音声と文書:ヨハネの黙示録(40) 七つの鉢(1) 16:1~7 第一~第三の鉢

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PDF文書:ヨハネの黙示録(40)

ヨハネの黙示録 16:1~7
16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
16:2 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。
16:3 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。
16:4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。
16:5 また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「今いまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。
16:6 彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」
16:7 また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」【新改訳改訂第3版】

上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532年頃に描かれた「Das Ausgießen der sieben Zornesschalen / Die ersten sechs Plagen(怒りの7つの鉢をぶちまける / 最初の6つの疫病)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)


はじめに

「七つの鉢」が出てまいりますが、今日は最初の三つを学んでみたいと思います。

16章からは最後の七つのシリーズになるわけです。「七」というのは神様の完全数であります。「七つの鉢」のさばき、神様の警告が始まります。「鉢」はこの前お話しましたが、神の怒りを表している。ここに出てくる神様のさばきの幻は、本質的に見ると、8章から9章に出てきたラッパの幻に非常によく似ているわけですね。そのラッパの幻をもっと詳しくしたのがこの16章である。大まかに言うとそういうことが出来ます。

もう一つ、このさばきの特徴には、ある時はエジプトにおける十のわざわいに非常によく似ている、また、ある時はバビロンの滅亡の時の出来事に非常によく似ていたりします。

これらのことは何を意味しているのかといえば、旧約の時代に行われた歴史的な神の審判というのは、エジプトであるとか、イスラエルであるとか、あるいはアッシリヤやバビロン、こういうのを見ましても、ただその時のことだけではない、ということなんです。

何千年も経っているわけですけれども、すべてのことが神の審判であるということは、これはあらゆる時代に、なんらかの意味において、終末的警告を表している、と言っていいと思います。そのことが、この16章にも現れているわけですね。

ですから聖書を読む者は、その時代その時代の行われた意味だけではなくてね、神のさばきであるならば、何らかの意味においてそれは終末的警告と結び付けられている、ということですね。聖書中の歴史的な出来事というのは、その一つひとつがその時だけに終わっているのではなくて、聖書全体において意味をもっているということを悟らなければならないわけです。

Ⅰ.さて、ヨハネは16章1節で、「聖所から語られた大きな声を聞いた」と言っています。

A.これまでも「聞いた」という言葉は何度も出てまいりましたがね、しかし、「見た」という方が圧倒的に多かったわけです。

ところが16章では「聞いた」ということが中心になっているわけですね。1節に「聞いた」と書いてあるでしょう。5節にも「聞いた」、7節にも「聞いた」、17節は「言った」とありますが、言ったというのは「聞いた」ということですね。これは何を意味しているのか。
普通、私たちの経験からしますと、「見る」ということは遠くからもできるわけです。ところが「聞く」ということは、ある程度近くに行かなければ聞こえない。聞こえる範囲内の所に行かなければならないということです。

ここで表現方法が変わっている、ということは、ヨハネはこれまで、ヨハネ自身は幻の外部にいたわけです。外側から幻を見ていた。
しかし16章では、ヨハネ自身がもっと近くに行って、宇宙の絶対者であり支配者であるところの神様の臨在の内側に入っているんです。こういうことが分かるわけなんです。ずうっと近くに来て、御使いのすぐ近くにいて行われている幻を見た、というんですね。ですからこの「聞く」という言葉はこれを意味している。
聖書は詳しく書いておりませんけれども、おそらく御使いが案内していったのではないかな、と思われるわけですね。

B.それから聖所から出た「大きな声」は神様の御声ですね。

体を持たない声。しばしばこの声は雷鳴だとかラッパの声のように聞こえていたわけですね。

1.使徒の働き9章でもね、サウロもこの声を聞いている。9章4節~7節でサウロはダマスコにいく途中でこの声を直接聞いているわけです。

使徒 9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

ここにですね、非常に大事なことが言われていると思います。この声はサウロには、はっきり理解される、意味のある声として聞こえているわけです。ところが9章の7節では、同行者はただ音として聞こえた。ラッパの音であるか雷鳴の音であるか、聞こえただけで理解が出来なかった。そしてその声の主も見ていない。
同じ声を聞いたんですが、サウロにはその意味が分かったけれども、同行者はただ雷鳴の音だけのようであった。
ヨハネの黙示録にも何度もそのように書かれているところがありますね。ヨハネも実は同じ声を聞いたわけですね。

2.この御声は七人の御使いに命じています。

「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
ここから注意していただきたいことは、「鉢」はどこに向けてぶちまかれているか、ということですね。第一回目は地にむけられ、第二回目は海、第三回目は川と水、第四回目は太陽に向けて、第五は獣の座に向けてぶちまけられた。第六はユーフラテス川、第七は空中に向けて、とこうなっているんですね。

これはいろいろ意味があるわけですよ。ゆっくりとこれらのことを学んでみたいと思うんですが、明らかに、これまで神が差し伸べられた手、すなわちキリストの十字架の救いを拒み続けた者に対する怒りの審判の命令であるわけですね。

イザヤも預言しているんですが、イザヤの65章2節~7節、イザヤは66章で終わるんですが、この終わりの方でこの預言がある。よく見ますとこれは神の審判のことが言われている。

イザ 65:2 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。
65:3 この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、
65:4 墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、
65:5 「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」と言う。「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。
65:6 見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。──
65:7 山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する」と【主】は仰せられる。

神様の報復。反逆に対する報復、神の愛を拒み続ける者に対する厳しい怒りの報復が記されている、これはただのイスラエルの民に対するさばきだけではありません。同じ神の聖、義に対して、神の御手を拒み続ける者に対する神の激しい怒りの審判が下る。

これが聖所からの声の命令であったわけですね。ここに神様ご自身の声が来ているわけですね。これまでは御使いが代わりに命令するということが多かったわけです。ここでは神様の直接のご命令である。ですからこの審判の活動というのは神の直接の指示によってなされていることが分かる。これは確実であるということですね。
しかもヨハネはこの幻の近くにあって、この審判がまもなく行われ、間近に迫っているという緊迫感があったんですね。

今の時代は終末なんですけれども、クリスチャンはもっとこの緊迫感というのを持たないといけないと思うんですね。韓国人とか中国人はこの緊迫感を持っているんですが、日本人はどうもその緊迫感がないですね。ズルズル遊びほうけているとか、そういうことがこの何十年か続いている。緊迫感を失っている。
私は、韓国の若い女性の方がですね、フランスかどこかで北朝鮮と接触するとか、それも捕まると投獄される、そういう危険なところを、勇敢にやっている姿を見ますとね、大したものだなあと思います。日本人だったら逃げちゃって、自らの安全だけを囲うような生き方をするんじゃないかな、と思うんですけれども、彼らは緊迫感を持って生きておる。

やがて信者や未信者の上にも、嫌が上にも神の審判がですね、肌で感じなければならない時が来るんですが、その時はもはや遅いわけですね。時が遅い。癌ではありませんが痛みを感じたら、もう遅いと言われています。これ気を付けなければいけませんね。
人間の心がますます冷たく、頑固になっている。これは現在急激に悪化していますね。10年前、20年前に比べますとね、人の心は非常に冷たくなっています。イエス様に対しても無関心ですしね、拒絶的ですし、頑なです。

そればかりでなく、やることなすことが普通の犯罪ではなくなってきた。これはもうニュースで聞いている通りですね。女の子が殺されてばらばらにされたり、コンクリート詰めにして海に沈めるとか、こんなことは枚挙にいとまがないほど毎日行われているのを見ると、ただの残虐性というよりも悪魔的なことが、人間の中にあるなあ、と思うんです。
人間を捕らえるだけでは終わらない。悪魔を捕えなければならない。悪魔を捕えるのは神様ですから。世の終末が来たなあと思うんです。これからもっともっと残虐になっていく。人間の残虐性、悪魔性というのが発揮されてくるわけです。
20年前には見られなかったことが、毎日のように行われている。

Ⅱ.さて第2節をみますと、「第一の御使いが、鉢を地に向けてぶちまけ」ています。

「ぶちまけた」と書いてありますが、人間がやけくそでやるようなことですけれどもね、神様が命令して勢いよくやったんでしょうね。怒りが込められているように思いますね。

A.では、このさばきではどんなことが起きたか。「獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。」

これはエジプトの十のわざわいの6番目のものによく似ているんです。
出エジプト記の9章8節~10節をみてみましょうかね。

出 9:8 【主】はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。
9:9 それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
9:10 それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。

かまどのすす、なんて今時あんまりないんですが、昔は釜の下は真っ黒けでしたね。時々タワシとか石でこすって落としていましたが。
この悪性の腫物というのは、これだけで終わっていないんですね、申命記の28章を見ていただきますと、モーセは、神様に逆らう者に対する警告として語っているわけです。28章の27節をみていただきますと、

申28:27 【主】は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。

と、こういうふうにおっしゃったわけですね。これはエジプト人に対して言っているんじゃない。イスラエル人に対して言っているわけですね。35節でもこういわれていますね。

申28:35 【主】は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。

足の裏にも腫物ができるということはあまりないんですが、足の裏より下っていうのはないわけですから、余すところなく腫物になった。実に恐ろしいことであります。

しかしヨハネはここで、なんの驚きも感想も記していないんです。まあ、こんなにひどい状況になってね、エジプトの王様もこれはたまらないといった腫物でありました。それでもヨハネはなんの感想も驚きも記していない。彼は淡々とこの出来事を書き記しているんですね。
これはね、こういうさばきには神の嘆きも憐みもない、ということですね。ヨハネは、これは彼らは当然受けるさばきである、と言っていますね。これは気を付けなくてはならない。神のさばきが始まったら、『ああ、神さま』といってももうだめだということです。

B.この神のさばきを受ける人はどんな人かというと、2種類ある。

獣の刻印を受けている人々、これは黙示録の13章から16~18節に記されています。この世の権力と同調し、キリストを拒む人々であったわけです。

それから獣の像を拝む人。この獣というのは、海から出てきた獣と地から出てきた獣があるわけですね。この世の政治的権力者と宗教的権力者ですね。

教会の歴史を見ますと、興味深いことが分かるんです。最初は、ローマの国の歴史を見ますと、初めはローマの国王、皇帝が権力を持っていた。そしてその下に教皇、法王がいたわけです。ところがだんだん教皇や法王が力を持つようになって、皇帝が法王の下に入れられるようになってしまう。法王が破門するといって、門のところでひれ伏して泣いてお詫びをした皇帝もいるくらいですね。皇帝の力が強くなって、法王の力が弱くなると、また逆転しているわけですね。

ここでは最終的には、宗教的指導者が権力を持っているようですね。そして第一の王、つまり、政治的権力者の偶像を作って拝ませたり、ヒットラーみたいにね。ですからこの世的権力者、これを拝ませる、これに従った生活をするということはこの審判を受ける、ということですね。この世を中心にして生きるということは、この審判が下るということを覚悟しなければなりませんよ、ということです。ですから神様の前では中立的な立場というのはないんです。

イエス様を拒んではいないけれども、無関心でいる、というのは言い訳にならない。私はイエス様を信じないけれども拒みもしない、ということはあり得ない、ということですね。すべての人、人類はキリストの福音を受け入れるか拒むか、あるいは無関心でいるか従うか、そういうのを選ぶ権利は与えられていない、ということです。私たちはイエス様を信じないという権利は、ないということですね。

共産国に行きますと、こういうね、変な権利があるんです。信じなくてもいいというような法律があるんです。中国にしろソ連にしろ信仰の自由というだけにね、どういう自由かというと、信じなくてもいいという自由があるわけですね。これは嘘なんです。
私たちはイエス様から、『あなたはわたしを信じますか』という問いに対して、黙って答えないで済ますということはできない、ということです。答えないということ、無回答であることはキリストを拒絶したことになるんです。

大体人間というのは、答えないということは、反対であるってことなんです。子供たちが返事をしないときに親はどうするんですか?「腹が立つ。何で素直に返事をしないんだ。」
これは頑固に拒んでいると思われるでしょう。それはさばきを受ける対象になるわけです。
私たちはイエス様の『あなたはわたしを信じ、従いますか』という問いに対して、黙って、無関心でいて、何事もなしで済ませるということはできない、ということを言っているわけですね。

私たちはキリストを自発的に積極的に信じて、従っていく者でなければならない。それ以外では、神の怒りを受けないで済ますことは不可能だ、ということです。だから、クリスチャンと言われる人の中にも、神のさばきを受ける人が大勢出てくる危険性があるんです。
私たちがキリストに対してとる態度というのは、必然的にその結果をもたらすということです。イエス様に対してとる態度が、必ずその結果が出てくるということを知っておかなければなりません。そしてその罪の代価としては、いつも悲惨な結果ですね。

人間の人生というのは、そのすべてを通してキリストに対してとる態度を示しているわけです。それが必ず結末をもたらす。人間の人生は神に対する態度である。罪に対する報酬は必ず神の怒りのさばきだということですね。

キリストの贖いなしには、すべての人は逃れることができない。ちょうど私たちは、空気を吸わなければ生きていかれないのと同じように、キリストの贖いを必要としている。
この十字架の救いを必要としているんだ、ということですね。

Ⅲ.さて第3節に移りますと、「第二の御使いが鉢を海にぶちまけ」ています。

第一は地でありましたね。これは人の住んでいるところでありましたが、第二は海。
「海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。」

これはエジプトの十のわざわいの第一に似ておりますね。出エジプト記の7章19節~21節当たりにそのことが記されている。モーセがナイルの川の水を打ったわけです。そうすると、その水がことごとく血に変っておる。私たちにとってナイル川は、ああ、大した川だなあと思うぐらいですが、エジプト人には神であるわけです。ナイル川があって初めて豊穣な穀物を得ることが出来るんです。
インドに行ってごらんなさい。ガンジス川が神ですよ。そこの汚い水で沐浴する。体中にこすりつけたり飲んだりかぶったりね、上流の方でおしめを洗っているか分からないんですけれどもね。

そして魚は死んだ。エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。
ヨハネはここではエジプトのそれよりもっと凄惨な姿を描いていますね。海には人間の死体がプカプカ浮いている。無数に浮かんでいるようですね。そしてその血のゆえにどろどろになった。悪臭を放つ血の海を描いているわけです。

皆さんご存知と思いますが、血というのは固まってくるわけです。そうしますと、海が凝固してくるとヘドロどころではない。海が死の血でですね、凝固してくる。もはや海でなくなってくる。そしてすべての海の生き物が死に絶えてしまう。これはナイル川が血に変ったどころではない。凄惨な姿を表している。
海というのは普通は魚とか海産物を得るところですね。これで海からの食べ物を得ることが出来なくなってしまった。

Ⅳ.4節~7節をみますと、「第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。」と書いてあります。

A.人間は水を飲むわけですが、海が血に変わってしまうと、川や泉に逃げるわけです。そこがまた血に変わってしまった。

エジプト人が、ナイル川が打たれた時に、出エジプト記の7章24節をみますとね、川の代わりに井戸を掘っているんです。そして飲み水をそこから汲みだしているんですね。その泉もダメになってしまった。つまりここでは、神様は飲み水も打たれてしまった。今度、人間は、血しか飲むことができなくなってしまった。だんだんひどい状況になっている。

B.5節~6節。ここで「水をつかさどる御使い」が出てきて、こう言う。

「今いまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」

こんなに凄惨なさばきをなさっていながら、御使いは「正しいさばきをなさった」と。
と言うのは、多くの聖徒たちを迫害し、殺して血を流した者たちに対して相応しい飲み物であるかもしれませんね。こういう意味ですよ。

ここに「水をつかさどる御使い」というのが出てまいりますけれど、聖書では自然界をつかさどっている御使いの存在を示していますね。ずいぶん前ですけれども風を支配している御使いが出てまいりました。あるいは太陽を支配する御使い、雨とか水を支配する御使い。御使いというのは全能ではありませんけれども、人間が住むのに適した自然環境を保つために神様によって遣わされているような存在ですね。

これに対して人間は、自分勝手に自分たちの私利私欲のために、御使いたちの仕事を妨げて自然環境をどんどん破壊してきたわけですね。
私たちもつくづく思うんです。空き地とか野原があると、よくまあ、あんなところによく草が生えるなあと思うくらい生えてきますね。不思議です。

ある人はこんなことを言いました。「もし人間が月で生きることが出来るとしたら、その月をも人間の堕落した性質の故に、ごみの山にするだろう。」
こういうふうに言った人がいますけれども、私は、まもなく人間は本気でね、地球から出る廃棄物の処理場をね、月に建設するんじゃないかと思うわけです。今に見てごらんなさい、それはいい考えだなんて言ってね、月にゴミ廃棄場を作るんじゃないかと思うんですね。特に原子力から出てくるようなものなんかをロケットで打ち上げて、月に送る。月は迷惑すると思いますけれども。

C.次に7節で、「祭壇」が語っておりますね。

この声は、水をつかさどる御使いの言葉に「しかり」、その通りだと言っているんですね。「祭壇」ていうのは一体誰なんだろう。
ヨハネの黙示録の6章9節をみますとね、あ、「祭壇」て、この人たちなんだなと分かるんですが。

黙6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

つまりここに出てくる「祭壇の声」というのは、殉教した聖徒たちの魂である、ということが分かりますね。おそらくこの声は彼らの声でしょう。彼らは、かつては、今、さばきを受けようとしている人々に血を流された人たちだったんですね。この声の主たちは今ここに至って、迫害者たちに下される神のさばきを見ている、と、こういうことです。

彼らはこう言っておりますね。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」この言葉はね、彼らだけが言うことが出来る言葉であったと思います。他の者が言ってもそれは薄っぺらな、表面的な言葉でしかない。彼らは自分の流された血の故に、大いなる力を込めて、感動を込めて言っているわけですね。「あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」と言っています。

体験した者だけが確信と力をもって言うことが出来る。クリスチャンはですね、聖書を生活の中で体験していかなくてはならない。聖書を学んで知っているだけでは、こういうような力ある証はできないわけですね。実際に生活の中で体験しているならば、力強い発言をすることができる。

しばしば、神様が愛ならどうしてこういうむごたらしいことが起きるのか、こういうことにどうして神様は関与するのか、と思ったり、質問されたりする方がいらっしゃいますけれども、それは神について頭の中だけで考えている人だからです。
神様を実生活の中で体験する、実際に信仰を生き抜いている人にとっては、そういうふうな疑問は起きないんです。私たちは、疑問を持つのはただ考えているだけなんです。神様のさばきが真実で正しいということは、クリスチャンの信仰経験が立証することですね。

聖徒たちの信仰経験によって、神が不義であったという結論が出たことは一度もないんです。神様が不真実であったという訴えは一度もないんです。もし神に対して不満を持つ人がいるなら、それは神を経験していない人です。考えているだけの人なんです。信仰生活を実際に生き抜いていけば、私たちは力強い証をすることが出来る。
信仰に生き抜いた人だけが、「神のさばきはいつも真実である、正しい。」、こう言うことができる。全部のさばきが終わっていないのに、この殉教者たちはここでこう言って、待ちきれなかったのだと思います。

どうか、私たちも理屈をいうクリスチャンから、信仰に生き抜くクリスチャンに変えさせていただきたい。どこに力があるのかというと、そこである。
そして、最後のさばきの日に、神のさばきが真実で正しいということを大声で宣言し、告白できるようなクリスチャンになりたいと思います。

今日は、第一から第三の御使いが鉢をぶちまけた。神様の三つの怒りですね。これをご一緒に学んだわけですけれどもね、これらのさばきがやってくるわけです、今もう始まっている。まさに終わりの時が一刻一刻と近づいている。
こういう時に、私たちは、もう一度、ヨハネが緊迫感をもって語っていることを、しっかりと身につけておきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天の神様、このさばきが始まってからではもう取り返しがつきません。恐ろしいことでございます。偶像に仕える者も偶像を拝む者も、この世の権力に慣れ親しんでいる者にも、確実に神の怒りが下ることを、地にも海にも川にもその水の源にも、その鉢が傾けられております。怒りが注がれるということを教えられました。
どうか、私たちの時代は明日も明後日もずっと続くかのように錯覚をしておりますが、神の時が来ればすべて閉じられてしまう。そして神の怒りが始まることをよく知って、主の道を歩む者とならせてください。心からお願いします。
この時を感謝して、また私たちの信仰が私たちの生活の中に生きて、本当に証が力強くなるようにどうぞ顧みてください。
尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明