聖書の探求(029a) 創世記31章 ヤコブの帰国
この章は、ヤコブの帰国を記しています。
〔ヤコブの帰国〕
1、帰国の理由(ヤコブ、神の示しを受ける、1~3節)
創 31:1 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞いた。
31:2 ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。
31:3 【主】はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」
ヤコブが帰国を思い立った三つの理由
① ラバンの子たちが嫉妬を起こしてヤコブをうらんだこと(1節)
② ラバン自身も、段々とヤコブの財産が増し加わるにしたがって快く思わなくなったこと(2節)
③ ちょうどこの時、神の命令があったこと(3節)
彼は以前にも故郷に帰りたいと言い出したけれども、ラバンと財産の約束を結んで、帰りませんでした。しかし今度は、神の御命令もあったので断然と帰国の決心をしたのです。彼は二〇年間ラバンに仕えて、神の示しがあるまで待ちました。
神の導きを知るためには、四つのことが必要です。
イ 事情、情況が開かれること
ロ 神のみことばが与えられること
ハ 心に確信が与えられること
ニ 霊的にすぐれた信仰者の勧告が得られること
ある人は、自分の心の衝動によって動きますが、これは危険です。なぜなら悪魔も聖霊を真似て、人の心を動かすことがあるからです。ですから、神のみことばに照らし、神の摂理による事情を考え、経験の豊かなすぐれた信仰者の判断を求めることが大切です。
2、ラケルとレアに帰国の説明(ヤコブ、神の保護を自覚して、帰国を発表する、4~13節)
創 31:4 そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ、
31:5 彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。
31:6 あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。
31:7 それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。
31:8 彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、すべての群れが、しま毛のものを産んだ。
31:9 こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。
31:10 群れにさかりがついたとき、私が夢の中で目を上げて見ると、群れにかかっている雄やぎは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、また、まだら毛のものであった。
31:11 そして神の使いが夢の中で私に言われた。『ヤコブよ。』私は『はい』と答えた。
31:12 すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。
31:13 わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」
ヤコブは欠点が多い人でしたが、いつも神を覚えていたのは良いことでした。彼は最初のべテルの経験以来、神の臨在と保護を知って、これを告白しました。
彼は神の恵みを信じる理由として、四つのことを挙げています。
① 神の臨在 (5節)
② 神の保護 (7節)
③ 神の祝福 (9節)
④ 神の顧(かえり)み (12節)
マタイの福音書5章45節にあるように、神は信者にも、未信者にも、区分なく物質的な恵みを与えられます。信者はこれを神の賜物であることを認めますが、未信者はこれを認めません。
マタ 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
しかしルカの福音書6章35節をみると、「いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」とあります。恩知らずに親切であり続けることは難しいことですが、神はこれをなさいます。ヤコブは、神が常に恵みを施されると信じていましたから、彼の心はいざという時、神に従うことができたのです。
ルカ 6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
3、ヤコブ、妻の同意を得る(14~16節)
創 31:14 ラケルとレアは答えて言った。「私たちの父の家に、相続財産で私たちの受けるべき分がまだあるのでしょうか。
31:15 私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから。
31:16 また神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」
二人の妻は共に、父ラバンよりも夫ヤコブを信用して遠い地に伴うことを承知しました。普通ならば、妻たちは拒んだでしょうが、あつく夫を信じていたし、また、夫が神の命令に従って出立することを信じて 従ったのです。
4、出発とラバンの追跡(ヤコブ、神に守られる、17~25節)
創 31:17 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、
31:18 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた。
31:19 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。
31:20 またヤコブは、アラム人ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせなかった。
31:21 彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。
31:22 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、
31:23 彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
31:24 しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」
31:25 ラバンがヤコブに追いついたときには、ヤコブは山地に天幕を張っていた。そこでラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
ヤコブはラバンのもとを去りましたが、自分のものだけを持って出て、ラバンのものは何一つ取りませんでした。ラバンは怒ってヤコブの後を追いましたが、神はヤコブを守られました。ラバンはもう一度、彼を連れ帰って使役しようと思いましたが、神はラバンに干渉して止められました。
5、ラバンの譴責(26~35節)
創 31:26 ラバンはヤコブに言った。「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕らえたとりこのように引いて行くとは。
31:27 なぜ、あなたは逃げ隠れて私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。私はタンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。
31:28 しかもあなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。
31:29 私はあなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ』と言われた。
31:30 それはそうと、あなたは、あなたの父の家がほんとうに恋しくなって、どうしても帰って行きたくなったのであろうが、なぜ、私の神々を盗んだのか。」
31:31 ヤコブはラバンに答えて言った。「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。
31:32 あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである。
31:33 そこでラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にも入って見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕に入った。
31:34 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、らくだの鞍の下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンが天幕を隅々まで捜し回っても見つからなかった。
31:35 ラケルは父に言った。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。
ラバンは二つのことでヤコブを責めました。一つは、ヤコブが黙って逃げ出したこと。もう一つは、ラバンの偶像テラフィムを盗んだことです。
第一のことはラバンの偽善です。彼はヤコブをもっと長く働かせたかっただけで、喜びと歌をもって送り出すつもりは毛頭ありませんでした。第二のテラフィムを盗んだのはラケルで、ヤコブは全く知らないことでした。
6、ヤコブの反論(36~42節)
創 31:36 そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。
31:37 あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。
31:38 私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、あなたの群れの雄羊も私は食べたことはありませんでした。
31:39 野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。
31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。
31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。
31:42 もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」
ヤコブはラバンの譴責に対して、ラバンを責めて自らを弁護しました。この弁護に対してラバンは何も否定することができませんでした。ヤコブの弁護が真実だったからです。
ヤコブの二十年間の奉仕は、
①行届いた有効な奉仕であった(38節)
②正直な奉仕であった(38,39節)
③忠実な犠牲的な奉任であった(40節)
④終始、変わらない着実な奉仕であった(41節)
⑤報われない奉仕であった(42節)
⑥神がともにおられる奉仕であった(42節)
⑦奉仕の報いは、神がラバンに干渉してヤコブを害しないように保護されたことであった(42節)
この二十年間の奉仕は、ヤコブの信仰の実際的訓練の期間でした。このように信仰は実際生活の中で訓練されるまで力強いものとなることができません。これによってヤコブの人となりが出来上がり、彼は忍耐深く、神に対しても忠実な人となりました。
7、ラバンの提案(43~55節)
創 31:43 ラバンは答えてヤコブに言った。「娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちのために、または娘たちが産んだ子どもたちのために、きょう、私は何ができよう。
31:44 さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」
31:45 そこで、ヤコブは石を取り、これを立てて石の柱とした。
31:46 ヤコブは自分の一族に言った。「石を集めなさい。」そこで彼らは石を取り、石塚を作った。こうして彼らは石塚のそばで食事をした。
31:47 ラバンはそれをエガル・サハドタと名づけたが、ヤコブはこれをガルエデと名づけた。
31:48 そしてラバンは言った。「この石塚は、きょう私とあなたとの間の証拠である。」それゆえ、その名はガルエデと呼ばれた。
31:49 またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、【主】が私とあなたとの間の見張りをされるように。
31:50 もしあなたが私の娘たちをひどいめに会わせたり、もし娘たちのほかに妻をめとったりするなら、われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい。」
31:51 ラバンはまたヤコブに言った。「ご覧、この石塚を。そしてご覧、私があなたと私との間に立てたこの石の柱を。
31:52 この石塚が証拠であり、この石の柱が証拠である。敵意をもって、この石塚を越えてあなたのところに行くことはない。あなたもまた、この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない。
31:53 どうかアブラハムの神、ナホルの神──彼らの父祖の神──が、われわれの間をさばかれますように。」ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。
31:54 そうしてヤコブは山でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事をしてから彼らは山で一夜を明かした。
31:55 翌朝早く、ラバンは子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の家へ帰った。
ラバンはヤコブの弁護に恐れをなしてか、契約を結ぶと言い出しました。ヤコブは寛大にこれを受け入れて契約を結びました。
ヤコブにはいろいろと短所も多くありましたが、神の恵みにより彼の性質にも、生涯にも、実質的に長所が備わってきました。
(以上、創世記31章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用しました。)
上の写真は、スペインの画家 Pedro Orrente (1580–1645) が1620~25年頃に描いた「Labán busca los ídolos(ラバンは偶像テラフィムを探す)」(スペインのMuseo del Prado蔵、Wikimedia Commonsより)
〔あとがき〕
聖書を知らずに、「私はクリスチャンですということは恥ずべきことです。聖書を知らない人がどんなに大勢教会に集まっても、それは積木のようにくずれ去ってしまいます。
教会が真の意味で発展し、クリスチャンが豊かで強い命を持つためには、聖書に精通することがその最大の条件です。聖書を知らない者を聖霊は用いることができません。教会で今、最も急務とされていることは、催し物ではなく、聖書を教えることと、聖書による訓練です。これはただのおざなりの聖書研究会をしていればいいというものではありません。
パウロはテモテに、「みことばを宜べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(テモテ第二4:2)と命じました。しかし、みことばを知らない者がどうやって宜べ伝えることができるでしょうか。パウロは、「主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宜べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。」と告白しています。
(1986.8.1)