか、没我的というか、我を忘れて賛美しているんです。これが本当だと思いますね。
皆さん天国に行ったならば、私たちはきっとこうなります。
地上にいる時代に神様にあんなことをしてもらいました、こんなことをしてもらいました、なんてあんまり気にならない。他の人が、あの人ずいぶんいいことしてもらったんだな、とそういう人が出てきても私たちはそういうことが気にならない。

ではどんなことを賛美していたのかというと、
(1)「あなたの御業は偉大です」神の御業の偉大さを賛美していますね。
(2)「主であり万物の支配者である」ことを賛美しています。
(3)「あなたの道は正しく真実です」神のみ言葉の真実さを歌っているんです。
(4)「聖なる方」
((5)「あなたの正しいさばき」を賛美している。

ですから贖われた人というのは、神様の御前に立った時、神の栄光に心が奪われてしまう。
最近心が奪われるという経験がなさすぎますね。素晴らしいことをあまり経験しないから。
ですからこういう神様にお会いしましたなら、ここに来た人はみんな殉教者ですけれども、自分たちが迫害を受けたり、殉教して、苦しかったことや忍耐しなければならなかったことがたくさんあるわけですけれども、これが全部小さいことのように思えてきたわけです。
それも取るに足りない小さなことですが、私たちが地上にいるときは、乗り越えなきゃならない一つひとつが、大変なように思えるんです。ところが神様の御前に立つと、もはやそんなことはどうでもよくなっちゃうわけですね。
そしてひたすら神様を賛美したい。無条件で賛美して。これが、ま、魅了されるということでしょうかね。

神の偉大さ、神の聖さ、神の正しさ、神の真実さ、神様だけをひたすら歌っている。
讃美歌の中にもいろいろあります。神様がこんなことをして感謝します、あんなことをしてくれて感謝します、こういう讃美も素晴らしいですね。
もっと素晴らしいことは何かというと、神様が何もしてくださらなかったということはないんですけれどもね、神様がこうしてくださったから歌うというのではなくてね、神様に魅了される、という讃美もある。やがて私たちが天国に行くと分かる。

あんまり自己意識にとらわれて、自分に心が向けられていると、なかなか真の賛美が出来なくなってしまう。
証を聞いていると『あの人はいい目をしているなあ、あういうふうに祝福されたらいいな。私はまだそこまでいかない。』とか、いつも引け目を感じていたりしていますね。あんまり神を賛美しないんです。
私たちは神様がどんなお方か、どんなに素晴らしいお方であるか、こういう賛美を見ることが出来る。それが没我的と言っていいかどうかわかりませんが、我を忘れて賛美する。
神を賛美しているというのは、この贖われた人達のの賛美であります。

Ⅲ.2節~4節までは賛美で、1節の巨大なしるしの幻が中断されましたが、5節から再び始まるわけですね。

こういう大きな喜びと希望を記しておいて、さらに警告に入るわけです。

A.ヨハネはここで、「天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた」のを見ております。
1.「あかしの幕屋の聖所」と書いてありますので、旧約のソロモンが建てた神殿の聖所ではなさそうですね。

これは荒野の幕屋の聖所を思い起こしているようです。神殿というのはソロモンの時代、ずいぶん制度化されていた面が強かったわけです。ですから最も素朴で天に近い臨在を表すものとして、ヨハネは、荒野の幕屋の方がいいのではないかと考えたのではないかと思うんですね。

普通の人が考えると、ソロモンが建てた金ぴかのね、金ぴかですよ。パーレビ国王はお風呂もトイレも金ぴかで造っていたという話を聞きましたがね、ソロモンはそんなことではないんです。彼が座っていた椅子は象牙でできていたとかね、いろんなものが張り付けてあるわけですね。とにかくこの聖書を読みますと、銀はもう安すぎてどうにもならない、と書いてあるんですね。普通の人間が考えると、金で張り付けてある方が、素晴らしい神殿であると思うんです。

ところがヨハネは、神の臨在に近いのは荒野の幕屋の方だったようですね。私はこういうのが好きですね。ヨハネという人は神様が分かる人だなあと思うんです。
ここはもちろん荒野の幕屋のことではなくて、天にある聖所のことであります。天の臨在を表している。
幕屋を使ったのは、ヘブル人の手紙によく出てまいりますが、イエス様の大祭司としての「職分」をお話ししようとしているからですね。幕屋にも大祭司がいるわけです。

2.聖書中に「天が開かれる」というのが何度かあるんですが、「天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。」

聖書を見ますと聖所が開いたり閉まったりしている。
マタイの福音書3章16節を見ますとね、イエス様がバプテスマを受けられた時、「天の窓が開かれた。」
聖霊が鳩のごとく下ったというのが書いてありますね。天が裂けた、と書いてありますね。そういうものかなあと思うんです。
ステパノが殉教した時も天が開けていますね。
「使徒の働き」を見ますと、7章の56節、「人の子が神の右に立っているのを見た。」、ちょっとだけ開くんですよ。
さっきもモンシロチョウが飛んでいて、「アーッ、飛んでる」と言った時はもういないんです。だから、うっかりキョロキョロしていたら見えないんですよ。ちょっとの瞬間しか開かないんですね。

ヨハネの黙示録を見ると、4章1節で天の門が開いています。11章の19節でも天にある神の神殿が開かれています。ですからだんだんと天が開かれる度合いが大きくなってきましたね。これはずうっと開きっぱなしではありませんよ。最後の人が入ったら閉じちゃうんですから。
イエス様が、聖書に書いてあるんですよ、あとから行ってドンドン叩いてね。マタイの福音書25章あたりですかね。愚かな乙女が行って、乙女ですよ、叩いても入らせてもらえない、というのが出てくるんです。ずうっと開いているわけじゃない。
しかしここではちょっと開いたようですね。ここは入るためではなくて、出るためです。

B.6節でその聖所から 「七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。」

14章の17節でも天の聖所から御使いが出ています。これは神の伝令者、メッセンジャーですね。

1.七人の御使いは、1節では、最後の恐るべき災害を携えてきた。

これは神の義を表しているんですね。神様の正しさです。神様がさばこうとすると、いつもその義が基準になります。彼らが身に着ける物によってそれが分かってくる。
6節をみると、「彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。」
ここに「亜麻布」という言葉が出てまいりますよね。亜麻布というのはギリシャ語ではリノンという言葉を使っているようです。別の写本を見ますと、リソンと書いてあって、リソンというのは「石」という意味ですね。
「リノン」「リソン」の間にはね、一つの音しか違わないわけです。どうしてこんな違いが出てくるかというと、いつかもお話したかもしれませんけど、写本を作る時は、当時は迫害のさなかでありましたから、一人の人が読み上げて、何人かの人が書くわけです。ですから、「リノン」といっても「リソン」と書いてしまうこともある。音で聞いて書いていますからね。
だから写本で少し違いが出てくるんです。ですから、「亜麻布」と書いた人も「石」と書いた人もいるわけですね。
日本語でもそういうのがあるでしょ。「橋」を渡ったのか、「右端」をわたったのか、違うわけですね。漢字で書くと「橋」と「端」と意味の違いが出てきますね。
しかしどちらにしてもそう意味は変わらない。光輝く「石」は宝石ですね。亜麻布でなくて、宝石であったにしても変わらない。これは神の聖い神の義を表しているんですね。胸に締められている金の帯は神の権威ですね。
ですからこのさばきを携えてやってきた御使いは、神の義を携えてきた、神の義を表すためにやって来た、ということが分かります。

C.次に、「四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。」とあります。

四つの生き物が出てくる。久し振りに出て来たな、という感じがするんです。最初のころはしょっちゅう出て来ましたが、神を礼拝するところではね。
「永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢」を御使いに渡しています。

1.このあたりもなかなか難しい表現をしていますね。「鉢に怒りが満ちた」と、どういうふうにしているのかなあと、思うんですね。

水が満ちるならわかるんです。金魚鉢に水がいっぱい入ってね。
「御怒りを満たして」いるというのは、旧約聖書を見ますと、神様が罪人をさばく時にはね、盃にね、日本の盃は小さいんですけれども、大きな器に入れて、そしてどうなるかというさばきが旧約聖書の中にあるんですね。そこから来ているわけですね。

2.ここでは「永遠に生きておられる神」と強調しているんですね。

つまりこれは、神以外の物はすべて被造物である。神のさばきの立場にある、ということなんです。この強調点は、先の「モーセの歌」「小羊の歌」に相通じるものがあるんですね。
万物の支配者である。他の物はすべて被造物であって、神の前に平伏すもの、絶対的な主権をもってさばかれる、ということですね。

今朝も聖書を読んでいましたらね、神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神であると書いてあるんですよねえ。凄いなあと思います。このお方が怒りに満ちた鉢をもって来たなら、どういうことになるだろうか。
私も子供のころ親父が怒ると、怖かったですねえ。「怒りに満ちている」、というのはあのことかあ、と思いましたけれどもね。神様が怒りに満ちたら、止めようがありません。
私が叱られているとね、産婆さんが来て、私の父親は「実(みのる)」っていうんですがね、「ま、こらえてやってください」ってね、何度も何度も頭を下げて勘弁してもらった経験があるんですが、神様が怒りに満ちたら、もうどうしようもないんです。
それも「七つの鉢」に満たしてやってきた。この金の鉢というのは、かつては香がいっぱい盛られて、小羊の前に礼拝するときにもこの鉢が使われているわけですけれども、今度は怒りの器として用いられている。

3.それが「七人の御使いの手に渡された」ということは、いよいよこのさばきが始まることを表している。

これは将来的なことですが、やがて現れるわけですね。どういう形になって現れてくるのか、私たちはよく目を皿にしておかなきゃいけないと思います。
ウェスレーという人がこう言いました。『わたしが、新聞を読むとき、世界で神がどのようなことをなさっているか、神の御手を見るんだ。』と言いました。
私たちは今、世界でどのようなことが行われているのか、じいっと見ているだけではなくて、神のさばきはどのように行われるんだろうか、ということを見る必要があると思うんです。

D.第8節に入り、金の鉢が七人の御使いに渡されると、「聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ」た、と書いてありますね。

煙が出て、だんだんくすぶり始めましたね。これは神の怒りが地上に注がれつつある、という印ですね。

1.実はイザヤもこのことを経験しているんです。

イザヤ書の6章4節をご一緒に読んでみましょう。

イザ6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

煙で満たされるというのは他にもあるんですけれどもね、イザヤの経験は顕著ですね。罪あるイザヤが神殿に入っていくと煙が満ちた、というんです。
これはね神様の怒りですね。ああイザヤ、よく来たねぇ、というんじゃなくてね、怒り。神とイザヤの個人的な出会いのしるしであったわけです。
この煙で満たされた結果、イザヤは、「あ、目が痛い」とか言ったんじゃないですよ。イザヤは自分の高慢さ、自分の罪深さを知って、「ああ、私はもうだめだ、唇の汚れた者」とこういうふうに言っていますね。これに気付いた、ということですね。この煙の効果です。

2.ヨハネの方に帰りますけれども、ヨハネは「この災害が終わるまでは、誰もこの聖所に、入れなかった」と言っています。

このことからどんなことが分かるかといえば、

(1) 第一に、イエス様によって神の愛が示されていなかったら、だれもこの天の聖所には入れない、ということですね。幸いにしてイエス様は私たちのために十字架にかかって、神の愛を示されて、天の門を開いてくださいましたから、ここに入ることが出来ます。

(2) 第二に、この煙がたち上っているということは、神様の愛が示されているにも関わらず、なお罪と不服従を取り続けている、神に逆らい続けていて、この聖所に入れない者がいる、というしるしですね。

(3) 第三には、この神様の怒りは最終的な拒絶でありますから、人を聖所に引き寄せるものじゃないわけです。

先週、火事がありましたけれども、暑くなったり寒くなったりしますとね、不用心にストーブをつけたことを忘れてしまうことがあるんでしょうね。出かける途中でしたけれども。煙がモコモコ出ていました。私は駆けつけませんでしたけれども、皆さんずっとご覧になっていましたね。

煙は、普通人を引き付けるかもしれませんが、この煙は違うんです。神様の拒絶でありますから。
ですから、このさばきが行われ始まったら、入ることが出来なくなってしまう。神の怒りが始まる前に、救いの福音は語られるべきだということですね。
そして確かに神の怒りが来ることを、私たちは愛をもって語らなければならない。神の怒りのさばきは、愛をもって語られなければならない。
あるアメリカの牧師が、彼は説教の度に神のさばきを話した、というんです。しかも彼はいつも泣いていた、というんです。泣きながら彼は説教した。奥さんがこう言った。『あなた、泣いて説教するなんてみっともないからやめなさい』。
そうしたら泣かなくなった。そうしたら誰も信じなくなった、っていうんですね。涙を流せばいいってものではありませんけれどもね、しかし、神のさばきは、涙をもって語らなければならないと教えている。

神のさばきが始まったら、愛も救いも憐みもなくなってしまう。ただ怒りとさばきしかない。8節はそのことを言っているんですね。
「七つの災害が終わるまでは、誰もこの聖所に、入れなかった。」
災害が終わったら入れるっていう意味ではありません。
こうしてヨハネは簡潔ではありますけれども、暗たんたるこの恐るべき光景を話したわけですね。
しかし、これもまた最後ではない。準備的なものですね。16章に入るといよいよこのさばきが執行されていく光景が始まる。
私たちはこれらの記録を、ただの学びのための材料として終わらせてはならないと思います。
やがて私たちが直面する場面であることを覚えて、毎日の生活を営ませていただき、私たちも神の御前に立って、ガラスの海のほとりに立てたら幸いですね。ほとりを見渡していなかったらこれは大変です。
どうか、私たちも神の御前でさばかれる被造物であることを深く自覚したいと思います。私たちは創造者じゃない。創られた者であるということですね。へりくだってこの生涯を送らせていただきたいと思いますね。
願わくは、「モーセの歌」「小羊の歌」を心の底から歌うことが出来る者とさせていただきたい。

お祈り

あなたの御業は偉大であり、驚くべきものです。
恵みの深い天の神様、イエス様の大いなる御業がありまして、私たちはあなたのみ救いに入れていただき、やがて、私たちがあなたの御前にある、このガラスの周りに立てるように主が招いて下さり感謝をいたします。
しかし、神のさばきが必ず下ることをヨハネは語ってくれました。この後、最後の極まるほどの怒りのさばきが来ることを警告しています。どうかこのことを悟らせてください。
周囲を見ますと、このような警告があることすら知らないで過ごされている方もあります。どうか願わくはこのさばきが来る前に、イエス様、あなたの福音が伝えられて、あなたのもとに立ち返ることができますように、イエス様が私たちを用いてくださいますように、心からお願いをいたします。
この時を感謝してイエス様の尊い御名によってお祈りします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明