音声と文書:ヨハネの黙示録(49) 小羊の婚宴に招かれた者 19:9~10

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PDF文書:ヨハネの黙示録(49)

上の写真は、1255年~1260年頃に、イギリスで(おそらくロンドンにて)創られた「黙示録」の挿絵「The Marriage of the Lamb(小羊の婚宴)」(ロスアンジェルスの Getty Center蔵、Wikimedia commonsより)


いよいよ、ヨハネの黙示録も、大詰めになってきました。
今日は19章の9節と10節。終わりの方になってきたから、少しずついくというわけではありませんけれども、9節と10節、このニか節を見てみたいと思います。ご一緒に読んでみましょう。

ヨハネの黙示録 19:9~10
19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。
19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」【新改訳改訂第3版】

はじめに

9節と10節はヨハネの黙示録の中で、よく見かけてきた挿入的な言葉です。

いろいろと開かれて、そして幻が出てくる。そういう間に挿入があった。この挿入文、挿入の言葉というのは、黙示録では必ずといっていいほど神の民への祝福を語ってきたわけですね。これはすでに何度も学んできました。
この挿入部分の初めに小羊の婚宴のことが言われております。これはおそらく7節で、大群衆が「小羊の婚宴の時がきた」と賛美していますね。その賛美に合わせて、案内者であった御使いが語ったものと思われる。案内者も黙っていられなくなったんでしょうね。この幻の間に口を挟んだわけであります。

Ⅰ.ここで案内者である御使いは「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」と言いました。

ここに「幸い」という言葉が見られます。これまでにもいろいろ学んできましたが、ヨハネの黙示録には「幸い」というのが七つあるわけです。七というのは完全数ですから、七つの至福が記されている。

A.まずこの「幸い」とは何か、ということですね。

聖書が言っている「幸い」とは、神様の祝福と恵みを受けることの「幸い」です。
英語ではいろいろな言葉がありますね。ハッピーとかラッキーとか。中学生や高校生がよく言いますけれども、ここではハッピーでもラッキーでもない。
世の中の人はハッピーとかラッキーという言葉は知っていますが、「ブレスト(Blessed)」という言葉は知らない。
大学受験に合格してハッピーだとか、テレビに出演できてラッキーだとかは言います。でもこれは本当の「幸い」ではない。なぜならば、多くの有名大学の学生たちが、卒業した人も含めて堕落している。ノイローゼになっている人もいる。テレビに出るのがラッキーだったりハッピーだったりするなら、なぜ、有名タレントたちが麻薬をやったり、酒におぼれたりしているんでしょうか。

聖書がいう「幸い」は、ハッピーやラッキーではなく「祝福」、「ブレスト(Blessed)」です。神様の恵みと祝福を受けなければ、この世の人が思っているハッピーだとかラッキーだと思っていることも、ふたを開ければ空しいものでしかない。かえってそれらが人を堕落させている。
聖書に出てくる「幸い」はそういうものではありません。人を堕落させるものではない。人間の肉欲を満足させる「幸い」ではない。このあたりのことをわきまえておく必要があると思います。人間というのは、自分の思い通りになると、幸いだ、と思いますけれども、決してそれが「幸い」ではない。

B.次にヨハネの黙示録で言っている七つの「幸い」「ブレスト(Blessed)」をご紹介しておきましょう。

一つ一つの詳しい解説は省略しますので、ご自分でどういう「幸い」かを考えていただきたいと思います。

① まず、ヨハネの黙示録1章3節に出てまいります。

黙1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

ここでは、聖書を読む者、聖書の話を聞く者、そのことを心に留める者が幸いだと言っています。まず、ここでは、神様の言葉を、読む、聞く、心に留める者が祝福を受けると言っているわけです。祝福を受けたかったら、まずこういうことをしなきゃなりませんよ、と教えている。
なぜそういう人が幸いなのかは、みなさんにお考えいただきたいと思います。

② 二番目の幸いはどこに出てくるかというと、14章13節に出てまいります。

黙14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』。
キリストの恵みを受けて死を迎えることの幸い。
イエス様を信じて死を迎える人の幸い。

先ほどの賛美にもありました。私も何人かの地上を去る人と付き合いましたけれども、イエス様を信じてこの世を去る人は、本当に恵みや希望がありますね。それに対して、イエス様を知らないでこの世を去る人は本当に絶望的ですね。どうして幸いなのかというと、13章の後半にありますが、それは、真の平安が与えられているから、である。労苦から解き放されて休むことが出来る。

キリストなき死者というのは、永遠に苦しみから逃れることが出来ない。
キリストを信じて、心に迎えて、死を迎えた人の幸い。
キリストにある死者は復活の後、その行いに応じて報いまで約束されている。
非常に幸いな事であります。

③ 三番目の幸いはどこに出てくるか。黙示録16章15節に出てまいります。

黙16:15 ──見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである──

これは、キリストの再臨の時に義の衣を着けている人の幸いです。

これは、お風呂上がりの子供がブラブラ歩いていることをいっているのではありません。イエス様がおいでになる時に、義の衣を着ている人、キリストをまとっている人は幸い。
じゃあ、イエス様はいつ来られるのか。盗人のように来る、と書いてありますから、いつ来られるかはわからない。
しかし、イエス様が来られる時は義の衣を着けておく。いつ来られるか分からない、

しかし義の衣をつけておかなきゃならないというと、どういうことでしょうか。いつ来てもいいように、普段にも義の衣を着けておく者は幸いである、ということになりますでしょ。
イエス様が来る日だけ正装して待っているんじゃなくて、ということになりますね。普段からこの義の衣を着ている人は幸いである。こういうことを教えていますね。

➃ 四番目は先ほど読みました19章9節。

黙 19:9 「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」

これは後程お話しますので省略しましょう。

⓹ 五番目は20章6節になります。

黙20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

ずうっと、だんだんと進んでいる、というのがお分かりいただけますか。

はじめは、この神の言葉を朗読し、それを聞き、それを心に留める人。そしてだんだんと、死ぬ時にキリストの恵みにあずかる人は幸いです。普段からキリストの義の衣をつけている人は幸いです。
と、だんだんと天の御国に向かっていく幸いを教えていますが、この20章6節の五番目は、もうイエス様はおいでになって、第一の復活にあたる。
今まで迫害とか艱難とか殉教した者が復活しているわけですが、この人々は神とキリストの祭司となる。そして千年の間王となる特権を与えられています。千年王国の特権ですね。
王様も千年続けるといいかげん飽きるか、っていう気もしますけれどもね。
かつてね、千年間王様を続けた人はいないですよ。義の衣を着けていれば、最低短くても千年間王様を務められる。

⑥ 第6番目は22章7節

黙22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

また、この現実の世界に戻っていますが、これはキリスト再臨の日まで、神の言葉を堅く守り行う者の幸いを教えています。

⑦ 最後の第7番目の幸いは、22章14節。

黙22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。

さすがに最後の幸いらしい言葉ですね。
「自分の衣を洗って」、この小羊の血で洗って、いのちの木を食べる権利を与えられている。さらに新しい神の都の門を通っていく。永遠の都に入る。千年の王様よりもさらに越しているわけですね。

これらの七つの幸いは、マタイの福音書の5章の山上の説教の至福がありましたね、それの完成したものであることが分かります。あれは地上の神の国の憲章でありますが、ここはもう地上ではなくて、山上の説教の完成したものである。
ですから、お互いに、是非、幸いにあずかる者にならせていただかなきゃならない。
ここに到達するために、私たちは信仰を持っている。

C.そこで19章9節に帰らせていただきますけれども、ここの「幸い」について考えてみましょう。

19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

1.ここでは「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」と言われています。

小羊の婚姻が幸いだ、というのは分かりますけれども、さらに注目したいことは何かというと、「招かれた者は幸いだ」という言葉です。つまり招きの祝福ですね。
余分なことなんですがね、お店なんか行きますと、よく「まねき猫」なんてありますね。日本のまねき猫というのは、外側にこうなっていて、この頃はよく輸出している。外国にいくのはこっちになっているという話ですが、なるほどなあと思ったんですがね。
お客さんを呼び込むために商人のところに置いてあるのだそうですが、ここでは神様の小羊の婚宴に招かれた者の幸いですがね。

何でもそうですが、素晴らしいところに招かれるというのは幸いなことですね。
私のところにもいろんな招きがやってきます。韓国に行きませんか、中国に行きませんか、なんてざらなんですね。中にはこういうのもありますよ、旅費や滞在費も出しますから、なんてね。時間を出してくれたら行くのにと思うんですがね、時間の方は出してくれない。
しかし、小羊の婚宴以上の招きはない。しかもここでは宴会に出席するだけではなくて、小羊の花嫁としての招きですからね、これ以上の招きはない。

聖書の中にはいろいろな招きがありますね。福音の招きは全人類に向けてなされています。すべて労する者、重荷を負っている者は私のところに来なさい、という福音の招き。潔めの招きもあります。すべてのクリスチャンに向かってなされた招きですね。
さあ、もう一つの招きは、小羊の婚宴の招き。これはどのような人になされたのかというと、第8節、すぐ前に書いてありましたね。
黙19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。
とありますから、光輝く衣を着ることを許された聖徒たちの招きである。聖徒にも何種類かの招きがある。ですから私たちクリスチャンは、どこを目指して進んでいるのか、何が目標なのか、はっきりと知っておかなければなりません。
それは小羊の婚宴に招かれるのにふさわしい聖徒になる、ということですね。

このことが分かっていないとね、互いに争ったりね、ぶつかりあったり、高ぶったりして目標を見失ってしまいやすい。道を離れてさまよい始めるのは、やはり、こういう目標がはっきりしていないからですね。だから気を付けなくてはいけません。
教会に来ているすべての人が小羊の婚宴に招かれるわけではないようですね。輝く潔い衣を着ることが許されている聖徒になっていることですね。
そのためには、もちろん救われている必要がありますね。潔められている必要がある。主の道をひたすら歩んでいるということは大切なことだということが分かります。

2.さらにこの案内者である御霊は、このメッセージをですね、ヨハネに「書きなさい」と記されていますね。

書き留めなさい、と言っているんです。
実は、この七つの幸いの中に、14章の13節、二番目の幸いでしたかね、そこでも「書き記しなさい」と書いてありました。最初に出てきたのを覚えておいででしょうか。

黙 14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

「書き記す」というのは非常に重要であるから、すべてのクリスチャンが知っておかなきゃならないものであるから、書き記すようにしなさい、と、こういうことです。書いておくと、読むだけでなく、聞くだけでなく、書き留めておくと後で何度も何度も注意深くその場所を読むことが出来るからですね。

私もこの聖書の引照というのをですね、できるだけこの聖書の言葉を書くようにしています。何章の何節、というだけでなくてね。
七つのこの部分もね、全部書いているんです。書くことは、そこに書いてあるから分かる、だけでなくてね、書くことによって神様の恵みが分かるようになってくる。
極力、み言葉そのものを書き出すようにしているんです。どうせ、聖書を開けば何章何節って書いてあると思いやすいですけれども、手間みたいに思いますけれどもね、神様の言葉は書くんですね。コツコツと書くんですね。そうすると、もっと神様のメッセージが心に深くとめることが出来るようになってくる。

あるお年寄りの方がですね、朝のデボーションの時、お祈りする時に、ゆっくりと聖書の言葉を書き写している、と言っておられるんです。これ、非常に大事なことではないかと思うんですね。そうすることによって、み言葉を無意味に通り過ぎないで行くことが出来る。
ですから、皆さんも暇であれば、お暇であればと言ったら怒られるかもしれませんが、ノートをお買いになって、一つ、み言葉を書き写していくというのは、これは非常に幸いです。
聖書をノートに何冊も写し取る頃には、天の御国に行くことが出来るでしょうかね。一句一句からね、神様の恵みを受けることが出来るようになる。そういう証を聞いて、非常に私は感動しました。真にその通りであるなあ、と思います。
私も朝、聖書を書き写してはいないのですけれども、教えられて、年をとって何もすることがなくなったら、何もすることがないなんて言ったら怒られるかもしれませんが、そういうことも考えの中に入れてね、やっていこうと思いますね。

3.さて、御使いはこれらのことを話した後、「これは神の真実のことばです」とわざわざ付け加えている。

これは小羊の婚宴の招待状に、神ご自身が直筆でサインをされたようなものなんです。このサインは何を意味しているのかというと、この招きを受ける者に与えられる大いなる特権を意味しています。日本人はあまりサインの力というのを知らない。外国に行くとハンコなんてありませんが。
その特権がどのように偉大であるかということ、実際に婚宴に行った人にしかわからないでしょうがね、サインがものを言うわけです。このサインがない者は入れられない。またこのサインは、真実そのものであることを指しています。

サタンはこの世に多くの宗教と偽りの種をまき散らしました。しかし私たちはその偽りの宗教の中から、真正な宗教を選び出す方法があります。それはこの神のサインである言葉を見つければよろしいわけです。
かつて、モーセの時に、神様は十の戒めをご自分のサインで記されている、と書いてあるでしょ。そして、今また、小羊の婚宴の招待状にご自分のサインをされたわけです。神様のみ言葉の真実なサインこそ、永遠に最大の権威を持っているんですね。
私たちは、何を根拠にして天の御国に入っていくことが出来るのか、というと、小羊であるキリストの血と、神のみ言葉の真実なサインを信じていくわけです。

今日、この世の多くの人々は、サインのない偽りの招待状を握らされているわけです。そして、それが偽りであるということも知らないで、喜んでいるわけです。天国に行ける、極楽に行けるって言っていますけれども、偽りの招待状をもって神様の御前に立つときに、「こんなはずじゃなかった。」と言っても通用しませんよ。

このあいだ郵便局に行きました時、古い千円札があった。
窓口にいる女の人がね、私の顔を見て、
「久しぶりにお会いしました」っていうので、
「この前来たじゃないの」といったら、
「いや、この千円札のことです、ずいぶん見かけませんねえ。」。
「これ、スペインから送ってきた。」
「あら、そうですか、最近見ませんね」と話したんですがね。

いつかは買い物で、五百円札を出した時に
「これ、使えるの?」と言われてしまいましてねえ、どうも使えるらしい、と奥の方で話して、通してもらったんですけどねえ。
うっかりすると偽の招待状を持っていくと、騒ぎになってしまう。この間も一万円の偽札を造っていたんだそうですが、よく似ているけれども、違う。サインがないわけです。
小切手なんかも換金するときに、裏側にサインをしなくちゃいけない。該当権利者のサインがあれば、どんなにその額面が大きくても少なくても関係なく換金できる。
どんなに僅かな額面でもサインがなければ、それを現金に換えることが出来ないわけです。

私が中学のころ、初めて小切手を持って銀行に行ったことがある。もちろん親父がサインしたわけです。「ここにサインしたから、これを持って銀行に行けば、お金に換えてくれるから行ってこい」と言われて、自転車こいでいったわけです。「ほんとに僕が行っても換えてくれるのかなあ」と思いながら行ったんですが、銀行の人はね、私なんかどうでもいい、私の顔なんか見ないで、裏側を見て「はい、よろしい」と言って換えてくれた。「あれ、ほんとだ、えらいものだなあ、うちのお父さんは」と思ったことがありますね。そういうものですよ、サインの力。

学生の頃にも私はサインの力を知ったことがありました。先生の名刺の裏にサインを書いてもらってね、ある企業の重役さんに会いに行ったんです。その先生はサインの上にさらに印鑑を押してくれましたから、余計に効果があったのかもしれない。
私はその名刺の裏側を見せながら行きましたね。そしてとうとう重役室まで入っていったんですね。絨毯がフカフカしていて、ひっくり返りそうでしたがね。その時、名刺、サインの力というのを知ったんですね。

私もサインしたことがあるんですがねえ、たいして力はないんですけれども。それでも何人かにサインさせて頂いたことはあるんですけれどもね。
「うちの子がこういう学校に入りたいんですが、先生のサインが欲しいんですが」と、わざわざ京都の方から来られて。「簡単なことですよ、私でよければ」。
しばらくして、「通りました」って松茸を送ってきましたけれども。
松茸で効果があったわけではありませんけれども、サインの力ってあるなあと思いました。
あらゆるサインにまさるサインは何かというと、それは神の言葉なんですよ。神の言葉なしには小羊の婚宴の席に着くことはできない。私たちもね、神のサインを心に持ちたいと思いますね。

Ⅱ.このことを聞いたヨハネは驚いて、思わず御使いを礼拝しようとしています。

A.10節に、「私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。」

黙 19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

礼拝を受けることが出来るお方というのは神様だけですからね。
ヨハネは天使礼拝をしたわけではありません。当時は、天使礼拝というのが異端の中で行われていたんですが、ですからそういう誤解を招くこともあるわけですけれども、ヨハネは天使礼拝をしたわけではなくて、むしろ、彼は思わずそこにひれ伏してしまったわけです。喜びと恐れでですね。
ところが、たとえ思わずの行為であっても、天使は礼拝を受けるべきではありませんから、天使はヨハネに「いけません」と禁じています。

1.かつて、サタンはイエス様を誘惑した時、これを逆に使いました。

マタイの福音書の4章9節で、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言って、悪魔は誘惑しているんですね。
サタンというのはかつての天使の長ですから、天使礼拝がいかに人を堕落させるか。謙遜に見えるけれども、実は神に対する侮辱的な挑戦なわけですね。
神様を礼拝しないで天使を礼拝するなんて、神様に対して侮辱的な挑戦をしているわけです。

2.ですから御使いは「神を拝みなさい」といったわけです。

この天使は非常に忠実な天使であるなあ、と思います。
天使ですらそうなのですから、人間であるモーセもペテロもパウロも礼拝されるべきではない。ですからカトリックがですね、聖徒礼拝なんて、まさにこれは偶像礼拝ですね。ただ、主だけが礼拝されなければならない。
ところが、クリスチャンも人間の指導者に理想像を求めやすい。これ、気を付けたいと思うんですね。イエス様のように到達できる人なんて一人もいません。ですから、やがて理想に届かないから不満を言ったり、批判するようになりますね。
モーセですら非難されているでしょ。パウロも非難されています。結局、モーセもパウロも礼拝されるべきものではない。神ではありませんからね。
神だけを拝む。この信仰が徹底されるべきであると思います。非常に大事なことですね。御使いはこのことをはっきりと教えている。

イエス様も悪魔に対してはっきりと主にのみ仕えるべきだ、とお話なさいました。
実はこの19章10節は、それとほとんど同じ言葉が、黙示録の22章8節、9節にも記されているんです。ほとんど同じですね。

黙 22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

ヨハネがひれ伏そうとすると、御使いが「やめなさい、神を拝みなさい」と言っているところが出てまいりますね。
いろんな学者がいろんな意見を言っているわけですけれども、おそらくこの19章の10節は、22章の8節、9節から挿入したものではないか、混入したものではないかという意見がありますけれども、どちらにしてもヨハネがこれらのメッセージを聞いた時に、ひれ伏して礼拝したくなるほど、畏敬と言いますか、畏れを感じたことだけは事実のようです。
私たちだってそうだと思います。ヨハネは喜んで礼拝を捧げたくなったんでしょうね。

B.それでは、御使いとは何なのか。御使いは自分で言っているわけです。
「私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。」

1.主に仕えるしもべという意味では、御使いはヨハネや私たちクリスチャンと同じだと言っていますね。

ただ、御使いとクリスチャンの違いはどこにあるかというと、御使いは贖(あがな)われる必要がない、救われる必要がない。
それに対して私たちは、贖(あがな)われた神のしもべである。同じしもべですがね、罪から救われたしもべとそうじゃないしもべの違いがある。
御使いも神を賛美しますけれども、御使いは、罪が赦され潔められたキリストの十字架の救いの恵みを、クリスチャンと同じような意味では賛美できません。
だから、クリスチャンは、御使いの持っていない恵みと喜びを経験している。
ですから、もっと主を愛して仕えることが出来るはず。そういう違いがありますね。
ここでは、御使いも聖徒たちも礼拝を受けてはいけない。
ただ、主に仕えるという点で同じなのだと、教えてくれました。
仕える、という点ではあなた方と同じですよ。

2.それからもう一つ、御使いとクリスチャンが同じ意味を持つものがあります。

それは、「イエスのあかしは預言の霊です。」という言葉の中に表されているんですが、御使いも預言をし、イエス様をあかししています。
クリスチャンも神の言葉を話すし、イエス様をあかしします。そして、そのことをさせてくださる預言の霊というのは神から与えられる。どちらも神から与えられる。

ですから、この面でも、御使いもクリスチャンも同じような働きをしている。
御使いは霊界においてこれを果たしているわけですが、クリスチャンは人の人格を通してその働きをしていく。しかし、根本的には同じ意味を持っているということですね。
御使いもクリスチャンも、神様から預言の霊を与えられることなしには、イエス様をあかしすることはできない。預言の霊なしの聖書の話というのは、イエスのあかしじゃないわけです。人間の知恵によるキリスト教的思想や哲学でしかなくなってしまいますね。しばしば、そういう中から、誤謬(ごびゅう)とか異端とかが生まれてきてしまった。預言の霊なしのキリストの話、論理というものは、しばしばあやまちや異端を生み出しているわけですね。

教会の歴史をみてみますとね、三世紀ごろになりますと、モンタヌスという人が出てきました。この人は非常にまじめな人なんですね。
そのころ、教会はいのちを失ってしまって、形式主義であった。三世紀の終わりの方になりますとね、だんだんとローマカトリックが台頭してくる時期でありました。迫害はやんで形式主義になっていった。そして組織ばっかり、そして、監督が権利を持ってきて、だんだんとこの監督を礼拝するようになっていった。

それに対して、このモンタヌスという人は、非常に反論反対した。聖霊を強く強調した。
それがまた、行き過ぎちゃってね、モンタヌスという人は「わたしは、パウロやペテロと同じように神の啓示を受けて、わたしの言うことは神の啓示だ」と言い出したわけですね。やがて彼は、「イエス様はこのフルギヤに再臨される」と言い出した。そして「イエス様が再臨したときには、イエス様の王国で中枢部分に就く」と言い出したものですから、だんだんおかしくなってしまった。
もともとはその教会の堕落を批判して、何とか立て直そうという気持ちだったんですが、真面目なところから出発したんですが、どうも預言の霊に動かされたのではなくて、人間の熱心に動かされてしまった。
人間の真面目さであったから、モンタヌスはそこに陥ってしまった。やがて彼はコンスタンチノープルの会議で異端という烙印を押されてしまった。

私は、彼は預言の霊によってしなかったんだなあということを感じ、非常にまじめで熱心ですが、こういうことって起きるんですね。
何度かそういうことが起きてまいりました。これは気を付けなければいけない。人の知恵によるキリスト教的思想、哲学はしばしば異端を起こしやすい。預言の霊、神から出ていないということですね。
もちろん教会を批判したり、立ち直らせようとしたりするのは大事な面であったかもしれないのですが、これは気を付けたいですね。
自分はパウロなんかと同じように啓示を受けて、変な終末論を着けてしまった。モンタヌスの話をしているわけではありませんから、もうやめますがね、非常な禁欲主義者が起きてきたわけなんですね。

さて、ではこの預言の霊とは何なのか。
これはもちろん御霊によるものですけれども、神の御心とか、ご計画の一切をみ言葉によって悟らせる霊ですね。
ですから、すでにある聖書に沿って分からせてくださる霊である。
イエス様によって啓示された真理の本質を悟らせる。別に新しい真理を生み出しては具合が悪いんです。
真理を悟らせてくださる。真理を人々に分からせるために宣べ伝えさせる霊、これが預言の霊。
これがクリスチャンの一人ひとりに与えられる時に、パウロのような宣教者が現れてくる。人間はどんなに一生懸命にやろうと思ってもね、ダメなんです。人間の力、人間の真面目さ、人間の熱心さというのは、必ずくたびれて棒が折れる。

しかし、預言の霊というのは非常に幸いなことで、クリスチャンになりたての頃はね、イエス様を証することにおびえています。
私も今でこそ、こんなお話をしていますけれども、イエス様を信じて最初のころは、町に出て行って路傍伝道とかいろいろしていました。一人でマイク持っていくなんて、足がガタガタ震えていましたね。別に犬が噛んで何かしたってわけではないんですけれども、ライオンが出てくるわけではないんですけれどもね、ガタガタする。
今は全然震えませんけれども。犬が来たってね、犬が逃げていくんじゃないかなって思いながらやりますけれども。
しかし、この預言の霊が与えられて救われてくると、別人のごとく変えられていって勇敢な宣教者になっていくんです。パウロだってそうですね。
だから、イエスのあかしというのは、預言の霊によってしかできないんだ、ということが私たちに教えられている、ということですね。
御霊はこうして、私たちに幸いな霊を与えてくださったわけです。

私たちは是非、小羊の花嫁になる前に預言の霊に満たされて、そして、主イエスを力強く証したい。人々にキリストの救いを伝えたいものである。
預言の霊というのは、積極的にイエス様に従っていく者に与えられますから、これは、コツコツと主の道を歩み続けていれば預言の霊というのが与えられる。
最初は誰もおっかなかったり、おびえたりする状況があるでしょう。だんだんとね、こういうことっていうのが与えられていく。
御霊は私たちクリスチャンに向かって、 あなたがたもその中に含まれているんですよ、小羊の婚宴に招かれる者に含まれているんですよ、と呼びかけられている。
私たちもこの特権にあずかっていますので、ますますイエス様をあかしするものになりたい。そして御使いとともに、主を礼拝し賛美し仕えるしもべになりたい。その時、私たちは小羊の婚宴の席に招かれるわけですね。
小羊の婚宴に花嫁として列席出来たら幸い。

9節、10節は挿入部分ですが、祝福に満ちた言葉を彼は残していってくれた。
どうか私たちは神の真実の言葉のサインを頂き、小羊の血潮を頂き、光輝く潔い衣を着て、この生涯をたどらせていただきたい。やがて小羊の婚宴の席で皆さんとお会いしたいですね。
あ、あの人がいない、なんてことにならないように、光輝いていきたいですね。

お祈り

「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」
恵みの深い天の神様、主が大いなる栄に私たちを導いてくださることを感謝いたします。
またこの預言の霊を与えて、小羊の婚宴の席につく前に、私たちに素晴らしい、御使いも驚くような奉仕に導いてくださることを感謝いたします。
はじめは怯えおののく者でありましたが、あなたは預言の霊を与えて、強めて、主の御用に役立つ者に変えてくださることを感謝いたします。
ますます残された生涯、神に仕えるしもべとして、また主をあかしするものとして、強められて、主の御用を全うし、小羊の婚宴に招かれ、その席をしめて、あなたの栄を受けることができますように。
この時を感謝してイエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明