聖書の探求(035a) 創世記42章 ヨセフの夢の成就

ヨセフがエジプトの支配者となることは、キリストが再臨の時にこの世を支配されることの予表でもあります。
それと共に、もう一つ驚くべき予表があります。それはキリストの兄弟であるユダヤ人が国民としてもう一度回復することです。このことは旧約聖書に預言され、新約聖書ローマ人への手紙9~11章にも預言されています。ユダヤ人はこの二千年間、のろわれ、苦しめられ、迫害され、さらしものにされてきましたが、キリストの再臨の時に、罪を悔い改めて、主を信じて救われる者が多く起こされます。創世記42~45章は、このことの予表であるということができます。

さて、この42章は、37章でみたヨセフの夢の成就です。

1.エジプトに出かける十人の兄弟(1~5節)

創 42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」
42:2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」
42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。
42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。
42:5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。

ヤコブとその家族はききんのためにしばらくの間、苦しまなければなりませんでした。しかしそのためについにははなはだ大いなる祝福を受けることになったのです。
ヤコブがエジプトに穀物を買いに行くように言い出した時、息子たちが互いに顔を見合わせたのは、彼らの良心が働いたためです。なぜなら、先にヨセフを売ったエジプトには、行きたくなかったのでしょう。 しかし必要に迫られて、エジプトに下って行きました。ききんの困難が、真の悔い改めへと導いたのです。困難がかえって幸いを生み出しました。

2.エジプトにおける十人の兄弟(6~25節)

創 42:6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。
42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」
42:8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。
42:9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」
42:10 彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。
42:11 私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」
42:12 ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」
42:13 彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」
42:14 ヨセフは彼らに言った。「私が言ったとおりだ。あなたがたは間者だ。
42:15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。
42:16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」
42:17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。
42:18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。
42:19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。
42:20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。
42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」
42:23 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。
42:24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。
42:25 ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。

37章2節ではヨセフは17才、41章46節では30才でした。この間に13年が経過しています。さらに41章29節では7年間(豊作の7年が終わって、ききんが始まっていた)が経過していました。それ故、ヨセフが兄たちに売られてから最少限20年間が経過していたことになります。
十人の兄弟はエジプトに着くや否や、その国の支配者の前に出ました。しかしその支配者がヨセフであることを知らずに、みんな謙遜にヨセフの前に身をかがめました。このようにしてヨセフの夢は成就したのです。彼の麦の束を兄たちが拝したという夢は文字通りに成就しました。
兄たちは麦、すなわち、命を養う食物を買うためにヨセフの前に身をかがめました。これは主イエスの型です。命のパンである主イエスの前にすべての人がひれ伏す日がやがて来ます(ピリピ2:10,11)。

ピリ 2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

ヨセフは彼らを見て、すぐに兄弟であることが分かりましたが、兄弟たちはヨセフであることが分かりませんでした。ヨセフが成長し、エジプトの服装をしており、言葉もエジプトの言葉を用いて通訳を使って話したからです。
ヨセフは兄弟たちを思い出したばかりでなく、先の夢をも思い出しました(9節)。
そして兄弟たちに罪の悔い改めをさせる良いチャンスがきたことを悟りました。主イエスもまた、私たちの霊魂を取り扱い、罪を自覚せしめ、悔い改めに導き、愛をもって心を砕き、永遠の平和を与えられます。

(ヨセフと主イエスの類似点)

(1) ヨセフは二度「わかった」(7,8節)と言っています。

42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」
42:8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。

主は私たちのすべてを知っておられるお方です(詩篇139:16)。

詩 139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

主イエスは、サマリヤの女のすべてを、ザアカイのすべてを知っておられました。

(2) ヨセフは最初荒々しく語り、むずかしい顔をして、兄弟を不親切に扱いました(7節)。

創 42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」

しかし外見の不親切の裏には、驚くべき内部のあわれみと慈悲とが隠されていました。私たちも初め良心の苛責を受けて罪を自覚するようになり、神の怒りを感じます。神が目分から離れていると感じ、神の愛もあわれみも隠されてしまっています。しかしその背後に驚くべき神の愛が備えられているのです。

(3) ヨセフは自分がヨセフであることを全く隠しました。

主イエスもしばしばご自身を隠して、人々に接せられました。主がサマリヤの女を取り扱われた時には、ご自分がメシヤであることを隠して、ただの旅人のように語り出されました。エマオへの途中でも、二人の弟子にご自身を隠されました。このように今日の私たちも、主がすぐ近くで親しく語ってくださっていても、それが主イエスの御声であることに気づいていないことがしばしばあります。

(4) ヨセフは兄弟を綿密に取り調べ、来た目的や名前、国、家族のことなどをたずねました。

これは、父や弟ベニヤミンのことを知りたかったのと共に、兄たちが自分をエジプトに売ったことについて、何か聞き出せるのではないかと期待したからでしょう。そして兄たちが悔い改める機会をつくったのです。主イエスも私たちの良心を通して、私たちを綿密にさぐり、私たちの罪を明らかにし、悔い改めのチャンスを与えられます。

(5) ヨセフは彼らの心の底まで知るために、彼らが間者であると言いました(9節)。

42:9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」

その目的の一つは、愛する弟ベニヤミンを自分の所へ呼び寄せる理由をつくるためでした。これによって兄たちは以前の罪を深く思い出しました。主イエスも私たちに罪の自覚を起こさせるために、同じように取り扱われることがあります。

(6) ヨセフは兄たちを三日間監獄に入れた。
この三日間、兄たちは良心に責められて苦しみ、以前の罪を思いめぐらし、この苦しみは昔の罪の結果であると思いました(17,21,22節)。

42:17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。
42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

しかしこの手荒い取り扱いは愛からでした。これは兄たちがヨセフを穴に投げ入れたのとは全く異なります。兄たちはヨセフを苦しめ、殺すために穴に投げ入れましたが、ヨセフが兄たちを監獄に入れたのは、愛と救いに導くためでした。

(罪の自覚 21,22節)

42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

このヨセフの取り扱いによって、兄たちのうちに罪の自覚が起きてきました。ヨセフに対する昔の残酷な罪についての自覚でした。彼らはへブル語で話し合っていましたが、ヨセフにはそれが分かりました。彼らは互いに罪を認めて、今の苦難はあの時の罪の結果であると言いました。
忘れた罪は赦された罪ではありません。彼らはその犯した罪を忘れていましたけれども、神のみ前に赦されていたのではなかったのです。それ故に、思わぬ災難に出会った時、たちまちそれまで忘れていた罪を思い起こしました。彼らの良心は覚醒し、うちから彼らを責めたのです。このように大切なのは、まず罪を自覚すること、次にはその自覚した罪を言い表わすこと、そして赦しを求めることです(箴言28:13)。

箴 28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

ヨセフは、直接にはその罪については何も言わなかったけれども、彼らの良心を働かせ、彼らの心を動かしたのです。しかし、この罪の自覚はまだ完全ではありませんでした。なぜなら、そこにいる人がヨセフであることを、彼らが知らなかったからです。このことは、エダヤ人がこの二千年間、苦しみ、のろわれたのは、主イエスに対して犯した罪の結果であることを知るに至る模型です。
私たちにとっても、真の罪の自覚は、ただいろいろな不品行を悲しむだけでなく、主イエスに対する自分の態度、すなわち、自分の罪によって主イエスを十字架につけたこと、さらには主イエスがご自身を十字架につけてまで罪の赦しを差し出しておられるのに、長い間これを信じなかったことを悲しむことです。

(ヨセフの憐み 24節)

42:24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

ヨセフは知らない者のように通訳者を用いて話していたけれども、兄たちの良心の苦痛と悲しみを見ていると、心が非常に動かされてその場にいることができなくなり、別室に入って涙を流して泣きました。これは主イエスがエルサレムをながめて泣かれたその御心を示しています(ルカ13:34、19:41)。

ルカ 13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

ルカ 19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

外見上は荒々しく、見知らぬ者を取り扱うようにしていても、主イエスのみこころの中には、罪深い私たちに対する驚くべき愛と悲しみとがあります。

3.エジプトから帰る十人の兄弟(26~38節)

(1) 返されていた銀(26~28節)

創 42:26 彼らは穀物を自分たちのろばに背負わせて、そこを去った。
42:27 さて、宿泊所で、そのうちのひとりが、自分のろばに飼料をやるために袋をあけると、自分の銀を見つけた。しかも、見よ。それは自分の袋の口にあった。
42:28 彼は兄弟たちに言った。「私の銀が返されている。しかもこのとおり、私の袋の中に。」彼らは心配し、身を震わせて互いに言った。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」

ヨセフは兄弟たちの前でシメオンを縛りました。これはヨセフが昔、縛られたことを兄たちに思い出させようとしたのです。
そして残りの九人を国に帰らせました。その時には、ヨセフは穀物を与え、銀を返し、旅の途中の食糧を彼らに与えて、実際的な憐みを示しました。銀を返したのは、おそらくヨセフが銀20枚で売られたことを兄たちに思い出させるためであったと思われます。ヨセフのしたことは、一つ一つ兄たちの罪を覚醒させました。
兄たちは帰る途中、宿泊所でろばに飼料をやるために袋をあけると、そこに自分たちの銀を見つけて、非常に恐れました。良心というものは不恩義なもので、何でも用いて罪の苛責を起こすことができます。兄たちは、ヨセフの荒々しい取り扱いによって良心の苛責を受け、またヨセフの親切によっても良心の苛責を受けました。主イエスが私たちに恵みを加えられると、私たちはますます自分の罪探さを示されるのです。
また、ヨセフが兄たちに穀物を売らずに、無代価で与えたのは、主イエスが価なしに命のパンを与えられることを示しています(イザヤ55:1、ヨハネの黙示録21:6、22:17)。

イザ 55:1 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

黙 21:6 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

黙 22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

(2) 父ヤコブへの報告(29~38節)

創 42:29 こうして、彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて彼に告げて言った。
42:30 「あの国の支配者である人が、私たちに荒々しく語り、私たちを、あの国をうかがう間者にしました。
42:31 私たちはその人に、『私たちは正直者で、間者ではない。
42:32 私たちは十二人兄弟で同じひとりの父の子で、ひとりはいなくなったが、末の弟は今、カナンの地に父といっしょにいる』と申しました。
42:33 すると、その国の支配者である人が、私たちに言いました。『こうすれば、あなたがたが正直者かどうか、わかる。あなたがたの兄弟のひとりを私のところに残し、飢えているあなたがたの家族に穀物を持って行け。
42:34 そしてあなたがたの末の弟を私のところに連れて来い。そうすれば、あなたがたが間者ではなく、正直者だということが私にわかる。そのうえで、私はあなたがたの兄弟を返そう。そうしてあなたがたはこの地に出はいりができる。』」
42:35 それから、彼らが自分たちの袋をからにすると、見よ、めいめいの銀の包みがそれぞれの袋の中にあるではないか。彼らも父もこの銀の包みを見て、恐れた。
42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
42:37 ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します。」
42:38 しかしヤコブは言った。「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」

兄たちはようやくカナンの父のもとに帰って、自分たちの経験したことを父ヤコブに話しました。その時、兄たちの心にも、父ヤコブの心にも、恐れと不安と悲しみと、不信仰の色が濃く現わされていました。
これと同じで、私たちが深く罪を自覚する時には、神の恵みが現わされていても、それを理解することができません。
主イエスの救いと恵みがはっきりと分かるまでは、心が動揺し、躊躇し、恐れ、悲しみ、不信仰になりがちです。
しかし、もしヤコブが黒雲のごとく頭上をおおった悲惨な運命の裏に、神の慈愛の御手が働いているのを認めることができたならそれこそ自分ほど幸せな者はないと感激したでしょうに。神のみことばに、
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‥‥主の御告げ。‥‥それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29:11)
とある通りです。いかなる時にも、神の絶大なる愛に信頼したいものです。

(以上、創世記42章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イギリスの建築家&デザイナーの Owen Jones (1809–1874) が1869年に描いた挿絵「The History of Joseph and His Brethren(ヨセフと彼の兄弟たちの物語)」(Wikimedia Commonsより)

〔あとがき〕

新年のお悦びを申し上げます。年頭、いろいろな抱負をもって出発されたことと思います。力んでいる方は一月も過ぎないうちに、計画倒れになってしまうでしょう。しかしやはり目標をもって一年を過していただきたいものです。そしてその抱負の中に、ぜひ聖書の探求も加えてください。
聖書は自分で読んでいるだけでは、仲々わからないというのが本当だと思います。あるいは片寄った解釈をして信仰が曲っていってしまう危険も大です。聖書を健全に学ぶためには、先ず説教を注意深く聞くことです。一言も聞きもらすまいとの注意をもって聞くようにしてください。居眠りしているなんて、モッテノホカ。よく居眠りする人は前の晩によく寝ておいてください。一度聞いた説教をテープで聞き直してみることも良い方法です。
次に、健全な注解書を牧師に紹介していただいて、聖書とともに読むことです。少々高価ですが、この世の物を買うのに比べたら安いもの。第三は、コツコツと学び続けることです。ことしも宜敷お願い申し上げます。
(1987.1.1)

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