聖書の探求(035b) 創世記43章 ヨセフとベニヤミンの再会

ヤコブの息子たちは、持って帰った食糧が尽きてきたので、もう一度エジプトに行かなければならなくなりました。それだけではなく、兄弟のシメオンがエジプトにつながれているのですから、どうしても救い出すために行かなければなりません。ヤコブは末の息子ベニヤミンを手離すことを拒みましたが、困難が切迫することによって、ベニヤミンを連れていくことを承諾しました。この章では、兄たちの罪の自覚と悔い改めがますます深くなるのをみるとともに、ヨセフの愛もますます深くなっていくのをみることができます。43章は、ヨセフとベニヤミンの再会の章ということができるでしょう。

1.二度目の出発(1~15節)

(1) 父ヤコブとユダの問答‥‥ベニヤミンを連れて行くことについて(1~10節)

43:1 さて、その地でのききんは、ひどかった。
43:2 彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、私たちのために少し食糧を買って来ておくれ。」
43:3 しかしユダが父に言った。「あの方は私たちをきつく戒めて、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない』と告げました。
43:4 もし、あなたが弟を私たちといっしょに行かせてくださるなら、私たちは下って行って、あなたのために食糧を買って来ましょう。
43:5 しかし、もしあなたが彼を行かせないなら、私たちは下って行きません。あの方が私たちに、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない』と言ったからです。」
43:6 そこで、イスラエルが言った。「なぜ、あなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私をひどいめに会わせるのか。」
43:7 彼らは言った。「あの方が、私たちと私たちの家族のことをしつこく尋ねて、『あなたがたの父はまだ生きているのか。あなたがたに弟がいるのか』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。あなたがたの弟を連れて来いと言われるとは、どうして私たちにわかりましょう。」
43:8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。
43:9 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。
43:10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」

兄たちは食物を買うのがエジプトに下る唯一の目的でしたが、ヨセフは更に兄たちを真に悔い改めさせ、自分の愛を信じ、自分と共に住み、自分の光栄と権利と幸福とに、共に与からせるのが目的でした。私たち罪人の目的はキリストの救いに与かり、永遠の命を受けることであると思っていますが、主イエスはご自身の愛を示し、私たちをご自身との交わりに入れたいのです。
このようなヨセフの目的はヤコブには隠されていました。それ故に、ヤコブはただ損得だけを考えて、ベニヤミンを手離しました。私たちも自分が恵みを受けるために、しぶしぶ主に従うことはないでしょうか。主の愛と主のみこころを悟らないと、こういうことになりかねません。

(2) ヤコブの承諾(11~14節)

43:11 父イスラエルは彼らに言った。「もしそうなら、こうしなさい。この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド、
43:12 そして、二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。それはまちがいだったのだろう。
43:13 そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。
43:14 全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

持っていくもの (三つの礼物)
(イ) 国の名産物(カナンの地の最上の産物)
(ロ) 二倍の銀
(ハ) 最愛のベニヤミン

ヤコブはヨセフの心を知らなかったから、エジプトの荒々しい支配者の心をなだめようと思って、やむをえずこれらの三つのものを送りました。彼は後に、ヨセフの心を知って、自分の誤解をいかに恥じたことでしょうか。しかしこれはいつでも罪人が神に帰ろうとする時に、取る道です。すなわち、三つの方法で神をなだめようと考えます。

第一、善行をもって神の前に義とされ、神をなだめようとすること。しかし、私たちが救われるのは、行ないによるのではなく、恵みによるのです。(エペソ2:5)

エペ 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

第二、金銭あるいは慈善事業をもって救いを買おうとすること(ミカ書6:6~8)。勿論これは不可能です。

ミカ 6:6 私は何をもって【主】の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
6:7 【主】は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

第三、自分の最も愛する貴重なものを献げて、神に受け入れられようとすること。ヤコブは最も愛するベニヤミンを遣わして、エジプトの支配者をなだめようとした。しかしこれも神に受け入れられることはない。すべて信仰によらない行ないは、神に受け入れられることはない(ヘブル11:6)。

ヘブル 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

パウロは、キリスト」者の五つの貴い特質を挙げて、これらのものがあっても、愛がなければむなしいと言っています。(コリント第一13:1~3)

Ⅰコリ 13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

(イ) 天使の力をもって福音を伝えること
(ロ) 聖書の奥義を知ること
(ハ) 山を移すほどの信仰
(ニ) すべての所有物を献げること
(ホ) 神のために殉教すること

これらはクリスチャンにとって、みな貴いものですが、それでもその中に愛がなければ、数えるに足らないと言っています。それでは、その愛はどのようにして持つことができるのでしょうか。それはみことばによって神の愛を信じ、これを自分にあてはめて自分のものとすることによってです (ローマ5:5)。

ロマ 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

最終的にヤコブが祝福を受けたのは、彼が贈物を送ったからではなく、ヨセフの愛があったからです。しかし信仰的でなかったとしても、ヤコブが愛子ベニヤミンを手離したことはよかった。自分がしがみついているものを手離す(献身)ことによって、信仰がよみがえってきたのです。14節の「私も、失うときには、失うのだ。」は、エステルの「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル記4:16)を思い起こさせます。これは祝福の条件です。

エス 4:16 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」

(3)再びヨセフの前に立つ(15節)

創 43:15 そこで、この人たちは贈り物を携え、それに二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下り、ヨセフの前に立った。

2.ヨセフの家の管理者に会う(16~25節)

(1) 兄たちの心配(16~18節)

創 43:16 ヨセフはベニヤミンが彼らといっしょにいるのを見るや、彼の家の管理者に言った。「この人たちを家へ連れて行き、獣をほふり、料理をしなさい。この人たちが昼に、私といっしょに食事をするから。」
43:17 その人はヨセフが言ったとおりにして、その人々をヨセフの家に連れて行った。
43:18 ところが、この人たちはヨセフの家に連れて行かれたので恐れた。「われわれが連れ込まれたのは、この前のとき、われわれの袋に返されていたあの銀のためだ。われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕らえるためなのだ」と彼らは言った。

ヨセフはベニヤミンを見ると、家の管理者に宴を備えて彼らを招くように命じた(16節)。ヨセフはベニヤミンを見て、どんなに愛に燃えて彼を歓迎したでしょうか。彼はベニヤミンを見て、兄達の真面目な従順を認め、自分を表わす時がきたと思いました。そこで、その喜びをあらわすために、先に荒々しく取り扱った者を、今は賓客としてもてなしたのです。
主イエスも私たちの真の悔い改めを見られたならば、喜びをあらわし、恵みをもって取り扱ってくださいます(ルカ15:7、10、22~24、32、ヨハネの黙示録3:20)。

ルカ 15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

ルカ 15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

ルカ 15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

ルカ 15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

黙 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

しかし兄たちはヨセフの親切な取り扱いを理解せず、良心が落ち着かないために恐れました。私たちも、キリストに対する和解が意識的にできるようになるまで、恵みにあずかっていても、良心の不安定のために不安になることがあります。

(2) 兄たちの弁明(19~23節)

創 43:19 それで、彼らはヨセフの家の管理者に近づいて、家の入口のところで彼に話しかけて、
43:20 言った。「失礼ですが、あなたさま。この前のときには、私たちは食糧を買うために下って来ただけです。
43:21 ところが、宿泊所に着いて、袋をあけました。すると、私たちの銀がそのままそれぞれの袋の口にありました。それで、私たちはそれを返しに持って来ました。
43:22 また、食糧を買うためには、ほかに銀を私たちは持って来ました。袋の中にだれが私たちの銀を入れたのか、私たちにはわかりません。」
43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。あなたがたの銀は私が受け取りました。」それから彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。

兄たちはヨセフの家に招かれた時、すぐに邪推して、これは前の食糧の代金を持ち帰ったためであると考えました。そこで彼らは、管理者にそのことを打ち明けました。すると兄たちは平和のメッセージを聞き、良心を落ち着かせることができました。
主イエスもしばしば、「恐れず、ただ信じなさい。」と平和のメッセージを語られています。私たちは神の教訓を受ける前に、恐れを取り去り、心が平安になっていなければなりません。

(3) 兄たちの休息とヨセフとの会見の準備(24,25節)

創 43:24 その人は人々をヨセフの家に連れて行き、水を与えた。彼らは足を洗い、ろばに飼料を与えた。
43:25 彼らはヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。それは自分たちがそこで食事をすることになっているのを聞いたからである。

兄弟たちは幾分、心が楽になったので、ヨセフの家に行きました。

3.ヨセフとの第二回目の会見(26~34節)

(1) 兄たちひれ伏す(26~29節)

創 43:26 ヨセフが家に帰って来たとき、彼らは持って来た贈り物を家に持ち込み、地に伏して彼を拝んだ。
43:27 ヨセフは彼らの安否を問うて言った。「あなたがたが先に話していた、あなたがたの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」
43:28 彼らは答えた。「あなたのしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」そして、彼らはひざまずいて伏し拝んだ。
43:29 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これがあなたがたが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」

エジプトの支配者は以前のように荒々しくせず、かえってねんごろに彼らの安否を問い、年老いた父の様子をたずねました。特に、ベニヤミンには目を注いで、非常にやさしい言葉で、彼のために神の祝福を祈りました。
ヨセフの心は愛にとけ、驚くべき愛をもって、兄弟たちが犯した罪を赦しました。そこには一片の憎しみも復讐心もありませんでした。

(2) ヨセフの涙(30節)

創 43:30 ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた。

 ヨセフの涙は次の各節に記されています。(42:24、43:30、45:2、45:14)

創 42:24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

創 43:30 ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた。

創 45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。

創 45:14 それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。

ヨセフはその愛の故に、涙を流さずにはいられませんでした。しかしまだ、自分がヨセフであることを表わすべき時ではありませんでした。主イエスも、真の悔い改めが出来るまで、ご自身の奥義、ご自身の愛を私たちにゆだねられません(ヨハネ2:23,24)。

ヨハ 2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、

それ故、ヨセフは奥の部屋で泣いています。それは 弟ベニヤミンに対するなつかしさの故であると記されています。このように主イエスは、いかに私たちを恋慕っておられることでしょうか。

(3) ヨセフと兄弟たちとの会食(31~34節)

創 43:31 やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と言いつけた。
43:32 それでヨセフにはヨセフにだけ、彼らには彼らにだけ、ヨセフと食事を共にするエジプト人にはその者にだけ、それぞれ別に食事を出した。エジプト人はヘブル人とはいっしょに食事ができなかったからである。それはエジプト人の忌みきらうところであった。
43:33 彼らはヨセフの指図によって、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらされたので、この人たちは互いに驚き合った。
43:34 また、ヨセフの食卓から、彼らに分け前が分けられたが、ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔いごこちになった。

ヨセフは顔を洗って、食事の席につきました。ヨセフはヨセフ、エジプトの家来は彼らだけ、そしてへブル人の兄弟たちは兄弟たちだけの席が設けられました。
32節でへブル人がエジプト人に忌みきらわれていたのは、ヘブル人が羊飼いであったからです。エジプト人は羊飼いを下級な民であると考えていたのです。(46:34)

創 46:34 あなたがたは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」

しかしこのことは善きに働いて、ヘブル人が四百年もエジプトに住んでいたのにエジプト人と混ざらず、ヘブル民族の血筋を守り、救い主の家系を絶えさせることがなかったのです。
兄弟たちは、ヨセフの指図に従って、年令順に坐らされました(33節)。これを見て兄弟たちは驚きました。またベニヤミンには分け前が五倍も多く与えられました(34節)。
主イエスも何度か食事の席で、ご自身の恵みを示し、人々の頑なな心を取り除かれました。主イエスとともに食事をすることによって、主イエスの友であることがあらわされます。パリサイ人がキリストを罪人として訴えた時、「キリストは罪人の友として罪人とともに食事した」と非難しました。ヨセフも自分がヨセフであることを表わす前に、食事をもって、自分の愛をあらわしたのです。

(以上、創世記43章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
(1987.3.1)

上の写真は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1899年頃に描いた「The brothers of Joseph(ヨセフの兄弟たち)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵)

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