音声と文書:ヨハネの黙示録(43) 大淫婦へのさばき 17:1~6

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PDF文書:ヨハネの黙示録(43)

ヨハネの黙示録 17:1~6
17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。
17:2 地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
17:4 この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
17:5 その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。
17:6 そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。【新改訳改訂第3版】

上の絵は、15世紀頃に書かれたApocalypse flamande(フランドルの黙示録)の挿絵「The great harlot(大淫婦)」(作者不明、Wikimedia Commonsより)
フランドルの黙示録とは、15世紀初頭に作られたヨハネの黙示録の写本で、オランダ語で書かれた中世唯一のもので、フランス国立図書館に保管されている。


はじめに

1.今日からしばらく、17章、18章、19章と学んでいきますが、この三つの章は一つのまとまりを示している。

この三章は、これまでの七つのシリーズ(さばきの警告のシリーズ)と、20章以下の最後の運命との橋渡しをしている、という意味があります。
内容的に見ますと、17章、18章、19章は、16章の終わりの部分の大バビロンの崩壊を、さらに詳しく示しているわけです。再現していると言ってよろしい。

そして、最後の21~22章では、永遠の都が出てくるわけですが、それらの序曲にもなっているわけですね。ですから、ヨハネは、この部分では一つ一つの描写を鮮明に記しております。おまけにその意味まで解説しているということが分かります。
今日は7節以降を読みませんでしたが、7節以降は、解説なんですね。

ですから、旧約聖書の神様のさばきは必ず下る、ということがここでは言われているわけです。そういう預言の再現であったわけです。
ヨハネは、かつて神の民を破壊していた者が、ここでは破壊される、ということを表しています。必ずこれは起きるんだ、ということですね。
私たちはこのことを、しっかりと覚えておかなければなりません。神のさばきは必ず下るということです。

人間は、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」者でありますけれども、恐ろしい出来事があっても、それを忘れてしまう。そして再び、神様のさばきは下らないのではないかと、思うわけです。

戦後40年を過ぎましたけれども、日本人はだんだんと戦争の恐ろしさを忘れかけているようでありますね。今日は原爆記念日なんだそうですが、記念日としてやっていましてもね、その恐ろしさというのはね、もう忘れてしまっている。原爆ドームを残すとか残さないとか言っていますけれども、しかしそういう遺品みたいなものがいくら残っていても、人の心の中の憎むべきものが残っていないとは限らないわけです。

ですから、神様のさばきも過ぎ去ったのではないかと思うわけです。こういう思い込みというのは、だんだんと神の存在を否定するようなところへ行ってしまう。こういう危険がある。
神様を否定したり、拒んだり、逆らう者に、さばきが下らなかったということは一度もない。ですから、この世のほとんどの人々が神を信じない、従わないでいると、必ず神のさばきが下ります。
このことをクリスチャンもあまり信じていない。ペテロもそういうことを警告しています。神様のさばきが延びているから、もう神様はさばかないのではないか。それがだんだんといくと、もう神はいないのではないかと、人間の考えがいってしまう。

もう一つ、ヨハネの黙示録ではですね、神のさばきには、人間は抵抗する力を持っていない、ということです。
ご存じのように地震だとか噴火だとかには抵抗できない。土砂崩れでさえ何人もの人が死ぬ時代。こういう事を私たちはよく理解しないといけない。人間はいろんな事に抵抗しますけれども、神のさばきには抵抗できないんだ、ということですね。
こういうことが分かってきますと、この世の中における不公平とか、矛盾にも冷静に処していけるようになるわけです。

人は、神のさばきの確信を失い始めると、誤った道を歩み始めます。
人は、神のさばきを知るようになると、神の道を求めるようになる。
現代は残念なことですが、人間は神のさばきを信じていない。信じようとしない。神はさばきを下さないんではないか。神はいないんだと。こうなると人間は誤った道を選び取るようになるわけですね。神を無視する。
しかし、神のさばきが下らなかったことはない。下った後で、神の存在がわかっても、もはや遅い。
このあたり、私たちは愚かになって、この世の人と同じ歩み方をしないようにしたい。さばきを受ける愚かな生き方をしないように。

2.さて、これまでに「バビロンは滅びる」ということは二度記されていました。

黙示録14章8節と16章19節です。しかしこの二回の時は詳しくは解説されませんでした。滅びる、という予告だけでした。その予告が17章になって、大バビロンの滅亡を詳しく語っているわけですね。

そこで、今日は本文に入ります前に、「大バビロン」は何を意味しているのか、もう一度整理しておきたい。

(1)  第一に、バビロンというのは、ネブカデネザル王が築いたバビロン王国を指しているんですが、ここでいう「大バビロン」というのは、その帝国が象徴しているものを指している。バビロニア帝国のことではありません。すでにヨハネの時代には、ネブカネデザルが建てたバビロン帝国は滅んでいました。だから、それが、「滅びる、滅びる」ということはない。象徴しているものがある。

(2) 第二に、ヨハネの時代に最も勢力を持っていた帝国はローマである。
このローマは神を冒瀆(ぼうとく)するあらゆる行いをしました。不品行、不道徳に満ちていました。ヨハネの脳裏にあった「大バビロン」は、当時のローマを意味していたことは間違いない。以前もお話しましたが、ネロの復活説が出てくる勢いであった。そして、現在でも、最後の時代に再び神に逆らう神聖ローマ帝国が復活する、という学者もいます。ヨハネの黙示録からすると、ローマの復活、そして滅亡もあり得ることである。それが現在のローマが引き継いでいるかは別である。

(3) もう一つのバビロンは、ローマを含めて、サタンの支配にある神に逆らう勢力。
そこには、政治的勢力、経済的勢力、宗教的勢力など、あらゆる分野において見られる各時代を通して起きている勢力を示している。 いつかの時代の勢力ではなくて、あらゆる時代を通して神に逆らう勢力、それをバビロンと呼んでいる。
ですから、この「大バビロン」は、今でも生きている、働いている、そして神の働きを妨げているわけですね。

これで「大バビロン」というのがどういうものか、お分かりいただけたと思いますね。

Ⅰ.1節をみますと、

A.「七つの鉢を持った七人の御使いの一人」がヨハネに語りかけた。

3節をみますと、ヨハネを荒野に連れて行っています。「七つの鉢を持った七人の御使いの一人」が誰だったかわかりませんが、ここに現れて働いているということは、この17章の幻が先の七つの鉢のシリーズと関連があるということを示している。全く別の幻ではない。繋がっている。

そして、この幻は、これまではいろいろなことに焦点が合わされましたが、17章からは、「大淫婦」といわれているバビロンの滅亡に焦点が一つに絞られている。これまでは、鉢があっちにぶちまかれ、こっちにぶちまかれたりしてきましたが、17章からは一つです。
「大バビロン」「大淫婦」の滅亡に焦点が合わされているということは、ことがいよいよ最終段階に入っているということを示しているわけなんですね。

B. なぜ御使いはヨハネを「荒野」に連れて行ったのだろうか。

これまでも「荒野」というのは出てまいりました。ヨハネの黙示録12章6節、14節で「荒野」が出てまいりますね。もう一度復習しておきたいんです。
女が竜を避けて「荒野」に逃げていった。そしてそこで神様に養われた。これは12章で学んだんですね。
ですから「荒野」というのは、サタンの支配から離れたところ、サタンの力が届かないところのことですね。

なぜそこが「荒野」と呼ばれているか。
それはですね、後の方を見ればわかるわけですが、華やかじゃない。金ぴか、宝石で身を飾り、金の盃、こんなのがいっぱいあるところは決して「荒野」ではない。
今もね、贅沢だとかね、きらきら輝いている物だとか、高価な着物があるだとか、これは「荒野」じゃない。こういうところは非常にサタンの影響が強いところである。
神様の民が 霊的なことを悟るため、本質的なことを悟るため、サタンの影響化から離れていなければならない。街の中をチャラチャラ歩きながら神の真理を悟ることはできない、ということですね。

どうでしょうかね、パチンコ屋さんの軍艦マーチなんか聞きながら、聖書を読んでも分からないという意味ですね。悪魔の誘惑のもとにあってね、いくら考えても、いくら祈っても神の真理は悟れない、ということです。だから離れていいなければならない。

クリスチャンが真理を悟り、み言葉をよく知り、分かるようになるためには、この世にあって生活しながらこの世から離れている、ということが大事なんです。
イエス様も弟子たちにこう言っておられます。ヨハネの福音書17章をご覧いただきましょうか。14節から16節を読んでみましょう。

ヨハネ 17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

ここを、普通の人が読んだら、「じゃあ、お化けか」というふうに思ってしまいますが、弟子たちはこの世にあって生活していましたが、この世に従っている、この世の原理に従っているのではない、ということですね。
クリスチャンも同じであります。クリスチャンもこの世で生活しています。霞を食べて生きているわけじゃない。
ある人が、私がクリスチャンになった時にねえ、こんなことを聞きました。「霞を食べて生きているのかい?」
そんなことはない。地上で同じものを食べております。けれども、この世の悪に従って生きているんではない。

ですからイエス様も15節で、「この世から取り除くのではなくて、悪から守ってください」、つまりこの世の勢力から守ってください、ということを神様に求めておられるわけです。

パウロも同じことを言っています。コロサイ3章3節をご覧いただきましょうか。

コロサイ3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

「すでに死んでおり」というのは、実際にはコロサイの人は生きていたわけですから、これは、この世に死んでいる、ということですね。この世の勢力、この世に属している人間ではない、ということを言っているわけです。

後半で、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」と言っていますが、つまり、キリストにある生活をしているということです。これがサタンの影響化から離れた「荒野」の生活のことを言っているわけですね。霊的なことを言っているわけです。この世に対して死に、神のうちにあって初めて真理が分かってくる、ということです。

ですから、クリスチャンは、さらに神に近づくためにはこの世から離れなければいけない。この世の人々から離れなければいけない。この世の人と交わり続けながら、神様を知るということは不可能ですね。
私は、クリスチャンがなんで真理を悟らないかというとね、やはり神を第二、第三にした生活をしながらね、いくら祈ってもいくら聖書を読んでもわからない、ということです。

分離によって、離れることによって、この世に対して勝利を得ることができる。この世に勝とうと思ったら、この世から離れなければいけません。底なし沼から離れなければ、底なし沼にいる者を助けることはできない。
クリスチャンはこの世にありながら、この世から離れている重要性。この世に生活していますけれども属していない。この世から離れているということがどんなに大切か、自覚しなければならない。これは難しいようですけれども、やることはそんなに難しいことではない。

ですから、御使いはヨハネをサタンの手が届かない「荒野」に連れて行ったわけです。
そしてサタンの手が届かない荒野に連れて行って初めて、サタンの勢力がどのように滅んでいくかということが彼に分かったわけです。サタンの勢力の真ん中にいては、分からない。
私たちもね、この世に染まってしまっていながら、この世がどのようになっていくかをいくら考えても分かりません。ちょうど宇宙に飛び出して、はじめて地球が丸いということが分かる、というのと同じことですね。地球の上に乗ったままでは地球が丸いということは、なかなかわからない。
ですから真理を悟るためには「荒野」に行く必要がある。

Ⅱ.さて、この次にこの御使いは1節で、

「大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」と言っていますが、何かボートの上か何かにすわって見ていたのか、と思ってしまいますが。「大水」とは一体なんなのか。

A.これはサタンの支配が及ぶ広い影響力を意味しているわけですね。

エレミヤの51章13節をご覧いただきましょう。
「大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。」

エレミヤはバビロンの滅亡を、ここで預言しているんですね。「大水のほとりに住む財宝豊かな者よ」、つまりこの都は、「大水」によって、ユーフラテス川によって、人間が生きていくための豊かな資源と、それからユーフラテス川はバビロンを守り、保護していたわけですね。
ご存じのように、ペルシャはこのユーフラテス川を枯らして入ってきた。ヨハネの黙示録でもありましたね。バビロンの巨大な影響力、支配をいっている。

かつてのエジプトも、ナイル川にまたがって繁栄していた。昔から栄えるところは港があるとか川があるとか、だったでしょう。山のてっぺんで栄えたなんてあまりない。豊かな水のあるところが栄えるわけです。「大水」というのはその繁栄と支配力の広さを表している。

ヨハネの時代にはもうエジプトもバビロンも滅んでいる。それに勝る繁栄を持っていたのがローマである。ですからヨハネはローマを指していたんではないか。ローマの支配力ですね。

B.さらにこの大淫婦は、「緋色の獣に乗っている」

この秘義と言いますか、奥義、隠された意味ですね、7節以降に書いてありますね。

1.この女が乗っていた「獣」は一体何なのか。

聖書の中には何度も「獣」が出てきますがね、13章1、3、14節、19章20節にでてきた獣と同じです。
13章の1節をみますと、「海から一匹の獣が上って来た」。これには「10本の角と七つの頭があった」ということが書いてありますね。
さらにもう一匹の獣が、11節から見ると地上から出てくる。この獣と同じでありますね。19章20節では、獣は捕らえられた。

黙19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

これは「獣」の最後を表している。ですから、ここで言っている「獣」とは、サタンの手下になった政治的な悪のリーダーで、サタンの思うままに働かされているわけです。

2.そこで私たちが気になるのはその色です。「緋色」、深紅の色。

私は時々、こう思うんですがね、深紅できれいなものはバラの花ぐらいですね。人間が真っ赤なものを着るとあまりきれいだとは感じないですね。神様がお造りになったバラはきれいですね。この深紅の色というのは、輝きとか、目立つ特異な性質を示す言葉なんですね。

4節をご覧いただきますとね、獣が緋色だったんですが、「女は紫と緋の衣を着ていて」と書いてあります。女の色と同じである、ということですね。
このあたりから女の人が赤を好むのかはどうかはわかりませんけれども、この獣は大淫婦の色に完全に染まっていたということですね。つまり洗脳されていた、ということです。この女と同じ性質をこの獣は持っていた。平たく言えば、この政治的悪のリーダーは、悪魔と同じ性質を持っている、洗脳されているということですね。

今は、統一教会とかありますけれども、これは洗脳ですね。昔は共産党も洗脳されていると言われましたが、今はどうかわかりませんが。しかし人間というのは洗脳されますね。これ、気を付けなければなりません。
洗脳というのは自分の意志とか考えだとかを、持たないわけです。色が染まってしまう。しかも、女も獣に従う者も、すべての人が同じ性質を持ってしまう。日本のことわざにも「朱に交われば赤くなる」というのがありますね。赤というのはあまりいいふうには言われませんね。この「緋色」というのは、この世のうわべの繁栄、うわべだけの力、これを表している。

ある時代には、この「緋色」からローマ法王だとか、共産党だとか言われたこともありました。ま、共産党は赤いハチマキとか赤い旗を振ったりしますね。ローマ法王は赤いマントというか、赤を好む。赤を好むからそう言われる時代があったわけです。
最近はあまり聞きませんがね。共産党とかローマ法王とかを嫌っても、この赤は色だけの赤ではなくて、この世のうわべの繁栄を求めることなんです。

人間はそれに汚染されやすい、洗脳されやすい。この大バビロンは何を洗脳しようとしているかというと、人間をうわべの繁栄に導こうとしている。これをもって洗脳する。
だから、人間はみんなやられてしまうんですね。それが2節に書いてあるわけです。
「地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
なぜサタンの勢力が大淫婦と呼ばれているかというと、その理由がそこに記されているんですね。

かつてね、サタンは同じ方法でイエス様を誘惑しました。マタイ福音書4章8、9節。まあ、この性質っていうのはどこにでも現れてくるんでしょうね、

マタ 4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

この世のうわべだけの繁栄を見せて、「わたしを拝むなら、全部あげましょう」と、こう言ったんです。サタンは主イエス様にも、霊的姦淫をさせようとしたんですね。人間はね、なんと言いますかね、これに弱いわけです。 うわべの繁栄に非常に弱い。きらきら光るものに弱い。

旧約聖書では、霊的姦淫についてはっきり書いてあります。預言者イザヤはツロを淫婦と呼んでいますね。イザヤ書の23章15~23節で、ツロを淫婦と呼んでいますね。
預言者ナホムは、アッシリヤの首都ニネベを「優れた麗しい遊女」だと呼んでいます。ナホム書3章あたりにそう書いています。
預言者ホセアはその書全体において、偶像礼拝を淫行だと言っていますね。
こういうふうに、旧約聖書では、霊的姦淫、この世のうわべだけの繁栄を求めて神から離れている偶像礼拝のことを、霊的姦淫と言っているわけですね。

このサタンは旧約の時代においても、イエス様やヨハネの時代にも、これを求めた。そして今日においても、人々に霊的姦淫をおこなわせ、宗教を背教させ、うわべの
繁栄だけを求めさせる。

これで信仰を失っていったクリスチャンが、いかに多くいるか。無限と言っていいほど多いんですね。なぜクリスチャンが信仰を全うできないかというと、これにひっかってしまっているからです。うわべの繁栄に従ってしまっている。

C.さて、この女は緋色の着物を着ていたばかりではなくて、だんだんと本性を現している。

4節を見ると、「金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。」とありますが、じっと見てごらんなさい、気持ちが悪くなる。悪魔的な不敬虔を表す言葉ですよ。汚れた者ほど身を飾る。

この世で一番身を飾るものは誰か、というと遊女ですね。昔、この遊女たちの職場っていうのもおかしいですけれども、花街とか花柳界とかいいました。
言葉だけ見ると、花がいっぱいあるきれいなところのような感じがしますけれども、私も中学のころ親父に仕事を頼まれて、行ったことがあるんです。びっくりしました。道を間違えましてね、おかしな雰囲気の所に入って行って慌てましたけれども。道が分からなくなってね、困ったことがあった。
後で話したら、「お前、変なところに行くんじゃない」って言われましてね。ああ、あそこがそうだったのかって思いましたけれども、後でわかったことでした。
遊女ほど身を飾るものはない。どうしてか。それは自分の汚れを隠すためである。

この世のサタン的繁栄というのは、己の汚れを隠すための飾りでしかない。皆さん、繁栄していることが即、優れたことであると思っちゃなりませんよ。それは最も汚れたものを隠している場合がある。
人々は、そのうわべの繁栄に心が惹かれていくわけですね。ですからこの女がなぜ、金、宝石、真珠で身を飾っていたかお分かりでしょう。大淫婦は自ら悪魔であるにも拘わらず、光輝く金、宝石、真珠で飾っていた。こんなもので飾らなければ、人を惑わされないわけです。

私も時々こう思いますね。教会も金張りにすればどうかなあ、と思うんですよ。仏像でも金粉を塗ってあるでしょ。なんとなく有難いなあと、思うでしょ。まあ、思わないでしょうけどもねえ、思う人もある。
「憎むべきもの、自分の不品行の汚れでいっぱいになっている」、と書いてあります。それにも拘わらず、「金の盃」をもっている姿を見せていますね。これで人を惑わすわけなんです。繁栄みたいなもので人を惑わす。

ところがパウロはね、どんなに着飾って、どんなに金、銀、宝石で飾っても見抜いているわけですね。第二コリント11章14節をみますと、「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」と言っています。
サタンは私たちに金、銀、宝石、真珠、贅沢な生活、美しい衣を欲しがらせるんです。光の御使いのように変装する。これがサタンの誘惑であることを忘れてはいけません。

子供のころ、私はホタルを取りに行ったことがある。兄に「光っているのが二つ並んでいるのは取るな」と教えられました。「蛇の目だから、飛んでいるやつを取れ」ってですね。
草の中にぴかっと光るのがあるんです。懐中電灯なんか照らすと、きらっと光る。「ある、ある」なんて手を伸ばすと、「二つ並んでいるのは取るな。」ってね。「飛んでいるやつはホタルに間違いないから」っていうんですね。
夏ですから蛇がとぐろ巻いている。これを見破らなければならない。私たちもこれにのめり込んでいってしまうんです。

金、銀、宝石がぶら下がっていると、人間はまいってしまう。ソロモンですら、これで失敗している。これにのめり込んでいくとサタンと姦淫することになって、滅んでいってしまいます。危険ですね。

私だって自由じゃないです。どうですかね、イエス様のように誘惑されたら。ちょっと拝んだらこの世の栄華をあげます、なんて言われたら、後ろ向きで拝むかもしれませんねえ。もしここで拝めば、本当に自分のものになるかというと、決してそうではない。囚われてしまうわけなんですね。

この間、お巡りさんがですね、教会の郵便物をとっていく子供がいるんで、「鍵をかけておけばいいんじゃないですかね。上から手を突っ込んで中で握ったら、手が抜けなくなってワアワア泣いてわめくんじゃないかな」って言っていましたけれどもね。
手を突っ込んで取れると思ったらですね、取れないってことになっちゃう。私はそうだなあと思うんです。悪魔は取らせようとするけれども、誘惑にひっかかってしまって、決してそれは喜びでも幸いでもないということですねえ。

人間はこの地上に生きている限り、この繁栄から免れていない。みんな繁栄したいと思っていますからねえ。この地上にあって「私は貧乏でいいわ」なんて言っている人は一人もいないんですからね。なかなか難しい。悪魔はそれで目をつけてくる、ということですね。

Ⅲ.もう一つ、彼の特徴があります。

A.3節で、「その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。」とあります。

この表現は13章1節と全く同じですね。「七つの頭」「十本の角」は獣の権威を表しています。
ある学者たちは、「七つの頭」はローマ帝国で、ローマの七人の王を意味している、と言い、「十本の角」は獣のもとに集められた全地の十人の王たちを意味しているという人があります。
どちらにしても、サタンは多くの軍事力、経済力、政治力を持つ部下を持っているということです。悪魔は、自らはなかなか姿を見せません。しかしこの世の多くの手下、軍事力、経済力、政治力を持っている。

だから、私たちは気を付けなくてはいけないんですが、日本は世界で3番目に軍事力を持っている。日本人はあまりそういうことを感じていないと思うんですよ。アメリカとソ連に次いで3番目に軍事力を持つ国なんです。日本に軍隊はない、と言いながら持っている。だから中国にしろ、韓国にしろ、東南アジアにしろ、日本は恐れられているわけですね。恐ろしいことです。ですから、日本が火を噴いたら、再び世界は戦争になる可能性はある。

彼らが共通している性質があります。それは、「神を汚す」ということです。日本人ほどね、「信仰は自由だ」と言いながら神を汚す者はいません。神を拒否している者はない。

B.「神を汚す名」とは、どんな名かというと、5節に、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロンという名であった。」と書いてあります。

これはどうも東洋の神秘的な響きを持っていますね。汚れに満ちているにもかかわらず、人間の肉欲を魅了するような名前です。
「すべての淫婦と地の憎むべきもの」と書いてありながら、人間が誰でも慕う「母」という名前を持ってきている。

お母さんを嫌いな人なんていないわけです。戦争から帰ってきた人から聞いたんです。「天皇陛下万歳!」なんて言って死んだ人なんてほとんどいない、っていうんです。「お父さん!」、なんて言っている人も一人もいない、っていうんです。みんな死ぬときは「お母さん!」って言って死んだ、っていうんです。それほど母を慕う。

そして、最も汚れているものを「大バビロン」、つまり「偉大なバビロン」という名前をつけている。日本も昔は大日本帝国といったんですよね。こんなに小さいのに。ちっこい国に限って「大」をつけたがるんですよね。

こうして、彼は輝く衣と、人の心を魅惑する名をもって、真理を悟らない人を次々と獲得していったんですね。

最近ね、新しく仕事を始めるにしても、そのネーミングっていうのが大事になるんだ、っていうんですね。アパートでもいろいろな名前があるでしょ。「何々荘」、なんて今はないでしょ。こういう名前を付けたら、誰も入らないんだそうです。「上永谷荘」なんて言ったら、何か古臭―い、カビでも生えているような感じがするでしょ。どこかの悪口は言いませんけれども、「何々レジデンス」とか「何々ハイツ」とか、「何々マンション」とかね。
ああいうのは「マンション」て言わないんですよ。英語の辞書で「マンション」て引いたら、「大邸宅」って書いてありますよ。大体「マンション」ていったら門から玄関まで車に乗っていかないといけないんですね。何階も上っていって、ドアの前でピンポンなんていうんじゃないんですよ。

ネーミングが大事だっていうんですよ。だから私もなるほどなあ、と思うんですよ。悪魔も2000年前からネーミングが大事だと、ナニナニの母、大バビロンと言っている。小バビロンなんていったら、誰もついて来ない。
私もいろいろ言われた。この教会の名前を何にするか。「地の塩港南キリスト教会」ってつけたら、ある時、聖会に行ってね、「先生のところの教会の名前、すごく長いねえ」って言われた。

最近はいろいろとネーミングがありますよ。なんとかチャペルとかね、カルバリーセンターとかね、ゴスペルハウスとかね。もう教会ではないみたいですよ。カルバリーセンターって何だろう?
ログハウスでね、中に入ったら教会だったなんてね。いろいろなのが出てきたんです。うちの教会も考えなきゃいけない。「地の塩チャペル」とかね。名前ばかり変えてもダメなんだって。じゃあこのまま「地の塩港南キリスト教会」って長いのにしておくか。

ここに来る手紙を見ても、一年に2回ぐらい名前が変わっているんです。よく変えるなあ。あれじゃ信者の人が困るでしょう。ネーミングっていうのは必要なのかなあと思いますけれども。雰囲気ですね。

悪魔はよく知っていたんでしょうね。そして彼は世界の女王のように振る舞ったわけですよ。金、銀、宝石を身につけてね。

C.しかし中身は決して魅惑的な人物ではない。

彼は恐るべき吸血鬼です。怖いですよ。美しく着飾っている人ほど怖い。
最後の6節をみますと、ヨハネはこう言っています。
「私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」

彼は聖徒たちとイエスの証人たちを迫害して、血を流し殺すのを喜びとしていた。
「血に酔っていた」ということは、狂気のごとくもてあそんでいた、ということですね。ローマの円形競技場では、クリスチャンはゲームのごとくに殺されていったわけですね。「クオ・ヴァディス」でも出てきますね。ヨハネの時代、ローマ皇帝はクリスチャンたちを次々と見世物にして処刑していった。
今は、ローマは観光地になっているそうですがね、ローマの地は多くのクリスチャンの血を吸い込んでいるということですよ。ヨーロッパはね、きれいだ、なんて言ってはいけませんよ。血で血を洗う、そういう国々であったわけです。

しかし、クリスチャンの血に酔ったのはローマの皇帝だけではありません。カトリックの迫害も、多くのクリスチャンの血を流しましたよ。ドイツのナチスも同じです。日本の軍国主義者たちも、アジアの全地域において多くのクリスチャンの血を流してきたんですね。

彼らはみんな緋色の衣を着た女たちですね。なぜこの女が緋色の着物を着ているのか。なぜこの獣が緋色の色をしているのか。お分かりですね。彼らが聖徒たちの血を飲み、酔っていたからです。

ですから、ヨハネはこの女の正体を見たとき、着飾っているけれどもその正体を見た。着飾っている人がね、血を飲んでいる姿。「非常に驚いた」と書いてありますね。
ヨハネは、この黙示録の中では自分の感情をあまり表していないんですが、こういうのは珍しい。しかしヨハネはここでは、幻の意味が分かりかけてきたので、「驚いて」いる。

私たちも聖書を学びながら、本当の意味を悟ってね、終わりの日に備えたいですね。
サタンは終わりの日が近づけば近づくほど、激しく抵抗すると思います。暴れるでしょう。彼と彼に従う者は滅びですね。

私たちはいかなる危機に立たされる時があっても、恐れたり慌てたりしてはいけません。イエス様を信じ続ける。そうすれば最後の勝利を得られるわけですね。

やがて、サタンとサタンに従う者たちの最後の審判が始まります。その時には世界は政治的にも経済的にも軍事的にも、大混乱が始まるんです。しかし慌ててはならないですね。
その後にイエス様が至上権をもって、王の王として君臨されるから。彼らは暴れまわりますけれども、最終的被害を与えることはない。神が勝利をおとりになる。

私たちは今から何事があっても、決して慌てず、主に信頼する生活を実行し、備えさせていただきたい。こういうクリスチャンであらせていただきたい。
この次、7節以降、この秘義をご一緒に学ばせていただきたい。

お祈り

「私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」
天の神様、サタンがどんなに着飾り、金の盃を持っていて人を惑わす者であっても、
いかに恐ろしいものであるかを教えられました。
人はうわべの繁栄に心を奪われやすいものでございます。が、それを見抜いて、パウロがサタンは光の御使いにしてやってくる、と言いました。
御使いが輝く繁栄をもたらしても、見抜くことが出来る様に。イエス様もこの世の繁栄に誘惑をされましたが、これを拒絶をされています。どうか、私たちもそれを見抜くことが出来る様に。あらゆるうまい話、この世の繁栄も、決して私たちに本当の幸せをもたらすものでないことを、深く悟らせてください。
神さま、あなただけに信頼し、少しも慌てず、何事があっても主に信頼できる、そういう信仰生活を送らせてくださるように、心からお願いいたします。
この時を感謝して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明