聖書の探求(045) 出エジプト記3章 モーセの召命

3章はモーセの召命に関する出来事が記されています。

1~6節の燃える柴の経験は、モーセの召命の背景となっており、神はモーセを召されるために、この時モーセに聖潔の経験をせまられたものと思われます。

7~10節のモーセの召命のおことばの中には、各対象に向かってのメッセージがあります。

(1) イスラエルの民に対しては、神の実在と永遠性の啓示(14,15節)
(2) イスラエルの長老に対しては、憐みと恵み(16,17節)
(3) エジプトの主に対しては、神の能力と義と審判の啓示(18~22節)

3:11~4:13には、モーセの鋳躇(ちゅうちょ)が記されています。この鋳躇は二サイクルしているようです。

(第一回)
(1) モーセ・・能力がない(11節)
神の答え・・臨在(12節)
(2) モーセ・・権威がない(13節)
神の答え・・「わたしはある。」神の権威(14~16節)
(3) モーセ‥証拠がない(4:1)
神の答え:杖、手、ナイルの水(4:2~9)

(第二回)
(1) モーセ‥能力がない(4:10)
神の答え‥臨在(4:11~12)
(2) モーセ‥我侭、理由なし(4:13)
神の答え‥怒り、アロンの助け(4:14~16)

こうしてモーセは神に従う決断に至った。

Ⅰ.1~6節 燃える柴の経験

モーセが祭司の家族として生活し、羊飼いの仕事をしていたことは神の導きです。
どちらも後に神のみこころを悟るのに大いに役立ったでしょう。クリスチャンは今、自分が置かれている立場で神のみこころを悟るように心掛けなければなりません。

1節 「神の山ホレブにやって来た。」

出 3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。

既にモーセはシナイ半島を四〇年も羊とともに旅し、その地形を知り尽くしていたでしょう。
彼はやがてこの地をイスラエルの民を率いてわたり、またシナイ山では神の律法を受けることになるのです。当時のモーセにとってはミデヤンの四〇年はむなしく思えたかもしれませんが、神の導きには無駄なことは一つもないのです。もしモーセがシナイ半島を知り尽くしていなければ二百万人もの民を率いて荒野の旅を続けることは不可能だったでしょう。
読者の方々の中にも、今、ミデヤンのような生涯をたどっておられる方がいらっしゃるかもしれません。しかしそこに神の導きと使命の意味を悟られるなら、決して空しくはならないでしょう。

2節の「燃え尽きない火」は神のご性質を表わしています。

3:2 すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。

それは不滅、永遠性、聖さなどです。「柴」は人間性を表わしているように思われます。その朽ちるべき人に聖霊の火がともる時、大いなる見物になるのです。

3節で、モーセが燃え尽きない柴に近づいて行ったのは好奇心からでした。

3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

神は好奇心を用いてモーセを導かれました。現代の伝道にも、もっと好奇心や興味や関心を持たせるようなプログラムが必要ではないでしょうか。しかしそれがただの好奇心で終わっては神のみこころにかないません。神ご自身を現わす興味深いものが必要です。現代は「ハイテク時代」と言われているほど技術や技巧にこりすぎて、ハートが失われているのではないでしょうか。賛美も、説教も、あかしも、伝道方法も整理されて、ハイテク時代にマッチしたものになりましたが、はたして人々はキリストに深い興味と関心を示して集まっているでしょうか。ハイテクに興味を示しても、クリスチャンのハートに住まわれるキリストが興味深く表現されていないのではないでしょうか。

パウロは、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。私たちは、このキリストを宣べ伝え」(コロサイ1:27,28)と言っています。

金やプラチナで柴を作って、人々の関心をひくことは技術と富があればできます。外国製のステンドグラスがはいっている教会堂、パイプオルガンのある教会もすばらしいです。しかしステンドグラスとパイプオルガンで人を集めているなら、それは神の栄光の輝きで人を集めているのではありません。神が用いられたモーセの興味とは燃え尽きるはずの価値なき柴が神の火によって燃え尽きなかったところにあります。真の神の栄光の輝きは、ステンドグラスやパイプオルガンや会堂の輝きではなく、貧しい私たちの人格に聖霊の火がともり、私たちの人格が燃え尽きず、輝くようになることです。主イエスが、「あなたがたは世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14、16)と言われたのは、このことではないでしょうか。私たちが、家庭で、学校で、職場で輝く時、人々はキリストに深い興味と関心を抱くようになるのです。神はそれを用いてくださいます。

4節で、神は近づいてきたモーセに対して、「モーセ、モーセ」と名前をお呼びになりました。

3:4 【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。

神は四〇年間、モーセを忘れていたのではなかったのです。ただ、この日が来るのを待っておられたのです。私たちも、神のこのお気持ちが分かるようになれば、「神は私のことを忘れてしまわれたのではないか。」と心配することはなくなります。

5節で、神は好奇心を持って近づいて来たモーセの信仰を取り扱われました。

3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」

「足のくつを脱げ」とは、自己の全(まった)き放棄、全き献身を表わしています。神に近づき、神を礼拝し、神に仕える者には、神は全き献身を要求されます。

6節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方は、主イエスも用いておられます(マタイ22:32)。

3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

マタ 22:32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」

ここで、主イエスは、神を死んだ者の神ではなく、生きている者の神であると言われました。主は、神はご自分が生ける神であるばかりでなく、信じて従う者を生かす神であることを明らかにしておられます。モーセはただの見物に近づいて来たのですが、それはこのような神の顕現だったのです。
私たちもかつて、教会の門を初めてくぐった時は、宗教の一つであるキリスト教と思ってイエス・キリストに近づいたかもしれません。しかしそのお方は驚くべき、生ける神であり、信じる者を生かす神であられたのです。
さらにまた、私たちは、日頃、気にとめてもいない普通の出来事の中に、神が語られ、みわざをなされ、みこころを示され、教えられていることに気づかなければなりません。
モーセはこの神の顕現に触れた時、神を恐れて顔を隠しました。この時には、彼の信仰はまだ完成しておらず、恐れが先に立ち、消極的で逃げ腰になったのです。モーセはさらに取り扱われて深められ、積極的な信仰に変えられていかなければならなかったのです。

Ⅱ.7~10節 神のメッセージ

7節には、神が「見た」「聞いた」「知っている」と言われ、神の御判断が記されています。

出 3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

先ず、「見た」には三つのことが言われています。

「エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見」

イスラエル人は神の民(「わたしの民」と呼ばれていることに注意)でしたから、神は特別な意味で民をご覧になったのです。神に見ていただくためには、神に「わたしの民」と呼ばれるように、神との関係が明確でなければなりません。

「悩みを‥‥見」

神は民の苦しみを知られたばかりでなく、神は民とともに苦しんでおられるのです。サウロがクリスチャンたちを苦しめていた時、主イエスはサウロに対して、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と言われました。今も、主はクリスチャンの迫害をともに苦しんでくださっているのです。(ヘブル2:18、4:15)

ヘブル 2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

「確かに見」

正確に、すなわち、どんな助けが必要なのか、助けの手を打たなければならないと、みこころを動かされるような見方をされたのです。

次に、「追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。」とあります。

これは苦しみの悲鳴だけではなく、屈辱の叫びでもありました。それは祈りとなって神に届いたのです。
私たちは、ひとり嘆き、呟(つぶや)くよりも、それを祈りによって神に訴えたいものです。神に届く嘆きをしたいものです。地上でとどまっている嘆きには何の良きこともありません。

さらに、「彼らの痛みを知っている。」と言われました。

神は民のすべてを知っておられます。痛みだけでなく、すべての必要も、寂しさも、悲しみも、罪の苦しみも、病いも知っておられます(イザヤ53:3)。

イザ 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

イエス・キリストは十字架によって、罪の苦しみ、死の苦しみ、神との断絶の苦しみを知ってくださいました。日常生活の面でいうなら、貧しさも、人のうらみも、ねたみも、裏切りも、人が味わうすべての苦痛を知ってくださっているのです。

8節には、神の来臨のご目的が語られています。

3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

神の来臨はいつでも、神の民にとっては救いであり、敵対する者に対してはさばきです。また、もう一つの目的は、「良い地、乳と蜜の流れる地」すなわち、神の約束の地に上らせるためでした。クリスチャンにとっては、神の約束の地とは、地上にあっては潔められて勝利の生活を送ることであり、さらに地上を去っては天の御国にのぼらせてくださることです。

9節、10節には、「今」が二回記されています。

9節は、神の時が到来したことを意味しています。

3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

神の時の到来とは何を意味するのでしょうか。それは民を助け出す時だけでなく、ヨセフとヤコブの時代以来、約四百年間続いたエジプト生活に終止符を打って、カナンの生活が始まる時代の到来のことであり、それはまたアブラハムに約束されたこと(創世記15:13,14)が実行される時であり、そしてまたこの時は、イスラエルの民の叫びによって封が切られた時でもあります。神は約束されたことも、神の民の祈りによって、み手を動かされることを示しています。

創 15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。

10節は、モーセの時です。

3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

すなわち、モーセがミデヤンの羊飼いから神の大使として派遣される時です。神がモーセの生涯に計画されていた最も重要な時が来たのです。
クリスチャンは、神の時、そして自分の時を逃さないようにしなければなりません。

Ⅲ.11~14節 わたしはあるという者

11節、神はモーセが何者かであるから召されたのではありません。

出 3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

モーセはこの時、神と神の大役とに恐れを感じていました。しかし神の召命は命令であって、逃れるべきものではありません。

12節には、神の召命の基本的内容が語られています。

出 3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

(1) 保証は神の臨在です。「わたしはあなたとともにいる。」これは十分にして確実な保証です。
(2) 神による派遣であること。それ故、派遣された者の言葉やわざには神の権威が伴う。
(3) 奉仕の内容
(イ) 民をエジプトから導き出すこと‥‥罪からの救い
(ロ) 神に仕える‥‥礼拝

13節でモーセは、自分がエジプトに行った時、仲間たちから、神の信任状を示せと言われたら、「父祖の神が私を遣わされた」というだけでは不十分であると思い、「その名は何ですか。」と聞かれたら、何と答えればよいかと、神にその名をたずねました。

出 3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」

聖書中に出てくる名前は、しばしばその人物の性質を表わしていることが多いのです。ここでもモーセは、ただの名前をたずねたのではなく、自分とともにいてくださる神が、どのようなご性質の神であるかをたずねたのです。

14節で、神が提示された御名は、「わたしはある」でした。

出 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

これは時制が定まらない未完了形ですから、「過去、現在、未来において、わたしは存在する者」という意味になります。これは神の本質の無限の奥義を表わしています。

すなわち、
①神は他の存在に依存せず、
②ご自身で存在される。
③唯一の真実の存在者であり、
④あらゆる事物の根源であること。
⑤神には欠けたところがないこと。
⑥神は永遠であり、
⑦その約束を変えることがないこと。
⑧神は全能であられること。
⑨ご自身のみこころに従って選択されること。

などを、この御名は意味しています。しかもこの名は、信仰のない者には、神のご性質の奥義がほとんど分からないような名前です。

〔聖書中の神の御名について〕

聖書中の神の御名は、神が関係される人々の様々な要求と密接な関係があります。

①アドナイ・イルエ(創世記22:14)- 主が備えてくださる

創 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

②アドナイ・ニシ(出エジプト記17:15,16)- 主はわが旗

出 17:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
17:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、【主】は代々にわたってアマレクと戦われる」と言った。

③アドナイ・シャロム(土師記6:23,24)- 主は平安

士 6:23 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」
6:24 そこで、ギデオンはそこに【主】のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。

④ヤーウェ・ツィドケヌ(エレミヤ書23:5,6)- 主は私たちの正義

エレ 23:5 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。
23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『【主】は私たちの正義』と呼ばれよう。

神がご自身を「わたしはある」と呼ばれた時は、これには民のすべての要求を含んでいることを示しています。主がこの御名を取られた時は、いかなる要求でも、それを満たすために自由に書き入れることができる小切手を神が民のために備えておられる時です。神は唯一の有効数字であり、人間の要求はこの有効数字の後に自由に記入される零の字であると言ってもよいのです。

もし人が命を求めるなら、キリストは、「わたしは‥‥いのちです。」(ヨハネ11:25、14:6)となり、

ヨハ 11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

ヨハ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

人が義を求めるなら、キリストは「私たちの正義」(エレミヤ書23:6、コリント第一1:30)となられ、

エレ 23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『【主】は私たちの正義』と呼ばれよう。

Ⅰコリ 1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

人が平安を求めるなら、「キリストこそ私たちの平和」(エペソ2:14、マタイ11:28,29、ローマ5:1、イザヤ26:3)となられ、

エペ 2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

マタ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

ロマ 5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

イザ 26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

人が知恵と聖と贖いを求めるなら、キリストは「知恵と‥‥聖めと、贖い」(コリント第一1:30)とになられます。

Ⅰコリ 1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

私たちはこの世を旅しつつ、限りなく多くの必要を覚えることですが、それらは「わたしはある」という御名の深い意義と尊さと満ち足りることを私たちが経験するためです。

さらに、
「神」とは、創造のみわざにおいて、神が永遠の能力と神性とを現わして、ひとり神のみが働かれた時の御名です。

「主なる神」とは、神が人と関係をもたれる時に取られた御名です。

「全能の神」とは、アブラハムの前に現われて、キリストに関する約束の完成を確かにするために示された御名です。

「ヤーウェ」(エホバ)は、イスラエルの民をエジプトの地より連れ出してカナンの地に導く時に示された御名です。

このような神の御名は、人間の各々の境遇に極めて適切な教導を示すために用いられたものですが、特に、「わたしはある」という称名の中には、人知を越えた高さと深さと長さと広さが含まれています。
神がこの御名を取られたのは、神ご自身がその民に関係する時だけでした。神はこの御名をもって、パロには現われませんでした。パロに語られる時には、「ヘブル人の神、主」(出エジプト記10:3)として、すなわち、パロが圧迫している民と関係ある神として、厳かに、堂々とした御名をもって語られました。このことによって、パロは神の前に実に危険な状態にあることを教えられたのです。

出 10:3 モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。

それ故、「わたしはある」という御名は、不信者の耳には、何の意味もなく、その心に何ら天の声を示すものではありません。神が人の姿をとってこの世に来られ、不信仰なユダヤ人に、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)と言われた時、ユダヤ人たちは彼に石を取って投げつけようとしたのです。

真の信者のみ、「わたしはある」という御名の能力と味わいを喜ぶことができるのです。
このような人は、主イエスの御口から、次のようなみことばを聞き、それを悟ることができます。
①「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:35)
②「わたしは、世の光です。」(ヨハネ8:12)
③「わたしは門です。」(ヨハネ10:9)
④「わたしは、良い牧者です。」(ヨハネ10:11)
⑤「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11:25)
⑥「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)
⑦「わたしはぶどうの木で‥‥」(ヨハネ15:5)
⑧「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」(ヨハネの黙
示録1:8、21:6)
⑨「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(ヨハネの黙示録22:16)

真の信者は、神のすぐれて、うるわしいすべての御名を、「わたしは‥‥‥である。」という言葉の空白部分に自由に入れて、その中に主イエスを認め、そしてほめたたえ、崇めて礼拝することができるのです。
真の信者は、その要求するものがどんなものであっても、この御名の中に自分の霊魂の渇きをいやし、満たすものがあることを知っています。クリスチャンの生涯の旅において、この御名によって解決されない困難は一つもなく、満たされない霊魂の渇きは一つもありません。なぜなら、求めるものがどんなものであっても、信仰によってそれを、「わたしは‥‥である」という御名の中に挿入して、それを主イエスの中に見い出すことができるからです。それ故に、クリスチャンはどんなに弱く、つまずきやすい者であっても、この御名に頼るなら純粋な幸いを見い出すことができるのです。

この御名は神の民に対して語られたものでしたが、未信者の人も自分の罪を悟るなら、この御名は厳かで、現実的なものとなります。
もし罪の中にあって、この驚くべき御名に思いをこらすなら、「わたしはある」とご自分を呼ばれる神の御前に、いかにして立つことができるでしょうか。神が永遠に「わたしはある」というお方でいますなら、神は自分にとって、いかなるお方となるのでしょうか。
「わたしは‥‥‥である」という御名の中に、何を書き入れるべきか、自問せざるを得なくなるのです。

Ⅳ.15~22節 使命の内容

15節は、6節と同じことばが繰り返されていますが、「主」が付け加えられています。

出 3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

「主」とは「ヤーウェ」であり、契約の神を意味します。
また、「これが永遠にわたしの名」とされており、これは永遠に変わらない神のご性質を表わしています。

16節からは、神のメッセージです。
(1) 16節、

3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、【主】が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。

民がエジプトで苦しんでる様を、神が確かに心に留められたこと(使徒9:5、ヘブル2:18、4:15)、私たちが苦しんでいるその苦しみを主が知っていてくださることは大いなる慰めです(マタイ6:32)。

使9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

ヘブル 2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

マタ 6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

(2) 17節、

それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』

エジプトの悩みから救い出して、乳と蜜の流れる地へ上らせる。これは、一つは罪の生活からの解放であり、もう一つはこの世で戦い取っていく勝利の生活を示しています。

(3) 18節

3:18 彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、【主】が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、【主】にいけにえをささげさせてください』と言え。

確信を握って行動することの重要性を語っています。モーセが確信を持って語り、行動すれば、民は彼のことばを信じて従うことを教えられました。
クリスチャンが確信をもってあかしし、神のみことばを伝え、また行動するなら、人々は信じるようになります。不安や恐れ、鋳躇をもって行動するなら、人々は真理をも信じなくなるのです。

(4) 19~20節、

3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。
3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。

エジプトの王への穏かな申し出は拒絶されることを、神は知っておられた。そこで強行手段が採られるようになります。実に、神はすべての段階について前もって語っておられますので、モーセがこれらのことをよく聞いて心に留めていれば、後にパロの冷酷な拒絶に会っても、それほどあわてることはなかったはずです。私たちも聖書をよく読み、その真実をよく埋解していれば、あわてることも、迷うこともないのです。すべての段階について、神はみことばのうちにそれを語っておられます。」

⑤21~22節、

3:21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。
3:22 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」

民がエジプトを出て行くチャンスを神がつくられ、そして何も持たずに出て行ってはならないことを告げられました。民がエジプト人に求めるところの金銀、着物は、民が四百年間工ジプトで働いた労働の報酬であったとともに、それは神の幕屋をつくるための材料とするべきものでした。

(以上、出エジプト記3章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、ドイツの画家Gebhard Fugel (1863–1939) による「Moses vor dem brennenden Dornbusch(燃える柴の前のモーゼ)」(Wikimedia Commonsより)


〔あとがき〕

クリスチャンの最大の弱点は聖書を知らないことではないでしょうか。教会に忠実に出席している人でも、集会で聖書の話を聞くだけでは十分ではありません。私は、集会では旧約と新約と、片寄らないようにと気をつけて聖書の箇所を選んでいるつもりです。それでも結局、聞く人はその一部だけしか聞いておりません。教会でのメッセージは、クリスチャンひとり一人が個人的に十分に聖書を読み、学んでいるなら、聖書の一部の話を聞いても、それを聖書全体に広げて理解することができます。しかしもし、聖書をよく学んでいない人が聖書の一部分だけのメッセージを聞くなら、その理解は極く限られたものにな
ってしまいます。そこに、何とか全体を分かってもらいたいとする説教者の苦労があります。この聖書の探求も今回45号になりました。最初から学んでおられる方は、聖書全体への理解が深まり、説教もよく分かるようになったのではないでしょうか。おあかし、ご感想をお寄せください。
(1987.12.1)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日で、2019年3月現在、通巻420号、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。バックナンバーも注文できます。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」
電話・FAX 045(844)8421