音声と文書:ヨハネの黙示録(60 最終回) 輝く明けの明星 22:13~21

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PDF文書:ヨハネの黙示録(60 最終回)

ヨハネの黙示録 22:13~21
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。
【新改訳改訂第3版】


上の写真は、スペインのバロック画家、Pedro Orrente (1580–1645)により描かれた「San Juan Evangelista en la isla de Patmos(パトモス島の伝道者聖ヨハネ)」。(マドリッドにあるプラド美術館蔵。Wikimedia commons より)


はじめに

このヨハネの黙示録を、約一年半、60回にわたって学んでまいりましたが、ついに終わりの日を迎えました。
こうして終わりの日を迎える時に、いつも感じることがあります。
やがてこの終わりの日が来るんだなと、そして、イエス様の御許に携え挙げられる日がやがて来る、一刻一刻と近づいていることを感じるわけです。

しかし、私たちは聖書を学ぶことによって、自分が最終的に行くべきところはどこなのかを知ることができる。
そして、その前に何が起きるのか?
さらに、自分は神が計画された歴史の中でどういう時代に住んでいるのか?
また、自分は今この地上の生活で、どのような生き方をしていけばいいのか?
こういう事をはっきりと知ることができるわけです。

旧約聖書のアブラハムのような人物でも、はっきりとそういうことを目指して進んでいたわけですね。
アブラハムの生涯を見ましても、ヘブル人への手紙11章を見ますと、彼はやはり神の都を目指して地上の生涯を送っていたということが、書いてあります。

ヘブル 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。 ・・・・・

うっかりすると私たちは、最終的に行くべきところを目指さないで、この地上のことだけに目を止めていきやすい。そうすると、私たちは旧約の人たちよりもっと光が少ないということになりかねません。
こうして、ヨハネの黙示録を学んでまいりましたが、このことは私たちの残された生涯に非常に大きな影響を与えるようになると思われます。

Ⅰ.さて13節は、21章6節にもありましたので、繰り返すことを避けますが、「わたしはアルファであり、オメガである。」

これはギリシャ語の最初の文字と最後の文字で、「最初であり、最後である」、「始めであり、終わりである」。これは神の永遠性を表す、ということはすでにお話したとおりです。

A.14節、15節には、聖なる都に入ることのできる人の資格が、もう一度あらためて、ここに記されているわけです。

黙 22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。

聖書を見ますと、何度も「資格」というのが書いてあります。こういう人は入れるんだ、こういう人は入れないんだ、とですね。
14節では聖なる都に入れる人の資格、15節は入れない人の資格。
入れない人の資格、というのはおかしい言い方かもしれませんが、14節は積極的な面での資格であり、15節は消極的な面での資格であるといえるでしょう。

① 14節を見ますと、「自分の着物を洗った者」とあります。

聖なる都に入ることのできる人は、自分の着物を「何で」洗った人なのか?
黙示録7章14節の終わりのところに、こう書いてありますね。

黙7:14 ・・・・・ その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

ですから、この「洗う」という意味は、洗濯するということではありませんね。
これは、キリストの血による救いと潔めの恵みを持っている人のことを言っているわけです。
パウロも同じことを言っているんですが、テトスへの手紙3章5節で大切なことを言っています。

テトス3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

ここに、「新生と更新との洗い」と書かれています。
私たちが聖なる都、新しいエルサレムに入るためには、洗礼を受けているだけでは十分ではありません。教会に行っているというだけでも十分ではない。
キリストの十字架の血潮による救いと潔めを内側に持っているということが大切なんだ、必要なんだ、ということを、この「自分の着物を洗って」の中に、実は記していたわけです。

② 第二に、キリストの救いと潔めを保っている人は、「いのちの木の実を食べる権利を与えられ」ると書いてあります。
ここには新しい権利が与えられていますね。

いのちの木と、いのちの木の実については22章2節で出てきましたので、詳しいことはそこでお話しました。が、このいのちの木の実は、創世記3章24節以来、人間はずうっと食べることが禁じられてきたわけです。

創 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

禁じられた原因はただ一つ、人が罪を犯したということですね。それで、食べることができなくなってしまった。
しかし、この罪がイエス・キリストの十字架の血潮によって取り除かれた。その救いと潔めに与った者には、再びいのちの木の実を食べる権利を与える、と書いてある。

かつては、人間はこのいのちの木の実を食べることによって、永遠に生きるように神に造られていたわけです。
ところが、このいのちの木の実を食べることを禁じられると、人は必然的に、罪の刑罰として死ぬということを経験するようになったのです。
ですから、今、人間は100パーセントの確立で死を経験しています。だから、いのちの木の実を食べている人は一人もいないということがこれで分かります。

ところが、神様は永遠のいのちを人に回復させるために、最初からいのちの木を食べさせるという方法ではなく、イエス・キリストを信じる「信仰」によって、永遠のいのちが与えられる道を開かれたのです。
ですから、現在私たちは、信仰によって永遠のいのちを心の内側に持つことができる。だけど、まだいのちの木の実を食べる権威を与えられていないわけです。

ところが、ここで初めて聖なる都に迎え入れられると、もう信仰は必要ありませんから、信仰によって永遠のいのちを持つのではないんですね。
今度は、聖なる都ではいのちの木の実を食べる。このいのちの木の実というのが、現実にエデンの園にあったものと同じかどうかは分かりません。聖書はそれ以上のことを言っていませんから。
しかし、少なくとも私たちが、信仰によってではなく、直接、神様から「永遠のいのち」が得られる恵みであることに違いはありません。
そういうものが私たちは権利として与えられる、ということですね。これは素晴らしい事です。この権利がなければ、私たちは天の御国で生きていくことができない。
これは、人間に与えられる基本的な神の国の権利であります。
信仰によって永遠のいのちを得る方法と、御国に入っていのちの木の実を食べる権利と、少し違うわけです。

それは、子どもが胎児としてお母さんのお腹の中にいる時と、出産後の生活の営み方とは違うのと同じですね。
胎児の間は、酸素や栄養はへその緒を通してお母さんから受けているわけですが、出産すると今度は自分の肺で酸素を吸い、栄養は口を通して食べるようになるのと同じです。生活のシステムが変わってくるということです。
私たちは今、信仰によって神のいのちを頂いています。この地上では胎児のようなものですね。しかし、天の御国に行くと一人前の子どもです。

クリスチャンは、この地上でも永遠のいのちを持っていますが、しかしまだ不自由な状態で、はっきりと永遠のいのちを自覚していない状態です。
しかし御国に迎え入れられると、もっと活発なものになり、はっきりと永遠のいのちを自覚できるものに変わっていくわけです。
これが永遠のいのちの木の実を食べる権利ですね。これが与えられる。
この地上にあってはまだこの権利を持っていませんので、信仰によって命を保つことが大事である。

③ 「都には門を通って入る」、ということが書いてあります。

黙 22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。

都の門については21章12節から21節で詳しくお話しましたので、省略しますが、一つだけ付け加えておきたいことは、この「門」とは、イエス様が「わたしは門である」と仰った「門」ですね。
これはヨハネの福音書10章9節で仰せられたことです。

ヨハ 10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

聖なる都に入る人はすべて、キリストという門を通って入るのだ、ということを忘れないようにしたい。
イエス様はこの門を通って入らない人は盗人だ、強盗だ、と仰いました。

ところが、この世の人々は、しばしばこう言いますね。
「どの宗教も同じようなことを教えている。キリスト教もいいことを言っているけれども、仏教もいいことを言っている。」
大事なことは、同じようなことを言っているかもしれませんが、真理の中身は全然違う。
また、こうも言います。
「同じところに行くなら、どの道を通って行ってもいいじゃないか。どの宗教でも天国に行くならいいじゃないか。」
しかし、間違わないで頂きたいことは、聖書はキリストという門を通って行かなければならない。
出発はどこであってもかまいません。マルクス・レーニン主義から出発しても、こんこん様から出発してもかまいません。
しかし、神の御国に入ろうとする時は、キリストという門を通らなければ最終的にはそこに到達できないと書いてある。

富士山に登るには吉田口から登ろうと、どの口から登ろうとかまいませんが、富士山と神の御国は同じではない。キリストという門を通って入らなければ、この都に入ることはできない、と聖書は教えています。

➃ そして最後に、「幸いである」と書いてありますが、これは前回7節でもお話したとおり「羨まれるほどの祝福を受けるようになる」ということです。

私たちは、この地上に生きている間に人に羨ましがられたり、羨ましがったりしてはいけないと思いますね。
最終的に羨まれるような人にならなければいけませんね。
もし、私たちがこの地上での、物質的か、地位か、名誉か、この世的な僅かな富を貰って喜んだりして、神の道を外れ、神の道を歩くことを怠ったならば、この最終的な大きな祝福を失ってしまうことになります。
これはプラスの面、積極的な面の条件ですね。

「自分の着物を洗う」、「いのちの木の実を食べる権利」、「門を通って入る」、これが三つの大きな条件です。
こうしてこの「幸い」に到達できるわけです。

B.これに比べて、15節は、都から外に追い出される人々のリストです。

黙 22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。

最初のところに、総称して、「犬ども」と書いてありますが、これは、子ども流に言うところのワンワンのことではないのです。
聖書は何回か「犬」について書いてありますが、あまりいい意味で言われていないわけですね。幾つか聖書を開いて見てみましょう。

① ルカの福音書16章21節で

ルカ 16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた

イエス様はここでわざわざ「犬」と書いてあるんです。
ユダヤの国では、豚も食べてはいけない、飼ってもいけなかったわけですけれどもね、犬もあまり好ましい動物ではなかったわけです。
誰も寄り付かない、犬のようなものだけが寄り付いていた、ということを言っているわけですね。
イエス様がここで「犬」と書いていますが、決していい意味で使っているのではない。

② 申命記23章18節では

申23:18 どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、【主】の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、【主】の忌みきらわれるものである。

「犬のかせぎ」と書いてありますね。「犬」が稼いでいたというんです。これはもちろん動物の犬のことではありません。
「遊女のもうけ」と並べて、汚れた商売で得た金銭を神にささげてはならないという意味です。「犬」というのは、ある特定の人間をさしていたということですね。

③ マタイ福音書7章6節でも、面白い用い方をしております。

マタ7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

ここに「引き裂く」と書いてありますが、豚が人間を引き裂いたりはしませんね。
ここでも、神様のことを拒否し、汚れた生き方をする人のことを「犬」とか「豚」ということばで表している。
ヘロデなんかは狐なんてイエス様は言ったりしていますからね。

ルカの福音書を見ますと、
「子犬でもテーブルから落ちたパンくずは頂きます」というところがありますが、当時の意味からすると大変なことを言ったわけです。「私はそういうような取るに足りない人間です。」という意味なんですね。
ここでは犬と豚を同列に置いているわけです。イスラエルでは豚は汚れた動物であり、飼っても食べてもいけない。犬もその部類でありました。

➃ ピリピ人への手紙3書2節で、パウロは「警戒しなさい。」と言っています。

ピリ3:2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。

ここでは、悪い働き人に「犬」という名前を付けていますね。
こうしてみますと「犬」というのは、良いことには一つも使われていない。

聖書では「馬」というと戦いを表していますし、「豚」というと汚れを表します。
「犬」というと悪い働き人、悪い人達のことであります。「犬のかせぎ」というのは、悪い働き人のことです。

ユダヤ人の間では「犬」ということばは特定の意味を持って語られていました。ユダヤ人は犬をペットにしたり番犬にしたりはしませんでした。ユダヤ人が「犬」という時は、社会の除け者、脱落者を意味し、あるいは道や通りで残飯を漁るものとか、あるいは野蛮で卑しい泥棒とか、盗人とか、こういう人たちを指して言ったわけです。

さらにユダヤ人は、しばしば「犬」ということばを異邦人に対しても使いましたね。

ヨハネがここで、神の国に入ることができない、相応しくない人たちを「犬ども」と総称して言いました。これは、汚れたすべての人を指しているわけです。

この「犬ども」と呼んだ人たちの内容、幾つかの種類の人たちが書いてあります。

まず第一に、「魔術を行う者」。現代でいえば占いとか迷信。今も盛んになっている星占いとか運勢占いとか、いろんなのがありますね。

第二に、「不品行の者」

第三に、「人殺し」。現代人はいつも苛立っていますね。怒りとか憎しみがいつでも爆発しやすいし、人の命とか人格が顧みられなくなってしまっている。それこそ、犬を殺すかの如く人を殺してしまう。こういう時代がまいりました。

第四番目は、「偶像を拝む者」。この一月の三が日でも、国民のほとんどの者が偶像を拝んだということですね。今や全国民がこれを行っている時代であります。

第五番目は、「好んで偽りを行なう者」。ここで、偽りを行うだけではなくて、「好んで」と書いてありますね。偽りとは、嘘、不正、ごまかし、騙し取ること、ですが、ここでは「好んで行なう者」とありますから、要するに、偽りによって私腹を肥やそうとする者、という意味であります。

聖書は、これらの人々は都の外に出される、と書いてあるんです。
ここでは「出される」とだけ書いてありますが、イエス様は「外に出される」だけではないことを言っています。子どもは、叱られて外に出される場合があるんですけれども、後でまた入れて貰える。ここでは、外に出されるだけじゃない。
いくつかの聖書のことばを見てみましょう。
まず、マタイの福音書の25章30節、

マタ25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

「役に立たぬしもべ」、悪い働き人ですから、「犬」ですね、これは外の暗やみに追い出される。そこで泣いて歯ぎしりする。

マタイ8章12節にも同じようなことが書いてあります。

マタ 8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

都の外に出されるだけではなくて、暗闇に追い出される。この暗闇というのはもちろん暗黒ですから地獄を表しているわけですね。何で歯ぎしりするかというと、後悔するからですね。

14節の「幸いである」という「羨まれる幸い」と、この「外に出されて歯ぎしりする」という差を、私たちはよく知っておく必要がありますね。

Ⅱ.次に16節に移りますと、イエス様は再びご自分を自己紹介しておられます。

黙 22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

A.第一は、このヨハネの黙示録を諸教会にあかしされたのがイエス様であるということを宣言しているんですね。

「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。」

このことばはとても大事なことで、イエス様ご自身があかしされたことである。
ヨハネの黙示録の1章1節の最初の部分を見ますと「イエス・キリストの黙示」
いうことばで始まっております。
これは二つの意味があると一番最初にお話ししたんですが、一つは、イエスキリストについての黙示であるということ、もう一つは、イエス・キリストによって与えられた黙示である、という意味もある。

ですからこの黙示は、御使いの仲介を通して与えられていますけれども、イエス様によってあかしされた黙示ですから、これは真理であり、厳密にその有効性が保証されている、ということです。
ヨハネが勝手に書いたんじゃない、ということです。

締めくくりになって、イエス様は「これは、わたしがあかししたことだ」ということを語られた。
ですから私たちは、このことばをしっかりと心に留めておかなければならない。

B.その次にイエス様は、ご自分を「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」と、ご自分を自己紹介されました。

イエス様は、旧約聖書の預言を完全に成就するメシヤであり、救い主であることをここで主張しておられるのですが、

1.イザヤ書の11章1節を見ますと、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。

ですからイエス・キリストは、人としてはダビデ王の血筋にあり、ダビデ王の真の後継者である。イエス様によって、神の民の希望と理想がすべて実現していくわけなんです。

ここに、「ダビデの根、また子孫」ということばがありますけれども、この言い方は非常に珍しい言い方ですが、「根と子孫」、これは、「アルファであり、オメガである」「最初であり、最後である」、「初めであり、終わりである」という言い方と同じ言い方をしているんです。
根があって、そして、幹が延びてくる。そういう意味でありますが、「ダビデの根、また子孫」、この言い方は非常に重要です。
イエス様は最も古いお方であり、最も新しいお方である。そして、イエス様によって、最も古く、最も新しい世界の希望が成就するんだ、ということを意味していますね。

罪人に対する神様の贖(あがな)いの御業はイエス様によって始められ、イエス様によって終結される。根であり、子孫である、という意味ですね。

2.次にイエス様は、ご自分を「輝く明けの明星である。」と言われました。

明けの明星というのは、ご存じと思いますが、一番暗い時に輝く、夜明け前に輝くのがこの明けの明星なんですね。
明けの明星は、夜空に輝く最後の星、と言ってもよろしい。また、朝日が出る前の、最初に輝く星、という意味でもあります。
ですからキリストの輝きなしに、明るい神の国は到来しない。
キリストの輝きなしには、暗黒の世界は明け染めない、終わりにならないという
ことですね。

聖書は何度も、主イエスを信じる者は真昼のごとく輝くようになる、ということを記しています。
真昼のように輝く前に、この明けの明星が必要なんだ、ということですね。
キリストの再臨が必要なんだといっているんですが、いくつかありますので見てみましょうかね。
真昼のごとく輝く、というのが聖書に出てまいりますので、幾つか見て見ましょう。実は、こういうことばの関連として、イエス様がこのことばを書いておられるというのが分かります。

まず、士師記5章31節、

士 5:31 【主】よ。あなたの敵はみな滅び、主を愛する者は、力強く日がさし出るようにしてください。」 ・・・・・

ここでは、「力強く日がさし出るようにしてください。」というのだから、カンカン照りになる真昼のことですね。真昼のごとく主を愛する者は、真昼のごとく輝くようにしてください。こういうふうに歌っているわけですね。
ですから、これはクリスチャン、神を信じる者が、真昼のごとく輝く前に、明けの明星が必要なんですね。そうでしょ、明けの明星がなければ、昼は来ない。

もう一つ見てみましょう、箴言4章18節、

箴4:18 義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

あけぼのの光というのは朝日ですね。ですからこの前に、明けの明星があるわけです。
そしていよいよ輝きをまして真昼となる。

まだ他にもあります。第二サムエル記の23章3~4節、

Ⅱサム 23:3 イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、
23:4 太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』

ちょうど雨が降った後ですね、日が射して、草木の水滴をきらきらと輝かせるようになるとね。

このような聖徒の輝きというのは、明けの明星の輝きの後に来るわけです。
輝く明けの明星であると言っていますから、これはイエス様がそのスタートであるということですね。イエス様は光のごとくにやって来られる。
ですから、こうして書いてありますから、みなさん、イエス様が来られた時はすぐに分かります。明けの明星ですからね。

ハレー彗星が通る時だって、大変なニュースで報道されるわけですから、私たちの時代にイエス様がお出でになれば、大変なことですね。すぐにお分かりいただけますね。
このあいだ、金星と月とが重なるだけで大騒ぎになったわけですから、イエス様がお出でになる明けの明星の時は、こんなものではないだろうなと思います。

やがて私たちは真昼のごとく輝く、その最初としてイエス様がお出でくださる。

もう一つ聖書を見てみましょう。
イザヤ書11章10節、これは最終的にはエッサイの根株につながっていることばですが、このことばをイエス様は引用しているんじゃないかと思うんですがね。
「その日」というのは終わりの日のことです。

イザ11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。

イエス様は、神の聖徒たちの光の国の到来を始める、最も輝くスターとして来られるわけです。
今頃は、映画俳優をスターって言うんだそうですが、すぐに消えてしまう流れ星みたいな、そういうスターではないんですね。
イエス様は永遠のスター、最も輝くスターとしておいでくださる。エッサイの根というのはイエス様のことである。

Ⅲ.さて黙示録の方に帰りますが、17節では、ヨハネは再び現実に帰っているわけですね。

黙 22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

イエス様のこの素晴らしいメッセージに対して、現実を見るとヨハネの時代は、迫害の中にある教会があったわけですね。そこに目を向けています。

現実には、教会やクリスチャンは依然として悪しき世界の中に置かれている。そして、この世にある御霊と教会は(花嫁ですけどね)、イエス様に「来てください」と叫んでいるわけですね。

1.ここにある御霊ですけれども、なぜ御霊が叫ぶのか。

御霊は叫ばないんじゃないかと思ってしまいますが、御霊とは、教会の聖徒たちに与えられている預言の霊のことですね。イエス様の福音を伝える使命に燃えている人々の内に住まわれる、御霊の御思いのことです。
クリスチャンの心の中に、当時の人たちで言えば、迫害に直面している、それでもなお福音のために戦っている人たちの心の中に住んでいる御霊、この御霊が叫んでおられる。

2.花嫁は、もちろん教会と真のクリスチャンを指しています。
3.「御霊と花嫁」「来てください。」と言ったわけですが、その後に、「これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。」と勧めているわけです。

「これを聞く者」とは誰のことか。
これはヨハネの時代以後、キリストの再臨のメッセージを聞く者すべてについて語っているわけです。
ヨハネはすべてのクリスチャンに対して、「来てください」と言いなさい、と勧めています。すなわち、キリストの再臨を祈り求めなさい、と勧めています。

キリストの再臨の時が何時かというのは、神の御手にあるわけですけれども、祈り求めることも必要であるとヨハネは感じたんですね。

キリストの再臨による最終的な御国の完成は、これは神様の絶対的なご支配の中にあります。私たちがどうこうすることではない。
しかし、ヨハネはこの御国の完成のために、救いの御業を進めていくクリスチャンの積極的な参加が必要であると感じていたのです。

「来てください」という祈りは、ただ、口で祈っているだけではなくて、キリストの福音を伝えることによって、救いのご計画が進められて行って、そして、キリストの再臨があるんだ、ということを教えているわけです。

ですから私たちは、福音宣教によって、キリストの再臨の御業に参加することができる。積極的に参加することができる、ということですね。

ですからヨハネは17節の後半で、福音宣教的なことを話しているのはそういう意味です。それで、「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」と付け加えたのです。

この一番最初に出てくることばは、、イザヤ書の55章1節からの引用ですが、このことばは聖書中で何度も引用されました。

イザ 55:1 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

一番有名なのは、イエス様がヨハネの福音書7章37節で引用していることばですね。ここでは、イエス様は大声で仰っています。

ヨハ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

これは過ぎ越しの祭りの最後の日であります。

ヨハネの黙示録21章6節でも語られています。

黙 21:6 ・・・・・ わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

そして「いのちの水」についての真理は、最も有名なのは、ヨハネの福音書4章14節で、イエス様がサマリヤの女について言われたことばですね。

ヨハ 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

このお話を始めとして、「いのちの水」はたくさん約束されています。これはイエス様が与えてくださる永遠のいのちです。
14節では、「いのちの木の実」を食べる権利のことを仰いましたが、ここでは「水」の話しですね。でも、内容は同じです。
このいのちは、人の魂にとってなくてはならない不可欠ないのちです。このいのちなしには、人は滅びていくんです。それはちょうど草木が、水なしではたちまち枯れてしまうようなものですね。
しかし、今、人々の心はこのいのちを失っていますね。失っているから、のたうち回り苦しむわけです。

この「いのちの水」は、どういう人に与えられるのか。注目して見ましょう。三つほど条件があります。

① 「渇く者」にです。
人間にとって、渇きというのは癒しがたいものです。神の義に飢え渇くものですね。イエス様が山上の説教の中でもおっしゃいました。
「義に飢え渇く者は幸いです。」

② 「来なさい」と書いてありますから、キリストのもとに来る者にです。招きですね。

マタ 11:28  ・・・・・ わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

③ 「ほしい者」にです。
ある教会の先生が子供たちにお話したんです。
「みんなイエス様のおっしゃることを信じるか?」 みんな黙ってる。
「先生のいうこと信じるか?」 みんな黙ってる。
それから、先生が財布の中から千円だしてね、
「これ、みんなに上げようと思うけど、信じるか?」って聞いたら、子供は「くれっこないぞ」って言って誰も信じない。
一人だけ、「信じる」って言って前に出てきた子がいて、先生はその子に千円をあげたって言うんですね。
「信じるとはこうすることだ。君たちは心の中で本当かな、どうかなって思っただろう。それは信じることではないんだ。信じるっていうのは本当に欲しいと思って、前に出てきて「信じる」って言って、それを貰う人のことを言うんだよ」と先生は仰った。
他の子どもたちは「えっ? ほんとだったの?」って言ったんだって。

「ほしい者」とは、積極的に、それなしにはやっていけない、必死になって求める者のことをいう。

イエス様はある時、海で見つけた素晴らしい真珠の話をしました。
この素晴らしい真珠を見つけた人は。全財産を売り払って真珠を買い取るんだ、という話をなさいました。
つまりそれは、絶対にどうしても欲しい人ですね。そういう人には分け与えられるんだと、おっしゃいました。

聖書に書いてあることが、「本当だったの?」っていう人は、貰えなかった人と同じになるということです。

ですから、この「いのちの水」「ほしい者」に与えられる、ということが書いてある。しかもそのあとに、「それをただで受けなさい」とある。

では、「ただで受ける」とは、どういうことでしょうかね。

これは、自分の努力とか功績によってではない、ということです。
この「いのちの水」はお金を出して買えない。自分が一生懸命努力してその代価として、報酬として貰うもんじゃないということです。
信仰によって受けなさいということです。

この「いのちの水」が無料で提供されているのは、実は前払いしてあるからです。
イエス様が十字架の上でその代価を前払いしてあるからです。
ですから、もう払っていてくださっていますから、私たちはもう払う必要がない。

私もそういうのを一度経験しているんですがね、ある本を買いまして支払いにいったわけです。そうしたらね、「この代金はもう誰かが払っていますよ。二重にもらえませんから」って言うんですね。
誰が払ったかいまだに分からないんですけれども、誰かが払ってくれたんですね。こういう人が大勢いるといいですけれどもね。

イエス様が前払いしてくださっていた。だから私たちは、ただで受けることができる。

ある人々は、この「いのちの水」をただで受けないでね、お百度参りしたり、願掛けたり、一生懸命やって貰おうとする人がいるんですけれども、ただじゃなければ受けられないんですね。
信仰によってでなければ受けられない。

イエス様の救いは、そういうものです。イエス様の救いだけは、絶対に無料です。

日本人の考え方だと、ただより安いものはない、と思うかもしれませんが、本当はただほど高いものはないんです。安いと思ってはいけない、高いんです。

「値段をいくらに付けられるんですか?」
「つけられないんです。だから、ただになっているんです。」

どこでしたか忘れましたが、大分かどこかでしたかね、
皆さんにもう少しお米を食べてもらおうと思ってね、農協の人が会を開いて握り飯を2000個作ったっていうんです。
そして、コンサートか何か開いたらしいんですけれども、いっぱい人が集まってきて、コンサートなんか全然見ないで、握り飯ばっかり食べて、ただより安いものはないって言って、あっという間になくなってしまった、というんですけどね。日本人て凄いなあ、って思いました。

本当は、ただほど高いものはないんです。
これを私たちは忘れないようにしたいですよ。

あ、教会って安いんだ、と安っぽく見られてしまう。
それは、間違いですよ。高いから、安くしているんです。無料にしてある。これ、忘れちゃいけませんよ。
クリスチャンは、ただなんだから虚しい、価値のないものを売ってんだなんて、確信を失ってはいけませんよ。高すぎるからただなんです。
教会は大安売りしてはいけないんです。大高売りしなきゃいけない。本当は最も高価なものなんです。クリスチャンはもっと確信と自信を持たなくてはいけない。

ただで受けることができるのは「いのちの水」
それはイエス様が身代わりの最も高い代価を払ってくださったからなんです。イエス様を信じることによって、これを与えられる。

Ⅳ.次にヨハネは18節と19節で、聖書に対する警告のことばを付け加えています。

黙 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

18節以降は、締めくくり中の締めくくりですが、特にヨハネは、このヨハネの黙示録のことばが曲解されること、間違って解釈されることを非常に恐れているんです。この黙示録に付け加えることも、取り除くこともしてはならないと強く警告しています。

A.18節では付け加える者への警告です。
1.「この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。」と書いてあります。

この書が示す、預言や慰めや訓戒に耳を傾ける人に対しての警告ですね。
ですから、ヨハネは心の中で、曲解する人というのは反対者や敵対者だけではなくて、クリスチャンたち、友達、仲間の中から曲解する者が出てくるということを、強く警戒していたことが分かる。
教会の中から間違った解釈をする人たちが生まれてくる、ということを感じていたようですね。

2.ある者たちは、いろいろな動機から曲解します。

信仰に熱心な者は、神様のことば以上に、人間が負いきれないような戒めを加える様にしますね。
ユダヤ主義者たちがそうでした。
途中からは、教会の中に禁欲主義とか難行苦行とかですね。

ある本を読みますとね、本当に、板の上に釘を逆さに打った「針の山」に座って、欲が出てくるとちくちく刺されて、それで欲を取り除こうとした人もいたそうです。
こういうものを付け加える者が、熱心な人の中から出てくると言っているんですね。

サタンはいつも熱心な信仰者を惑わすために、聖書に書かれていないことを付け加えたり、差し引いたりさせるものです。
エバなんかもそれで罪を犯していますね。だから気を付けたい。

神様は、聖書に付け加える者に対しては、「この書に書いてある災害をその人に加えられる。」と言いました。
黙示録に書いてある苦しみと災いを、全部その人に加えられるというのですから、その人はもう滅亡する。
だから聖書には何も付け加えてはいけない。
信仰は引いても、足してもいけない。
付け加えて高く売った方がいいんじゃないかと思う人もいますが、これは良くない。
このことは、心に留めておかねばいけません。

B.19節は、「少しでも取り除く者」に対しての警告です。

ここでは「少しでも」と書いてありますから、「これぐらいいいだろう」はダメなんです。
人間は自分に都合の悪いことは言わないし、それを取り除きたがりますね。「少しくらい」と言って。これは神の真理の悪用であり乱用です。

教科書も随分書き換えられましたね。
三浦綾子さんの本を読みますと、あの人は学校の先生をしていたそうですが、みんなで生徒に墨で、教科書のここを消せ、あそこを消せ、なんて言っているうちに、ついに自分もおかしく思って、これでも教師かと思って、学校をやめたと書いてありましたが、今もそれが続いているわけですがね。
この世に、聖書以外に書き改められなかったものはありません。どんな科学の書物であっても、書き改められなかったことはないんですね。改訂何版、辞典なんか見ますと改訂何十版なんていうのがあります。これほど改訂しなきゃいけなかったのかと思うんですけどね。

聖書は66巻で完成した神のことばですから、そのうちどの一部分でも取り除いたりすると、神の権威に反逆することになります。

聖書に約束されている祝福を全部取り除いてしまいますよ、と言っています。
引く者には引く、加える者には加えると書いてありますね。
どんなものを引かれてしまうかというと、「いのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」というのだから、神の都に入れなくなっちゃうわけです。

これほど神のことばは非常に大事なんだということを、ヨハネは語ったんですね。
余分にあってもならない。少しでも足りなくてもならない。

約束された祝福は、少しでも取り除くと、全部取り消しになってしまう。
ですから、説教者は自分の好む場所とか、会衆が好む箇所だけを話すんじゃなくて、好む所も好まない所も話さなくてはいけませんし、すべてのクリスチャンは自分の好きな箇所だけじゃなくて、厳しい譴責を受ける様な所も読まなきゃならない。
あそこだけはやめておこう、なんていうのはいけないと教えているんですね。
私たちのみことばに対する態度は非常に重要だということです。

聖書は敵からだけではなく、味方の中からも、このように乱用したり曲解する者が起きる。歴史は、異端がそういうふうにして発生してきたということを、私たちに教えてくれています。

現代のクリスチャンはもっと怖いんですが、聖書から少しばかりではなく、聖書全部に無関心になってしまっている時代が来ていますのでね。全部取り除いたら何も残らないんです。
私たちは聖書のことばをしっかりと心に留めさせていただきたい。

C.最後の20節と21節では、「しかり。わたしはすぐに来る。」と言われました。

黙 22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

1.まず、「しかり。わたしはすぐに来る。」「すぐに来る」というのは7節にも12節にも書いてあるんですが、

7節では、みことばを堅く守る者に対して言いました。

黙 22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。

12節では、報いを受ける者に対して言われているんです。

黙 22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

20節では、この警告を聞くすべての者に対して「すぐに来る」と言われたんです。
ここでは「しかり」と書いてありますから、念を押しているわけですね。それは真実で必ずですよ、という意味です

そして「すぐに」と言っていますが、これは何度も出てきましたが、これは、突然にやってくる、ということですね。速やかに迅速に来る。突然来る。
イエス様は、盗人のごとくに来る、と仰いました。
ヨハネはこれに対して「アーメン、主イエスよ、来てください」とイエス様のみことばを確認したわけですね。

2.最後の21節は、ヨハネの永遠にこだまする祝祷であると言ってよろしい。

「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」

この二千年間、迫害と試練の中にある多くのクリスチャンのための祈りであります。
「すべての者」と書いてあります。全ての聖徒はイエス様の恵みなくして、迫害や試練を乗り越えることができなかったわけですね。
これまで迫害と試練にあった聖徒たちは、ヨハネと同じように、みんな、「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈ったわけですね。
特にローマの人たちは、イエス様のお出でをしきりに待ち望んだ。

そして刻一刻と、イエス様の再臨の時が近づいてきたわけです。
ヨハネの時代から今日に至るまで、各時代の聖徒たちの主を待つ時間は違います。ヨハネの時代と今日の私たちとは違うわけですが、待つ時間は異なっていても、主を待つ気持ちは同じだということですね。

そして主は、私たちがイエス様に会う備えができたときに来ようとしておられる。
さらに緊急に、神のことばが全世界のすべての造られた人々に伝えられることが非常に大事なことであります。
私たちの生涯においても迫害や試練があるかもしれませんが、主イエスの恵みがあれば、これを乗り越えていける。

そして彼は「アーメン」と言って締めくくっているんですね。
「その通りであります。」ということであります。

私たちの信仰は、これから残されている生涯、真っすぐに歩ませていただいて、私たちも、「しかり、わたしはすぐに来る。」と仰ったお方に、「主イエスよ、来てください。」という思いを持って過ごさせていただきたい。
ヨハネたちと同じように、主のお出でをお迎えしたいと思うことであります。

それでは、ヨハネの黙示録をこれをもって閉じさせていただきます。

 

お祈り

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
恵みの深い天の神様、今日もこうしてイエス様の恵みの中に、私たちをお守りいただけました。
あなたのみことばを通して、神様のお出でを待ち望む姿勢を私たちの心に備えて下さり、ありがとうございます。
主はやがてお出でになられます。「すぐに来る」と仰いました。「確実に来る」と仰いました。
どうぞ、それまで、私たちはみことばに忠実に生きる者とならしてください。
心からお願いします。
そして、ヨハネたちと同じように、主のお出でをお迎えできるように顧みてください。
この時を感謝して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明