聖書の探求(046a) 出エジプト記4章 モーセの躊躇(ちゅうちょ)と決断

4章はモーセの躊躇と決断が記されています。
この章には、預言者の役割が明確に記されています(15節)。また信仰の決断をする時に、困難が取り除かれることも教えられています(19節)。これらはクリスチャンにとって、重要な教訓です。

4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。

4:19 【主】はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」

Ⅰ、1~17節 モーセの躊躇(ちゅうちょ)

(1) 1節、

出 4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『【主】はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」

モーセは、先に神が示された「わたしはある」という者、また父祖たちの神という名前だけでは、なお不安でした。なぜなら、神の側はそうであっても、イスラエルの人々が信じないのではないかという不安があったからです。モーセがこのように心配したのは当然です。イスラエルの人々に対しては、もうずい分長い間、神は顕れていなかったからです。

(2) 2~9節、

出 4:2 【主】は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4:4 【主】はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
4:6 【主】はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。
4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。
4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。
4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」

神はご自身を民に納得させるために三つのしるしを与えられました。これらの三つのしるしは、みな神のみことばに従って信仰の行為をする時に、その如くなるという法則に基づいています。またこれらは、いつでも起きるものではなく、神の権威を示す必要がある時にのみ用いられました(5節)。

これらの三つのしるしは、三つのことを象徴しているように見えます。

(イ) 杖は、神の力。後にモーセは神の杖を用いてみわざを行ないました。

(ロ) らい病のいやしは、潔め。これはモーセの姉ミリヤムも経験し(民数記12章)、福音の中心をなすみわざです。

(ハ) 水を血に変えたのは、血による救いを意図されていると思われます。

(3) 10~17節、

出 4:10 モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

モーセはこのようなしるしが与えられてもなお、神の代弁者となることに臆したのです。しかしこれも当然のことです。だれか、自分は神の代弁者になるのに十分な者であると思う者がいるでしょうか。しかし人の無力の故に、神から与えられる任務を拒んではならないのです。人の無力は少しも神の働きを妨げることはありません。それは神の任務を拒む理由にはならないのです。
口、耳、目を与えたのは神であり、言うべきことを教えてくださるのも神です。(11,12節)

4:11 【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

13節では、モーセは、これまでの神の約束に対して、「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」と逃げ腰になりました。これは、これまでの約束をしてくださった神に対して不信の態度をとることになります。ついに神はお怒りになりました(14節)。神が与えてくださる任務を拒むことができる理由はありません。それを拒むのは不信仰だけです。

4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。

しかし神はモーセが不信仰のままで終わるのを好まれずに、もう一歩譲歩され、モーセの兄アロンを連れて来られたのです。神はすでにその準備をしてアロンを導いておられました。このように神は私たちの弱さのすべてを知った上で用いられるのですから、神に信頼して従うことが最も良いのです。神は私たちの弱さを補う助けを必要に応じて備えておられます。

4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。
4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

15節は、神の預言者の職務を完全に表わしています。すなわち、神のみこころを明確に人に告げることです。
17節でモーセは神の杖を受け取りました。これでモーセの信仰は決着しました。私たちの信仰も、神のみことばをしっかり受け取るとき、決着がつくのです。神の任務はどんなものであれ、みことばと信仰によって受け止めなければなりません。

2.18~23節、服従と啓示

18節で、モーセは妻の父イテロにずい分気を使った言い方をしています。

出 4:18 それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい」と答えた。

モーセは、エジプトに行く本当の目的を話せば、イテロが心配するでしょうから、親類の安否を問いに行くと言っています。恐らく、本当の目的を話せば、イテロは引きとめたでしょう。それは人の力ではとうてい成し得ない任務であったからです。モーセがイテロに対してこのような態度をとったのは、すでにモーセの心中では、エジプトに行くという使命感が動かないものとなっていたことを表わしています。主のために何かをなす時には、いいかげんな気持ちで始めてはいけません。確かな使命感をもって、生涯やり通す信仰で始めなければなりません。

19節、モーセが神の命令に従って、エジプトに行く決心をし、それをイテロに告げた時、次の神のメッセージが与えられました。それは、モーセが最も恐れていたエジプトの王が死んだことです。

4:19 【主】はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」

ヨシュアたちはその足の裏がヨルダン川の水面についた時、川の水は切り開かれ、ダビデは神の御名と小石をもって巨人ゴリヤテに向かった時に勝利を得ました。信仰は常に同じ原理に従って勝利を得ます。私たちが恐れて躊躇している間は、勝利は得られません。私たちが信仰をもって立ち上がる時、恐れているものが解決していることを知らされるのです。
一九節の神のメッセージを聞いて、モーセがどんなに安心したかは、20節でモーセが妻や息子を連れてエジプトに旅立っていることから分かります。

4:20 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

モーセの手には神の杖がしっかりと握られていました。それはかつてはただの羊飼いの杖でした。しかし彼が神を信じ、神に従った時、神の故に変わったのです。私たちの才能や能力は、神に従うまではただの人間的な能力でしかありません。しかし神に従うとき、それは神の杖となり、神的力を帯びるようになります。

21~23節、モーセが信仰を実行に移し、出発した時、神の啓示はさらに明らかにされました。

(イ) 21節、
4:21 【主】はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。

再び、主が授けられた三つの不思議をパロの前で行なうように命じられています。そしてそれに対するパロの反応もすでに示されています。彼は心をかたくなにし、民を去らせないであろうと。
それなら、この不思議を行なうことは、無駄のように思われます。それなのになぜ、主は行なうように命じられたのでしょうか。それは、パロがその不思議を見て、へりくだるチャンスを与えるためです(ローマ9:14~18)。

ロマ 9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

主の命じられた奉仕は、人の目には無駄に見えても、無駄なものは一つもありませせん(コリント第一15:58)。

Ⅰコリ 15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

(ロ) 22節、
4:22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。【主】はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。

神はイスラエルを「わたしの子、わたしの初子」と呼び、父と子の関係を表わしています。
これは神がいかに信じて従う者を愛されるかを示しています。イスラエルですらそうであるなら、まして、キリストにある私たちが神に愛されていることを知るのに難くありません。

(ハ) 23節、
4:23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」

ここには、パロが神の命令を拒む時の神のさばきが示されています。初子に対しては初子が求められています。このようにモーセは、仕事に当る前にすでにその任務の大要を知らされていたのです。それは彼が一歩神に従うと、神はもう一歩先を示すようにして知らされたものです。この原理は私たちにとっても同じです。そしてこれが、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)の意味です。

3.24~26節、モーセの息子の割礼

モーセの息子の割礼は、非常に重要なことを意味しています。モーセはこれから神のメッセージをイスラエルの民とエジプトの王パロに伝えようとしていました。しかしその前に神は、モーセ自身が神に徹底的に従順であるように要求されたのです。
モーセの息子はモーセが羊飼いをしている間に生まれました。そして神の民となる契約のしるしである割礼を施さず、そのままにしていたのです。この重要な神との契約を不純にしたままで、神の仕事につくべきではなかったのです。

24節、
出 4:24 さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。【主】はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。

神がモ-セを殺そうとされたことは、このことをモーセに気づかせるために、厳しく迫られたことを示しています。
この時、モーセはその休む場所で急病になったと思われます。今日も、重い病気や、事故や、困難に直面することによって、深く罪が示されたり、不信仰が示されたりして、信仰が覚醒させられることがあります。モーセもこのようにして訓練されていったのです。

25,26節、
出 4:25 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」
4:26 そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

この時、すぐさま働いたのが、妻のチッポラです。彼女はすぐにこの出来事の意味を悟って、息子に割礼を行ないました。これによって、チッポラもすぐれた信仰的霊性の持ち主であったことが分かります。私たちも聖霊によって、すぐれた判断力や洞察力を持ちたいものです(ヤコブ1:5、ヘブル4:12)。

ヤコブ 1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

彼女の行為は、神の怒りをなだめました。この時、チッポラはモーセを「血の花婿」と言いましたが、これは特定の関係を意味することばです。それが何を意味するかははっきり分かりませんが、「契約の完成」あるいは「結婚関係の完成」を意味するものと思われます。
モーセは、ここから妻と息子をイテロのもとに送り返したようです。とにかく、神の奉仕をしようと思う者は、人に対して神のメッセージを語る前に、自らが神に全く従順な者となっていなければ、自らにとって禍となります。

4.27~31節、アロンとの再会

27~29節、
出 4:27 さて、【主】はアロンに仰せられた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。
4:28 モーセは自分を遣わすときに【主】が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。
4:29 それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。

割礼の出来事の後、神はすぐにまたアロンに語りかけられています。ここにもまた、「一つ神に従うと、神は一つ恵みを加えてくださる」という原理が働いています。
今度は、「モーセに会え」でした。モーセは神の山でアロンに会い、神のことばと、しるしのすべてをアロンに告げました。そして二人はエジプトにいるイスラエル人のもとに行ったのです。

30~31節、
出 4:30 アロンは、【主】がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行ったので、
4:31 民は信じた。彼らは、【主】がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。

はっきりとアロンひとりが指導権をとって行動したのはこの時だけのようです。あとはモーセとアロンが二人一緒か、モーセだけが指導権をとっています。
民は、神のことばを聞き、そのしるしを見た時、信じました。そして神が、自分たちを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、びざまずいて礼拝しました。

このようにモーセの働きのスタートは、彼が恐れていた民の疑いもなく順調でした。
しかしそれはほんの束の間だけのことでした。

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「Moses’ Rod is Turned Into a Serpent(モーセの杖は蛇に変えられる)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵より)


〔あとがき〕

クリスチャンであれば、聖書を持っています。しかし毎日読んでいる人はあまりいません。ましてその意味を理解している人はどれくらいでしょうか。さらに、みことばを自分の実際問題に適用できる人はどれくらいいるでしょうか。聖書が力となるためには、みことばを自分の実際問題に適用できなければなりません。
世の中一般はキャンディをなめるような甘い時代で、苦しい訓練を受けたり、忍耐したり、叱責を受けたりすることを嫌う人が大部分です。その結果、人間は非常に弱くなり、困難に対しては逃避的になりがちです。
こういう時代であればこそ、クリスチャンは強くなければなりません。その為にはどうしてもみことばによる訓練が必要です。最近、ある人から「もう信仰も成長してきたので、聖書の探求はいりません。」というお便りをいただき、悲しく思っています。本当にそう思っているとしたら、大きな間違いをしています。この探求は甘いことを書いていませんので、嫌う人もいるでしょうが。
(1988.1.1)


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