聖書の探求(019) 創世記17章 アブラムの改名と割礼

この章には、アブラムの改名と割礼について記されています。神はアブラムをアブラハムと改名することによって、12章以来のアブラムとの契約を更新し、さらに明確に具体化されています。また割礼については、これが神とアブラハムとその子孫との契約のしるしであり、祝福の保証として強調されています。ここに神の選民としてのユダヤ人と他の諸国民との区別がつけられたのです。このようにしてアブラハムの子孫は神から大いなる特権を受けるのですが、それとともに大いなる責任も加わったのです。

 〔17章の概要〕

1~21節 神の顕現と契約

1、2節 神の顕現とみことば
創 17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
この時、アブラムは99才であった。
16章16節では86才であったから、この間の13年はアブラムの不信仰による彼の暗黒の期間、神の沈黙の期間、神の取り扱いの期間であった。こういう時は、すべてを神の御手に委ねるのがよい。神は苦難や問題を通して私たちの信仰を固めていき、拡大してくださいます。この期間に神は深い霊的取り扱いをなさるのです。
創 16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

神のみことばの中には、大別して三つのことが含まれています。

①、「わたしは全能の神である。」

神がいかなるお方か、このみことばの意味を十分に把握したい。他人の問題では、全能の神を納得しているが、神が全能ならば、自分の問題に対しても全能であるはずです。もう一度各自の信仰を点検してください。

②、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

人のことばや人の視線を気にする生活ではなく、神のみ前を歩む生活、神と共に歩み、神のみこころにかなった生活をすることが求められています。神のみ前を歩むということは、私たちが口に出して祈ったり、話したりしている割には、あまり理解されていません。それは、神が人格的神であることを十分に納得されていないから、神のみ前という意味が分からないのではないでしょうか。
「全き者であれ。」というのは、信仰において、また心の動機において完全であれということです。行為や知識などにおいては、クリスチャンも欠点や誤ちが多いものです。神はそういう面における完全を求められたのではありません。ただ信仰と動機における完全を求められたのです。心の動機が神のみこころに一致するようになる時、私たちは罪や不信仰や不服従に陥らなくてすむようになります。

③、契約の更新

(イ) 改名 アブラム→アブラハム(5節)
創 17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
アブラハムという名は、多くの国民の父という意味です。この名は元の名に”H”の音が入れられています。この”H”は神を意味する音です。アブラムに神がお入りになり、アブラハムは神の性質を持つものとなったのです。
ですから、アブラハムが多くの国民の父となるというのは、ただ民族的に子孫が増すというよりも、これは信仰者としての子孫が増すことを意味しています。神の性質を宿す子孫が増すことの約束です(ガラテヤ3:7~9)。
ガラ 3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

サライ(SARAI)→サラ(SARAH)(15節)
創 17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
サラにも名前の最後の字に神を意味する”H”が付けられています。

(ロ) 割礼(10~14節)
創 17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。
17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。
17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。
17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。
17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

これは神の民となる者の契約のしるしとして命じられています。エデンの園における善悪の知識の木の実についての命令においても、それを破ると必ず死ぬと語られましたが、この割礼についてもこれを守らない者は民の中から断ち切られると言われています。
新約において、男性の生殖器の包皮を取り除く手術の割礼はなくなりましたが、心の割礼、霊的割礼が強調されています。旧約の体の割礼は新約の心の割礼を表す型であったと見ることができます(レビ記26:41、申命記10:16、エレミヤ4:4)。
レビ 26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。
申 10:16 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。
エレ 4:4 ユダの人とエルサレムの住民よ。【主】のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」

「外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。‥御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」 (ローマ2:28,29)
「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」 (コロサイ2:11)
新約の割礼は神に対して頑な心が除かれ、従順な心が与えられることです。

(ハ) 男の子イサク誕生の約束(10~21節)

16節 サラの祝福と男子誕生の約束
創 17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
17節 アブラハムの不信仰の笑い
創 17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
19節 生まれる男子の命名、イサク(「笑い」という意味)
創 17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
20節 イシュマエルの祝福
アブラハムにとってはイシュマエルのことが心配であったが、神はその心配を取り除かれた。
創 17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。

創 17:21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」

22~27節 割礼の実施
① その様式(23節)包皮の切除
② その時「その日のうちに」(23,26節)即刻の服従
③ 受けた人の範囲(23,27節)12,13節と比較、アブラハムの忠実
④アブラハムが99才のとき(24節)
イシュマエルが13才のとき(25節)
創 17:22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。
17:23 そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。
17:24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。
17:25 その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。
17:26 アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。
17:27 彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。

〔神の約束の拡大と明確化〕

アブラムは名前が改められた後、すでに与えられていた約束が拡大され、さらに明確に具体化されています。彼はすでに恵まれていましたが、ますます恩寵にすすみました。彼の生涯を追ってみますと、彼の信仰の献身と服従に従って、神の恵みはますます深く、ますます広くなっていることが分かります。すべて神の約束は、初めはいくぶん漠然としているけれども、試練に打ち勝って神に従っていくとき、ますます明確になっていくのです。

1、 神はアブラムに現われた(1節)。

創 17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
これまで神は、みことばによって、幻のうちに語られていましたが、ここでは神ご自身がアブラムに現われて語られました。と言っても、神ご自身を罪深い人間の肉眼で見ることはできませんので、この顕現は神の臨在の栄光によるものと思われます。

2、神はアブラムにご目身の名を示されました。(1節)

「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。
「エル・シャダイ」とは、命を与え、命を支える神という意味です。「シャッド」は「胸」あるいは「乳房」の意味で、生むことをさせる(すなわち、命を与える)意味を含んでいます。アブラムは、子孫が与 えられる約束を受けていましたけれども、妻サライはすでに年老いていましたから、他の手段を用いてこの約束を成就しようとしました。それ故、神は今、ご自身が全能者であり、生むことをなさしめる神であることを示されたのです。
霊的子どもを生むのはクリスチャンの特権であり、クリスチャンはみな、人を救いに導きたいという願いを持っています。しかし実際に、霊の子どもを生むことは全能の神によるのです。

3、神のみ前に全き歩みをなすべき命令(1節)

「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」とは、サライの声を聞いて、自分の知恵や力を用いて小細工をせず、神のみ前にみこころにかなった生活をするようにとの命令です。

神はクリスチャンに対してある意味で完全を求めておられます。ここではその四つを紹介してみましょう。

①  良心の完全(ヘブル9:9,14)
ヘブル 9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
これは、良心の苛責から全く解放されて、深められた状態です。主イエス・キリストの血は良心の咎めを取り除いて、完全にならしめるのです。

② 性質の完全(マタイ5:45~48)
マタ 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
これは愛の完全、動機の完全とも言うことができます。神は悪い人にも、良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも、正しくない人にも雨を降らせてくださるごとく、相手にかかわらず愛することのできる愛の完全です。(注、ここで愛するということと、好きになるということとは同じではありません。)

③ 奉仕の完全(ヘブル13:21)
ヘブル 13:21 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
主イエスを死者の中から復活させられた神は、神のみこころにかなうすべての良いことについて、私たちを完全な者として、神に奉仕させてくださいます。

④  信仰の完全(テサロニケ第一、3:10、ヘブル10:22)
Ⅰテサ 3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
ヘブル 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
創世記17章で特に、神が命じておられる主旨は、信仰の完全です。
「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:3,4)
聖書は、信仰の試練を受けると忍耐を生じ、すべての活動のために全く備わって欠けるところがなくなってくると教えています。これは理屈で考えて分かるものではありません。信仰によって試練を一つ一つ乗り越える時、自ら経験することができる霊的成長です。
アブラムが信仰の失敗をしたのは、忍耐が欠けていたからです(ヘブル10:36)。
ヘブル 10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
それ故、神はご自身が全能の神であることを示して、信仰の完全にすゝむように命じたのです (歴代誌第二、16:9)。
Ⅱ歴代 16:9 【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」

4、すでに与えられていた約束を拡大された。

神は、12章2,3節、15章4,5節の約束を、更に一層明確にし、その範囲も拡大されました。
創 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
創 15:4 すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

その契約は、
①  神とアブラムとの間の契約(17:2)
②  おびただしい子孫が与えられること(17:2,6)
③  多くの国民の父となること(17:4)
④  永遠の契約として立てられること(17:7)
⑤  カナンの全土を与えて、永遠の所有とされること(17:8)
創 17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
この契約は文字通り成就し、今も成就しつゝあります。

5、アブラムの名が変えられたこと

名前はその性質を表わすものですから、新しい名が与えられたことは、新しい性質が与えられたことを意味しています。

① 「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている」(ヨハネの黙示録2:17)
これは新しい性質が与えられることです。

②キリストの弟子のうちペテロは、特に、新しい名が与えられたことが記されています。
ペテロの手紙第二、1章1節で彼は、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロ」と自らの名前を記しています。
「しもべ」は、主イエスに対する自分の態度、
「使徒」は、奉仕の職分、
「シモン」は、罪人であったころの旧名、
「ペテロ」は、救われて聖徒となった彼の動かざる「岩」である性質を表わしています。
アブラムがアブラハムという新しい名前を与えられたのは、新しい性質が与えられたことを意味しています。この名前の変更の仕方は、アブラムに一字の音”H”を加えられたのです。この”H”が神を意味していることは先に述べたとおりです。アブラハムは神の性質を与えられたのです。

6、契約のしるしとして割礼が定められたこと

アブラハムとその子孫は、この契約に与るしるしとして割礼を受けることが定められました。しかしローマ人への手紙4章11節では、割礼を受けることによって恵みを受けるのではなく、内に受けた恵みの経験のあらわれ(証印)として割礼を受けたことが記されています。
ロマ 4:11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、

真の割礼は、
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6、参考ローマ2:28,29)でなければなりません。
ロマ 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

新約聖書においては、さらに明らかに、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ2:11)
ピリピ人への手紙3章3節では、真の割礼を受けた者の姿を記しています。
①神の御霊によって礼拝する。
② キリスト・イエスを誇る。
③人間的なものを頼みとしない。
ピリ 3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

コリント人への手紙第二、6章16~18節の約束は、アブラハムに与えられた契約と同じです。ですから、私たちはコリント第二、7章1節の意味における割礼を受けなければなりません。
Ⅱコリ 6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
Ⅱコリ 7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

パウロはガラテヤ人への手紙6章12~15節で、割礼の儀式を強調する者に対して警戒をしています。本当に必要なのは、心の割礼、すなわち霊的割礼です。
ガラ6:12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。
6:13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

7、サライの名が変えられ、約束の子の母となること、またその子の名が示されたこと

神はアブラハムの信仰を励ますために、細かいところまで示されました。約束の子は、ただアブラハムの子であるばかりでなく、サラから生まれるべきであったのです。そして、その子はイサクと名付けられました。
バプテスマのヨハネや主イエスの誕生の時も、予めその名が示されています。それは、その子がいかなるものであるかを意識させるためでした。

(17章:完)

〔あとがき〕

いよいよ聖書を学ぶのに絶好の季節になりました。かけ声だけでなく、よき実りの時にしたいと思います。
聖書の探求は地道で、あまり実りが見えないように思いますが、実際は私たちの人格の中に不動の信仰をつくり出し、大きな影響を与えつつあるのです。このことに気づかない人や、成長することをあせっている人は、聖書の探求をおろそかにしてしまうでしょう。
収穫には時間と忍耐と根気が必要です。しかし確実に実っていくのです。超特急が好まれ、インスタントと促成栽培の今の時代に必要なのは、大地に深く根を下した大木のような信仰者ではないでしょうか。そのような信仰者になるには、どのようにしたらいいでしょうか。様々な情報に迷わされず、聖書に深く取り組んでいくことであると、私は確信しています。今は「6ケ月でマスターできます」という広告が目立ちますが、私は敢て息長く聖書に取り組み、不動のクリスチャンとなることを目差したいと思います。(1985.10.1)

上の画像は、
Ultimate Bible Picture Collection より「Abraham prays to God(神に祈るアブラハム)」