聖書の探求(033a) 創世記39章 聖徒ヨセフの苦難

38章は罪人の苦難を、39章は聖徒の苦難を記しています。この二つを比較してみますと、罪人の苦難がいかに恐ろしく、聖徒の苦難がいかに栄あるものであるかが分かります。

1.ヨセフへの祝福(1~6節)

(1) 環境(1節)

創 39:1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。

ヨセフは奴隷として売られて、エジプトの侍従長の家にいました。彼は牛や家畜と同じようにただの労働力として買われ、人格や権利や自由は認められていませんでした。

(2) 秘密(2節)

創 39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

ヨセフは奴隷になるや否や、「幸運な(栄える)人」となりました。その秘密は「主が彼とともにおられる」ことでした。もともと奴隷は決して幸福な状態ではありません。しかしヨセフはその状態を神のみ旨であると覚えて満足し、そこを逃れて故郷に帰ろうともせず、今居る所が神の定められた所と信じて、新しい主人に仕えました。

(3) あかし(3,4節)

創 39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

ヨセフの主人はヨセフの忠実さを見、そのすることが栄えるのを見て、彼は不信者でありながら、神がヨセフとともにおられるのを見ました。これはヨセフの行ないと彼のあかしのことばによるものです。
主人はヨセフのすることがすべて成功するのを見て、ヨセフをほめるより、神をほめたたえました。これは、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)と言われているとおりです。ヨセフの主人は、ヨセフをとおして神を崇めたのです。このようにして主人はヨセフを全く信用し、すべてをヨセフにまかせて少しも疑いませんでした。

(2,3節の祝福のあかし)

(a)「幸運な人となり」‥‥ヨセフの品性をとおしてのあかし
(b)「彼のすることすべてを」‥‥ヨセフの行動や仕方をとおしてのあかし
(c)「成功させてくださるのを見た」‥‥成就したことをとおしてのあかし

(4)結果(5,6節)

創 39:5 主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで【主】の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
39:6 彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。

主人がヨセフにすべてをまかせた時から、神は驚くべき祝福を主人の家と田畑に与えられました。主人はヨセフにすべてをまかせ、少しもこれを監督せず、検査せず、全くまかせ切っていました。このようにヨセフは祝福せられ、信用され、神のためにあかしを立てて、未信者にまでも祝福の管となったのです。

2.ヨセフヘの誘惑(7~20節)

(1) 主人の妻の誘惑 (7~12節)

創 39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言った。
39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。
39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。
39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

ヨセフが祝福されたのを見て、悪魔は黙っていなかったのです。悪魔はヨセフを罪に陥れようとして、主人の妻の淫欲を燃やしてヨセフを誘惑しました。ヨセフは主人に信任され、その働きがすぐれていたことだけでなく、母ラケルに似て美男子でした。6節の「美男子」という言葉は、29章17節の「顔だちも美しい」という言葉と同じです。ポティファルの妻はこれを見つけて誘惑したのです。この誘惑は一度だけでなく、毎日続きました。

創 29:17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。

(2) 誘惑に対するヨセフの態度

8節「拒む」、
10節「聞き入れず」、
12節「逃げる」

この誘惑は遊女と違って主人の妻でしたから、断るのが難しかったでしょう。断れば、彼女の不潔な情欲が火の如き憎悪となるのを知っていましたが、ヨセフはこれをはっきりと断ったのです。

8節 主人に対する忠誠心
9節 神に対する忠誠心

「そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
ヨセフが罪を犯さなかった理由は、神を畏れて神に従ったからです。神とともにいる生活は、栄えることにも、罪から守られることにも、その秘訣です。
ヨセフは、その部屋にとどまり続けることがいかに危険であるかを悟って、逃げ出したのはよいことです。この場合、逃げ出すほかに道はありません。彼は上着を主人の妻の手に奪われました。これは疑いをかけられる証拠となり、命を失うことにもなりかねませんでした。それでも彼は貞潔を守り、その人格と品性を守ったのです。

(ヨセフの神意識)

創世記39:9‥‥道徳的支配者

創 39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

創世記40:8‥‥啓示者

創 40:8 ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

創世記41:16‥‥啓示者

創 41:16 ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

創世記41:51‥‥慈愛の父、慰めの神(コリント第二1:3)

創 41:51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からである。

Ⅱコリ 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

8,9節 正しい結婚観

39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

(3) 誘惑の結果

(a) 訴えられるヨセフ(13~18節)

創 39:13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、
39:14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。
39:15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」
39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。
39:17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。
39:18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」

ヨセフはいかなる境遇にあっても、その人格的美しさを輝かしていました(ピリピ4:11~13)。

ピリ 4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

父のもとにいた時も、兄弟の憎しみの中にあった時も、奴隷としてエジプトにいても、また栄える人となって主人から信用されても、すべての仕事をまかせられても、またはなはだしい誘惑に会っても、彼は常に神に守られ、導かれ、驚くべき信仰の実をあらわしました。
そしてここで、ヨセフは恐ろしい偽りの証言によって訴えられ、これまで全面的に信用してくれていた主人に誤解され、疑われたにも拘らず、彼は少しも自分を弁解せず、主人の妻の偽りと罪を非難せず、ただ黙って刑罰を受けました。ここに彼の驚くべき信仰による人格的美が輝いています。

(b) ヨセフと主人ポティファルの関係(19,20節)

創 39:19 主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。
39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

この主人は妻の言ったことを全面的に信用したのではないように思われます。なぜなら、奴隷が主人の妻と関係をもとうとした場合、それは死刑にされるのが当然だからです。それを死刑にせず、しかも王の囚人が監禁されている監獄に閉じこめたのは、妻の言うことに疑わしいところがあると思ったからかもしれません。
ある説教者は、主人は妻の悪い性質を知っていて、妻からヨセフを救うために監獄に閉じこめたのだと言っています。そうであるかどうかは分かりませんが、神は確かに、ヨセフをこの誘惑から救うために   監獄という場所を選ばれました。それにしてもヨセフは、イエス・キリストのように(イザヤ書53:7、ペテロ第一2:23)、忍び難い時に自分を弁護せず、黙してすべてを神にまかせたことは、彼の信仰の偉大さを示しています。

イザ 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

Ⅰペテ 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

3.ヨセフの試練と祝福(21~23節)

39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
創 39:22 それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。
創 39:23 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。

それまでヨセフは身分上は奴隷であったけれども、奴隷のようには扱われず、主人と同じ権利と威厳と責任と特権が与えられて、全く自由な生活をしていました。しかし今は、窮屈な藍款の中に閉じ込められてしまいました。けれどもヨセフはこれも、自分に対する神のみ旨であると信じて、これに満足し、神を賛美し、感謝して、再び新しい信仰生活を始めました。するとすぐに神の栄が現わされて、ヨセフは監獄の中でも栄える人となりました。ダイヤモンドはどこに持っていってもダイヤモンドです。たといゴミ箱に捨てても、太陽の光を受けると、奇しい光を放ちます。そのように神とともに生きているヨセフは、どこにあってもその品性の輝きをかくすことができませんでした。これは神である主イエスが人の姿をとられても、その栄光をかくし切れなかったことをあらわしているように思われます。

ヨセフは獄中の生活で、

(1) 神の恵みによって、監獄の長の心にかなうようにされました(21節)。
これは監獄の長がヨセフの美しい人格を認めて、彼を愛するようになったことを示しています。

(2) 監獄の長はヨセフを信用して、すべての囚人をヨセフの手にゆだね、ヨセフは監獄でなされるすべてのことを管理するようになりました(22節)。

(3) 監獄の長はヨセフにすべてをまかせたばかりでなく、まかせたことについて何も干渉しませんでした(23節)。

これらのことの一切の秘訣は(23節)、
(a) 主がヨセフとともにおられたこと、
(b) 主が彼のなすことを成功させてくださったことにあります。

(39章の教訓)

39章にはいろいろな教訓が満ちていますが、その要点は、神に忠実に従うことが成功の秘訣であることを示しています。

ヨセフは神に虚実に従うことによって、
(1) 奴隷であっても栄えることができ、
(2) はなはだ悲惨な情況にあっても、信用を受けることができ、
(3) 恐ろしい誘惑に会っても、これに打ち勝つことができ、
(4) 誤解されても黙って神にまかせ、忍耐をもって神の導きを待ち望むことができ、
(5) 獄中に閉じ込められても、なお忠実に神に従い続けることができました。

これはだれにでもあてはまる教訓です。私たちが置かれている所において、忠実に神に仕え、私たちの前に置かれた仕えるべき人に、神に仕える如くに仕えるなら、私たちの生涯は必ず幸福になります。必ず成功し、神の栄光を現わす生涯となります。

〔39章中のキリストの型としてのヨセフ〕

1. ヨセフは栄える人となり、すべての人に愛されましたが、主イエスの30才までのご生涯もその如くでした(ルカ2:52)。

ルカ 2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。

2. ヨセフは罪なくして罪人と思われ、奴隷の姿となり、罪人として取り扱われました。
キリストも奴隷のかたちをとり、罪人のところまで下り、罪人と思われ、罪人として取り扱われ、罪人のしるしとしてバプテスマを受けられました(マタイ3:13~15、イザヤ書53:12、ピリピ2:6~8)。

マタ 3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

イザ 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

3. ヨセフにすべてのことがまかされたように、主イエスは父なる神よりすべてのことを全くゆだねられていました(マタイ3:16,17、28:18)

マタ 3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

マタ 28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

4. ヨセフが栄えるものとなり、主人の家ですべてのことをまかされるや否や、すぐに恐ろしい誘惑に出会いましたが、主イエスも聖霊が臨まれるや否や、サタンの試みに会われました(マタイ4:1~11)

マタ 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

主イエスは十字架のあがないをもって、罪人を買い戻すためにこの世に来られたのですが、悪魔はただ一度、自分をひれ伏して拝するならば、十字架にかからずにこの世を与えると誘惑しました。ヨセフの場合も同様であって、ポティファルの妻の誘惑も、もし自分と関係をもったら、主人を追い出して主人の地位も財産も手に入れることができるという点にあったようです。それは39章8,9節のヨセフの断った言い方によって推測することができます。

39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

5、ヨセフが誘惑を退けた時、神を畏れ、神に対して大きな罪を犯すことはできないと、真の理由を告げて、これを断りました。キリストも悪魔の誘惑に対して、神のみことばをもって退け、また「主を拝み、主にだけ仕えよ」(マタイ4:10)と語ったのは、ヨセフと同じです。

4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

6、ヨセフは淫婦のために無実の罪を訴えられましたが、自分の義を主張せず、敵対する心を持たず、かえって柔和と忍耐をもって、この恐ろしい訴えを受けました。キリストも全く同じです(ペテロ第一2:23)。

Ⅰペテ 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

7. ヨセフは監獄に入れられて、いよいよ母国に帰る望みも絶え、成功ある生活を送ることも不可能になり、すべてが絶望にみえる状願になりました。キリストも十字架にかかり、死んで葬られ、三日間陰府に下り、
すべてが失敗と思われるに至りました(ペテロ第一3:18~21)。

Ⅰペテ 3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
3:19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
3:21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

このようにヨセフの型と主イエスの実体とが全く一致していることを学び知りますと、聖書が神の霊感によって書かれたことがよく分かります。これは確かに人間の思想とか、想像とかで書かれたものではありません。聖書の故に私たちは、へりくだって礼拝の態度をもって、神の知恵と恵みに感謝するのです。

(以上、創世記39章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用しました。)

上の写真は、フランスの画家 Jean-Honoré Fragonard (1732–1806) が1760-61年頃に描いた「Joseph and Potiphar’s Wife(ヨセフとポティファルの妻)」(The Norton Simon Foundation蔵、Wikimedia Commonsより)

(1986.11.1)

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