聖書の探求(033b) 創世記40章 獄中のヨセフ

この章は獄中のヨセフについて記しています。ローマ8章28節に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とありますが、ヨセフの生涯はこの聖句を証明しています。

ヨセフのこれまでの生涯は、はなはだ悲惨でしたが、それらはみな、彼の最後の成功のためにどうしても通過しなければならない階段でした。ヨセフが兄たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られなかったなら、エジプトの王の前に立つことはなかったでしょう。
ポティファルの妻に誘惑され、それを断ったために監獄に入れられ、感謝の気持のない囚人の献酌官長に忘れられなかったなら、ヨセフは父とその家族をききんから救い、またイスラエル民族を救うこともできなかったでしょう。

ヨセフは、これらの苦難の経験の意味や目的を全く知らずに通過していったのですが、この悲惨な経験の一つ一つは彼の後の光栄のためであったのです。人はみなヨセフと同じ道をたどるわけではありませんが、神は祝福を与える前に、その人を訓練されることは、ヨセフの時代も今も変わらない事実です。

1.神の摂理による新しい囚人(1~4節)

創 40:1 これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官とが、その主君、エジプト王に罪を犯した。
40:2 それでパロは、この献酌官長と調理官長のふたりの廷臣を怒り、
40:3 彼らを侍従長の家に拘留した。すなわちヨセフが監禁されている同じ監獄に入れた。
40:4 侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。

ヨセフのいる監獄の中に、急に新しい囚人が入れられました。彼らはエジプトの王パロのもとに仕えていた献酌官長と調理官長でした。彼らは各々、部下の罪の責任をとらされたようです。
4節をみますと、ヨセフの主人だった侍従長ポティファルは、ヨセフをこの二人の囚人の付き人にしました。これはポティファルが今もヨセフに多少好意を抱いていることの証拠にならないでしょうか。

ポティファルがなぜヨセフを監獄に入れたのかには、いろいろな意見があります。先にもご紹介したとおり、ある人はポティファルは妻の悪い性質を知っていたので、ヨセフをその誘惑から守るために監獄に入れたのだと言っています。そうであるかどうかは分かりませんが、少なくとも神は主人の妻の誘惑からヨセフを守るために監獄に導かれたと考えるのは間違いではないでしょう。そして今、ヨセフがこの新しい二人の囚人の付き人にされたのも、神の摂理であったことが分かります。なぜなら、ヨセフがこの二人の囚人と接することによって、ついには監獄から出られるようになるからです。

2.ヨセフの同情(5~7節)

創 40:5 さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。
40:6 朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。
40:7 それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と言った。

二人の囚人は同じ夜、すなわちパロの誕生日の三日前の夜に、それぞれ夢を見ました。そして彼らはその夢の意味が分からず、いらいらしていたのです。それを見たヨセフは、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか。」とたずねました。ヨセフは自ら囚人の身でありながら、なぜ他人の悩みに同情を注ぐことができるほど、心が広く豊かだったのでしょうか。もし彼が、これまでの周囲の者たちの不正、不義の仕打ちに腹を立てて、心がにがくなり、自分のことだけを考え、自己憐憫に陥っていたなら、だれに対しても冷酷な態度をとるようになっていたでしょう。しかしヨセフは、神の愛を知り、神を喜ぶことに満たされていましたから、同情をもって他の囚人を見ることができたのです。

3.神に栄光を帰すヨセフ(8節)

創 40:8 ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

二人の囚人は各々の夢を解き明かす人がいないので悩んでいると言いました。
ヨセフは昔の自分の夢のことを思い出して、神が自分に夢を解き明かす知恵を与えてくださっていると信じたのでしょう。しかし彼は自分のことは言わず、「夢を解き明かすことは、神のなさることではありませんか」と言って、神の栄光をあらわそうとしました。ヨセフは神がいつも自分とともにいてくださって、祝福してくださっているのを知っていましたので、ヨセフはどこにいても神をあかししようと、チャンス をねらっていたのです。

4.献酌官長の夢を解き明かす(9~13節)

創 40:9 それで献酌官長はヨセフに自分の夢を話して言った。「夢の中で、見ると、私の前に一本のぶどうの木があった。
40:10 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それが芽を出すと、すぐ花が咲き、ぶどうのふさが熟して、ぶどうになった。
40:11 私の手にはパロの杯があったから、私はそのぶどうを摘んで、それをパロの杯の中にしぼって入れ、その杯をパロの手にささげた。」
40:12 ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日のことです。
40:13 三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう。

その夢は、一本のぶどうの木があり、その木には三本のつるがあった。それが芽を出し、花が咲き、ふさが熟して、ぶどうになった。彼はその手に持っていた杯にぶどうをしぼり、それをパロに差し出したというものです。

ヨセフは、これは三日目に献酌官長が監獄から出されて、再びパロの前に立ち、前の地位を回復することであると告げました。

ヨセフはそれ以上のことを語りませんでしたが、この夢の中には、さらに深い教訓が含まれています。すなわち、人生の真の成功と幸福を示しています。このぶどうの木はイエス・キリストです(ヨハネ15:1~8)。私たちは主のみ前につらなり、忠実にその果をしぼり出して、その喜びを神に感謝し、人にあかしして、幸福な生活を送ることができるのです。

ヨハ 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

5.ヨセフの願い(14,15節)

創 40:14 あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。
40:15 実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」

ヨセフは信仰によって自分が受けた仕打ちや苦痛に対して、不平や不満を言わなかったけれども、彼が苦しみを感じていなかったのではありません。ヨセフもやはり私たちと同じ人間でした(ヘブル2:14,17、4:15、ヤコブ5:17)。彼は心の中で苦しんだのです。

ヘブル 2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。・・・

ヘブル 2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ヤコブ 5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった(文語訳、その霊魂をつなげり)。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。」(詩篇105:18,19)
ヨセフも霊魂に苦しみを感じていました。

そして近いうちに献酌官長が監獄から出るのを知って、ぜひ、自分のことをパロに話してくれるように頼みました。しかしこの時にも、彼はただ、自分がへブル人の国からさらわれてきたことと、罪を犯さないのに投獄されたことだけを語り、兄たちのしたことも、ポティファルの妻のことも、だれに対しても責めるようなのろいの言葉を語りませんでした。彼は、簡潔、質朴に自分の願いを話しました。ヨセフは決して超人的な人ではなく、感じやすい、やわらかい心の持ち主です。それ故に、さらにヨセフの信仰が輝いて見えるのです。

6.調理官長の夢を解き明かす(16~19節)

創 40:16 調理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私も夢の中で、見ると、私の頭の上に枝編みのかごが三つあった。
40:17 一番上のかごには、パロのために調理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
40:18 ヨセフは答えて言った。「その解き明かしはこうです。三つのかごは三日のことです。
40:19 三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」

調理官長は、先の夢が立派に解き明かされ、その結果が幸福であるのを聞いて、自分の夢を話しました。
彼の夢は、頭の上にかごが三つあり、一番上のかごにパロのためにつくった様々な食べ物がはいっていました。ところが空の鳥がきて、これを食べてしまったというのです。
ヨセフはへつらうことをせず、忠実にこれを解き明かしました。すなわち、三日のうちに彼は刑場に引き出されて死刑に処せられるというのです。

これは調理官長が不正直で、不義な者であって、助けられるべき者でないことを示しています。もし彼が献酌官長のように助けられるべき者であったならば、キリストは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)ですから、彼は、目の前に麦が生えて、実を結び、これが熟して、手で摘み、これを粉にして、パロのためにパンや菓子をつくる夢を見るはずでした。ところがそれとは反対に、すでに出来上がっていた食べ物を頭の上から鳥がついばんでしまったのです。ですから、その意味は、調理官長が不注意か、怠慢か、あるいは自分が盗んだのか、パロのための食べ物を失ってしまったということで、彼の生涯は無益なむなしいものであることを示しています。

これによって教えられることは、私たちもまた、神のために用いるべき時間、財産、才能などを自分のためにだけ使って、神のために使うものを失ってしまうならば、それは無益なむなしい生涯になってしまうということです。

献酌官長と調理官長を比べてみますと、この二人はへブル人への手紙九章一四節にある「生ける神に仕える者」と「死んだ行ないをする者」のことを示しています。

7.ヨセフの最後の試練‥‥二年間忘れられること(20~23節)

創 40:20 三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。
40:21 そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。
40:22 しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。
40:23 ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

三日たってから、ヨセフの夢の解き明かしのとおりになりました。献酌官長は再び前の地位を回復し、調理官長は木にかけられて処刑されました。献酌官長は監獄から出るとき、ヨセフに礼を言い、ヨセフが早く監獄から出られるようにパロに申し上げると約束したでしょう。そしてヨセフはいよいよ監獄から出られるという喜びと希望をもって待っていたにちがいありません。きょうか、あすか、とにかくすぐにパロの使いが来て、自分を監獄から出してくれると思って待っていたでしょう。しかし一週間たち、一ヶ月が過ぎ、半年過ぎ、一年たっても救出の使いは来ませんでした。彼は二年間、忘れられてしまったのです。これは人を当にし、人に頼むことがいかにむなしいかをよく表わしています。またヨセフにとっては、この二年間はこれまでの試練の中でも最も苦しい時であったと思われます。

しかしこれも神の摂理でした。もし献酌官長がパロにヨセフのことを話し、すぐにヨセフが監獄から出されていたら、ヨセフは母国の父のもとに帰っていたでしょう。そうすれば神のご計画はくずれ、彼はエジプトの宰相となることもなく、エジプト人も、父とその家族も、近隣諸国の人々もききんから救うことはできなかったでしょう。

神は最もよい時期を選んで、私たちを苦難の中から救い出してくださるお方です。ヨセフはこの二年間にどれほど信仰が試みられ、訓練され、霊的経験を深めたことでしょうか。ヨセフにとってこの試練は、アブラハムがイサクをモリヤの山で献げたのと同じ意味をもっています。

また悪魔はこの時、なんとかしてヨセフを不信仰にして、罪を犯させようとしたに違いありません。悪魔はヨセフを監款の中に葬り去り、神のみわざが出来ないようにと必死に働いたことでしょう。しかし悪魔の仕業は、ただヨセフの信仰と品性を磨いただけで、ますます神の器にふさわしいものとしたのです。

悪魔は主イエスに対しても、聖誕の時にはへロデによって殺そうとし、エジプトに送り、公生涯に入る時には荒野で試み、ついに十字架につけましたけれども、悪魔の仕業はいつも失敗でした。この点もヨセフと主イエスとは、よく似ています。

(夢による神の啓示)

( 創世記中の啓示の仕方の変化)

聖書全体の啓示の変化は、   、
律法→儀式→(祭司)→預言者→み子イエス・キリスト→みことば(聖書)
となっています。

(以上、創世記40章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用しました。)

上の写真は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyにより1907年に出版されたバイブルカードより、「Joseph Faithful in Prison(獄中でも主に忠実なヨセフ)」(Wikimedia Commonsより)

〔あとがき〕

今年もクリスマスの声を間近に聞く季節になりました。一年間の聖書の探求をとおして少しでも主の恵みの奥深くに入ることができていましたら、これ以上に感謝なことはありません。
皆様のお励ましをいただいて、創世記も四十章に到達いたしました。来年には創世記を終えて、出エジプト記に入れるものと思います。このような小冊子でも毎月発行するとなると結構大変になってきますが、発行のたびに新な恵みを経験させていただいております。
どうぞ、内に主に満たされたクリスマスをお迎えください。
(1986.12.1)

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