音声と文書:ヨハネの黙示録(47) バビロンの消滅 18:21~24
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PDF文書:ヨハネの黙示録(47)
ヨハネの黙示録 18:21~24
18:21 また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。
18:22 立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。
18:23 ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。
18:24 また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」【新改訳改訂第3版】
上の写真は、オランダの地図作家、彫刻画家、出版家である Gerard de Jode (1509–1591) により1585年に描かれた「Icones Revelationum S Ihoannes Evangeliste in Pathmo(パトモスの伝道者ヨハネの黙示録のイコン)」の一枚、「Fall of Babylon(バビロンの崩壊)」(Wikimedia commons より)
はじめに
いよいよバビロンが消滅をしていく場所ですね。19章からは、ハレルヤが始まります。
このバビロンの消滅というのは、単に一つの繁栄した帝国が滅んでいくだけではないわけです。これまでもお話しましたが、ツロの崩壊、ニネベの崩壊、そしてローマの崩壊。これらは、単一の帝国が滅んでいったというよりも、神様の前に悪が滅んでいく、根本的なことを示しているわけですね。
それ故、ここにヨハネが記している幻は、ローマ帝国が滅んでいくという預言にとどまらないで、神様の前に滅んでいく普遍的なことを意味しておる。
ヨハネの時代にはローマが大きな問題でありました。
このヨハネの普遍的悪の滅亡の幻は、すでにイエス様が語られておる。
マタイの福音書23章32節~36節の言葉。これは悪の滅亡をイエス様が預言しているわけですね。そこをご一緒に読んでみましょうかね。
ヨハネの黙示録はいろんなところが基準にされて、言われています。
マタ 23:32 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
23:34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。
23:36 まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
主イエス様はこのみ言葉によって、すべての悪が神の報復を受けることを宣言なさっているわけですね。
ここではエルサレムのことが言われていますが、エルサレムはAD70年のローマ軍の侵入によって焼き尽くされた。
私たちの国でも先の戦争で、東京やいろんな都市が焼き尽くされたという経験がありますけれども、それは神の神殿ではない。
焼き尽くされても、日本人はそれほどですね、深く心に残っているわけではないでしょうが、エルサレムが焼き尽くされる、崩壊するということは、イスラエル人にとっては、神の都が崩壊するということは考えられないですね。不滅の都ですからね。
ネブカデネザルの時も崩壊し、ローマの時代にまた崩壊した。これはイスラエルの人達にとってはショックであったわけですね。現代でもユダヤ民族は心に残っているわけです。
このローマ軍によって焼き尽くされたわけですが、そのローマ帝国がもはや影もとどめていない。こういう事ですね。
実に、悪に対する神の報復の普遍的な宣告であると、いってよろしい。こういうものはすでに歴史の中に成就してきているわけです。ボツボツと歴史を学んでみますと、崩壊している姿が分かる。
ヨハネはその根本的な、そして最終段階における神の審判の幻をここに語っているわけです。
Ⅰ.黙示録の方に帰りますけれども、黙示録の21節では大きな都バビロンを、「大きなひき臼の石」にたとえているわけですね。
A.ヨハネの時代の人たちは、それはローマ帝国を意味していたでしょうが、先ほどお話しましたが、普遍的には、人間の歴史の中に存在していたすべての悪をここに言っているわけです。
ひき臼の石というのは、二つの意味がこの聖書の中では言われている。一つは、生活の必需品。引きうすがなければ豆とか粉とかを作ることが出来ない。また、生活の必需品であるとともに、刑罰の時に用いられる道具でもあったわけです。
イエス様はですねマタイの福音書18章6節でこんなことを言っているんですね。
マタ18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
ここでは刑罰の時の道具として使われていますが、首に石臼を引っかけられたら、
たまったものではない。イエス様はこのように、悪に対しては非常に厳しい宣告をなされているのが分かります。
ここでは、バビロンそのものが大きなひき臼に例えられてしまいましたね。 ですからこれはかなり徹底した神の審判である、ということがわかります。
B.さて、これを誰がさばくのかというと、一人の強い御使いが現れてまいります。
これまでも時々御使いが現れていますが、これは特別な御使いです。これまではシリーズで何人もの御使いが現れてまいりましたが、ここでは特別な御使いが現れている。力がある。
アメリカに非常におもしろい話が残っている。
それはこの21節を話題にして言われていることである。日本にもこういう話があったらいいなと思うような話です。
それは、黙示録にパウロ・バニヤンという人がいた、という話ですね。これは作り話ですが。黙示録と、パウロと、天路歴程を書いたバニヤンとをくっつけている。
この黙示録のパウロ・バニヤンという人は、人並みはずれた力持ちで、体も大きくて、材木の切り出し人夫であった。この黙示録のパウロ・バニヤンが、大都市バビロンという非常に大きなひき臼を持ち上げて海に投げ込んだ、という話があるわけですね。
子供が寝るときに聞かせる話ですがね。これはおそらく、黙示録18章21節を子供に話す時に作られたんじゃないかなあと、思うんですけれどもね。
ヨーロッパの子供たちには、天路歴程なんて聖書の次くらいによく知られていますから。みんな家庭で読んでもらっていますからね。パウロなんかもよく知っていますからね。
皆さんがご家庭で活用なさってもよいかと思いますが、本当は強い一人の御使いでありますがね。アメリカにはこういう話があるなんて羨ましい限りですね。どうしてこういうのが絵本にならないのかなあ、なんて思ったりしますけれども。
それにしても、ここでは一人の力の強い御使いが、ひき臼のような石をとり上げて、海に投げ入れた。
この投げ入れるという行為はですね、一瞬のうちに消えていく、ということです。これは18章の中で何度も出てきましたね。18章の21節の終わりで、一瞬で消えたバビロンのさばき。
あるいは、17節でもありましたね。あれほどの富が一瞬で荒れすたれる。
19節でも一瞬のうちに荒れすたれる。
ここではこのパウロ・バニヤンがワッと持ち上げて、海の中にドボーンと投げ込むんです。それはバビロンが一瞬の内に滅んでしまうということを、生き生きと表現させているわけですね。
さすがにヨハネの表現力の強さがここには見られますが、しかし悪の勢力はこの世に根強くはびこっているように見えます。
いかにはびこっているように見えても滅んでしまうかということが、ここに言わんとしている。
キリストの国は、いかにも弱く風前の灯のように見えています。いつの時代にもね。ところが、二千年の歴史を振り返ってみますと、キリストの国というのは二千年間続いているわけであります。
今も、世の中の人は、キリスト教は弱いとかいろいろ思っているかも分からない。この前どこだかのアンケートをみると、クリスチャンというと「弱い」というイメージがあるんだそうですね。
でも、キリストの国はですね、どんなに弱そうに見えても二千年の歴史を持っている。
これに比べて、悪の勢力というのは、二千年の歴史を持つものはないわけです。
永遠の栄華を誇っていたかに見えたローマも消えてしまった。一瞬のうちに、ですね。またたきの間に消えていく。
御使いが石を海に投げ入れる、という行為の中に記されている。この世の悪の勢力ですね。根強いようで、あっという間に消えていく。
私たちもこういう面をよく心に捉えていかないと、なんか自分たちは弱々しいという印象を受けやすいわけです。
Ⅱ.21節の後半からは、この強い御使いのメッセージです。
A.これまでの悪の勢力は、獣が一度殺されても再び復活してきたように、非常にしぶとくこの世に存在し続けてきた。
ところが異端などを見ましても、ヨハネの時代から、新しいものは一つもない。みんな各時代に現れてくるものは、すでに存在したもののむし返しであります。
今も統一教会とか、ものみの塔とか、ありますけれども、最近できたものではない。その原理はいつも同じであります。ずうっとヨハネの時代から姿がわりして出てくる。
ちょうど雑草のように上の部分を切り取っても、根っこが残っていて、一雨降ると再び生えてくる。消えてはまた現れてくることを繰り返している。
ところがこの強い御使いは「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。」と言っています。つまり終末の神の審判によって、悪は根こそぎ抜かれて、神の国から完全にとり除かれる。
今までは、現れては消える、消えてはまた現れる、ということを繰り返していましたが、最後の時が来る。
ですから、18章の終わりは、悪にとっては最後の時ということになります。
B.しかし、こういうような預言は、ヨハネが初めてしたのではなくて、神様には「救いの計画」とともに、「滅亡の計画」も神にはあるということです。
そのことをエレミヤとエゼキエルが預言しているんです。
エレミヤの51章60節~64節を見て見ましょう。
エレ51:60 エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。
51:61 エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、
51:62 『【主】よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、
51:63 この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、
51:64 『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる』と言いなさい。」ここまでが、エレミヤのことばである。
「このように、永遠に荒れ果てさせる。バビロンは沈み、浮かびあがれない。」
エレミヤは、すでにサタンの勢力、サタンに従う者の運命の預言をしていたわけです。だから、今のどんな時代にあっても、サタンが繁栄しているように見えても、その先に行く運命というのは決まっている、ということを私たちがよく知らないと、こういうものに憧れたり、誘惑されたりしてしまう。
エゼキエルもそのことを言っております。エゼキエル章 19節~21節まで読んでみましょうか。同じようなことを言っていますね。
エゼ 26:19 まことに、神である主はこう仰せられる。わたしがおまえを廃墟の町とし、住む者のない町々のようにするとき、深淵をおまえの上にわき上がらせ、大水がおまえをおおうとき、
26:20 わたしがおまえを穴に下る者たちとともに昔の民のもとに下らせるとき、わたしはおまえを穴に下る者たちとともに、昔から廃墟であったような地下の国に住ませる。わたしが誉れを与える生ける者の地におまえが住めないようにするためだ。
26:21 わたしはおまえを恐怖とする。おまえはもう存在しなくなり、人がおまえを尋ねても、永久におまえを見つけることはない。──神である主の御告げ──」
ここを見ますと、「深淵を湧き上がらせる、穴に下る者たちとともに昔から廃墟であったような地下の国に住まわせる」と完全に分離されてしまう。
そして、「誉を与える生ける者たちの地には住めないようにする」と言っていますね。
「人間が彼を見るとき恐怖となる。もはや存在しなくなる。尋ねても永久に見つけることはできない。」
偶像の世界は、この世にあって虚しいけれども、神のさばきを受けるともっと虚しくなる。恐怖であり、廃墟になるということです。
ですから、私たちは、このことを深く覚えて地上の生涯を送る必要があるわけです。
自らここに陥らないだけではなくて、そこに陥る者を救い出す働きをしなければならない。
こうして、ヨハネは御使いの幻を書いているわけです。
いかに悪の勢力、大いなるバビロンが滅んでいくか。
大繁栄したこのバビロンが滅んでいく。
ですから、どうぞ、私たちは周囲にいろいろ繁栄した姿を見ますが、それは消え失せてしまうということを、心に留めておかないといけないわけですね。
C.さて、ヨハネの黙示録に帰りますが、22節~23節では、なくなるものが五つあげられています。
今日は、そのひとつ一つをとり上げてみたいと思います。
1.第一は、22節のところにありますが、「立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。」
竪琴というのはハープですね。昔から人の住むところには音楽があります。
音楽と人間の生活は切り離すことが出来ない。小さい子供でも音楽が必要ですね。これは大事なことだと思います。人間の魂には音楽が必要です。
しかし、すべての音楽が神を賛美したのではない。サタンを讃美する音楽もあれば、肉欲を満足させるための音楽もある。昨今の音楽の頽廃ぶりは極限にきていると言われています。
私もよく知らないんですけれども、とくに若い人たちの音楽はですね、いろいろな頽廃ぶりを言われていますが、これは若者の魂の虚しさの叫びではないかと思うんですね。
あるいは、サタンに支配された者の吠え叫ぶ声かも分からない。こんなことを感じるわけですね。
教会は、やはり、今日の頽廃した音楽の中で、青年たちに、あるいはすべての人に、心から神を賛美する音楽を与えなければならないと思いますね。放っておけば頽廃した音楽にのめり込んでいってしまう。
悪の世界で歌われているサタン礼拝の音楽もあります。肉欲的な音楽ですね。これはサタンとともにその勢力が消えて滅亡してしまうということを、ここでは語られている。
現代も新しい歌が次々とクリスチャンに与えられている。私もそういうのをよく聞いたりしてね、若い子供たちと一緒に音楽を習ったりしますけれども、クリスチャンはこの音楽に関心を示して、神様を心から賛美するという音楽を取り戻す必要があると思いますね。
放っておくと、転がっていって頽廃した音楽などにどっぷりつかってしまう。
ですから、彼らはやがて沈黙の世界に陥れられるということになります。
私たちは人々を、とくに若者を、頽廃した音楽の中から救い出さなければならない。こういう使命があるわけです。
最近はいろいろなテープとかCDとかが出回っておりますけれども、一面良い面もありますけれども、一面悪い面もある。
そういう音楽で彼らの魂が蝕まれていくということだってあり得るわけです。しかしそれらはみな消えてしまう。こういうことを言っているわけです。
もう一度音楽の面でも人間の心を取り戻していく必要がある。
2.第二番目に消えていくものは、「あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。」
現代はハイテクノロジーの時代と言われているわけです。
昔は、高級な技術というと、医学や電子技術の世界であったようですね。ところが、今では微生物の時代から、農業もハイテク、宇宙もハイテクと職種を伸ばしていっている。
このようなハイテクノロジーは、創世記のバベルの塔のように、だんだんと神の領域に入っていけるかのように思いあがってきたわけです。バイオテクノロジーですとかね、神さまが創造しなかったものを創造しようとする。あるいは人の命まで創造しようと計算し始める。
これは、私はね、いよいよバベルの塔の時代が来たなあという感じがしますね。ですから聖書はこう言っている。「あらゆる技術を持っ職人たちも、もう見られなくなる。」
神様はバベルの塔の時には言葉を混乱させましたね。
今度は、それに携わっている技術を取り除いてしまうだけではなくて、技術者もなくしてしまう、と言われていますね。
だから、これは気を付ける必要があると思うんです。
人間が試験管の中で誕生したのではね、神の創造に傷がつく。
アメリカではそういう人が誕生して子供になっているようですけれども、こういうことが増えてくると、えらいことが起きてくると思うんです。
人間の世界ではない世界が現れてくる。
これは、もっと、人間は神によって造られた被造物であることを悟って、へりくだっていかなければ、人類は完全に滅びるということになります。
これが第二番目の消えていくものですね。
今は、ハイテク時代と謳歌されていますけれども、決してこれは安全なことではない、ということですね。聖書を見ましても、現代を予言しているなあ、と思います。
3.第三番目になくなるものは何か。「ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。」
先ほども少しひき臼の話をしました。
ひき臼は神の刑罰にも用いられましたが、このひき臼の音というのは、生活の音、喜びに満ちた生活の音ですね。
ちょっと、イザヤ書の24章8節~12節を読んでみましょうか。
ここはひき臼のことだけではありませんが。
イザ24:8 陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。
24:9 歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。
24:10 都はこわされて荒地のようになり、すべての家は閉ざされて、入れない。
24:11 ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。
24:12 町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。
生活に活気を与えてくれたすべての声や音が消されてしまう。
エゼキエル書の26章13節も見てみましょう。
エゼキエルの26章はツロに関することが書かれているんですけれども。
エゼ 26:13 わたしはおまえの騒がしい歌をやめさせる。おまえの立琴の音ももう聞かれない。
つまり、生活に活気を与えていたすべての音や声はかき消されてしまう。
なぜこうなるのか。
都が悪だからですね。すべての物質的なものが、悪の故に朽ちていく姿を記しておる。喜びは全部消えていく。
世界のすべてのものが、根本的にサタンに従っていたということではない。
知らないで従っていたかもしれません。しかし世界のすべてのものは、サタンの悪によって汚されている。その影響を受け入れてきてしまった、ということですね。
これに大きな問題がある。竜とか獣、政治的な悪の指導者、偽預言者、こういうものの汚れた霊、汚れた考え、汚れた思想、汚れた計画、汚れた支配、こういうものに人類は従ってきたからです。その結果、生活に活気を与える喜びに満ちた音が消されていってしまう。
クリスチャンは、この世にあって、この世にならわず、この世に染まらないように生きていかなければならない。この世の慣わしから離れていかなければならないことが教えられております。
すべての生活の音と声が消えてしまうとは何なのか。それは死の世界を意味するんです。
神の国だけが賛美と喜びの声がするんです。
4.第四番目に消えていくものは何か。23節で「ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。」
先には、消えていくものは音とか声でありましたが、消えていくのそれだけではなくて、光も消えていってしまう。もはや暗黒の世界。死の世界。地獄ですね。
地獄ってどんなところかというと、音と光と熱を失った世界と言ってよろしい。
ブラックホールの世界ですね。音もなければ光もない。熱もない。あらゆるものが消えてしまう。
こういうことは旧約聖書の中で、小さいことですけれども記されているんです。
出エジプト記10章21節~23節をご一緒に読んでみましょうか。
出 10:21 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」
10:22 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。
10:23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。
ここを見ますとね、どのくらいのやみであったか。これは非常に恐ろしいやみですね。
21節を見ますと、「やみに触れるほど」と、やみに触れることができるっていうんです。
23節を見ますと、すぐ近くにいても誰も見ることができない、自分の場所から立つこともできないほどの暗やみであった、と書いてあります。
ところがイスラエル人の住むところには光があったと、書いてあります。
こうして神様は、神が支配される領域と、サタンが支配する領域を明確に区別されているということが分かります。
これはモーセの時代のことでしたが、しかしヨハネの時代を見ますと、今読みますと滅びの世界には光がない。
さらに進みますと、ヨハネの黙示録の21章23,24節を読んでみましょう。
そこにはちゃんと光がある。
黙示21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
ここの光は、太陽や月の光ではない。神の栄光が都を照らす。小羊が都の光である。
こういうように滅びの世界には光がない。神の国には光がある。
これはかつて、モーセの時代にエジプトに暗黒が、そして、イスラエル人の住むところには光があった。神の支配される領域と、サタンが支配する領域を明確に区別し、それを光によって区別されている。こういうことが分かりますね。
イエス様は暗やみに追い出すということを何度も使っています。これは大事なことであると思いますね。いくつか拾い出してみたい。
どういう人が暗やみに追い出されているか。
まずマタイの福音書の25章30節。
マタ25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
ここはタラントの話ですね。
一タラント貰ったしもべは怠け者で、土の中に掘って埋めておいた。この役に立たない愚かなしもべに対して、外の暗やみに追い出してしまいなさい、と命じられている。
同じマタイですが、マタイの福音書8章12節を読んでみましょう。そこにはどういう人が暗やみに放りだされるか。11節12節を読んでみましょう。
マタ 8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
「御国の子ら」というのは、ユダヤ人たちのことを言っている。神の選民としてのユダヤ人たち、イスラエル人たちのことを言っているんですが、彼らは大きな特権を持っていたんです。
しかし彼らは、不信仰の故に外の暗やみに放り出されてしまう。民族的特権を神様からいただいておりましたが、彼らは外の暗やみに放りだされてしまう。
こういう外側からの特権ではなんの意味もない。活用しなければならない。
同じくマタイの福音書22章 13節を見てみましょう。そこではどういう人が放りだされるんでしょうかね。
マタ22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。
これは、婚礼に礼服を着けないで来た人がいた。
当時の婚礼というのは大変だったんです。今の私たちは、葉書で招待状がきますけれども、当時は招待すると着てくる洋服まで添えていたんです。
最近の案内状なんてどうですか。平服でどうぞ、なんて書いてありますが、本当に平服でいいんでしょうかね。婚礼に平服なんて本当に失礼なんです。
ですから、婚礼に招待しますとね、「この服を着てきてください」と、ちゃんと礼服を付けて招待したんです。
結婚式なんてめったやたらにできなかった。簡単に離婚なんてしたら、大変なことになってしまう。
この礼服を着けない人というのは、キリストが下さる義の衣をつけずに御国に入ろうとする人々の事です。
現代でいえば、洗礼を受けたから天国に入れると思っている人もいるようです。信仰がなくても、あるいは、長い間教会に行っていますから、天国に入れる、と思っている人もあるかもわからない。うっかりすると、「私はミッションスクールだったから」なんていう人もいるんで気を付けなければいけませんね。
それだけでは 天の御国に入れない。イエス様が下さる義の衣が必要だということです。これがないと暗やみにほうりだされる。こういうふうに言われているんですね。
私たちが天国に入る時には、ちゃんとこの婚礼のように入る洋服をくださる。着物のことではありませんけれどもね。
心の中の義の衣をくださる。信仰が必要だ、ということですね。
イエス様は、信じる者に対してはこのように警告しています。
ヨハネの福音書8章12節を読んでみましょうか。
ヨハ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
これは非常に大事なことだと思います。ヨハネもこう言ったでしょ。
Ⅰヨハ1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
これは同じことを言っているわけですね。
では生活的な意味で、やみの中、光の中、というのはどういうのか。同じくヨハネが語っていますので、ちょっと見てみたいと思うんですね。
ヨハネ第一の手紙2章8節~11節を見てみましょう。
Ⅰヨハ2:8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
2:9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
2:11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。
ここでヨハネはやみの中にいる者、光の中にいる者の違いを語っていますね。
憎しみというのはやみを現しますね。これに対して愛というのは光の中を歩む。
愛しているなら躓くことがないと言っています。愛は躓きを与えない。
これは私たちの生活の中で行うべきことですね。自分がやみの中にいるのか、光の中にいるのかは、この言葉に照らし合わせてみるとわかる。
もう一つパウロはこういっています。パウロはエペソの5章8節でこういうふうに警告しています。ご一緒に読んでみましょう。
エペ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
私たちの毎日の歩みが、永遠のやみに行くか、それとも永遠の光に行くかを決める。毎日の歩みが憎んでいるか、愛しているか、このあたりが非常に大事です。
最後に決定的なみ言葉を読んでみましょう。ヨハネ福音書1章5節を読んでみましょう。ヨハネの福音書は、光とやみを対比させて書いてある書物つの一つですね。
ヨハ1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
光、これはキリストのことです。キリストはサタンの支配のこの世に輝いている。そして、サタンの支配の中にいる者がキリストに勝てなかった、すなわち、キリストを悟らなかった。こういう意味を持っているわけですね。
やみというのは地獄の特徴の一つである、というのがこれで分かったかったわけです。
光がなくなってしまう、というのが第四番目であります。
5.第五番目になくなるのは何か。「花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。」
この世では、無数の花嫁、花婿が生まれてきました。ところが、もはや一人もいなくなる。
つまりそこには神からの祝福もなく、互いの祝福もなくなるということですね。未来もなければ希望もない。愛もなければ喜びもない。
そして声も音も光も熱も消えてしまった世界には、もちろん愛も祝福も喜びもあるはずがない。滅びであるということになる。
Ⅲ.なぜこうなってしまったのか。
この強い御使いが語っている。23節の中ほどに「なぜなら」と書いてありますね。その理由は二つ言われています。
A.第一は「すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」
この世の繁栄の魔術に騙されていたからです。
これからも極楽が来る、天国がやってくるように思われたわけですね。
ちょうど、戦後の日本の成長期がそうであったでしょ。神武景気とか岩戸景気とかあったでしょ。これから、ますますよくなるという話を聞いていたんですが、実際はそうではない。
つまり、サタンの魔術、この世の繁栄の魔術に騙されていた。その魔術の仲介をしたのが商人たちである。商人たちはここで、地上の力ある者と言われていますね。つまり人々の欲望をかきたてて、貪欲主義、快楽主義をもっとあおりたてて、経済効果を上げていったわけです。
全世界の人はこの魔術にひっかかって、主を捨てて、富の奴隷になってしまった。
ですから彼らともにサタンと一緒に暗やみに放り出されることになってしまった。
これが第一原因であります。
B.第二の原因は、ヨハネにとって、クリスチャンにとって深刻な問題です。
24節に「預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」と書いてありますね。
サタンの権力のもとに、ローマの権力のもとに、神のしもべたちを迫害して殺したということです。
マタイの福音書23章節で、
マタ23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。
義人アベルというのは、創世記の最初に出てくる、お兄さんに殺された人ですね。最初の殉教者。
神殿と祭壇の間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、これはイエス様の最後の殉教者、イエス様の時代までですけれども、地上で流されたすべての血の報復が、あなた方の上に来る。こういうことを言っているんですね。
殉教と迫害のためである。ここには、恐ろしい運命、悪の世界、サタンの支配下にある者へ臨もうとしていることです。そして、これは二度とない、最終的な神のさばきである。
ですから私たちはなおこの地上にあって、サタンの誘惑、サタンの惑わし、持ち物の欲、見る物の欲、いろんな物がありますけれども、こういうことをよく覚えて、少なくとも魔術に騙されず、迫害に屈服せず、神の道を歩んでいかなくてはならない。
このことを覚えて祈り、また福音を伝えていきたいと思うんですね。
そして、ついに勝利を得られる。サタンは永遠に働く者ではないということです。彼らの持っているものはみな失われていく。先ほど学んだように、彼の国には光もない、音もない、望みもないですね。
神の国にだけ光があったということを、心に留めさせていただきたい。
お祈り
恵みの深い天の父なる神様、神の都には光がありました。
サタンの都には光が失せてしまうことを今日も知りました。ありがとうございます。
今もサタンの惑わしがあります。様々な迫害が続いて行われています。しかし、それはやがて終わりの時が来る。しかも一瞬のうちに、ひき臼が投げ込まれるごとくに終わりが来て、もはや見出すこともできない時が来ると、この預言がされています。
そして、間もなく、それが行われようとしているこの末の時代に、どうか私たちがしっかりと眼を開き、これらのことを深く覚えて、惑わされずにこの生涯を全うし、また、主の教えを広げることが出来るように、どうぞ顧みてください。
この時を感謝して、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明