音声と文書:ヨハネの黙示録(45) 倒れた大バビロン 18:1~8
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PDF文書:ヨハネの黙示録(45)
ヨハネの黙示録 18:1~8
18:1 この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。
18:2 彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。
18:3 それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行い、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」
18:4 それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。
18:5 なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。
18:6 あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行いに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。
18:7 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない』と言うからです。
18:8 それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。【新改訳改訂第3版】
上の絵は、「Apocalypse figurée des ducs de Savoie(サボイ公爵のイラスト付き黙示録)」の挿絵「The Fall of Babylon(バビロンの崩壊)」。フランスで1428~1468年頃に作成された。 Wikimedia Commonsより
はじめに
18章はバビロンの滅亡を歌っているわけですが、18章、17章の違いはどこにあるかというと、17章は説明でありました。
ところが18章は告知、告げるということです。このスタイルが違っているということです。
スタイルが変わるということは、17章の出来事が一応完了したということです。18章は新しい独立した幻である。もちろん17章と関連はありますけれども、独立した幻である。こういうことがスタイルの上から分かるということですね。
Ⅰ.まず1節を見てみますと、「もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。」と言っています。
この御使いの現れ方は、これまでのような現れ方とはずいぶん変わっていることにお気づきと思います。
A .どんなふうに変わっているのか。
1.「天から下って」きたというのは、神の臨在のもとから下ってきたということ。
これはまあ大体似ているでしょう。
しかし、彼は「大きな権威を帯びて」やってきている。
それではこの「大きな権威」は、一体なんのために、どこに現わされたのか。
この御使いは何一つわざわいを行っていない。
これまでの御使いは、どの御使いも、非常に激しい厳しいわざわいを引き起こしていたわけです。しかしこの御使いは何一つわざわいを起こさないで、しかもすぐに姿を消してしまっています。
それではこの「大きな権威」は一体なんのために、どこに現わされたのか。
実は、それは、神のメッセージを携えてきたところにあるわけですね。これまでの御使いはですね、太陽の三分の一を滅ぼすとか、人間の三分の一を滅ぼすとか、いろいろなことをしていますね。ところがこの御使いは、なあんにもそういう意味でのわざわいを起こさない。ただ神の言葉だけを語りに来た。
人はわざわいを恐れるけれども、神のメッセージをあまり恐れようとしないというところに問題があると思うんですね。
例えば旧約聖書のイザヤとか、イザヤはアッシリアの滅亡を預言しましたね。エレミヤはバビロンによる捕囚の預言をしている。
しかしイスラエルの民たちはそれを恐れようとしなかった。そして従わなかったから、滅びていったんでね。捕囚にあってしまった。
人間というのは非常に愚かで、わざわいが来ると慌てるわけです。たとえば地震とかね。このあいだ伊豆のほうに地震が起きましたね。みんな大変だったようですね。この夏なんか、誰もお客さんが来ないんじゃないかとか。
今年はまた台風の当り年で、14号、15号と続けて、16号も来るんですか。あっちこっちに雨やらなにや降らしてね、土砂崩れが起きたり、わざわいが来る。津波を恐れる人も多い。けれども神のメッセージを恐れる人は非常に少ない。
もっとも恐れるべきは何か。
子供たちが聞いてきたんですけど、「一番怖いのは、地震、雷、火事、親父で、親父が一番怖いの?」
「そうだなあ、先生の時代のころはなんていったって、親父が一番怖かったなあ」ってな話をしたんですけれどもね。
本当に恐れるべきはやはり、神のメッセージですね。
わざわいは逃れることが出来るし、逃げることもできる。地震が起きていれば、地震の起きているところに近づかなければよろしい。避難すればよろしい。
ところが神の権威あるメッセージは誰も避けることが出来ない。そういう意味で非常に恐るべきものである。神様はそのみ言葉の内に大いなる権威を表しておられる。
ですから大きな権威を帯びてきた、と書いてありますけれども、人が慌てるようなことは一つもしていないわけです。
教会も神様の言葉を語っているわけですが、大いなる権威を帯びている。 人は恐れないかもしれませんが、逃れることが出来ない。ですからこのことを悟って、わざわいの来る前に、神のメッセージに従う人は、これは賢い人である。
愚かな人と賢い人のイエス様の話がありますね。岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人。
これはもちろん、砂とか岩とかの岩石の話ではなくて、イエス様のみ言葉に従うかどうか、ということを言っているわけですね。
ですから神のみ言葉は非常に権威を帯びている。
しかしこの神のみ言葉がわざわいに変りはじめましたらね、これはもう急いでも遅いわけです。遅くなって気が付いても、これはもう取り返しがつかない。
ですからこの大いなる権威を帯びてきた、というのはそういう意味がありますね。
2.この御使いが地上に来た時に、「地はその栄光のために明るくなった」とありますね。
エゼキエル書43章2節をご一緒に読んでみましょうかね。そこと関係があります。
エゼ43:2 すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。
エゼキエル書を学んでみますと、最初の11章あたりまでは、神様の栄光がだんだんとエルサレムを去っていく様子があるわけです。11章23節で完全にエルサレムから消えてしまっている。去ってしまった。
ところが43章からは、去っていった栄光が再び回復している様子が東の方から現れた。それがだんだんと神殿の方に満ちてくる。
今日は詳しいことは話せませんが、東の方からやってきたその幻は、ケバル川のほとりでみた幻のようであった、と書いてありますが、それが東向きの門を通って宮に入ってきて、そして内庭に入って神殿に栄光が満ちた、と、こうなっているわけです。
このヨハネの黙示録のほうの御使いが、エゼキエルの預言した幻と同じことをしていることは、御使いが特別な目的のため神から遣わされた、ということを示しているわけです。
エゼキエルは「地はその栄光で満ちた、輝いた」と書いてありますね。
通常、栄光というのは、神の御座だけを照らしているものです。ところが、ここでは「地」を照らしたわけですね。このことは、御使いが地上の人間に対して特別の目的をもってきたことを、示しています。目的がないのに照らすことはない。
昔、探照灯というのがありましたね。敵の飛行機が来たかどうか、ぐるぐると光が回って、調べる光だったと思うんですね。
目的があって光を巡らせているわけです。
B.2節に移りますと、この御使いは、「力強い声で叫んで言った。」と書いてあります。
1.これは地上のすべての人に聞こえる様に、大きい力強い声で叫んだ。
特に不義なる人に十分に届くように力強く語った。これは大事なことですね。
しかも、御使いは「倒れた、大バビロンは倒れた」と繰り返していることに注意したいです。
クリスチャンが、神様の言葉を話したり証するとき、弱々しい、か細い、力ない声ではなくて、力強く確信に満ちた声で話したいですね。
聖書の言葉をお話するときは、「私はそう思います」という言葉はいりませんよ。
「聖書はこう言っています。」と断言することが出来る。
他のことは、「この梅干しは美味しいと思いますよ」と言っても相手の人が「おいしくない」ということもあり得るかもしれません。聖書に書いてあることは「正しいと思います」なんて言う必要はない。聖書で言っていることは正しいわけです。
神様の言葉ですから断言することが出来る。
2.この御使いは力強い声で話したわけですが、この声はもちろん耳に聞き取れる声ではなくて、人の良心に訴える声であったわけです。
イエス様も、ヨハネの福音書で、聖霊が来るときのことを話しておられますね。ヨハネの福音書16章8節~11節あたり。これは御使いではありません、聖霊ご自身ですけれども。その方が来られる時にわからせてくれる。これも私たち人間の良心に訴えることですね。
ヨハ 16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
これも一人ひとりの良心に、神が、御霊が、分からせてくださる、ということですね。これはまあ、どちらかというと、イエス様を信じる人です。信じる人の良心に訴える。やがてイエス様を信じる様になる人に。
しかし黙示録の方はどうもそうではないですね。
不義なる人に言っているようですから、対象が違ってくると思いますが、これも耳に聞こえる声ではなくて、その人の良心に訴える声。
すべて神を証する声、神の言葉を語る声は、聞く人の良心に訴えなければならない。感情を撫でて通りすぎるようなものであってはなりませんね。撫でて通り過ぎるのはそよ風ぐらいで結構です。
神様の声は良心に訴えなければならない。
3.そして、これは、訴えられたのは結構なことですけれども、絶望的な声ですね。「倒れた、大バビロンが倒れた」
みんなバビロンを支えにしてきたというか、頼りにしてきた。
今この日本は、一人立ちしているように見えますけれども、アメリカが倒れたら、日本は一発でひっくり返ってしまう。一番頼りになるところが倒れたら、アメリカが倒れたら大変なことになってしまうでしょう。
ですからこれは滅亡を与えるメッセージだったわけです。
ところがですね、よく考えてみますと、ヨハネがこの黙示録を書いている時に、バビロンが象徴しているローマ、当時でいえば、大バビロンといえばローマ帝国を考えていたわけです。が、ローマ帝国はまだ倒れていなかったんですね。
倒れているどころではなくて、ますますその勢いはぐんぐんと増している時であったんです。実際に西ローマ帝国が滅亡するのは、紀元476年でありますから、ヨハネの時代から約370年くらいあとのことです。けれどもヨハネはここで、ローマが滅びると預言したわけです。こんなのはですね、他の人はなかなか信じられないわけです。
しかも、ヨハネがここで「大バビロン」、聖書の中で「大バビロン」と「大」とついているのがあるんですが。
ずいぶん前に「大門建設」っていうのがあったんです。そこの人に「どうして大門建設という名前を付けたんですか。」と聞いたら、「『大』、っていいってことだ」という話でありました。
ですから、「大バビロン」というのも「いいバビロン」という意味になるんでしょうかね。
とにかく、ここで「大バビロン」といわれたのは、神の民に対して、悪の世界の強力な指導力を持っていたのがローマであったから、「大バビロン」と言ったんでしょうね。
それで、人々は、ローマは不滅であると考えていたわけです。繁栄しているローマは不滅である。決して倒れない。
人間というのはね、本当に愚かだと思います。
大きな鳥居があって永久に倒れないかのように思いますけれども、皆さんも写真なんかでご覧になったことがあると思いますが、コリントだとか、ダマスコだとか、ツロだとかの遺跡を見ますと、当時は不滅だと考えられていたんです。
ところが、今はどうです。瓦礫の山でしょう。
もし、皆さんがヨハネの時代のローマに生きている人だとしたら、「これはどんなに神様にお願いしてもローマは倒れないだろう」と思ったと思うんですよ。それぐらい誇っていたんですからね。
当時、ヨーロッパからアジア地方にかけてはですね、ほとんどローマの支配を受けていないところはないんです。
一つか二つ、ビテニヤ地方と、あと小さな独立国ぐらいなんですね。しかもその小さな独立国というのは、王様がクリスチャンで、がっちりとローマの偶像礼拝を排除している国だけであったわけです。
あとは、みんなローマになびいていたわけです。だから、もうこれは「大ローマ」ですね。倒れるなんて考えられない。だから、彼らは、アッシリヤやバビロンやペルシャやギリシャと違ってローマは違うと思っていたわけです。
そういう時代にヨハネはローマの滅亡を預言したんです。
人が不滅だと思っていることほど当てにならないものはありません。
いつでしたかね、「NTTの株を買わない?」と言われて、私は「買わない。」って言ったんですけれども、あれは下がるよ、と思っていたらどんどん下がってしまいましたけれどもね。あんなもの買うものじゃない。みんなあれは下がると思わなかったんでしょ。汚職か何かでどんどん下がっちゃって。
見かけの繁栄ほどもろく崩れるものはない。
その崩れていく原因は何か。政治でもない。経済でもない。人間の堕落によるものです。政治理念を改めても、経済力を強化しても、人間の堕落による滅亡というのはとどめることが出来ない。
ローマはお金がなくなって倒れたんではありませんよ。ローマは政治がいかなくなって倒れたんではありません。人間がダメになって倒れた。特に皇帝たちが堕落したわけです。人間の堕落は留められない。どんなに政治や経済がしっかりしていてもダメなんですね。まず個人が滅亡します。その次に家庭が崩れる。
ネロの家庭はひどいですねえ。ネロは恐ろしいですよ。自分の家族を殺してしまったんです。家族を殺すんですよ。それは怖い。自分以外の者が皇帝になることを恐れたんですね。
さらには、身近な社会が崩壊し、国家が衰退する。繁栄した帝国はみなこの道筋をたどっている。人間の堕落によってです。主義主張ではないんです。
今、私たちが住む日本は、景気がいいとか、金余り現象とか、言われていますが、金余り現象なんて簡単ですよね、大蔵省が印刷機を回せばいいんですから。そうでしょ、お金なんか印刷しているんですからね。そのうち10万円札や100万円札なんかが出てきてね。それで遊び放題に遊んでいる人が多いわけですけれども、これはね、日本の繁栄も見かけですから、クリスチャンはそれを見破らないといけないと思うんです。
身を慎んでいないとそこに巻き込まれていく。底なし沼のように、足を取られて這い上がれなくなってしまう。クリスチャンはその本質を読み取る。
ヨハネはそういうことを教えていると思うんですね。
バビロンは倒れるから気をつけなさい。あとでその理由が書いてありますけれども、クリスチャンはバビロンの本質を読み取り、その先を読み取らなければならない。
それは、神の言葉を知ることによってだ、ということです。
現在は、大日本経済帝国の雰囲気の中で酔って遊び暮らしているんじゃないかなあ、と思うんです。
これは気を付けなければいけませんね。クリスチャンはそれを読み取らなければなければならない。
Ⅱ.次に御使いはバビロンが倒れた理由を述べています。
A.2節でいわれている理由は、非常に象徴的ですね。
1.「悪霊の住まい」
この「住まい」というのはたまり場のことです。ここでは、汚れた霊を持つ人々のたまり場のことですね。恐ろしいことですね。バビロンは汚れた霊を持つ人々のたまり場である。東京もそんな感じがしますね。
2.「あらゆる汚れた霊どもの巣くつ」
これは、忌まわしい悪の陰謀が企てられ、サタンの指揮によって実行に移されているところ。そういう「巣くつ」ですね。
3.「あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつ」
何でここに鳥が出てくるのか。
「憎むべき鳥」、猛禽類ですね。コンドルとか、そういう姿を表しているんでしょうね。ハゲタカみたいに。ハゲタカというのはご存じのように、高いところから獲物を狙うわけです。
神の聖徒を餌食にしようとしている。罠を仕掛けている。そういうのがローマだと、そういっているわけですね。罠を仕掛けて食い尽くそうと、目を光らせている者たちのたまり場。これがバビロン。
なぜ彼らは滅んだか。
そこは、汚れた霊たちや迫害者、憎むべき者どもが、ローマにいるとなんの非難も受けないで安全に保護される悪の温床。
日本のテロリストたちはカダフィ大佐の所に逃げていくとかですね、あういう所に行きますと誰からも非難されないわけです。暗殺しようと何しようと、テロリストのたまり場ですから。カダフィ大佐は自分自身がテロリストですからね。
そういうところに、ハイジャックして逃げていくわけでしょう。そこに行くと誰からも非難を受けないわけです。悪の温床ですからね。だから、怖い。
ローマはそういう状況であった。ローマに逃げ込めばもう安心なわけです。
ですからローマは滅びるに十分に熟した都であるということですね。
B.3節では、再びこの大バビロンが淫婦である特徴が記されていますね。
1.「すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、」
当時のローマは、ほとんどすべての国々にその影響を与えていました。
先ほどお話しましたようにね、ごく僅かの国以外はみんなローマの悪影響を受けていたんです。そして堕落して、神の裁きの葡萄酒を飲むことになる。
2.「そして地上の王たちは、彼女と不品行を行う」
10本の角のことをこの前お話しましたが、地上の支配者たち、王たち、指導者たちは、ローマと同盟を結んで、皇帝礼拝、偶像礼拝の不品行を行っていた。
地上の権力者たちは、ローマのような巨大な力を持つものに弱い。すぐに引きずられてしまう。行きつくところは滅亡。
一般の人々もローマの悪影響を受けていましたが、支配者たちもそうだった。
3.「地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」
この「好色」とは、ぜいたく、放蕩を意味しています。
「商人」とは経済界の人々ですね。貿易商人のことです。
彼らは、ローマのようなぜいたくと放蕩の巨大な消費地を見逃すはずがなかったわけです。消費地ですからね。世界の各地からぜいたくなものを集め、美食なものを集め、ローマで売ったわけです。
私が中学のころ、英語を教えてくれた先生の叔母さんがイギリスに住んでいた。そして、「この世で一番美味しいものは何か、と言ったら、羊の舌だ」というんですね。羊の舌そのものが缶詰になっているんだそうです。私は食べたことがありませんがね。
彼らは世界各地からぜいたく品を集めた。ご存じのように、ローマは戦争で勝って非常にぜいたくになっていた。そこでローマは美食と飲酒と淫蕩の贅沢のたまり場になっていたわけです。
当時のローマの歴史を学ぶとね、朝から風呂に入って酒を飲んでね、日本でもオハラショウスケさんはそうしていたそうですけれどもね、それどこではない。
それで、世界の商人たちは、アリが砂糖に黒山のようにたかるようにローマに押し寄せた。ローマに行けば一旗あげられる。ですから、インチキはいくらでもあったわけです。
そしてまた、皆さんもご存じのように、下手な音楽や詩をね、やっていたわけですよ。みんな家庭教師をつけてね。その家庭教師がみんなインチキなんですよ。ローマは一見華麗な生活を送っていましたが、滅亡の確実な兆しを見せていたわけですね。
人は、贅沢で美食を好み、華麗な生活を求めるようになると、滅亡の兆しであると読み取らなくてはなりません。気を付けたいですね。
現代も貿易商人の人はどこの国の人が、わきまえのない贅沢な心をもっているかを見極めようとしている。
オーストラリアの人の話ですがね、オーストラリアの人はマグロを食べないんだそうです。だからね、オーストラリアの周りの海はね、マグロがたくさん泳いでいたんだそうです。誰も食べない、獲らないんですからね。オーストラリアの人は肉を食べてマグロを食べない。
ある時日本人がマグロを食べるというのが分かったんだそうです。それから一生懸命にマグロを獲り始めた、っていうんですね。自分たちは食べないんです。日本にみんな送ってくるわけですね。
世界のどこの国の人がわきまえなく買いあさるか。最近は象牙を買いあさる人間がいるそうですね。はんこにしたり首飾りにしたりね。象牙を買うのはほとんどが日本人だというんですね。どこの国の人が新しいマーケットになるか。日本が全世界から狙い撃ちされているのは、日本人の贅沢心である。
パウロは贅沢な心について次のような警告を発していますね。
Ⅰテモ 6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。
6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
7節を見ますと、「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」とありますが、皆さん、お生まれになった時に、聖徳太子を握ってお生まれになりましたか。
何一つ持っていくことも、できない。
アメリカの人ですけれどもね、亡くなる前にその人の遺言は「私が死んだら、棺桶に二つ穴をあけてくれ。そしてその穴から両手を出して握られるだけの金貨を握らせてくれ」と言ったんだそうですが、欲の皮が突っ張っていると言えばそうですが、これほど突っ張っているともうおしまいですね。
たとえね、手を広げて何枚かのドル紙幣を握らしてみても、それを持っていくことはできない。私たちは何にも持ってこなかったから、なんにも持っていけない。
今朝も子供たちと話したんですけれども、
「天国に行くときは二つのものを持っていかなければならない。一つは何か。イエス様の十字架を持っていかなければならない。もう一つは、一人だけで行くんじゃなくて友達をつれていけ」って言ったんです
「一人で来たの? 友達もつれておいで」って言われるよ、っていう話をしたんですけれども。
人は金のためなら殺人もする。
金を愛することは根本的な悪の一つです。もし私たちの心がお金を愛することから離れて自由であれば、この世ほど幸いなところはないかもしれませんね。
お金があるから苦労をするわけです。昔のようなのがいいですね。貝を拾ってきて物々交換するとかねえ。
大蔵省が印刷機をまわすからよくないと思うんです。昔は貝がお金であった。だから財産の財の字のように貝偏がついている。
パウロは金を愛することは根本的な悪の一つである、と言いました。お金もこの地上にあって必要なものですが、それに心がとらわれるとバビロンになってしまいますよ、とこういうことですね。
商人たちはローマの貪欲、ローマのぜいたくに目をつけて富を得ましたが、彼らもその結果、滅びたわけです。
Ⅲ.4節からは天からの声が「我が民よ」と、こう言っていますから、神の民に対する警告として語りかけていることが分かる。
A.聖徒たちはバビロンのさばきに巻き込まれないために、バビロンの罪にあずからないために、この女から離れなさい、と警告されているんですね。
旧約の時代を見ると、ヘブル人は他の異教的民族からは離れることによって、神の選民としての資格を保っていたわけです。
パウロもクリスチャンに対して、「この世と調子を合わせてはいけない」と、ローマの12:2で言っていますね。
これは非常に大事な警告であると思うんですね。
これは、ヨハネの黙示録の中でも「荒野に逃げていく」という中に表れていましたね。サタンの勢力の届かないところにいる、ということですね。
この分離というのは、罪の世界からの分離である。それによって罪に染まらないで、神のさばきからも逃れることが出来る、こういうことを表している。
人の目には合同すること、結合すること、手を結ぶことが良い事のように言われるわけですけれども、もちろんそれも大事なことですけれども、聖書は分離の必要を語っています。 クリスチャンであっても罪にかかわる生き方をしているならば、神の刑罰から逃れることはできない。こう教えているんですね。
しかしクリスチャンがこの世の人と物理的に分離してしまうと、イエス様を証することができませんから、この世の人々のあいだで生活しながら、霊的にはこの世の罪に染まらないで、世の光、地の塩としてよい証をしなければならない。離れなさい、というのは、もうお付き合いしない、ということではありません。
逆にこの世にとらわれてしまうと、滅びの刑罰にあう危険性がある。このことを警告しているわけです。
B.5節を見ますと、「なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」と言っていますね。
聖書中に天にまで届いたのがいくつかあります。
①、エジプトで奴隷生活をしていたヘブル人の叫び。
これが天にまで届いてモーセを遣わしたわけですね。
②、バベルの塔を築いていた古代バビロニヤ人の高慢。
これも届いて砕かれてしまう。バベルの塔は天まで届きませんでしたがね。
③、イエス様の降誕の時の人類の罪。これも天に届いたんでしょうね。
➃、さらに、最後の裁きの時の人類の罪であります。
当時のローマの罪も、はなはだしいものでした。
その後、人間の罪はとどまるところを知らず積み重ねられてきた。それはもはや神の所に届くほどになっている。届く時に、神が裁きを行うわけですね。
ですから、私たちはこの地上にあって、よほど避けるようにしていなくてはならない。罪の生活に巻き込まれて、さばきを受けることがないように、気を付けなくてはならないですね。
C.6~8節は、ヨハネ自身の言葉のようですね。
ヨハネは、ローマの罪に対する完全なさばきを神に要求したわけです。
「あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行いに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。」
「彼女」というのはローマ皇帝の一人一人というよりも、ローマやバビロンが象徴しているサタンの勢力を表しているんですね。
ですから、ある人は、ヨハネがこんなさばきを要求するのはクリスチャンらしくないと、中には非難する人もありますが、それは誰かれをさばいてください、と言っているんじゃないわけです。
さばくのは神様。そのさばきを受けるはサタンの勢力である。少しもヨハネは、クリスチャンらしくないということではない。
1.6節では、「彼女の行いに応じて」、「彼女が混ぜ合わせた杯の中には」と書いてありますから、これは、教会と神の聖徒を迫害したことがその理由として上げられているわけですね。
「行いに応じて」とはそういうことです。「二倍にして」というのは十分なさばきを要求しているわけですね。
2.7節を見ますと、ここでは繁栄と権力の誇りがさばきの理由として上げられている。
6節では、教会とか聖徒の迫害に対するさばき。
人間は、どうもぜいたくな生活をするようになると誇りやすい。
そして、「私は誰にも頼っていない」とか、ここに書いてあるように「孤独も知らない、悲しみもしらない。私は女王の座についているから。」と言う。
自分が誇り高ぶっている分だけ、苦しみと悲しみは増えていくわけですね。
人間はいつまでも若さを保つことはできない。人間はいつまでも、繁栄とか権力とか勢力とかを保つことはできません。
その時、高ぶったぶんだけ人は力を失うし、苦しみ、悲しみ、孤独になるものです。これを表しているわけです。
繁栄、高慢に対する神のさばき。
3.最後の8節を見ますと、ローマの繁栄は一日の内に滅びる、と言っています。
ことわざの中に「ローマは一日にしてならず」というのがありますけれどもね、滅びるのは一日のうちです。恐ろしいものです。
繁栄が滅びるのはいとも簡単です。
このあいだもあるニュースをみていましたらね、古い建物をダイナマイトで壊している。ブルドーザーみたいので、ガブッガブッと壊れていく。建てるときは大変だったんじゃないですかね。壊す方は本当に簡単ですね。
ここにさばきに使われる道具が書いてあります。
様々なわざわい、すなわち、死病、悲しみ、飢え、が彼女を襲う。
死病というのは死に至る病気ですね。伝染病をはじめ、次々と新しい病気が現れていますね。エイズであるとか。免疫不全症候群、舌を噛みそうですけれども。
もう薬がないって、いうんですね。ただ死を待つしかない、っていうんですね。まさに死の病、逃れられない。
でも考えてみれば、みんな死の病気にかかっているんですよね。エイズにならなくても。
悲しみ。それは死病から来るものなんでしょうね。
飢え。これは飢饉によるものですね。特にぜいたくに暮らしている者にはね、飢えに弱い。
丁度、戦争や戦後の食糧がなかった時代に、おなかを空かして飢え死にした人があったそうですけれども、ある人の話によりますと、本当は飢え死にする必要はなかったんだ、というんですね。野菜はなくても雑草はたくさん生えていた。それを食べることを知らなかった。だからみんな食べる物があるのに飢え死にした人がかなりある、というんですね。
最後に、バビロンは繁栄し、ローマは悪の力を結集して巨大な勢力になる。
同時に神は力強いお方だ、と言っているんですね。
現代の日本を見ましても、経済大国だといってますけれども、クリスチャンは「彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。」ということを忘れてはならない。
神様の力を見ない者は、この世の力にみとれるでしょ。わあ、すごいなあと、思うんです。ヨーカ堂にも大きなクリスマスツリーが飾ってありますが、「あ、教会もクリスマスをやっている」、なんていう人がありますね。
どうか私たちは、神の力をしっかりと心に留めさせていただきたいと思いますね。
最近クリスチャンはですね、神様の御用をする牧師とか伝道者は、とても名誉なことであり、大事なことであるということを、この世の人は忘れつつあるんですね。この世の経済とか政治とかの方が、何か重要なことであるかのように考えている人が増えつつあるんです。これ大きな間違いですね。
神様を見ないでローマを見ている人は滅びの中にいる。
クリスチャンは神を見て、神の使者に、アンバサダーというのがありますね。全権大使、神様が全権をゆだねた人。これはクリスチャンでなければならないんですね。そういう人が多く起こされて、この世の地位とか、名誉とか、富を求める生き方ではなくて、ローマと運命をともにする生き方ではなくて、神の道をしっかりと歩む、神のアンバサダー、全権大使が次々と起こされてくる必要がある。
この点でクリスチャンは覚醒されなくてはならないでしょうね。
ヨハネはクリスチャンに「我が民よ」と言っていますが、クリスチャンに覚醒を与えている。ローマは大繫盛しているけれども、その彼女をさばく主は力の強いお方なんだと言って、神の民を目覚めさせようとしているんですね。
どうか今の時代、ローマとは違いますが、サタンの繁栄を見るわけです。
これに目を移さないように、奪われないように、心に留めさせていただかないといけないと思います。
お祈り
「主は力の強いお方だからです」
恵みの深い天の神様、ローマも大繁栄をしました。ある意味では現代よりも繁栄していたでしょう。彼らはぜいたくの極みを尽くし、力を誇り、多くの奴隷を使っていた。不滅のローマと言われて、すべての人がそう思い、クリスチャンもそう思い、困難なことだと思っていました。
しかし、今は形も姿も見えなくなってしまいました。ヨハネの預言のごとくに、悪の勢力がいかに栄えても滅びる、ということを私たちは知っています。
この世の栄がいかに虚しいかを教えられ、そしてイエス様の国は永遠に続くことを教えてくださり、彼らをさばく神の力強さを教えられ、ありがとうございます。
この地上にあって、声を大にして神の栄を語るクリスチャンとして、私たちを強めてくださり、さらにこれらの民が起こされるように顧みを与えてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明