音声と文書:ヨハネの黙示録(42) 七つの鉢(3) 16:17~21 第七の鉢
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PDF文書:ヨハネの黙示録(42)
ヨハネの黙示録 16:17~21
16:17 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。
16:18 すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。
16:19 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
16:20 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
16:21 また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。
【新改訳改訂第3版】
上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532年頃に描かれた「Das Ausgießen der siebten Zornesschale (第七の鉢をぶちまける)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)
はじめに
「七つの鉢」の七番目のわざわいですね。これは七番目のわざわいというだけでなく、ヨハネの黙示録でずうっと続いてきた、警告的な神のさばきの最後の御業が記されているわけです。
この第七の鉢のさばきは、他のものよりも簡潔に記されています。これは非常に大事なことなんですね。
聖書というのはただ書かれているだけではなく、書かれていないことも非常に大事な意味を記している。
つまり、これが他のものより簡潔であるということは、この後にはもう警告的なさばきはない、ということです。最後のものである、ということです。この次に来るのはもう永遠的なさばきだけになってしまう。
このヨハネの黙示録は、読んでいるだけでは何もわからない。こうしてだんだん学んでいくと分かってくる。
Ⅰ.この第七の鉢は、「空中にぶちまけ」られた。
この前もお話しましたが、鉢がどこに向かってぶちまかれたか、というのが一つの注目点である。最後は空中である。
ここでは空中に関することが言われているでしょ。稲妻と雷鳴、大きな雹(ひょう)なんていうのも空から来るものですね。
「空中」というのが大事な鍵になっている。
ある人は、この空中から来るさばきというのは核ミサイルの「空中爆発」ではないかという人も出てくるわけですね。今のような時代ですから、こういうのも不思議ではない。
しかし、ヨハネの時代には核ミサイルはありませんでしたから、ヨハネ自身はミサイルのようなものをイメージしていたのではないと、思われます。
しかし、昨今は、人類を恐怖に陥れるようなことは空中でたくさん起きているわけです。スペースシャトルが空中で爆発したり、人口衛星が空から落ちてきたりね。カナダにも落ちてきたし、海にも落ちてきているようですね。
チェリノブイリの灰が日本にも飛んできた。チェリノブイリあたりの人口は急激に減っているそうです。赤ちゃんを産まないようにと。産むと非常に奇形児が生まれる確率が高いと言われています。
今や人類のわざわいは空から降り注いでいると言ってよろしい。最後のわざわいは空から来るということですね。この空中から起きる出来事は、人類にとどめを刺すような非常に恐ろしいものである。
1.この鉢が空中にぶちまけられると、「大きな声が御座を出て」来た。
この「大きな声」というのは「力ある声」、「権威ある声」という意味ですから、神の御声だということですね。
しかも「出て」とか「出て来た」と書いてあります。これは聖徒たちへの祝福として出て来た宣言です。
「出て」とか「出て来た」というのは意志を表しています。ただ何となく聞こえてきた、というのではありません。
すべての裁きが終わったなら、後は祝福しか残っていない。これは迫害や殉教によって痛めつけられた、聖徒達への慰めであり、祝福のメッセージの声なんです。聖徒たちは今もなお、この時の神の御声を聞きたい。こんなに忍耐して待ち望んでいる。
しかし、まだこの声は聞こえていないわけですので、これから聞こえてくる声である。本当に忍耐深く待ち望んでおる。
聖書の預言を信じない者は、忍耐深く待ち望むことが出来ない、ということですね。目先の欲を満たすために、人間は神を離れてこの世のものを求めていく。クリスチャンの中にも、そういう人が非常に多いわけです。
けれども聖書の預言は必ず成就している。
創世記の2章17節をみると、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」という預言がされました。それが現在はすべての人の上に成就していますね。神様が語られたことは必ず成就する。
アッシリヤとバビロンによる捕囚をみても、預言者が、イザヤから始めてユダヤ人に警告されたわけです。しかしユダヤ人はあまり信じようとしなかった。その間際でもそうでした。信じようとしなかった。しかしそれは歴史上の事実になってしまった。
神の預言というのをね、聖書に書かれていることを、クリスチャンもいい加減に、ただの教えぐらいに、道徳的教えぐらいに考えていますね。
そんなものじゃないわけですよ。現実に起きてくる。
私は決して冷ややかに見ているわけではありませんけれどもね、本当に聖書を信じている人と、信じていない人では、違っちゃうだろうなあ、と思うんですよ。
ローマのタイタス(ティトスともいう)がエルサレを占領したとき、紀元70年にね、、クリスチャンの中にもイエス様が山の方に逃げるんだ、と言われたことを信じなかった人がいるわけです。
信じている人はすぐに山に逃げた。遅れた人は逃げられなかった。そして滅んだんですね。だから聖書の書かれていることを、何気なく読んでいてはダメだと思います。
やがてその時が来た時、遅れたらもうおしまいなわけです。
それからエレミヤによって、70年後にはバビロンからの回復がある、と言われました。エゼキエルもそれを預言しましたけれども、これもまた、捕囚の民は信じようとしなかった。
イザヤ書の中に、クロスという名の王様が出てまいります。このクロスという人は預言どおりに事を行っている。こういうようなことを、人間は信じなかったんです。しかし歴史は必ずそのようになったことを現わしている。
バビロンの後に、ペルシャが現れ、ギリシャが現れ、ローマ帝国が現れてくる。こういう預言も、これもすでにダニエル書あたりに表されているわけですね。こういうことが実現する前に預言されている。
私たちも本気で歴史を学びますとね、神様の言葉通りになっていることを認めざるを得ないんです。
だけど今、こうして見ていますと、人間は神の言葉を信じていませんね。だから慌てると思いますよ。聖書に書かれている通りのことが行われていく。しかしそれは時計の秒針がコツコツと動くように、すぐに目に見えるってものじゃない。バビロンにとってユダが滅びるぞ、と今日言って明日滅びるならね、誰でも慌てるわけですよ。
エレミヤがバビロンから回復するよ、って言って、それは70年後だった。誰も信じやしない。
だからね、私たちは本当に信じなきゃいけないと思いますよ。
天国があるのかないのかわかんない。けれどもね、70年も経てば、行って見ることになっちまうわけですよ、人間は。
門のところまで行ってね、天国があるだのないだの言って慌てても遅いわけです。
しかし、それでもまだ人類は、神の預言を信じようとしない。やがてイエス様が再臨され、その人をさばかれる。
とにかく、さばきがあるというのは、何を意味しているか。
それは、この世に神を信じない者がいる、ってことなんですよ。すべての者が神の言葉を信じたならば、さばきはなくなってしまうんですね。こういうことは私たちは本気で考えなければならないと思うんですよ。
クリスチャンや教会は、好むと好まざるにかかわらず、真っ直ぐに神の言葉を語らなければならない。これは、やがてやって来る、ことなんですね。
私が最近感づいていることは何かというと、やがて老人社会が現れると言われています。これは現れないかもしれない。みんな若くして死ぬから。
あのね、これからどんどん長寿になっていきませんよ。若くて病気になる人がいっぱいます。本当に今度、老人社会が出来てくるとしたら、恐ろしいことですよ。健康な老人は一人もいないでしょ。みんな入院して年を取っていくということでしょ。凄く恐ろしいことが起きてくるんです。私たちが考えているような老人社会ではない。まだ今の方がいい。
もっと恐ろしいことが起きてくる。まともな生き方をする人がほとんどいなくなる。
病院に行くと、お年寄も多いですけれども、若い人もたくさんいる。これから若い人が早く死ぬようになる。50歳60歳代がいなくなる時代が来るかもしれない。戦争の時もある年齢層がいなくなってしまった。
この世の預言は当たらないことが多いんです。しかし聖書の言うことは必ず成就する。私たちは、ただ聖書を読んで知っているというだけではなく、やがてこれはやって来るということを、しっかり信じなければならない。
神様の預言は、人が信じようと信じまいと、それにかかわらずに成就していくものだということですね。信じない者にはただ、さばきが下るだけである。
ですから私たちは与えられている使命を、神の預言を伝えるということです。これに極まると言ってよろしい。
2.さて、「御座から出てきた大きな声」は、なんと言ったか。「事は成就した」と言った。
聖書の中を見ると「事は成就した」という言葉はたくさん出てきているんですね。ここ一回だけではありませんね。
(1) ヨハネの福音書17章4節をみますと、
ヨハ17:4 あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
これはイエス様が大祭司的なお祈りをなさったところですね。「わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わした」というのは、十字架も含めてキリストの地上生涯の御業が完了したこと、預言的ではあるけれども、語っているということですね。
(2) 実際には、ヨハネの福音書19章30節で、
ヨハ19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
十字架の上で「完了した」とこういわれたんですね。これは罪の贖いのための十字架の御業が完成した、という意味で語られています。「成就した」というのは、その時その時の意味合いがあるわけですね。何が成就したか、ということをよく知っておかなきゃいけないと思います。
(3) マタイの福音書を見ると、何度も何度も同じ言葉が出てくる。
これはイエス様が旧約聖書の預言の成就として来られたお方であることを意味して、「成就するためであった」という言葉が何度も語られています。
これは旧約の預言の成就がキリストであるということですね。
(4) ヨハネの黙示録の21章6節でも「事は成就した」と言われています。
黙 21:6 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
これは最後の言葉ですね。これは新しい天と新しい地の完成です。最終的な完成。
私たちはこの日を待ち望んでいるわけですね。人が何と言おうとこの時に神の国に入れられなければもうおしまい。
(5) 16章の17節で「事は成就した」というのは、21章6節の「事は成就した」とはちょっと違いますね。
これはキリストの再臨のためのすべての準備が整った、という意味での「事は成就した」という意味です。なすべきすべての警告は終わりました、という意味ですね。
キリストの再臨のために、私たち人間の側のなすべきことは、すべての造られた者に福音を宣べ伝えること。しかしこれは人間の準備であります。ここで言われている「事は成就した」というのは神の側の準備も整った、というメッセージですね。
この6章の9節10節で、殉教した聖徒たちが祭壇の下にいる姿が幻の中に記されています。そこで彼は叫んでいるわけです。
「聖なる真実な主よ、いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか」という悲痛なる叫びを聖徒たちが叫んでいる。どんなに彼らがこの日を待ち望んでいるか。
ですから私たちはこの地上にあってね、いろいろ働きます。人が信じるか信じないかは別として、一生懸命に働く。
それは何のためであるか。最終的なこの日のためである。まだ完全なる成就ではありませんがね、キリストの再臨のための神様の側のすべての準備は整った。人間の側だけではなく、神の側も整っておるのだから、これはもう、再臨は間もないということですね。
私たちはこうして、後もまだ学びますけれども、いろいろな災害とか、わざわいとかが降り注いでいるでしょう。しかしこの最後のわざわいが終わったらね、神の側の準備が整ったことになるわけですから、よく心に留めてね、キリストの再臨は非常に近いということですね。
Ⅱ.18節を見ますとね、「いなずまと声と雷鳴」があったとありますね。
A. これもね、ヨハネの黙示録では「いなずまと声と雷鳴」は何度も出てくるんです。
全部拾い出すことはできませんが、4章5節とか、8章5節とか、11章19節とか、この16章18節とかね。これは、神の臨在を表すしるしなんです。
一番顕著な例を見ますと、出エジプト記の19章16節、ここは声はないんです。ちょっと読んでみましょうか。
旧約聖書とか新約聖書とかね、もう古いとか新しいということではなくてね、
同じですね、こうして見ていますと。旧約聖書をいい加減してはならないですよ。
出19:16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
「いなずまと密雲と角笛」、これは神様が臨在したことを人間に分からせるためのしるしである。神様の臨在の現わし方というのはいろいろあるわけですがね、これ、一つの方法。
この間、大きな雷が鳴りましたけれども、あの時私はつくづく思ったんです。
私もあれくらい大きな声でお話できないかなあ、と思ったんですよね。あれなら一発で大勢の人に届くでしょう。家内が言いました。「あんなに大きな声だったら、みんな怖がって聞かないんじゃあないの」。
やっぱり神様の声というのは相当大きいものだなあと思いますね。なんか地響きがするようなね。空には何もついたてがないんですけれども、響いていますね。こだましますよ。ゴンゴンゴンてね。
私はなんでも大きいのが好きなんですけれどもね。雨なんかちょろちょろ降るより、ザーっと降る方がいいなと思うんですけれどもね。洪水になっては困りますけれども。あんな大きな雷なんてしますと、近所の子供がギャーギャー泣いて怖がっていましたけれどもね。
この大きな雷の時、イスラエルの人は本当に怖かったんじゃないかと思いますね。それだけじゃなくて、「全山が激しく震えた」とありますから、大きな地19
B.次に「大きな地震」が起きております。
稲妻や雷鳴も人を怖がらせますけれどもね、もっと怖がらせるのは大地震ですね。子供だけではなく、大人も怖がらせます。パニック状態になります。これはかなり大きい地震のようですね。
出エジプト記19章18節では、シナイの山が大きく揺れたというんですね。
出 19:18 シナイ山は全山が煙っていた。それは【主】が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
私は時々こう思うんですがね。富士山の噴火なんていうのはね、このあたりは関東ローム層というのがあるんだそうですが、阿蘇山が噴火したときはすごかったと思うんです。阿蘇山の方が富士山より高かったんじゃないかという話がありますよね。阿蘇山が吹っ飛んだ時は、すごかったんじゃないかと思うんですよ。人間なんて生きていられないですね。
私もだいぶ前に鹿児島に行きましたがね。桜島が噴火していたんでしょう。あれは大変ですね。溝の所がじゃりじゃりしていてね。噴火した後にね、軽石だのなんだのを拾ってきて観光土産にするのは遊びでいいんですけれども、現実にはね、この真夏の暑さでも窓を閉め切っているんですから大変です。車の上だとかどこにでもその灰が降ってくる。風向きによって違う、と言っていましたがね。根元当たりからドーンと吹き上がったらどうです。彼らはシナイの山がぐらぐら揺れるようにね。恐ろしいと思うんですよ。
浅間山が噴火したときも恐ろしかったそうですよ。それで鬼押し出しが出来たとか。
ところが、イエス様がおいでの時にはね、もっと怖いことが起きています。
ゼカリヤ書の14章4,5節を読んでみましょう、ここは何度も何度も読んでいますがね。
ゼカ 14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、【主】が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
キリストの再臨のとき、オリーブ山が真ん中から真っ二つに分かれる。
山の半分は北にうつり、他の半分は南に移る。恐ろしいことですねえ。
ウジヤ王の時も大きな地震があったんですね。これはユダヤ人にずっと覚えられてきた地震である。私たちも関東大震災がありましたけれどもね。今頃そんなことを覚えている人はいませんがね、昔の写真を見て、大変だったなあ、ぐらいにしか覚えていないのでしょうが。
マタイの福音書24章7節をみますと、イエス様ご自身がそこで、主の再臨の前兆として地震が起きる、ということを預言しておられますでしょ。
そして、黙示録16章18節の大地震は、その予告の最後の地震といえるでしょう。今も地震があっちこっちで起きていますね。この最後の地震は人類史上最後の地震である。
人はね、地震について学んでいる間は一つも恐れませんよ。でも実際に小さな地震でも起きると、すぐに恐れるじゃありませんか。人は自分の足元が揺さぶられると恐れるんです。 地震に限らず、自分の安全が揺さぶられるとたちまち恐れ始める。人間て弱いものですね。人の足元が揺れている時は気にしなくても、自分の足元が揺れたら、恐れて戸惑うわけです。
C.この「大地震」の時は逃げまどってももうダメですね。
人間、どれほどの恐怖のどん底におとしいれられるか。
今頃はあまり見かけませんが、地震が起きたときにね、畳なんかをはがして外に出て、畳の上に乗っかっている人が、畳ごと地面が割れて呑み込まれて死んでしまったとかね。メキシコにもソ連にも大地震があってね、みんな崩れてしまっている。10階建て20階建てのビルがみんな崩れてしまう。
1.19節をみますと、まずこの大地震は、「あの大きな都は三つに裂かれた」、と書いてあります。
あの大きな都というのは、ヨハネの時代では、不動の帝国に見えたローマであろうと思うんですね。ローマはここでは大バビロンと呼ばれています。
なぜここにバビロンという言葉が出てきたか。
当時としては、このローマは、バビロンが象徴されているようなものです。バビロンもその全盛期にはローマに劣らず不滅の帝国のように思われたわけです。もう決して倒れることがないと。
でも皆さん、40年、50年前はどうです。どういう状況だったんですか。忘れちゃいけないんですよ。
一瞬のうちにね、世界は変わるんです。あっという間に、私たちが砂漠の真っただ中にいる生活になりうるんです。これを忘れないようにしたい。この世に築かれている繁栄というのは、必ず滅びるということを忘れないようにしたい。
このバビロンもローマも、サタンの都を象徴しているんです。イエス様に逆らいイエス様を拒んでいるこの世は、大バビロンであり、大ローマ帝国を意味するんです。
そしてローマであり、バビロンがクリスチャンの前にはだかっている。見ると永遠に不動のように見える。だからクリスチャンはこの世には歯が立たないと思うんです。勝てないと思っている人が大勢いる。
ここに「三つに裂かれる」と書いてある。この三つというのは数字の三つをいっているのではありません。この「三」という数字は「七」と同じで完全数なんです。
「三」とか「七」とか「十二」は聖書の中では完全数なんです。ですからこれはどういうことを言っているかというと、この世で勝ち誇っている帝国は、完全に、粉々に跡形もなく引き裂かれてしまうということです。
イエス様がエルサレムについて預言された時もそうですね。石が石に乗っかっていることはない。つまりバラバラにされてしまう。まさにエルサレムはそうなってしまった。
ご存じのようにバビロンは今、跡形もない。ローマ帝国は一つの市になってしまった。ある学者たちはね、ローマ帝国はまだ完全に滅ぼされたんじゃないと言っています。
ま、そうかもしれませんね。最後の日にもう一度神と戦おうとする、といわれています。市政ローマ帝国は今も消えていないんだと。ローマ市に変わっていますけれどもね。神に逆らうローマ帝国は今も潜伏しているんだという、こういう考え方もなされている。
それが本当かどうかは別として、ローマやバビロンが示す、クリスチャンが手ごわがっているこの世の勢力は、必ず引き裂かれる時が来ることを示しています。
これにくっついてると自分も裂かれてしまいますね。人間というのは単純な生き方をしているんですね。本当にお金が儲かるところにハエがくっついていくみたいな生き方をしている。
日本なんかを見ていてもそうでしょ。アメリカが儲かるといったら、みんなアメリカにくっついていたんですね。どうも儲かりそうになくなると、また別のことを考えるようになる。こういう生き方をしているわけですよ。
しかしそういう勢力は必ず引き裂かれますよ。三つに裂かれるというのは、粉々にということですね。
2.引き裂かれたのはローマだけではない。
神のさばきは中心部をはじめとしてですけれども、諸国の町々も倒れる。つまりローマを中心に倒れた。中心が倒れればみんな倒れてしまう。
いろんなことを言っているけれども、アメリカが倒れれば日本も倒れるに違いない。
ハルマゲドンの戦いのために全世界の王たちが集まってきますが、それらの国々も倒れるのです。
どうか私たちはこの世の都が倒れても、倒れないような都に住んでいないといけない。本当に最後に残る者はだれか、よく考えなければなりません。
それゆえクリスチャンは自分の国が、神の側についているのか、サタンの側についているのかよく見極めなければならない。日和見的な生き方をしてはならないと思うんですね。
クリスチャンは自分が救われるだけではなくて、この世の社会とか国に対しても影響を強めていけるようなクリスチャンに、お互いになっていかなければなりません。
昨今、世界の各地でね、全市や全地が全滅するような大地震がつぎつぎ起きている。駿河湾地域の地震も騒がれていますけれどもね、これが大地震につながらないとは言えないでしょ。
そこが引き金になって、導火線になって、ざざざざーっとね、日本が富士山を境に引き裂かれて、二つに引き裂かれないとは限らない。単にこれは自然現象としてだけではなくてね。
ソ連に大地震があった時にね、そう言う学者たちがいたそうです。神のさばきなんだってね。
しかしまだ反論する人がありました。人が困っている時に、神のさばきだなんて言っていいのかってね。
いい事か悪い事かは別としましてね、少なくてもこの世に様々なわざわいが次々と起きているということは、これは罪に対する神のさばきがあるのは事実です。私はこれは決して容易ならぬことだなあ、と思います。
3.20節をみますと、諸国の民が倒れるだけではありません。「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」
これはね、自然界に大変動が起きることを言っているだけではありません。
島や山は、今や、華やかな行楽地に化しているでしょ。そこは罪のたまり場になっている。その度合いはますます激しくなっている。つまり人は行楽地においてさばきを受けてしまうということですね。
私たちはニュースを見たり聞いたりしていますとね、行楽地における犯罪、行楽地における災害、これが非常に多いではありませんか。ホテルが燃えて何十人も死ぬとか、何度か行楽地に飛行機が墜落するとか、これは恐ろしいなあと思うんです。人は行楽地においてさばきを受けることがある。
こうして神に対する罪は一個人について始まりますけれども、自分自身が神のさばきを受けるだけではなくて、他人をも苦しみに巻き込み、国全体、民族全体、地球全体を滅亡に巻き込んでいってしまうのです。人間はね、そういうことを全然考えていない。
ですから、救いは私個人のものにとどまらずに、すべての人に伝えなければならない。どの国家も、人も、民族も、決して自分ひとりでは生きていけないわけです。誰一人として自分ひとりでは生きていけない。
キリストの救いが差し出されなければ、すべての人は罪のゆえに大ローマ、大バビロンのように滅亡していく、ということですね。人類は滅亡していくわけです。自由主義の国も、共産主義の国も、イスラム主義の国も、その他独裁主義の国も足をそろえて滅亡に進んでいくんです。
私たちの国も滅びるんだ、ということを心に留めて、生活させていただかなければなりませんね。
Ⅲ.さて最後の21節をみますと、これもまた空からやってきたわざわいですね。
「一タラントほどの大きな雹(ひょう)が人々の上に天から降ってきた」
一タラントというのは34~35キログラムもある雹(ひょう)です。
私も詳しいことは知りませんけれども、カボチャぐらいの雹が降った、ということを聞きましたね。カボチャぐらいというと、2、3キログラムあるんでしょうか。これで屋根に穴が開くというんです。車なんかに当たったらぺちゃんこになってしまうんです。
一タラントの雹といっても、ドッジボールしているんじゃないんです、もうおしまいになっちゃうんです。人間は粉々に砕かれてしまう。この雹に当たったら象だって一発でまいっちゃう。人も獣もひとたまりもなく滅んでしまう。すべてが廃墟に化す。
このわざわいは出エジプト記の、9章の十のわざわいの第七番目にも出てくるんです。その時の雹の大きさは書いてありませんが。
ここでは一タラントの大きさの雹だと書いてありますから、大変だなあと思いますね。
ヨハネのさばきの幻の中には、旧約聖書の中に用いられたわざわいね、それがまた大型で極限に達するようなわざわいであることが分かりますね。エジプトの十の災いとか、ノアの洪水とか、ソドムとゴモラの火であるとか、余すところなく用いられていますね。
こういうさばきというのは旧約の時だけではなくて、最後のさばきを示すためのものである。
ノアの洪水のさばきだけではありませんよ。やがてね、神のさばきが来るという大きな警告なんです。人間はそのことを何度警告されても気づいていない。ですから私たちは今、のうのうとして生活しているわけにはいかない。必ずわざわいが来る。
私たちに示されている警告も、それは最後の警告を示すものですから、本当に賢くなって悔い改めて、神の道を歩まなければなりませんね。
なぜ人間はね、警告されているのにそれを悔い改めようとしないのか。自分に本当に、大きなわざわいが来ることを信じていないからですね。来てからでは遅すぎるんです。
A.残念なことに、再三再四警告を受けても、自分の罪を悔い改めようとしない者が大勢いる。
21節で「人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」
神に汚し事を言った。災害のために悔い改めた、と書いていないんです。
サタンとサタンにつく者は、根本的には罪の悔い改めをしないんです。悔い改めさせようとして警告を発すれば発するほど、汚し事を言うようになる。残念な事ですね。
むしろ神を汚す。彼らはイエス様を十字架に架けたとき、神様に勝ったと思ったわけです。しかしそのさばきは彼ら自身に下ってきた。
神に逆らい、神を拒む者に対しては七重のさばきの警告が発せられた。
そしていよいよこのさばきの警告も終わりにきている。後に来るのは、最後の最後に向かって最も厳しいさばきが来る。
こうして、世界で一緒になっていた小麦と毒麦が、より分けられ始まるわけですね。
神様に忠実な聖徒たちは、キリストの復活によって、悪のすべての権威と力に対して勝つことが出来る。イエス様によって最後の勝利を保証され、完成する。
ここに至るまで私たちはこの地上にあってね、悪しきものと一緒に共同生活をしなければならない。
なんと大変なことであろうかと思うんですね。
こうして迫害や殉教によって、忍耐しながら待ち望むべき聖徒たちは、初めて慰められ、報われ、喜びが与えられるんですね。そして、その日はそう遠くはないということですよ。
私たちもイエス様の「主の日」を恐れかしこんで待ち望み、今置かれているところで、サタンとその勢力に対して、信仰によって勇敢に戦う。良い証と伝道によって、魂をキリストに獲得し、一人でも多くの人がキリストにある喜びを経験し、最後の勝利を獲得させていただかなければならない。
パウロもヨハネもこれを待ち望んでいました。願わくはすべてのクリスチャンが、終末に隠されている出来事の真相を、是非悟っていただきたい。そしてこの勝利を獲得させていただきたい。
それには聖書をしっかり信じて、よく知って、何が起きるのかということを悟らせていただきたい。
現状では、私たちには、いろんなことが起きているんです。それをニュースとして、出来事として知っているんじゃなくて、今の時点で神様とどういう関係にあるのかということを、聖書から私たちはよく知ってね、生活させていただきたい。
私たちはみな同じようにこの地球に生きています。しかし、私たちは、知って生きている。
神を拒んで生きている人々との差は非常に大きい、ということをしっかり心に留めさせていただきましょう。
このイエス様の日は、日一日と近づいているわけですね。
そして、こういうことは、いつ起きてもよい時期に来ていることを、私たちはわきまえながら、毎日毎日を無駄なく過ごさせていただきたい。こう思うんですね。
お祈り
恵みの深い天の神様、今日、こうして、もう一度最後のさばきの警告の第七の裁きを知りました。まさに私たちの時代には、空から来る大いなるわざわいも多いことでございます。
地震もあれば雹もある。恐ろしい時代が、主の再臨の時が来ることを知りました。
しかしこのことを知らない多くの人々はおじ迷い、滅びていくことを思いますと、何とかしてこの福音を、悟りを知ってもらいたいと、切に願うことであります。
しかし、サタンとそれにつく者は、苦しいことが起きると神を呪い、汚します。こういう生涯を送っています。
この日本にあって、主を拒む者は大勢おります。
この神の裁きから逃れるためには、一つの道しかありません。
どうか主にある救いに到達できるように、また、私たちを遣わせてください。
この時を感謝して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明