聖書の探求(026a) 創世記26章 イサクの生活、イサクの失敗と回復
アメリカで1906年に出版されたBible cardの一枚「Isaac, A Lover of Peace(イサク、平和を愛する者)」(The Providence Lithograph Company出版、Wikimedia Commonsより)
この章は、イサクについての数少ない章の中でも、最も詳しくイサクの生活を措いています。この章の霊的意味については、ぜひ「みことばの黙想①創世記」の26章のところをお読みください。
〔26章の概要〕
1~11節 ききんによるゲラル滞在中の出来事(妻リベカを妹と偽る)
12~13節 特別な祝福
14~22節 ペリシテ人のねたみとイサクの井戸掘り
23~25節 神の顕現と約束
26~33節 イサクとアビメレクたちの契約
34~35節 イサクの悩みの種(エサウ)
〔イサクの失敗と回復〕
(1)イサクの不信仰と神の干渉(1、2節)
創 26:1 さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。
26:2 【主】はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。
イサクはききんを避けてエジプトに下ろうと考えていましたが、神の命令によってゲラルにとどまりました。彼は父アブラハムがエジプトに下って行って失敗したのを聞いていたでしょうから、同じ失敗を繰り返すべきではなかったし、神もイサクに父と同じ失敗をさせたくなかった、そのみこころがよく分かります。それ故に神はカナンを離れたイサクに「エジプトヘは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」と仰せられたのです。しかしイサクがカナンの地を去ったこと自体、彼の不信仰を表わしています。この不信仰な行動の結果、次々とわざわいが及んできたのです。
当時、エジプトは文明の進んだ先進国でしたから、今日、田舎で仕事がなくなると、人々が都会に出て行くように、ききんの時には大勢の人がエジプトに行って難を逃れようとしたのです。この時、もしイサクがエジプトに下っていたならば、必ずもっと困難に遭遇していたに違いありません。それ故、神はイサクに現われて、警告を与えられたのです。神は今もこれと同じことをされることがあります。神は私たちの計画に干渉して、それを妨げたり、とどめられたりします。しかしそれは神の愛によるのです。パウロもアジア、ビテニヤ地方で伝道しようとしたとき、イエスの御霊に禁じられています。それはパウロのしようとしたことが悪かったからではありません。神はもっと良いご計画をお持ちだったからです(使徒16:6~10)。このことを悟る人は幸いです。
使 16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
神はイサクがゲラルにとどまることを許されました。これは神の最上のみ旨ではありません。ただ彼がエジプトに下らないように、これを許されたのです。神のベストとベターのみ旨には大きな違いがあります。
(神がベターのみ旨を示された他の例)
① 神が七十人の長老を立ててモーセの職分を彼らに分担させたこと(民数記11:10~17)
民 11:10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。【主】の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。
11:11 モーセは【主】に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。
11:12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。
11:13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。
11:14 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。
11:15 私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」
11:16 【主】はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
11:17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。
② 偵察隊を派遣してカナンの地を視察させたこと(申命記1:19~26)
申 1:19 私たちの神、【主】が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。
1:20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、【主】が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。
1:21 見よ。あなたの神、【主】は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」
1:22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。
1:23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。
1:24 彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、
1:25 また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、【主】が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です」と言った。
1:26 しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、【主】の命令に逆らった。
③ イスラエルに王を立てることを許されたこと(サムエル記第一8:22)
Ⅰサム 8:22 【主】はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい」と言った。
④ 条件付でバラムがバラクの所へ行くことを許されたこと(民数記22:35)
民 22:35 【主】の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。
神が許されたからと言って、手ばなしで喜んではいけません。もし自分の欲望が強くからんでいるなら、仕方なしのみ旨であって、最善のみ旨ではないでしょう。神の第一のみ旨よりも、第二の仕方なしのみ旨を行なうことによって、一時は満足できても、一層困難な事に直面することがあります。ベターはべストではないのです。
(2) 神の契約(3~5節)
創 26:3 あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。
26:4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。
26:5 これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」
神は寛容と愛をもって、イサクがエジプトに下るのをとどめ、ペリシテの地のゲラルに引き止めた。そして更に、アブラハムに対してなされた契約をイサクに対してもなされた。その契約の内容は三つあります。
① 神の臨在が常にイサクとともにあって、彼を祝福されること(3節)
② カナンの国が与えられること(3~4節)
③ 多くの子孫が与えられること(3~4節)
これらの契約を、私たちに当てはめると、
① キリストが私たちのうちにあって祝福されること(コロサイ1:27)
② カナンの国が与えられることは、霊的祝福の状態に入り、保たれること(ヘブル4:8~11)
③ 必ず、霊的子孫が与えられること(ヨハネ1:12、ローマ8:14~16)
神がイサクにこのような契約を与えられたのは、イサクの功績の故ではなく、アブラハムが神に忠実であったからです(5節)。
私たちの場合も、キリストのご忠実の故に、神は私たちに恵みを与えてくださるのです。
(3)イサクの罪(6~11)
創 26:6 イサクがゲラルに住んでいるとき、
26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。
26:8 イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。
26:9 それでアビメレクはイサクを呼び寄せて言った。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは『あれは私の妹です』と言ったのだ。」それでイサクは、「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです」と答えた。
26:10 アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」
26:11 そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」
イサクも父アブラハムと同様、自分の妻を妹と偽って罪を犯しました。彼は、神の定められた道を離れて、不信者(ペリシテ人)に近づいたために、その信仰の欠乏の故に人を恐れて、偽りを言ったのです。しかし神は、この場合にも御手をもって妻リベカに害が加えられないように守られました。私たちも、自分の不信仰の故に受けても仕方がない害から、神のあわれみの故にどんなに守られているか、深く考えてみる必要があります。
(4)イサクに帰国をうながす神の取り扱い(12~21節)
創 26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】が彼を祝福してくださったのである。
26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」
26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。
26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
神は、イサクが本来の神のみ旨に従うように、帰国させようとして、間接的な方法で取り扱われました。
神はクリスチャンが現状に安住して、信仰を先に進もうとしないのをごらんになると、その安楽の巣の中に刺を置かれます。
① 先ず、神はイサクに物質的富を与えました(12、13節)。
神の臨在と物質的祝福とは、同じではありません。イサクはゲラルにいた間に、物質的祝福を得ましたけれども、神と親しく交わった記録も、神の臨在を自覚した記録も記されていません。かえって、彼が物質的に恵まれたために、ゲラル人の嫉妬をひき起こして、ゲラルの地を追われ、神の臨在する地に復帰させられています(14節)。
② ペリシテ人はねたみによって、イサクに反抗し、井戸をふさぎ、退去を迫っています(15、16節)。
③ また、ペリシテ人はイサクたちと争うようになりました(17~20節)。
イサクは少し退いてゲラルの谷に天幕を張り、そこに井戸を掘りました。当時、井戸を掘ることは容易ではなかったので、井戸を掘れば、そのあたりの土地はその人の所有となったのです。けれども再びペリシテ人が争ってきましたから、イサクはこれを譲って退きました。この世の人は、譲ること、退くことは弱い者のすることであると思っていますが、決してそうではありません。勿論、信仰の面で、妥協するのは弱いことですが、物質的利益を譲るのは、むしろ強い人のすることです。
④ ペリシテ人はますますイサクたちを憎みました(21節)。
⑤ 井戸の名「シテナ」はそれを示しています。
そのためにイサクはどうしても神のみ旨のある地に立ち帰らなければならなくなりました。これは実に神の知恵深いご配慮によるのです。
(5)イサクの従順(22、23節)
創 26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
イサクはあえてペリシテ人に逆らわず、神の摂理の御手にまかせて従いました。イサクはペリシテ人が争ってくる所、激する所を避けて移って行き、井戸を譲って退き、ようやくにしてペリシテ人との争いの外に逃れることができました(22節)。このようにして再び、神の臨在に接することができるようになったのです。
(6)神の臨在の回復(24、25節)
創 26:24 【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
26:25 イサクはそこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
イサクがべエル・シェバに帰るや否や、その夜のうちに神は彼に現われました(24節)。イサクが条件を果したとき、神は、すぐにご自身を現し、彼を慰め、祝福されました。
そこでイサクは先ず、祭壇を建てて神に祈りました(25節)。ゲラルではイサクは井戸を掘るだけで、祭壇を立てませんでした。しかしベエル・シェバでは先ず祭壇を建て、次に天幕を張り、そして井戸を掘 りました。第一に、祭壇を建てて神に祈り、礼拝をし、その次に自分の必要を求めるのが正しい順序です。第一に祭壇、第二に天幕、第三に井戸、これが信仰者のとるべき順序です。
天幕は旅人の生活のしるしであり、井戸を掘ることは当時では、その付近の土地の占有の先取権獲得を意味していました。イサクは自分の国に帰ったので、自分の必要のために井戸を掘りましたが、その前に自分の旅人としての生活のしるしとして、天幕を張ったのはよいことです。
神の臨在される信仰の状態が回復されれば、すべてのことが秩序正しく行なわれるようになります。
(7)敵との和平と水を得ること(26~33節)
創 26:26 そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。
26:27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
26:28 それで彼らは言った。「私たちは、【主】があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
26:29 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、【主】に祝福されています。」
26:30 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。
26:31 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」
26:33 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。
アビメレクはイサクに和平を求めてきました(26~31節)
「主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」(箴言16:7)
多分アビメレクは、イサクが何度も井戸のことで譲歩してベエル・シェバに帰っていったのは、何か恐るべき計略でもあるのだろうと考えて、恐れて和平を求めたものと思われます。
ちょうどその日、かねて掘りつつあった井戸に水が出ました(32、33節)。
これは神の臨在のもう一つの証拠です。イサクが神に対して従順の道を歩み、復讐心を持たず、愛をもって敵を取り扱ったその日に、神の祝福と臨在の証拠として、水を得たのです。その井戸は天幕を建てた日に掘り始め(25節)、水が出たのは(32節)アビメレクと契約を立てた日です。神の臨在は、私たちの従順に対するすべての祝福と成功と幸福との確実な保証です。
〔あとがき〕
現代のクリスチャンは、聖書に真剣に取り親む人と、聖書は救いの恵みを受ける時だけで、あとはフィーリングだけを追い求めていく人とに別れていっているようです。その隔たりはどんどん大きくなっています。
フィーリングを追い求めるクリスチャンは華かで、明るくて、陽気ですが、霊的深みがないように思われます。このような人々は、教会の中での人間関係につまずいたり、長く続く困難にはたして耐えることができるだろうかと心配です。
主イエスは、実を結ぶクリスチャンとは、「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐え」(ルカ8:15)る人だと言われました。また主は、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた妹のマリヤをおほめになりました。
すべてのクリスチャンが明るくて、陽気で、快活で、心から主を賛美する者でありたいと思います。しかし、みことばに深く根を下さずに、ただ明るく賛美しているだけなら、根なし草でしかありません。(1986.4.1)
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