聖書の探求(018b) 創世記16章 アブラムの家庭に起きた悲劇

16章はアブラムの家庭に起きた悲劇の章ということができるでしょう。あれほど神を信じたアブラムであるのに、不信仰に陥って女奴隷ハガルを入れ、ハガルはみごもると女主人サライを見下げるようになり、サライがハガルをいじめたのでハガルは逃げ出しました。ハガルはアブラムに約束の子ではないイシュマエルを生んだのです。それ以後、ハガルの子とサライの子との間に長く争いが続くことになるのです。

〔16章の概要〕

1~3節 アブラム、ハガルを入れる。

16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

アブラムは正妻サライのすゝめによったとはいえ、また当時のカナンの地方の習慣であったとはいえ、神の約束を捨てて、人のすゝめや異教の習慣に従ったことは、アブラムの責任であり、大失敗です。クリスチャンはこの世的やり方を取らないように、たえず目を覚していなければなりません(ローマ12:2)。
ロマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

この事件は、アブラムがカナンの地に住んで十年後に起きました。奉仕や信仰生活は十年が区切りのようです。十年過ぎれば、その地の人々に信仰のあかしができるようになっているか、そうでなければその地の異教の習慣に染まってしまっているかです。
ルツ記のナオミの家庭に危機が訪れたのも、彼らがモアブに引越してから約十年後のことです(ルツ記1:4,5)。
ルツ 1:4 ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。
1:5 しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

目立たなくてもコツコツと忠実に神に従って歩む十年間は、私たちに破壊することのできない大きな恵みを与えてくれます。しかし中途半端で妥協を続けていく十年間は、悲劇をもたらします。

4~14節 ハガルの逃亡

4~6節はその原因です。

創 16:4 彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。
16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

サライは最初、すなおに従うハガルが好きだったのでしょう。だからこの娘なら夫に与えてもよいと考えたに違いありません。彼女はハガルを利用して自分を満足させようとしたのです。
このような利己的な愛は一変して憎しみに変わってしまいました。また奴隷の立場であったハガルは素直に忠実に仕えるほうが、彼女には幸せだったのです。低い位置に立つ者がへりくだるのは比較的たやすいことです。しかしアブラムの子どもをみごもったことを知った時、ハガルはサライにまさる特権を持ったことに気づいたのです。その時、彼女は女主人を見下げるようになりました。彼女は立場上、へりくだっていただけで、本心からへりくだっていたわけではありません。その結果、彼女もまた苦しまなければなりませんでした。神はハガルには特に、身を低くするように教えています(9節)。
創 16:9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
利己主義も、高ぶりもともに悲劇を起こします。

7~14節は、ハガルヘの神の顕現です。

7節では、神のほうからハガルを見つけておられます。神は正統な立場にないハガルにも顕現され、契約してくださいました。
創 16:7 【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
これは神の深いあわれみによります。これは罪人を救われる神の愛と共通したものです。

(ハガルヘの神の語りかけ)

9節、女主人サライのもとに帰って、その手に自分をまかせ、身を低くすること。

創 16:9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
人は一つの課題を逃れて別の課題に取り組もうとしても、神は元の課題の所に引き戻されます。へりくだることを逃れて、祝福には到達できないからです。

10節、ハガルの子孫をふやされること。

16:10 また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
アブラムの罪の責任を神がとっておられます。まことに私たちの罪の責任はイエス・キリストがとってくださったのですが、もうこれ以上、自分の不始末の責任を神にとっていただくような愚かはしたくないものです。

11節、ハガルが男の子を生むこと。

16:11 さらに、【主】の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。【主】があなたの苦しみを聞き入れられたから。
その名はイシュマエル(「神は聞きいれられる」という意味。)

12節、イシュマエルの人となり。

16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」
彼は柔和で穏かな人とはならず、野性的で、彼はだれとでも敵対関係を起こし、好戦的で、特に神の約束の子イサクとその子孫との間に争いを起こすこと。

13,14節、「エル・ロイ」は、見ておられる神、「ベエル・ラハイ・ロイ」は、生きて見ておられるお方の井戸という意味です。

16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。
16:14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

このように、場所につけられた名前には、その時の霊的経験を示すものが多くあります。たとえば、

アドナイ・イルエ(22:14)‥主が備えてくださる。
創 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

ベテル(28:19)‥神の家
創 28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

マハナイム(32:2)‥神の陣営、神の保護
創32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。

ペヌエル(32:30)‥神の顔
創32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

15~16節 ハガルの子イシュマエル誕生。

創 16:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。
16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
この時のアブラムの年令が86才と記されていることに注意してください。17章1節に99才とありますから、その間13年間、神はアブラムに対して沈黙を守られたのです。それはイシュマエルの誕生をひき 起こしたアブラムの行為が、神のみこころに反していたことを示しています。
創17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

〔16章の預言的意味〕

1、 ガラテヤ4:21~31

エジプトの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルは肉に属するユダヤ人の型であり、正妻サラから生まれたイサクは霊的イスラエル、すなわち教会の型です。
ガラ 4:21 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
4:22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
4:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。
4:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
4:27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」
4:28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
4:29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
4:30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」
4:31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。

2、創世記16:7~12をみますと、ユダヤ人の将来を絵画的に預言しています。

創 16:7 【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
16:9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
16:10 また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
16:11 さらに、【主】の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。【主】があなたの苦しみを聞き入れられたから。
16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

すなわち、追い出され、野に捨てられ、しかし保護されて滅びずして存在し、霊的教会に仕えるものとなり、その民はほかのどんな民とも一致せずして存在し、ついに大きな国民となるのです。

〔アブラムの信仰の失敗〕

これまで彼は物質的なことに勝利を得てきましたが、この章に至って霊的なことに失敗しました。ヘブル人への手紙6章12節に、「それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」とありますが、この忍耐の点でアブラムは失敗しました。以下、彼の失敗について注意すべき点を考えてみましょう。

1、 アブラムの失敗の本質

神が子孫を与えると約束されたのに、彼はその約束を成就するために、自分の知恵の小細工を用いました。これが彼の失敗の本質です。神の約束がなかなか成就しないかのように見えるとき、自分の力でしようとする、これが信仰の失敗です。神の約束は、忍耐をもって待ち望まなければなりません。現在のイスラム教徒は、この時アブラムの失敗のために生まれたイシュマエルの子孫です。

2、 失敗に対するアプラムの言い訳け

アブラムがハガルを妻としたことには、二つの言い訳けがあります。

①  神は彼に跡継と子孫を与えると約束されたけれども、その子が奇跡的に生まれるということは示されませんでした。だから、彼は妻サライのすゝめるまゝに常識を用いてハガルを入れたのです。

②  当時用いられていたハムラビ法典の292箇条のうちに、もし妻に子がなければ、侍女を夫に与えるべきことが定めてあります。またもし、その侍女が正妻を軽蔑すれば、その侍女と子どもとは、正妻の奴隷となるべきことが定められています。

アブラムはこれを適用したのです。彼のしたことは、当時の常識によったのであって、決してアブラムの情欲を満足させるためではありませんでした。しかし、信仰と忍耐を働かすべき時に、自分の道をとって失敗したのです。

3、 アブラムの失敗の原因

①  ハガルはエジプト人です。アブラムたちがききんを避けてエジプトに下っていった時に、ハガルはサラの侍女となりました。あの時、アブラムが神への信仰と従順を守ってエジプトに下らなかったならば、ハガルがアブラムの家庭に入り込むことはなかったでしょう。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる。」(ガラテヤ6:7)
ガラ 6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

② 神を待ち望んで、神のみこころをたずねず、妻サライのことばを聞き入れたことが、この失敗の直接の原因です。アブラムは、サライのことばも通俗的に判断して不法ではないと思い、神のみこころを確かめることをしなかったために失敗に陥ったのです。これは私たちにも大きな警戒です。

4、 アブラムの失敗の例

この失敗が起きたのは、正妻サライに子どもが生まれないという場合でした。聖書中、神が選ばれた人物には、不思議とうまず女から生まれた例が多いのです。たとえば、

ヨセフの母ラケル(創世記29:31、30:22)、
創 29:31 【主】はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。
創 30:22 神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。

サムエルの母ハンナ(サムエル第一、1:5,19,20)、
Ⅰサム 1:5 しかしハンナには特別の受け分を与えていた。【主】は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。
Ⅰサム 1:19 翌朝早く、彼らは【主】の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。【主】は彼女を心に留められた。
1:20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を【主】に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

バプテスマのヨハネの母エリサべツ(ルカ1:7~24)など。
ルカ1:7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。
ルカ 1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

これはまた真の教会の型でもあります。
神は私たちに霊的子どもを与えると約束されましたが、私たちは霊的子どもが容易に生まれないので、自分の知恵と努力でイシュマエル的信者を造ります。すると必ずそのような信者が教会の邪魔をするようになるのです。

ローマ人への手紙4章19節に、「アブラハムは、およそ百才になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」とあります。アブラムは自分の元気も力も、無益であることが分かるまで、この世のものに対して死ななければならなかったのです。彼は、故郷にも、親族にも、財産にも死んでいましたが、まだ自分の元気に死んでいなかったので、この失敗を犯してしまったのです。

ヨハネの福音書11章のラザロの場合を考えてみますと、もしラザロが死ぬ前に主イエスが来られて、彼をいやしておられたら、あの驚くべき神の栄光は現わされなかったでしょう。あせって、肉的信者を造らないように、教役者は心しなければなりません。耐え忍んで、神のみ業を待ち望まなければなりません。

しかし、忍耐と怠慢とは全く別のものです。怠慢は忍耐のにせ物です。神のみわざが成就するためには、必ずしもアプラムのように長く待つ必要はありません。要は、自分中心の自我に死ぬことです。これはキリストの十字架によって、すべてが備えられていますから、いつでも信仰を働かせて、その恵みの経験に入ることができます。これが深められることです。

5、 アブラムの失敗の手段

失敗の手段として用いられたハガルと正妻のサライを比べてみますと、
サライはアブラムの正当な妻で、ユダヤ人で、女主人です。
ハガルは放浪者で、エジプト人で、女奴隷です。
サライが信仰の霊的ヒナ型であるのに対して、
ハガルは、
① 放浪者・・・迷いの霊、安息のない霊です。
「彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。」(ヘブル3:10)
② エジプト人‥‥この世の霊、肉につける様々な手段を用いる霊です。
「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5:17)
③女奴隷‥‥奴隷の霊、常に恐れを抱き、義務的で律法的な方法を取る霊です。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(ローマ8:15)
ハガル的な思いをもつイシュマエル的信者(聖霊によって新しく生まれ変わったのではなく、人間的手続によって信者となった者)は、真の教会を妨害します(ガラテヤ4:29)。
ガラ 4:29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

6、 アブラムの失敗の結果

失敗の結果として、家庭内に不和が生じました。

①第一に、ハガルが女主人サライを見下げるようになりました(4節)。
創16:4 彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。
肉的な人が用いられると、すぐに霊につける人を軽蔑するようになります。

②第二は、サライはアブラムを咎めて、責めるようになりました(5節)。
創 16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
サライは自分の誤ち(夫に女奴隷を与えたこと)を悟って、へりくだるべきであったのに、逆に夫に罪の責任を押しつけて、これを咎めたのです。

③ 第三は、サライがハガルをいじめたので、ついにハガルは家を出て、逃げ去りました。
しかし神はハガルを再びサライのもとに帰らせました(6~9節)。
創 16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
16:7 【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
16:9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
自分の罪を悔い改めずに、罪の結果から逃げ出そうとするのは無益です。罪の結果は、これを犯した者に責任があることを忘れてはいけません。

(16章完)

上の写真は、Phillip Medhurst CollectionのTorah(モーセ五書)よりRembrandt(レンブラント)作「Abraham and Hagar(アブラハムとハガル)」Wikimedia Commonsより。

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を参照しました。)