聖書の探求(036a) 創世記44章 ユダの弁明

この章では、ユダのリーダーシップが目立っています。この章は「ユダの弁明」と題することができるでしょう。ユダの弁明には、年老いた父ヤコブに対する深い配慮が見られます。

兄弟たちは先の恐れや憂いや誤解なども取り去られて、心も落ち着き、エジプトの支配者の親切な取り扱いを喜びつつ、食糧をろばに乗せて帰りかけました。しかし彼らの悔い改めはまだ完全でなく、ヨセフの愛もまだ十分に表わされていませんでしたから、ヨセフはこれで満足することができませんでした。
もしこのまま彼らを国に帰らせたら、再び会うこともできないでしょう。まして父や兄弟たちを自分のもとに引き寄せて、世話をすることもできなかったでしょう。だからもう一度、彼らを途中から引き戻したのです。私たちはヨセフの目的を心に深く留めておかなければなりません。ヨセフの目的は家族を自分のもとに引き寄せて、養い、祝福し、自分の栄と貴きにともに与らせるためでした。だからもう一度、彼は計画を試みたのです。すなわちベニヤミンの袋の中にひそかに自分の銀の杯を入れ、彼らが出発するや否や、すぐに使いをやって「杯を盗んだ者がいる」と言わせています。これによって兄弟たちの悔い改めをさらに深くならしめ、また自分の愛をさらにはっきりと表わそうとしたのです。

1.無罪の人が罰せられる苦痛を味わうこと(1~13節)

創 44:1 さて、ヨセフは家の管理者に命じて言った。「あの人々の袋を彼らに運べるだけの食糧で満たし、おのおのの銀を彼らの袋の口に入れておけ。
44:2 また、私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」彼はヨセフの言いつけどおりにした。
44:3 明け方、人々はろばといっしょに送り出された。
44:4 彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家の管理者に言った。「さあ、あの人々のあとを追え。追いついたら彼らに、『なぜ、あなたがたは悪をもって善に報いるのか。
44:5 これは、私の主人が、これで飲み、また、これでいつもまじないをしておられるのではないか。あなたがたのしたことは悪らつだ』と言うのだ。」
44:6 彼は彼らに追いついて、このことばを彼らに告げた。
44:7 すると、彼らは言った。「あなたさまは、なぜそのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。
44:8 私たちが、袋の口から見つけた銀でさえ、カナンの地からあなたのもとへ返しに来たではありませんか。どうしてあなたのご主人の家から銀や金を盗んだりいたしましょう。
44:9 しもべどものうちのだれからでも、それが見つかった者は殺してください。そして私たちもまた、ご主人の奴隷となりましょう。」
44:10 彼は言った。「今度も、あなたがたの言うことはもっともだが、それが見つかった者は、私の奴隷となり、他の者は無罪としよう。」
44:11 そこで、彼らは急いで自分の袋を地に降ろし、おのおのその袋を開いた。
44:12 彼は年長の者から調べ始めて年下の者で終わった。ところがその杯はベニヤミンの袋から見つかった。
44:13 そこで彼らは着物を引き裂き、おのおのろばに荷を負わせて町に引き返した。

兄弟たちは、砕かれ、へりくだり、恐れおののき、悔い改めの実を相当結んでいました。しかし彼らはなお、無罪の人が理由なく罰せられることが、どんなに苦しいことであるかを経験し、学ばなければなりませんでした。ヨセフは無罪なのに苦しめられ、兄弟たちはその苦しみを彼に与えたのです。それ故、彼らもその苦しみを経験する必要があったのです。
銀の杯の件については、ベニヤミンも兄弟たちも無罪でした。しかしヨセフはこのことをとおして、彼らの心がますます深く砕かれることを求めました。1~13節をみますと、兄弟たちは自分たちの正しさを弁護したりせず、またベニヤミンを責めることもしませんでした。むしろ従順にヨセフのもとに帰って行ったのです。彼らが自分の正しさを主張せず、またベニヤミンも責めなかったのは、自分たちの過去の罪、すなわち無罪の人に苦しみを加えた罪を思い出して、今の苦しみは当然の報いであると思ったのでしょう。
ヨセフの計画は一つ一つその目的を成し遂げていきました。そして兄弟たちの悔い改めは段々と熟してきました。

2.兄弟たちの悔い改めが真実かどうか、徹底的に試めされました(14~17節)。

創 44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家に入って行ったとき、ヨセフはまだそこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。
44:15 ヨセフは彼らに言った。「あなたがたのしたこのしわざは、何だ。私のような者はまじないをするということを知らなかったのか。」
44:16 ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」
44:17 しかし、ヨセフは言った。「そんなことはとんでもないことだ。杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。ほかのあなたがたは安心して父のもとへ帰るがよい。」

兄弟たちはヨセフのもとに立ち帰り、地に伏し、口実をつくって言い逃れをしたりせず、全員でヨセフの奴隷になると申し出ました。しかしヨセフは、ただ銀の杯が見つかった袋の者だけが奴隷となり、他の兄弟たちは父のもとに帰れと命じました。これによっても、ヨセフは兄弟たちに昔の罪を覚えさせるつもりでした。父に愛せられているベニヤミンがエジプトに残って、エジプトの支配者の奴隷になるとするならば、昔、ヨセフを売った時のことを思い出さずにはいられなかったでしょう。特に、ヨセフは自分を売ったユダの悔い改めを確かめたかったのです。それでこのような計画を実行したのです。

ヨセフはただ一つの罪を思い出させ、それを悔い改めさせようとしたのです。ペテロがペンテコステの日にユダヤ人に向かって説教した時も、ただ一つの罪、すなわち、ユダヤ人たちがキリストを十字架につけたことを示して、悔い改めをすゝめたのです。(使徒二章)

3.悔い改めの成就(18~34節)

創 44:18 すると、ユダが彼に近づいて言った。「あなたさま。どうかあなたのしもべの申し上げることに耳を貸してください。そして、どうかしもべを激しくお怒りにならないでください。あなたはパロのようなお方なのですから。
44:19 あなたさまは、しもべどもに、あなたがたに父や弟があるかとお尋ねになりました。
44:20 それで、私たちはあなたさまに、『私たちには年老いた父と、年寄り子の末の弟がおります。そしてその兄は死にました。彼だけがその母に残されましたので、父は彼を愛しています』と申し上げました。
44:21 するとあなたは、しもべどもに、『彼を私のところに連れて来い。私はこの目で彼を見たい』と言われました。
44:22 それで、私たちはあなたさまに、『その子は父親と離れることはできません。父親と離れたら、父親は死ぬでしょう』と申し上げました。
44:23 しかし、あなたはしもべどもに言われました。『末の弟といっしょに下って来なければ、二度とあなたがたは私の顔を見ることはできない。』
44:24 それで、私たちは、あなたのしもべである私の父のもとに帰ったとき、父にあなたさまのおことばを伝えました。
44:25 それから私たちの父が、『また行って、われわれのために少し食糧を買って来てくれ』と言ったので、
44:26 私たちは、『私たちは下って行くことはできません。もし、末の弟が私たちといっしょなら、私たちは下って行きます。というのは、末の弟といっしょでなければあの方のお顔を見ることはできないのです』と答えました。
44:27 すると、あなたのしもべである私の父が言いました。『あなたがたも知っているように、私の妻はふたりの子を産んだ。
44:28 そしてひとりは私のところから出て行ったきりだ。確かに裂き殺されてしまったのだ、と私は言った。そして、それ以来、今まで私は彼を見ない。
44:29 あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子にわざわいが起こるなら、あなたがたは、しらが頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになるのだ。』
44:30 私が今、あなたのしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちといっしょにいなかったら、父のいのちは彼のいのちにかかっているのですから、
44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。そして、しもべどもが、あなたのしもべであるしらが頭の私たちの父を、悲しみながら、よみに下らせることになります。
44:32 というのは、このしもべは私の父に、『もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者となります』と言って、あの子の保証をしているのです。
44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。
44:34 あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」

ユダのこれまでの生涯は、ヨセフを売ったり、神を信じないカナンの娘を妻にしたり、38章にある不品行を行なったりした、罪深い生涯であったが、ここでは全く異なっています。
この18~34節では、ユダの性質が実に美しく現われています。彼の心は根本的に変わったのです。ユダがベニヤミンのために執り成した言葉は、私たちの罪のために身代わりの十字架にかかられたキリストを思わせるものがあります。そこでユダの執り成しの中から、彼が悔い改めている証拠を三つ挙げてみましょう。

(1) ヨセフに対する全面的服従の態度

ユダはこの執り成しの中で、自分を「あなたのしもべ」と何度も呼んでいます。37章19節ではヨセフが来るのを見て、「夢見る者がやって来る」と言いましたが、ここでは、その人がヨセフとは知らないものの、非常にへりくだって「あなたのしもべ」と言いました。ユダの心の態度が変わっているのが見られます。

(2) 父ヤコブに対する態度

年老いた父に心配をかけ、思いわずらわせるのは、父を死に追いやることになります。この点について、ユダの態度は、以前と全く変わっています。ヨセフをイシュマエル人に売った時には、父の憂いも、悲しみも考えずに、ただ自分たちの利益だけを求めました。しかしここでは、もしベニヤミンが取られたなら、父ヤコブがどんなにか憂いと悲しみに沈み、そのために命を失うであろうと深く心配しました。

(3) ユダはベニヤミンのために喜んで、自分が代わりにヨセフの奴隷となると申し出ました。

これは昔、ヨセフにした態度とは全く異なっています。これは明らかに悔い改めの証拠です。ユダの悔い改めは、理屈ではなく、感情でもなく、実際的でした。悔い改めによって昔の罪を償うことはできないけれども、その罪を悲しみ、喜んで犠牲になろうとする意志が十分に現わされています。ユダも、他の兄弟たちも、徹底的に悔い改め、高ぶりの心は全く低くされ、心は柔かになり、ヨセフがその愛を明らかにして与えるために、彼らの心は十分に備えられました。

ここに至るまでのヨセフの兄弟たちに対する取り扱い方には、驚くべき知恵が用いられています。ヨセフは約二十年振りに会った兄弟たちに自分がヨセフであることを明かしたかったのは山々でしたが、兄弟たちの心の中に悔い改めが十分になされなければならないと思って、忍耐し、自重しました。その間にも、いろいろな恵みを施しましたけれども、自分自身をあらわすことはしませんでした。
主イエスも、私たちの心の中に十分に悔い改めを起こされ、真にへりくだらせ、徹底的に悔い改めさせるまでは、自身をはっきりとあらわされません。喜びは悔い改めの後に来ます。悔い改めの時に、嘆きや憂いや悲しみがあるのは当然です。主イエスは聖霊による嘆きを私たちのうちに起こされるのです。その後に愛と喜びがあふれるのです。

(以上、創世記44章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、ロシアの画家 Alexander Ivanov (1806-1858)が1833年頃に描いた「Joseph’s Brothers Find the Silver Goblet in Benjamin’s Pack(ヨセフの兄弟たちは、ベンヤミンの袋の中に銀の杯を見つける)」モスクワのTretyakov Gallery(トレチャコフ美術館)蔵

〔あとがき〕

このような小冊子を毎月首を長くして待っていてくださる方がいらっしゃいますことを本当にうれしく思います。私共のところでは現在28種類の本を発行していますが、あまり強い関心を示されないのが聖書のみことばに関する本です。しかし読まれた方からは必ずといっていいほど、感想のお手紙をいただきます。このことからみても、クリスチャンの間に、聖書を探求する意欲が欠けているのではないかと心配です。私たちは聖書を離れて、どこに永遠のいのちの約束を見い出すことができるでしょうか。クリスチャンが聖書に立ち帰り、聖書に飢え渇くようになる時、リバイバルは起きます。聖霊がみことばをお用いくださるからです。
一月に「実りある生活の秘訣」という本を新刊しました。三浦綾子先生から、「信徒の生活に即し、それを引き上げずにはおかない霊的な指導の書」というベタホメのおことばをいただき、少々恥しく思っているところですが、あなたもご感想をお寄せください。(1987.3.1)

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