音声と文書:ヨハネの黙示録(48) ハレルヤ 19:1~8

イギリスの画家 Henry John Stock (1853–1930)による「The Four and Twenty Four Elders(四つの生き物と二十四人の長老)」(Wikimedia Commonsより)

PDF文書:ヨハネの黙示録(48)


ヨハネの黙示録 19:1~8
19:1 この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
19:2 神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
19:3 彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」
19:4 すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ」と言った。
19:5 また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」【新改訳改訂第3版】

 

はじめに

1.いよいよ、最後のひとくくりに入ってまいりました。

19章あたりを読みますとね、心が踊りますね。ぜひ踊っていただきたい。
私たちが、この地上で経験できることは、詳しく話すことが出来る。しかし、天の御国で経験することはですね、行ってみないとなかなか分からない。
ですから、聖書で書かれてあることを、その中でどのように言っているか、ということしかお話できるに過ぎないわけです。それ以上の事は、皆さんがご自分で行って、確かめていただくしかない。

この場所を見ますと、「ハレルヤ」という言葉が何度も出てまいりますので、今日は「ハレルヤ」という言葉を中心に考えてみたいと思うのですが。
いよいよ、この66巻の聖書の中で、最も素晴らしい章に入ろうとしているわけですね。神様が、創世記以来計画して来られたのは、実に、これらの章であります。目的地に到達しようとしているわけですね。
それは、やがて、私たちが、そこで永遠に過ごすところとなる勝利の都を記している章でもあります。
この章から20章21章と、最も素晴らしい章、聖書全体の中でも最も素晴らしい章と言ってもいいと思います。ここに入ることになります。

2.これまでのところを見ますと、私たちは、長い間、七つのシリーズ、7つのわざわい、神様のわざわいを見てきたわけですね。

特に18章あたりでは「わざわいが来た」と、嘆き、叫びが繰り返されていますね。
そういうような嘆きに比べると、19章は全く反対の「ハレルヤ」の四重奏に変っています。

この「ハレルヤ」のときを、イエス様も、代々の聖徒たちも、私たちも待ちわびているわけです。その時がいよいよやってきたというわけですね。
この時が来るまで、クリスチャンの喜びは、信仰によって保たれている。しかしこの時が来ると、その喜びは、もはや信仰ではないわけです。
神様のご計画がすべて完成する。そして、そこに喜びが湧き上がる。この喜びというのは、私たちが地上で経験するものを超えているわけです。

先ほどお話しました通り、この喜びは、7節に「私たちは喜び楽しみ」とありますが、ここに来るまでに何度も聖書は、「喜び」「楽しみ」っていうのはありましたけれども、ここでいう「喜び」は全然違う。
それまでは、信仰によって経験するものでしたが、7節から出てくる「喜び」「楽しみ」というのは、全然違うと思います。天の御国で全てが完成した時の「喜び」「楽しみ」ですから、これは信仰によるものではない。直接私たちが、神のご計画の成就を目の当たりにして、喜び楽しむものであります。
私たちは、以前地上で一度も経験したことのない、似たようなことは経験したでしょうが、完成した喜びであるということが分かりますね。

3.「ハレルヤ」という言葉は、ヘブル語の音声ですね。「ヤハウェをほめたたえよ」という意味ですね。

「ハレルヤ」というのは、新約聖書の中では、他の箇所ではどこにも用いられていない。「ハレルヤ」は、勝利の主を賛美する言葉です。
私たちクリスチャンは、「アーメン」とも言いますが、「ハレルヤ」をもっと使いたいと思いますね。「アーメン」も大切な言葉ですけれども、「ハレルヤ」は勝利の主を賛美している。
イエス様は罪に対して勝利し、誘惑に対して勝利し、死に対して勝利し、サタンに対しても勝利される。全宇宙の王ですから、「ハレルヤの主」
クリスチャンは、いつも口と心で「ハレルヤ」を叫びたいと思います。ハレルヤ・コーラスを歌う時だけではなくて、毎日の生活が「ハレルヤ」でありたいと思います。

4.この四つの「ハレルヤ」を見ますと、最初の二つの「ハレルヤ」は、大淫婦バビロンの滅亡のために歌われてる「ハレルヤ」というふうに見ることが出来ますね。

後半の二つの「ハレルヤ」は、新天新地の恵みにあずかることを歌っているようであります。よく読んでみると、違いがあるなあ、ということが分かります。

Ⅰ.さてそこで、第1節から見てみましょう。

1節と6節には、天に「大群衆」の声が現れている。
これは、久し振りにみられる天の光景ですね。神様のみもとに、大群衆が集まっている。この前に大群衆が集まっていたのはどこかというと、黙示録の7章9節~17節で、手には棕櫚(しゅろ)を持ち、白い衣を着た群衆が現れているでしょ。あの白い衣を着た大群衆が、ここで再びクライマックスで現れている。ずうっと待ちに待っていたわけですね。

ヨハネは、この大群衆を見ていないわけです。7章の方では、群衆を見ているわけですが、19章では、姿は見ないけれども、ただ声だけを聞いている。こういうのを聞いた、と書いてあります。ここでは姿よりも、大群衆よりも、大声の方が大切だったと思われるからです。
声の方が大切。7章の方では、これほどたくさんですよ、ということを強調したわけです。19章では、姿よりも賛美を強調している。大群衆は待ちに待ったクライマックスに登場することが許された。

映画ではエキストラっていうのがあって、通行人とかがあるそうですが、これはそういうんじゃないですよ。一人ひとりが大喜びで賛美している。
この19章は究極的な最終の状態ではありませんけれども、しかし、ここに入りますと、この段階では二度とサタンが勝利を得ることはない、そういう意味では最終段階が始まったことを意味している。
だから、「ハレルヤ」と歌っている。少し早すぎるような気もしますけれどもね。最後の大審判が行われているわけではありません。
それから千年王国が始まるわけですが、その前に、彼らは「ハレルヤ」を歌っているんですね。サタンが二度と勝つことがない、とはっきりしてきたからです。

A.四つの「ハレルヤ」があるとお話しましたが、まず、最初の「ハレルヤ」を見てみましょう。

これは1節の後半から2節にかけて「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。」

1.ここでは、大淫婦の上に公正なさばきを行われた神をほめ称えています。

ここで「救い」というのはですね、現代、私たちが言っている「罪からの救い」だけではなくて、もっと決定的な意味での「救い」を言っているんです。
これは神の御国におけるすべての勝利、安全に完全に守られる保護、神の国では完全な勝利と完全な保護を意味している。
私たちが地上にあってあずかる「罪からの救い」というのは、「完全な救い」に到達するための入り口であるわけです。
ここに来ますと「全き救い」ですね。ここに来ますとね、再び罪を犯すということもなくなるし、サタンの誘惑からも解放されますね。ここまでいかなきゃなりません。
「救い」と言っているのは、「罪の救い」も勿論含んでいるわけですけれども、それを超えて、「大きな全体的な救い」を言っている。

2.それから「栄光と力はわれらの神のもの」と言っていますが、「栄光と力」というのは、これまで神様がご自分を人間に表すために用いられた手段、方法といってもよいと思いますけれども、神ご自身の現れ、顕現(けんげん)、これが「栄光と力」です。

神様が現れた時にはいつも「栄光と力」があった。神様はご自分を現わすために「栄光と力」を持って現わされたわけですが、ところがサタンも神様に似せて彼の栄光と力を現わした。

サタンの栄光と力というのは何かというと、この世の繁栄と権力。
ですから、マタイの福音書の4章を見ますとね、サタンがイエス様を誘惑しているところがありますね。
そこを見ますと、この世の栄華などを見せたりしていますけれども、この世の繁栄と権力を用いて人々を騙したり誘惑したり、権力を用いて聖徒たちを迫害してきたりしてきたわけです。この地上にいる人々には栄光とか力に見えていたわけです。しかしそれらはみんな偽物であった。偽物をつかまされたんです。

宝石を売っている人なんかね、こんなにチョロイ儲けはないって言うんです。
素人からみてね、宝石の値段なんて絶対にまともな値段なんてつけられない、っていうんです。どうですか、このぶら下がっているものが千円か一万円か、どうやって区別をつけますか。仕入れ値を知っている人以外は分からない、っていうんです。
私の弟がそういう仕事をしている。あいつ、ぼろ儲けをしているな、と思うんです。悪いことをしているんじゃないかなあ、と思うんですが。そうじゃなけりゃ、そんなに簡単に儲かるわけないんです。彼がそう言っていました。おそらく本当だと思うんです。
その代わり、不景気になると、全然売れなくなる、って言っていました。誰も飾り物を食べて生きているわけではないですからね。
一つの賭け事みたいなものですね。気を付けてやらなきゃいけないよ、って言ったものの、どうやって気を付けたらいいのか分かりませんけれどもね。
絶対に素人には値段を付けられないというんですね。
これはもう悪魔の繁栄と似ていますね。悪魔の繁栄はきらきら光っていますけれども、これは偽物。なかなか素人には分からないわけです。騙される。
しかし、ここに来ると、本当の「力と栄光」が残っていると。もうここではごまかしはきかない。これが「救い、栄光、力」
本物はみな神のものである。神様から出たものでないと、みな、偽りだということですね。

3.次に2節で「神のさばきは真実で、正しいからである。」と書いてありますね。

神様は大淫婦バビロンをさばくにあたって、二つの大事なことを示されました。

① 一つには、さばきによって、神が真実で正しい方であることを証明された。

神様はさばかない、ということはないということですね。
神さまが悪を永遠に見逃してしまうなら、神様は不真実になります。不義なるお方になってしまう。
例えば裁判官が、悪を見逃して釈放したならば、非難されると思うんです。
さきのリクルート事件で、秘書の人が罰金刑になっただけで、代議士とか大臣の人が何も刑を受けなかったんでしょ。
だから国民が、おかしいんじゃないか、って思っているわけなんですね。

神様が永遠に悪を見逃したなら、不真実で不義なるお方になってしまいます。
神様はその憐みの故に、まだ罪を悔い改めていない人々が、悔い改めて神にたちかえる者が起こされることを願って、今の悪にすぐに厳しい決定的な審判を下さずに、忍耐深く待っておられるだけですね。この神の憐みを忘れてはならない、こう思うんです。

ペテロの手紙第二 3章9節を読んでみましょう。ちゃんとペテロは教えているんです。

Ⅱペテ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

二千年も経ちましたねえ。
でも、その前に、一日は千年に、千年は一日に、しか経っていないことになりますね。今の時期は、二日目の夕方っていう感じですかね。
人間は、「神様は、どんなに悪いことをしたって刑罰は来ないじゃないか、脅かしだあ」だなんて思っている。けれども、神の憐みは永遠に続くんじゃない。
今は忍耐深くあられる。それには理由があるから。
悪に対して、あるいは不信仰に対して、必ず決定的なさばきの時がくるよ、と言っているんですね。ですから、10節以降を見ると神のさばきのことが記されていますね。
だから、知恵深いというのはこういうことです。
神のさばきがある、ということですね。このことを無視するならば、私たちは自堕落な生活をしてしまうでしょう。

② もう一つ、神様は、この大淫婦をさばくことによって何を示されたか。

19章2節後半、「ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
神様は、報復される神である。

第一番目は、真実、正しさを現わした。
私たちは、復讐することを許されていません。復讐は、神に委(ゆだ)ねなければならない。
聖徒の迫害に対して報復する権利を持っているのは、神様だけです。ですから、聖徒たちは決して泣き寝入りすることはない、ということですね。

申命記の32章43節を読んでみましょうかね。モーセの時代に神はそのことをすでに教えておられる。

申32:43 諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖(あがな)いをされるから。

ですから、私たちはですね, 気をつけなきゃいけないなあ、と思いますね。
不品行によって地を汚した大淫婦をさばく。不品行というのは、特に旧約聖書では偶像礼拝を指していたんですが、偶像礼拝の背後には必ず不道徳なことがつきものですね。
そして、偶像礼拝が地上の民を惑わして、偶像礼拝者を次々起こして地を汚していく。
これは今でも同じですね。偶像礼拝がはびこっている国民の水準は非常に低い。大学に行くから水準が高い、ということではないんです。
南アフリカは、アパルトヘイトといって問題が起きていますけれどもねえ、あういう所に行くと、日本の政治家よりももっと真剣な取り組みをしているだろうと思うんです。

偶像礼拝は必ず神の報復を受ける、ということです。
これが第二番目の大淫婦をさばくことによって、神が示されたことですね。それゆえに「ハレルヤ」と歌っている。
必ず神は報いられるお方、さばかれるお方。
さばかれなかったら、神は不真実な不正なお方、ということになってしまう。

Ⅱ.さて、第二番目の「ハレルヤ」を見てみましょう。19章の3節です。

「ハレルヤ、彼女の煙は永遠に立ち上る。」
ここの「ハレルヤ」は歌ではなくて、宣言のようですね。大淫婦の滅亡の煙が永遠に立ち上ると宣言しています。

預言者イザヤがですね、エドムの永遠の滅亡について同じことを言っているんです。
だから、おそらく、このエドムの預言を背景にして言われているんじゃないかな、と思うんですが、イザヤ書の34章9節、10節を読んでみましょうか。

イザ34:9 エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。
34:10 それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない

この通りになってしまった。この表現は、罪と悪に対する神のさばきが永遠である、ということです。途中で変更になったり、もうこれぐらいでいいだろう、なんて釈放されることはない。
これからするならば、カトリックの煉獄説というのは、聖書に違反することですね。途中から変わる、ということはない。
ですから私たちは罪をそのままにして、死後に何らかのことを期待するっていうのはできない、ということですね。
ですから、これは「ハレルヤ」、徹底的な「ハレルヤ」です。
徹底的な神のさばき、神様がさばいたら、もうおしまい。それから変更するということはあり得ない、ということです。ですから、今、変更可能な時に変更しておかなきゃならない。これが第二の「ハレルヤ」ですね。

Ⅲ.さて、それでは第三番目の「ハレルヤ」に移りましょう。

A.第三番目の「ハレルヤ」は4節~5節に当たりますが、この第三番目の「ハレルヤ」は、二十四人の長老たちと四つの生き物、

特に私たちは、この二十四人の長老たちに注目したいと思いますが、二十四人の長老というのは、もう何度も出てきましたね。 これは旧約の聖徒と新約の教会の代表者たちを指している、というわけです。
ところが、彼らは神の御座近くにいて、神が宇宙を支配している中枢部分ですね、そこをよく知っている、ということが分かる。
神様の御座の近くにいる。そして平伏すものと一緒に神を拝んだ。
彼らが神の中枢部分にいるということは、神様と教会が交わりを持っていることを示している。決して彼らは死んでいる聖徒たちではないということです。
かつて、イエス様が変貌山に登られた時、エリヤが現れましたね。おそらく、彼らは、モーセとエリヤは、この神の中枢部から派遣されてきたのではないか、と思われる。決して彼らは死んでいるのではない。

さて、この二十四人の長老と四つの生き物は、御座についている神を礼拝して、「アーメン、ハレルヤ」と言ったと書いてあります。
ここでは「アーメン」「ハレルヤ」が結び付けられていますね。しかも、他には何も付けられていない。他になんの言葉もない。
神様を礼拝するのには、「アーメン」「ハレルヤ」以外は、人の言葉は必要としない、というのが本当のようです。
私たちも一斉に「アーメン、ハレルヤ」と叫んで、何度も礼拝したいものだなあと思うんです。
よく、イスラム教の人が礼拝しているのを、ニュースとかで見ることがあると思うんですが、一日に何度もですね、5回ぐらいですか、ひれ伏しているんです。しかも、メッカの方に向かってですかね。
仕事をしていましてもね、イスラム教徒の人はね、どうであろうと仕事を止めて礼拝を捧げる、っていうんですね。ベターっとひれ伏して、これは大変なことです。
私たちはイスラム教徒の真似をするわけではありませんが、ああいう人が礼拝を知っているのか知らないでいるかは知りませんがね、この二十四人の長老は「アーメン、ハレルヤ」以外は何も言わないで、ひれ伏して礼拝している。素晴らしいなあと思います。

クリスチャンはたくさんの知識を持っているけれども、この長老たちのように単純に「アーメン、ハレルヤ」と叫んで、ひれ伏してと。こういう礼拝を知らないんじゃないかなあ、と思うんです。理屈をいっぱい持っていても礼拝にならない。ですから、私たちが、もう一度取り戻さなくてはならないものの一つは、これである。
単純に神を礼拝する、こういう事じゃないかなあと、魂の問題です。
これは理屈の問題ではありません。神様の御許にいったらね、理屈なんていらないんです。

この地上にいるとね、神学とか迷い込むものがいろいろありますからね。
ガードレールと同じです、谷底に落ちないために、道からそれないために、知識とかいろいろ必要になってきます。
神の御許にいったら、神学なんかはいらないですよ。神様の御許に行って三位一体論なんて必要ないんです。ばかばかしい、そんなこと。
私たちは「アーメン、ハレルヤ」と、そこに実体である方がいらっしゃるんですから、何も理屈はいらなくなってしまう。
そうでしょ。子供が理屈で「お父さん、お母さんのつながりは」なんていって血液型を調べて納得するなんて、おかしいわけです。理屈じゃない。
こういう礼拝する心というものを、是非この時代に取り戻したいなあ、と思います。
礼拝ってこういうものじゃないかなあ、と思います。

B.さて5節に移りますと、「御座から声がした。」

これは神様の御声のようではありますけれども、「われらの神を賛美せよ。」と言っていますから、これはおそらく二十四人の長老たちの声だったんだろうと思うんですね。
しかも、ここでは「御座から声がした。」とありますから、実は「御座の近くから声がした」という意味だと思います。
ここでは、「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」とこう言っている。
聖徒と教会の代表者である長老たちは、神の御座から天にいる聖徒たちにも地上にいる信仰者たちにも、すべての者に神を賛美するように呼びかけた。もうこれしかない。
最後は神様を賛美するしかないですね。

私たちはもっともっと力を尽くして神を賛美したい。
ここの19章になりますとね、福音を伝える、ということは終わっていますからね、賛美しかないんですね。聖書を学ぶ、ということも終わっていますからね。聖書研究会というのもないんですよ。聖書を学べるのは、この地上で生きている間だけですからね。せいぜいこの地上にいる間に学んでいただきたい。
ずる賢く、天国に行ったらみんな分かっちゃうんだからいいや、なんて、そういう風に考えていただきたくないわけです。
学んでいくと、やはり神様にお褒めいただけますよ。一生懸命がんばりましたねって。
しかも神を賛美するだけでなく、あらゆる方法あらゆる手段を通して、魂の賛美を神に捧げたいなあ、と思います。賛美というのはそういうものですね。
それを彼らは、私たちに呼びかけている。

今も教会は賛美しています。その声は細々しておりますね。近所の人は「やかましいなあ」と思っているかも分かりませんけど。
ある奥さんが子供のころ、お父さんがクリスチャンで、「いつくしみ深き」の賛美の1節だけ紙に書いて貼って歌っていたら、憲兵がやってきて破いていったという話ですがね、そういう時代もあったようです。「台所で賛美を歌っています」と家内に話したそうですけれども。
声が細々していたら、何を歌っているかわからない。聞き耳を立てなければわからない。力と確信、賛美にも力と確信がいると思いますね。喜びと輝きが見られないといけない。
最近のクリスチャンの賛美をみていると、讃美歌の本とか楽譜で顔を隠してね、ああいうのを見るとね、なんかこう、喜びの歌を歌っているんだから、もっとね、輝いて歌わないかなあ、と思うんですよね。

黒人の人達の賛美を見たことがあるんですが、素晴らしいですね。体中が讃美歌になっているという感じですね。かつての奴隷生活の中から救われてきた歴史があるんでしょう。神の憐みというのを感じて歌っている、という感じを受けますね。
知的な教会というのは、どこか冷めきっている。冷蔵庫の中で歌っている。凍りついている賛美は響かない。
讃美には魂の活力と信仰が必要ですね。体中が歌っているようなね、こういうふうになりたいなあ、と思いますね。
ここで「小さい者も大きい者も」と、幼子から大人まで賛美できるようになりたいですね。小さい子でも、さっちゃんなんかもですね、手を叩いたり、足をドンドンしたりして歌ってますね。このあいだも膝を叩いて歌っていましたね。
心の開かれた歌、気持ちよく、心から神様を賛美しているのがいいですね。歌の上手下手でなくてね、音痴な人も年寄も若者も、力を尽くして神を賛美したい。
われらの神を賛美せよ。

Ⅳ.最後に第四の「ハレルヤ」を聞いてみたいのですが、6節を見ますと、ここでは再び大群衆の声です。

彼らの声は「大水の音、激しい雷鳴の音」と書いてありますね。
大水の音とか雷鳴の音、というのは今までも出てきた。
黙示録1章15節の「大水の音」というのは、イエス様の声であった。
黙示録6章1節の「雷のような声」は、四つの生き物の一つの声であった。

かつて、これらの音は、畏敬や恐れをもたらすものであった。あるいは、滅亡の前兆を示すためになされていたり、呪いやわざわいを示すものであった。
大体、親が大きな声を出す時って、どういう時ですか。子供を叱る時とか、頭にきている時とか、でしょう。
今までは、神様の怒りとか呪いとか裁きでありましたが、ここでは全く変わりましてね、喜びの知らせのメッセージに変わっている。
だから、ここは、本当に変わってしまいましたね。今までの恐怖とか呪いとか滅亡は、賛美に変えられている。非常に素晴らしいと思いますね。

A.ここで神様が「ハレルヤ」と賛美されているのは、もはやバビロンに対するさばきの故ではありません。

6節を見ますと、「万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」と言っている。もうバビロンのことなど、どっちでもよかったんですね。
この賛美は、今こそ神様が全宇宙を支配しておられる、という事実の故による賛美、神様が創世記以来ご計画されてきた神の国が建設されたからです。
もう予定ではない。青写真じゃない。もう完成した。霊的、永遠的、神の王国が完成する。そうする時、サタンとサタンに支配されたこの世の力は崩壊してしまったんですね。

神様はこれまでも、サタンの邪魔がはいっていましたけれども、宇宙の支配者でありました。これまでは、この世の人々はサタンの支配下にあったわけですね。第一の獣、つまり政治的指導者、第二の獣、すなわち宗教的指導者たちによって支配されてきた。
それが今や完全にとり払われて、神様だけが王となられた。こういう意味ですね。

B.7節を見ますと、「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」とあります。
1.教会には、喜びと楽しみが満ち溢れた。迫害の時の苦しみも悲しみも消え去ってしまった。

こういうものです。喜びが来ると、かつての悲しみもみんな消えてしまう。
私たちが天国に行ったときに、この地上でどんなに苦しい思いをしたかなんて、みんな忘れてしまいますよ。ローマの迫害にあった人ですらそうなんですから。
今はただ、喜びと楽しみと賛美に溢れるばかりです。
小羊の勝利が私たちにもたらすものですね。
何を小羊の勝利が私たちに与えるかというと、その苦しみと悲しみを全部忘れさせてしまう、ということです。

2.そしていよいよ「小羊の婚姻の時が来た。」

要するに、雅歌書で歌われている、最も麗しい小羊キリストと、クリスチャンの甘美な交わりの時が来たのです。
だから、雅歌書はどういうことか、と聞かれますけれども、雅歌書が分かるには天国に行くしかない。
いよいよ「小羊の婚姻の時が来ました。」
もはや、この交わりは信仰による交わりではなくて、直接的な交わりですね。
地上にいる間は、私たちとイエス様は婚約関係にあるようなものですね。でも天の御国にいったら、もう婚約関係ではない。
この日は、花嫁である私たちクリスチャンの準備が整った時にやってくる。
こう教えられている。

イエス様はマタイの福音書の24章14節で、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」と言われましたね。
まず第一に、この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます、と言われました。
キリストの福音が全世界に宣べ伝えられることが、まず第一の準備。
その次の準備は、私たちクリスチャンが一人ひとり天の国に相応しい者になっていること。
第三の準備は大淫婦、バビロンが滅亡すること。
これらの日は時々刻々と近づいています。

ローマ人の手紙13章11節をご覧いただきましょうか、パウロはそれを感じていたんですね。

ロマ13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

パウロがこう語った時から、もう私たちは二千年近く、この日が近づいてきている。だから、もういつ来てもいい、ということですね。

詩編118編24節も読んでみましょうかね。有名な言葉ですよ。

詩118:24 これは、【主】が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

私たちクリスチャンにとっては、毎日がイエス様から与えられた日です。その日を毎日喜び楽しむことが与えられていますけれども、小羊の婚姻の日というのは、クライマックスですねえ。
丁度、結婚式を前にした若い二人が、胸を弾ませて一日一日を喜び楽しんでいるようなものですね。皆さん、若き日はそうでしたか。結婚式が近づいてくるとき、どうでした?
しかし、結婚式の当日は、それまでの日よりずっと晴れやかな気持ちですね。まさか、うっとうしい気持ちにはならないでしょう。
こうして、イエス様は、この恵みにあずからせてくださるために、私たち一人ひとりを罪の泥沼から救い出してくださったんですね。
ですから、毎日が私たちは喜び楽しみの日ですけれども、小羊の婚姻の日はそのクライマックスの日である、ということが出来ますね。

C.さて8節に移りましょうかね。8節は花嫁であるクリスチャンの装いについて記されております。

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。」

① 黙示録の7章9節、14節では、「大群衆の聖徒たちが小羊の血で洗った白い着物を着ていた」と記されているんです。けれどもこの衣が、「光輝いている」、とは記されていない。

「白い衣を着た」とは書いてあるんですが、「光輝いている」とは書かれていないんです。
私たちは、光輝く衣をどこで見ることが出来るか。これはルカの福音書の9章29節に見ることが出来ますね。
実はこれは、イエス様が変貌山で姿がわりされたところです。

ルカ9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

と書いてあります。直訳的には、稲妻のように光輝いた、という意味だそうですが、これと同じ意味がですね、ヨハネ黙示録19章8節の、聖徒たちの光輝く姿と同じように書かれてあるんですね。
これは栄化された輝きを示しておるわけです。

② この麻布については、さらに解説がついていますね。「その麻布は聖徒たちの正しい行いである」

この「正しい行い」というのは、一般的に言う正しい行いではありません。人は右、車は左、と規則を守ったからといって、正しいという意味ではありません。
これは、「義人は信仰によって生きる」の、信仰による行い、信仰のわざ、敬虔な信仰生活、神様の御前での神の喜ばれる身分、を表しているわけです。
パウロはローマ人の手紙の13章14節で、「主イエス・キリストを着なさい」と言いましたね。キリストを着た者は、あの変貌山で輝いたような白い衣が与えられて光輝くわけですね。
栄化するというのは、栄化されるものを持っていなければならない。
これは私たちが聖霊の力によって、主と同じ姿に変えられていくことを示しているわけですね。栄化されるのはこの地上を去ってでありますが、そこに近づいていくために私たちは聖化されていくわけです。ですから、この地上にあっても、少しずつ主に似た者になっていくことが出来ます。

最終的に光輝く白い衣と化せられるのは、この小羊との婚姻の時ですね。
この日を待ち望みながら、地上の日々の生活を御霊に助けられて全うさせていただきたい。
やがて、この日が来るわけですよ。それは晴れやかな日ですね。その日は何を着ようかなんて心配する必要がない。その日は白い衣を着ることが出来る。
私たちの信仰の生涯も、いつまでもこの地上で戦いを続けるんじゃなくて、「ハレルヤ」と叫ぶ日が来る。
この地上にいる間から「ハレルヤ」を叫びながら、生涯を送らせていただきたい。

お祈り

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることが許された。」
恵みの深い天の神様、
やがて、私たちもこの地上を去る時が来ます。そしてあなたの御許に行き、小羊の婚姻の座に侍らせていただくことをありがとうございます。
私たちは、なおこの地上で、様々な課題を背負ってはいますけれども、それが永遠に続くのではなくして、まもなく「アーメン、ハレルヤ」と叫ばせてくださるあなたの御許に携え挙げられることを、心から感謝いたします。
今日も、またこの地上にある、日ごとの生活が、神を「ハレルヤ」と賛美しながらの一日にどうぞしてくださるように、心からお願いいたします。
この日を待ちわびながら、一日一日を過ごさせてください。
この地上にある物はすべて残さなければなりません。
しかし、主の御許に行く時だけ、私たちは大いなる喜びと楽しみに満ち足りることが出来ることを感謝します。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明