聖書の探求(037a) 創世記46章 ヤコブ一族、エジプトへ移住

37章からはヤコブの歴史でしたが(37:2)、45章までは主としてヨセフについて記されており、特に42~45章ではヨセフと兄弟たちの間の出来事ばかりでした。

創 37:2 これはヤコブの歴史である。・・・

1.ヤコブ、エジプトに下る(1~7節)

創 46:1 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。
46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」
46:3 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。
46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」
46:5 それから、ヤコブはベエル・シェバを立った。イスラエルの子らは、ヤコブを乗せるためにパロが送った車に、父ヤコブと自分たちの子や妻を乗せ、
46:6 また彼らは家畜とカナンの地で得た財産も持って行った。こうしてヤコブはそのすべての子孫といっしょにエジプトに来た。
46:7 すなわち、彼は、自分の息子たちと孫たち、自分の娘たちと孫娘たち、こうしてすべての子孫を連れてエジプトに来た。

ヤコブは息子たちの報告によって、ヨセフがなお生きていることを知り、年老いていましたが、一族を上げてエジプトに下ろうとへブロンを出発し、べエル・シェバに来ました。ベエル・シェバはアブラハム、イサクにも、また自分にも記念すべき地でしたから、そこにとどまって父イサクの神にいけにえをささげて礼拝しました。そしてエジプトに下ることが果たして神のみこころであるかどうか、もう一度深く考えていました。するとその夜、神は幻の中でヤコブに、エジプトに下ることは神のみこころであり、恐れないようにと語られ、彼を大いなる国民にすることと、必ず再びカナンの地に導き上ってくださるとの約束を得ました(3,4節)。
これは15章13節で、神がアブラムに約束された預言の始まりです。ヤコブはこの預言について知っていたかどうか分かりませんが、アブラハムの子孫が四百年間、エジプトに住むことは、神が予め定められたご計画でした。このようにして、ヤコブは大いなる希望と確信をもって、大胆にエジプトに移って行きました。

創 15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。

2.エジプトに移住したヤコブの家族のリスト(8~27節)

創 46:8 エジプトに来たイスラエルの子──ヤコブとその子──の名は次のとおりである。ヤコブの長子ルベン。
46:9 ルベンの子はエノク、パル、ヘツロン、カルミ。
46:10 シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、カナンの女の産んだ子サウル。
46:11 レビの子はゲルション、ケハテ、メラリ。
46:12 ユダの子はエル、オナン、シェラ、ペレツ、ゼラフ。しかしエルとオナンはカナンの地で死んだ。ペレツの子はヘツロンとハムルであった。
46:13 イッサカルの子はトラ、プワ、ヨブ、シムロン。
46:14 ゼブルンの子はセレデ、エロン、ヤフレエル。
46:15 これらはレアがパダン・アラムでヤコブに産んだ子で、それにその娘ディナがあり、彼の息子、娘たちの総勢は三十三人。
46:16 ガドの子はツィフヨン、ハギ、シュニ、エツボン、エリ、アロディ、アルエリ。
46:17 アシェルの子はイムナ、イシュワ、イシュビ、ベリアとその妹セラフ。ベリアの子はヘベル、マルキエル。
46:18 これらは、ラバンが娘レアに与えたジルパの子である。彼女がヤコブに産んだのは十六人であった。
46:19 ヤコブの妻ラケルの子はヨセフとベニヤミンである。
46:20 ヨセフにはエジプトの地で子どもが生まれた。それはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが彼に産んだマナセとエフライムである。
46:21 ベニヤミンの子はベラ、ベケル、アシュベル、ゲラ、ナアマン、エヒ、ロシュ、ムピム、フピム、アルデ。
46:22 これらはラケルがヤコブに産んだ子で、みなで十四人である。
46:23 ダンの子はフシム。
46:24 ナフタリの子はヤフツェエル、グニ、エツェル、シレム。
46:25 これらはラバンが娘ラケルに与えたビルハの子である。彼女がヤコブに産んだのはみなで七人であった。
46:26 ヤコブに属する者、すなわち、ヤコブから生まれた子でエジプトへ行った者は、ヤコブの息子たちの妻は別として、みなで六十六人であった。
46:27 エジプトでヨセフに生まれた子らはふたりで、エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人であった。

ヤコブは息子や孫たちとともに、家畜、家財を携えてエジプトに下りました。これらの人々はユダヤ人の先祖となる人々ですから、その名が記されています。その家族の数は七十人でした(27節)。
この「七十人」という数は、後にも出てきます。モーセがイスラエル人を率いて荒野を旅していた時、神はモーセの重荷を軽くするために七十人の長老を選んで、その霊を分かち与え、モーセの重荷を分担させました(民数記11:16,17、24,25)。

民数 11:16 【主】はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
11:17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。

民 11:24 ここでモーセは出て行って、【主】のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。
11:25 すると【主】は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。しかし、それを重ねることはなかった。

また主イエスも十二弟子以外に、七十人の弟子を任命して伝道に遣わしておられます(ルカ10:1~20)。

ルカ 10:1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。

ヤコブと共にエジプトに移住した七十人は、当時のユダヤ人の全部でした。これは、はなはだ少ない人数でしたが、やがて偉大な国民となり、全人類に大いなる感化を及ぼす民となりました。

3.ヤコブの住むゴシェンの地(牧羊によい地)(28~34節)

創 46:28 さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。
46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
46:30 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」
46:31 ヨセフは兄弟たちや父の家族の者たちに言った。「私はパロのところに知らせに行き、申しましょう。『カナンの地にいた私の兄弟と父の家族の者たちが私のところに来ました。
46:32 この人たちは羊を飼う者です。家畜を飼っていた者です。彼らは、自分たちの羊と牛と彼らのものすべてを連れて来ました。』
46:33 パロがあなたがたを呼び寄せて、『あなたがたの職業は何か』と聞くようなときには、
46:34 あなたがたは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」

ヨセフと老父ヤコブは互いに感激の対面をしました。その喜びと満足がどのようであったかは、ヤコブの「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」(30節)という言葉がよく表わしています。これは老人シメオンが幼子イエスを抱いて、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」(ルカ2:29,30)と言ったのとよく似ています。

その後、ヨセフは家族が住むべき地を定めていますが、これには深い知恵が用いられています。ヨセフはヤコブの子孫がエジプト人と交わらず、しかも必ず大いに繁栄して偉大な民となるのに適した地を選びました。

その条件は二つです。
(1) 最も豊かな地であること
(2) エジプト人と全く離れて別の所に住むこと

この目的を達成するために、はなはだ都合のよいことがありました。それはヤコブたちが、エジプト人がけがらわしいとする牧畜を職業としていたことです(46:34)。

46:34 あなたがたは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」

それ故、エジプト人はへブル人と食事を共にすること(43:32)、家畜を飼う仕事をすること(46:34)、羊(「エジプト人が忌みきらういけにえ」出エジプト記8:26)を嫌いました。

創 43:32 それでヨセフにはヨセフにだけ、彼らには彼らにだけ、ヨセフと食事を共にするエジプト人にはその者にだけ、それぞれ別に食事を出した。エジプト人はヘブル人とはいっしょに食事ができなかったからである。それはエジプト人の忌みきらうところであった。

出 8:26 モーセは答えた。「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、【主】に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。

ヨセフはこのことを利用して、家族たちを最も良い地でエジプト人から離れた別の所に住まわせるように計画したのです。今でも信者は不信者と一致せず、全く離れて別のものです(コリント第二6:14~18節)。しかし主イエスを信じる者は最もよい所、恵みと安息の地、霊魂の養われる地に住むのです。

Ⅱコリ 6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

(以上、創世記46章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

〔あとがき〕

もし、あなたに来た手紙をあなたが全然読まないなら、あなたは手紙の差し出し人を完全に無視したのです。同様に、聖書を読まない人は神を全く無視している人です。そういう人に神の怒りが下らないとは、どうしても思えません。聖書を知らないことは、人間として最も恥ずべきことであり、神を冒漬しています。しかし聖書を知的に学んでも聖書を知ったことにはなりません。聖書は自分の内的必要と、生活と生涯をとおして神に応答していく意味合いにおいて知るのでなければ、全く知らないのと同然です。
聖書はたえず自分の弱さを自覚し、心に渇きを覚え、必要を感じて読む人に、若やいだワシの如き力を与えるのです。現状の物質的生活に安住して自己満足している人には、ただの空しい言葉の勉強にしかすぎなくなります。主は、みことばは勉強すれば、いのちや力になると言われませんでした。飢え渇き、肉を食べ、血を飲み、信じる者に神の力となると言われました。この違いが分かりますか。
(1987.4.1)

上の写真は、1897年にCharles Fosterによってアメリカで出版された”Bible Pictures and What They Teach Us(聖書絵画、それらは何を私たちに教えているか)より「Joseph Kisses Jacob(ヨセフはヤコブの首に抱きついて口づけする)」(Wikimedia Commonsより)

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