音声と文書:ヨハネの黙示録(50) その名は神のことば 19:11~16

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PDF文書:ヨハネの黙示録(50)

上の絵画は、ドイツの画家 Gebhard Fugel (1863-1939) により1933年に描かれた「Sieger Christus(勝者キリスト)」。(Scheyern修道院蔵。Wikimedia commons より)


ヨハネの黙示録 19:11~16
19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。【新改訳改訂第3版】


はじめに

11節を見ますと、すぐに飛び込んでくる言葉が「開かれた天」です。

19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

かつて、人が罪を犯さなかった時代のエデンの園には、いつも天が開かれており、神様と人との交わりが自由にされていたわけです。ところが、人が神様に反逆したとき、天は鉛のごとく固く閉ざされてしまった。

ヤコブがパダンアラムに行く途中、ベテルというところに来て夢を見ましたね。天から梯子(はしご)が下りてきて、御使いが上ったり下ったりしている夢であった。これはやがて、閉ざされた天が開かれて、もう一度神様と人との交わりが回復していく預言的な幻であったわけですね。その梯子(はしご)というのはもちろんイエス様をさしている。イエス様を通して、人と神が交わっていくという預言的な幻。

それからは、あまり天の窓というのは開かれなかった。モーセの時代、時々、神様が天から下って、天が開かれた時もありましたが、それとて、すべての人に開かれていたわけではなかった。

第二列王記の7章2節を読んでみましょう。
ここを見ますと、天が閉じられているということを人間が直感的に知っているな、ということが書いてありますね。

Ⅱ列王7:2 しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

エリシャの時代のことですがね、非常な飢饉が起きて困っていた。
その時エリシャは、明日の今頃、サマリヤの門では小麦が大安売りで売り出されますよ、と言うと、侍従がですね、神様が天に窓を作られてもそんなことはない、そういうことはあり得ないと言っているわけなんです。

ひっくり返してみると、天は閉じられている、ということを人間は無意識の内に認識していたということですね。
今の人も、神様なんていないんじゃないの、神様がいたら何でこんなことが起きるの、とかおっしゃいますけれどもね。反対側から見ると、人間は天が閉じられているということが分かると、こう言うわけですね

新約聖書を見ますと、イエス様がバプテスマを受けられた時に天が開かれました。

マル 1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

これは、長く閉ざされていた天がちょっとだけ裂けたわけです。
どういう音がしたのかわかりませんがね、ビリビリといったのか、どうか。
裂け目が出来た。しかしこれは天が完全に開いてしまったのではない。
けれども、イエス様によってやがて天が大きく開かれるようになる、ということで、天が開かれるということは何を意味するかというと、聖霊が下る、ということであった。

それから、ステパノが殉教するときも天が開かれた。
これは使徒の働きの7章55節と56節に書かれてある。

使 7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

どうも、この天が開かれていたのを見たのは、スタパノだけだったようですね。
他の人には見えなかったようです。ステパノが殉教する寸前ですね。

もしかしたら、私たちがこの地上を去る瞬間に天が開いて、人の子であるイエス様が神の右に立っておられるのが見えるかもしれない。
皆さんもイエス様を信じていれば、きっと天が開けて、イエス様が立っておられるのがお見えになると思いますよ。

この「開かれる」という言葉は、ヨハネの黙示録の内容をよく象徴していると思います。七つの封印なんかも次々と開かれていますね。幻によって今まで隠されていた真理が開かれていく。

レベレーション、黙示録。
これは「啓示される、今まで隠されていたことが、真理が開かれていく」、という意味がありますから、「開かれた天」というのはヨハネの黙示録全体を象徴するような言葉である。

しかし、ここでヨハネが見た「開かれた天」というのは、これまで見た幻からもう一歩進んでいる。だんだんと最終的なものに近づいていっているように思われます。
前の方には開かれた門がありましたがね、ここではすでに天が見えてきた。ですから、いよいよアダムの時以来ずっと閉ざされてきた天が、大きく完全に開かれてくる前兆、しるしだとみることが出来ますね。

さて、ステパノは開かれた天の向こうに、イエス様が神の右に立っておられるのが見えたわけです。
ヨハネは何を見たんでしょうね。ヨハネはこの開かれた天に、白い馬に乗ったお方が見えた。ステパノが見たのとはちょっと違いますね。
「見よ」と言っていますから、ヨハネはびっくりするような思いでこれを見たということが分かります。

Ⅰ.実はこの「白馬に乗った騎士」というのは、前にも出てきているわけです。

A.黙示録6章2節、ここにも「白い馬」が出てまいりました。

もう一度思い起こしていただきたいんですが、

黙6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

ここを見ますと、白い馬に乗っている人は「弓」を持っていた。また、「彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」と。

文語訳聖書では、
「かつ冠冕(かんむり)を與(あた)へられ、勝ちて復(また)勝たんとて出(い)でゆけり。」

と語調よく書かれています。これを読むと、すごいなあ、と思います。連続の勝利ですよ。常勝の神といって、常に勝つ神、っていうのがありますがね、これは勝ってまた勝たんとて出ていく、というわけです。

白馬というのは勝利を意味している。白というのは勝利を意味しているんです。人間の世界では「白旗を上げる」というと負けを意味し、お相撲さんは白星というと勝ちですわね。ここでの「白」は勝利であり純潔でもあります。「馬」というのは「戦い」を意味しています。「征服」を表す。

かつて、イエス様がエルサレムに入城された時は、何に乗ってこられましたか?
ロバですね。マタイ福音書21章5節から7節にありますね。その時、イエス様はロバに乗られました。これはどうしてなんでしょうか。
ロバで戦いに行く人はいないわけですから、ここでは馬に乗っています。
エルサレムに入城したときは「柔和の王」としておいでになった。その時に示されたのは、イエス様が私たちの心の中を占領するため、心を支配するため、「柔和の王」として私たちの心に満ちてくださるため、それを象徴するためにロバにお乗りになった。

ところが、ここではイエス様はロバではなくて、「白い馬」に乗ってこられた。
ですから、これは征服するものが違う、ということですね。
もはや、もう私たちの心ではなくて、この世のすべての悪の勢力、サタンと戦って勝った王である。
最終的な全宇宙の支配者であることを示しておられる。

B.さらに、このお方はですね、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、と言われています。

実は、この忠実とか真実というのは前にも出てきました。
黙示録3章14節で、ラオデキヤの教会の手紙の中に書いてあります。

黙3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

「忠実で真実である」ということは、イエス様が語られた教えや約束やなされた御業は、すべてが忠実で真実である、偽りがないということです。
すべてが完全でありますから、私たちが安心して信じてよい、ということです。信じてよいということはね、また、信じなければならない、ということでもあるんですよ。
人間は、真実であることを信じなければならないようになっている。もし、真実であるものを信じなかったら、その真実が私たちを傷つけます。
例えば、私たちが空気を吸って生きることが出来るというのは真実ですよ。
それを拒否したなら、死ですよ。真実を拒否することはできないんです。
イエス様が真実であるということは、信じなければならないということが意味されている。
真実であっても、信じなくてもよい、ということは何一つないんです。

それと同様に、イエス様の裁きも全く正しい。
戦いのために来られていますから、イエス様の戦いは正しい戦いである。
ですから、逃れるための抜け道だとか、妥協案とかいうものはないということですね。
イエス様に逆らう者にとっては、イエス様が忠実で真実であるということは非常に恐怖なんです。妥協がありませんから。
この時のイエス様の裁きは、猶予も憐みもありません。すべてが厳正に行われる。こういう事なんですね。
忠実で真実であるということは、信じる者にとっては非常に素晴らしい事でありますが、逆らう者にとっては脅威を表す。逃げ道がないということなんです。

11節の終わりに「義をもってさばきをし、戦いをされる。」と書いてあります。ここに書いてある「義」というのは永遠の神の義ですね。これを規範にして行われる。
イエス様の前に立つときに、自己義をもっていくら弁解しても何の役にもたたないということになってしまう。
自分がどんなに一生懸命にまじめにやってきた、ということをおそらく言い訳すると思います。しかし何の役にも立たない。神様の義によってはかられる。

イエス様も、マタイの福音書5章20節で、こうお話しています。

マタ5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

律法学者やパリサイ人の義とはどんな義か。
これは信仰の義ではありません。行いの義です。
その義にまさる義とは何なのか。

パリサイ人や律法学者よりも、もっと頑張って律法を守ればいいのかなあ、と思うかもしれませんが、ここはそういうことを言っているんじゃないですね。
パリサイ人や律法学者よりまさる義というのは、「信仰」のことですね。
だから、私たちが、信仰によらないで天に行こうと思ったら、道は一つなんです。生まれてから死ぬまで一回も罪を犯さない、ということですね。

イエス様がここでおっしゃっているのは、パリサイ人や律法学者よりまさる自己義があるなら天の御国に入れる、と言ったんじゃないんですよ。
信仰によらない自己義では、天国には入れない、ということを示された。
ですから、神様の義が示された時に合格するには、私たちが頑張ってする義ではなくて、イエス様を信じる信仰の義がある、ということです。

じゃ、自己義はどうなのか。
神様の前で一生懸命頑張った義とは一体どういうものなのか。これはイザヤが教えてくれました。一生懸命に頑張った義はどの程度のものなのか、ということを。

イザ64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎(とが)は風のように私たちを吹き上げます。

神様の前で一生懸命にまじめに生きる、それは汚れたもののようであり、不潔な着物のようだと、書いてありますね。一生懸命に努力しても神の前ではシミのようなものである、ということですね。
ですから、イエス様は永遠の神の尺度によってさばきをされる。
キリストの血によって贖(あがな)われていないすべての罪、咎(とが)、悪、不義、汚れと戦われる。キリストの贖(あがな)いなしにこれに立ち向かうことが出来る人は一人もいない、ということです。パウロが、信仰による義と語っているのもここにある。

Ⅱ.さて、ヨハネの黙示録の方に帰りましょう。12節と13節を見ますと、このお方の目、頭、衣、名について語られている。

A.12節、「その目は燃える炎であり、」と書いてあります。

黙 19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

ヨハネの黙示録では、「その目は燃える炎」というのは二度出てまいります。
1章14節にも出てまいります。2章18節でもテアテラの教会に対して書かれた手紙の中にも書かれています。

「燃える炎の目」とはどういう目なんでしょうかね。
「燃える炎の目」というのは象徴的ですけれども、すべての物を見通す目。
ですから、イエス様の前では隠し通せるものは何もないということです。
レントゲンも鉛の壁を通すことはできないようですがね、イエス様の燃える目はすべての物を見通す。ですから、隠そうとすることは愚かであるということですね。裁きを受ける前に自ら告白して、主の赦しと潔めを頂いた方が賢い。
逃げ回るより自主した方が良いっていう話がありますけれどもね、私たちも自主するってわけではありませんが、イエス様に告白した方がよろしいということですね。

B.次は頭でありますが、「その頭には多くの王冠があって」とあります。
1.聖書中、ヨハネの黙示録ほど「冠」の記事が記されている書物はありません。

その「冠」もいろいろです。2章の10節を見ますと、

黙2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

これは、忠実な信仰者に与えられる「冠」ですね。

黙13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。

これはあまりよくない「冠」ですわね。神さまを汚す獣がかぶっている冠。
10個も冠をかぶっている。この世の支配者がかぶっている冠、獣がかぶっている冠もありますね。

今お読みしましたのは、キリストがかぶられる冠である。この王冠を見ますと特徴がありますね。
多くの冠をかぶられていた、とあります。一つや二つではない、多くの冠です。

これまでも、イエス様はいくつかの冠をかぶられてきたんです。
例えば6章2節、白馬の騎士の冠、これは一つですね。

黙 6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

14章14節を見ますと、刈り入れをする人のような方の頭には金の冠がある、と書いてあります。この金の冠も一つですね。

黙 14:14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。

ところが、19章になりますと、多くの冠をかぶっておられます。
ヨハネが見た幻は一体どんなものであったのか。
冠が一つなら想像できますけれども、多くの冠をどんなふうにかぶっていたのでしょうか。
イエス様に10個も頭があったわけではないし、冠の上に冠を重ねていたんでしょうかね。
それとも小さな冠がたくさん載っていたんでしょうかね。

ヨハネがどんなふうに冠があったのかを書いてはいませんけれども、この多くの「冠」が意味することは明らかです。
この「冠」はキリストの至高なる権威、権力を表します。
獣も10個の冠をかぶっていましたけれども、キリストは多くの冠をかぶっていました。はるかにまさる数えられないほど多くの冠ですね。
地上のあらゆる権力にまさる権力を表しているわけですね。

C.次に、衣でありますが、「その方は血に染まった衣を着ていて」とあります。

黙 19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

これはイエス様の十字架の血がついていたのかなあ、と思いますけれどもね、
この血はもはやキリストご自身の血ではないんです。
これは戦いに出ていった血とありますからね、これは戦いによって敵の血がここに染まっていた、返り血ということです。

1.15節の終わりのところを見てみますとね、「この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」と書いてあるでしょ。

黙 19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

これは非常に象徴的な表現でありますが、「神の激しい怒りの酒ぶねを踏む」というのは、実はこれはイザヤ書の63章1~6節から引用されているんですね。ヨハネはそのことを理解していたんですね。

イザ 63:1 「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」
63:2 「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
63:3 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
63:4 わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。
63:5 わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。
63:6 わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。

これは、当時のユダヤの葡萄の汁を絞る方法を知らないと、分かりにくいかもしれません。ユダヤの国では庭に土で固めた舟のようなものが土間にあるんです。私たちは酒ぶねと言うと何か桶のようなものを想像しますが、桶で作ったものではなくて、土で踏み固めてあるんです。そこに刈り入れてきた葡萄を入れて踏みつけるわけです。ですから踏みつけている人というのは、着ている衣にぶどうの汁が跳ね返るわけですね。びしょびしょになるくらい跳ね返る。

これは、イエス様の復讐の時が来た、贖(あがな)いの時が来たと言っていますから、最後の時にこれがなされるわけです。ですから、これは十字架の血によって赤く染まっているのではありません。敵の返り血なんです。
この幻はすでに戦いが始まっているか、終わっているかの幻です。
これはキリストの怒りがどれだけ激しいか、この裁きがいかに厳しいかということを物語っています。

Ⅲ.次に、このお方の名前について考えてみたいと思いますが、この名前は三つ記されていましたね。一つはお話した「忠実また真実」です。

1.次に、多くの王冠に書かれている名前ですが、12節の終わりに、「ご自身のほかだれも知らない名」が書かれていたとあります。

黙 19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

これはどういうことか。
人間はこれまでイエス・キリストというお方を、いろいろな言葉で表現したり、絵をかいたり、哲学で説明しようとしたり、いろいろな理解の仕方をしようと努力してきました。
けれども、この名前を誰も知ることが出来ない、というのは人間の知識とか知恵ではキリストの人格を極めつくすことが出来ない、ということです。
イエス様ご自身の神秘というのは、三位一体ばかりではなくて、あらゆる面でキリストご自身だけが理解できることで、私たちにはキリストを理解しようと思っても理解できないということです。
私たちにできることはただ信じることだけです。
それを人間は信じようとしないで、愚かな頭でキリストを知り尽くそうとするんです。

ある先生がね、私の書いた本を読んで、全部消化してしまいました、と言いました。愚かなことを言うなあ、と思って。
そんなに簡単に消化するなんてことはできないんです。私たちは食べた物でも完全に消化してはいませんよ。ずいぶんこの人は横柄な人だなあと思いました。消化するなんてそんなに簡単なことではありませんね。
キリストが分かったら信じるという態度。これでは、決して私たちには分からないということです。

2.その名は「神のことば」と呼ばれていたと書いてある。

黙19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

このことはヨハネの福音書の1章1節のキリストのことですね。
有名な言葉ですが、こことそっくり同じことですね。

ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ずいぶん前のことになりますが、東京の学生さんが文通していた人から返事が来たんですって。
私が、どんな返事が来たの、って聞いたら、
ヨハネの福音書の1章1節が書いてあってね、「これどんな意味なの、ちんぷんかんぷんで何も分からなかった。」って言うんですね。
「ことば」っていうのは、キリストっていう意味だよ、と言ったら、「そうなんですか」ってね。
しかも、「英語で書いてあったからもっと分からなかった。」ってね。

つまり、これは自己啓示をするキリスト、
自分自身を現わされるキリスト、
ご自分の性質を現わされる、ご
ご自分の救いの御業(みわざ)を現わされる、
ご自分の人格を現わされる、
人間に現わされたお方、という意味です。

この「ことば」というのはね。「初めにことばがあった」というのはそういう意味ですね。「ことばは神とともにあった。」
「ことば」は表現することですから、キリストが「神のことば」と言われるのは、ご自分を啓示された、ご自分を人間に現わされた、それが「ことば」という意味ですね。

3.もう一方、16節を見ますと、もう一つの名前が出てまいりますでしょ。「王の王、主の主」ですね。

黙19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

これはずいぶん支配的な意味を持っています。
これは自己啓示する神、贖(あがな)い主であるお方は王でなければならないということです。
王でない救い主などありえないわけです。
イエス様は私たちを罪から救うために十字架の苦しみを受けられました。しかし、イエス様は死から甦(よみがえ)って支配者となる王となられた。
王でもなく、救い主でもない支配者なんてない。
この世の支配者であっても救い主にはなれない。
ですから、イエス様だけが唯一のお方、王なんです。
救い主である王、王である救い主です。この両方が整わないとならないわけです。

ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

これは、啓示のことばと、支配する、ということを教えてくれる聖句です。
神のことばは先ほど出てきましたね、啓示する、自己啓示をする神、イエス様のことですね。
ですが、この啓示のことばは、キリストを表わすと共に私たちの心を裁いたり、支配する、ということが書いてあります。
両刃の剣と書いてありますね。19章15節の前半を見てもそうです。

黙19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

口から鋭い剣が出ている、というのは1章16節でも書かれていますね。

黙1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

「口から鋭い剣が出ている」、というのは明らかに神のことばのことですね。神のことばを、剣と言っているわけです。

ヘブル人の手紙4章12節でも、これは真理の言葉のことだな、ということが分かります。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

この剣を見ますと、「両刃の剣」と書いてあります。
両方に刃がついている。剣というのと刀(かたな)というのは違いますね。
日本刀というのは、刃が一つでしょ。剣は二つ刃がついていますから、二つの方向に切れる。

神の言葉というのは切り方が二つある。
真理であるキリストのことばを受け入れる人には、救いの真理として働く。その真理はその人に自由を与える。
キリストのことばを拒む者には裁きの真理として働く。そしてその人を打ち滅ぼしてしまう。

イエス様は受肉した真理、人間に啓示された真理であります。
ですから、この真理によって人は救われたり滅ぼされたりする。
信じる人には永遠の命を与えるし、信じない人には滅びを与える。
人を救う手段はイエス・キリスト、人を滅ぼす手段もイエス、キリスト、両刃の剣ということですね。
ですから、私たちは、イエス・キリストに対しては、受け入れるか、拒むか、どっちかしかできないということです。中立な態度はとることができない。
イエス・キリストは私たちの最終的運命の支配権を握っている、ということが分かる。

4.さらに15節の終わりを見ますと、「鉄の杖をもって彼らを牧される。」と書いてあります。

黙19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

詩篇2章9節をご覧いただけますか。これはキリストの最終的な支配について預言されているところなんです。

詩2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。

これを読んだとき、私は本当に恐ろしかったですね。
ここではもはや救いのことではなくて、破壊、滅亡の支配のことを言っています。鉄の杖が焼き物を粉々にし、今度は自分の上に振り下ろされると思ったら、身震いしますね。
これがキリストを拒否した人々に対する裁きです。キリストは最高権力者である。これに抵抗できる人は誰一人いないということを、この鉄の杖は表している。
ですから、この鉄の杖というのはキリストのゆるぎない裁きを示している。
キリストは、確実にしかも決定的に信者と不信者とを分けられる。善と悪とを分けられる。永遠にすべての人の運命を決定されるという意味ですね。
「鉄の杖で牧される」というのは、決して鉄の杖で可愛がられるという意味ではありません。これは大変なことを預言されている。

Ⅳ.最後に14節についてお話したいと思いますが、

黙 19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。

ここには、キリストの後に天の軍勢がつき従っています。
彼らを見ますと、6章では白馬の騎士があらわれましたが、あの時は手に弓矢を持っていたわけです。武器を持っていたんです。
ところが、この天の軍勢は武器を持っていないんです。そのかわり、真っ白なきよい天の衣を着て白馬にまたがっている。

ですから、6章の騎士は戦いに出ていくことを表わしていますが、ここでの天の軍勢はもはや武器を持っていないので、戦いに出るということではない。
真っ白というのは勝利を意味している。
霊的にきよい衣を着ている。勝利の白い馬に乗っている。
ですから、もはや彼らは物質世界の戦いに出るのではなく、霊的戦いに出て行っているということが分かる。
この軍隊は、堕落した人の世界の、政治家だとか、にせ宗教家たちとか、こういうものと戦うためではなくて、道徳的、人格的、霊的な悪との戦いのために出ていった。

これは何を言っているかというと、物質的繁栄が神の国の基盤ではないということです。いくら物が豊かになっても決して人間は幸せにはならない。幸せでもない、満足でもないということを示している。
神の国の基盤というのは物質的繁栄ではない。神の国は物質的世界にはないということを教えている。
パウロは同じことを言っていますね。

ロマ14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

飲み食いのことではない、というとお食事してお互いに交わってはいけないということを言っているんじゃなくて、物質による繁栄の事ではないということですね。
つまり、霊的なことが神の国の基盤である、ということですね。
霊的勝利が、人格的道徳的勝利が、神の国の基盤である、ということを幻は教えている。

お祈り

その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」であると言われた。
恵み深い天の父なる神様、イエス様は私たちにご自分を示された。
素晴らしい神の勝利を備えてくださりありがとうございます。
一歩一歩とこの地上の旅を続けておりますが、主よ、どうぞ、私たちに霊的勝利を絶えず与えてくださいまして、神の御栄(みさか)えが現わされる時、あなたのみもとに携え挙げてくださるように顧(かえり)みてください。
きよい衣を着て、軍勢が出て行っていますが、どうぞ、この私たちの世界になくてならないものは、このきよい霊的人格的な勝利であることを心に留めさせてください。
この時を感謝してイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明