聖書の探求(050a) 出エジプト記12章 過越とエジプト脱出

12章は、過越(すぎこし)とエジプト脱出の出来事が記されています。そしてこのエジプト脱出が本書の書名とされているのです。エジプト脱出の時期や、その時のエジプトの王については、先に、エジプトの歴史のところで記しましたので、そちらを参考にしてください。

Ⅰ.1~14節、過越(すぎこし)の命令

出 12:1 【主】は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

2節、神はエジプト脱出の月をイスラエル人の年の最初の月、すなわち、正月とされました。
クリスチャンにとっては、救いは新しい人生の始まりの年です。
3~14節は、過越の祭りの制定のことばであり、また大いなる贖(あがな)いの日の預言でもあります。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、ここで制定された過越の祭りの大いなる贖(あがな)いの日でした。(マタイ26:2、マルコ14:12、ルカ22:15,16、ヨハネ19:31)

マタ 26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

マル 14:12 0 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」

ルカ 22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

ヨハ 19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。

出12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。

3節で言われている羊は、イエス・キリストを表わしています。
パウロがコリント第一、5章7節で、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」と言っているのは、この預言的型がキリストの十字架によって完全に成就したことを証明しています。

Ⅰコリ5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

3,4節では、羊は家族ごとに、あるいは人数に応じて一頭をほふるように命じられています。しかし、主の十字架は一度で完全で、すべての人の救いのために十分です。(ヘブル9:12、25,26)

ヘブル 9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

ヘブル 9:25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

出12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

5節で、「羊は傷のない一歳の雄でなければならない。」とありますが、これは全き小羊なるキリストを表わしています。(コリント第一13:10、ヘブル10:12、ヨハネ1:29)

Ⅰコリ 13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

ヘブル 10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

この羊は、めいめいが食べなければなりませんでした(4節)。主イエスは、ヨハネの福普書6章53節で、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」と言われました。これは、信仰とは何かを、よく表わしています。それは、個人的にイエス・キリストの十字架を信じることによって、主の命を自分の内に受け入れることです。

出12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

7節、その血は、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに塗るように命じられています。ここでは「血」が強調されています。これは、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)の預言です。

Ⅰヨハ1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

出12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

8節には、四つのことが記されています。
一つは、羊の肉を火で焼くこと。これはキリストの十字架に現わされた神の怒りを象徴しています。
さらに、「種を入れないパン」は、小羊に与かる者は悪意と不正とのパン種(コリント第一5:8)を、その身から取り除かなければならないことを示しています。

Ⅰコリ 5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

「苦菜」は、悔い改めのことです。そして「食べる」ことは、信仰を示しています。ここに正確に救いの条件がすべて記されているではありませんか。

出12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。

9,10節、それは食べ尽くさなければなりません。「朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。」これは、イエス・キリストが完全にご自身を献げ尽くされたお方であり、このキリストを完全に受け入れなければならないことを表わしています。

出12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは【主】への過越のいけにえである。

11節、この過越の食事をして、エジプトから至急に脱出する準備をするように命じられています。これは、罪の生活からの至急の脱出をうながしているのです。「過越」とは、pasah(過ぎ越す)という動詞の派生語で、「赦し、保護する」という意味です。

出12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは【主】である。

12節は、エジプトの神々と、それを拝む者への審判です。動物もエジプトの神々とされていましたので、家畜の初子まで打ち殺されなければならなかったのです。

12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

13節、イスラエル人の家々の戸口に塗られた血は、羊のいけにえを献げ、その家の人が神の約束を信じて従っていることの証拠です。これは、今日の私たちの心にキリストの血が塗られることの意味でもあります。

出12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

14節で示されている儀式的な行事ではなく、そのことが意味している信仰の内容は、永遠に守られるべき、神が定められた唯一の救いの手段です。

Ⅱ.15~20節、種を入れないパンの祭りの命令

出 12:15 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。

15節、七日間の第一日目とは、過越の羊をほふった翌日のことです。その日は先ず、家の中からパン種を完全に取り除くことが命じられています。この「パン種」は、普通、堕落と罪の象徴です。(例外として、そうでない場合もあります。マタイ13:33,34)

マタ 13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。

しかしここでは、罪と堕落の象徴です。
過越の翌日、すなわち、私たちで言うなら、救われたら、すぐに堕落した罪の生活を捨てるベきであることが強調されています。これはクリスチャンの信仰生活のスタート時点で明確にしておくべきことです。そして、その後も、種なしパンの生活をすべきです。これが悔い改めの生涯です。

出 12:16 また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。

16節、第一日と第七日に聖会を開いて神を礼拝しました。この時はどんな仕事もしてはなりませんでしたが、必要最少限度の食事の準備は許されています。後のパリサイ人たちの律法では、食事を作ることも禁じています。これは神が禁じたものではありません。神が禁じたことを行なうことも罪ですが、神が禁じていないことを禁じるのも罪です。健全なキリスト教は節制を重んじますが、決して禁欲的ではありません。むしろ、神が与えられた本能を神の栄光を現わすために用いさせていただくのです。

出 12:17 あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。

17節、堕落と罪のパン種のない生活は、神の民の生活の特徴であり、神が罪の生活から救い出してくださる大きな目的でもあります。神と共なる生活には、パン種があってはなりません。これは永遠のおきてで
す。

出 12:18 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。

18節、人間はすぐに、この大切な真理を忘れやすいので、毎年1月14日から21日までを、その強調週間とされたのです。

出 12:19 七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。

19節、この真理は、ユダヤ人と異邦人とを問わず、神の民に加えられた者に適用されています。

出 12:20 あなたがたはパン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」

20節、また、どこに住んでも、この真理は変わらず適用されます。これを破る者は、神の民から断ち切られるのです。クリスチャンはこの戒めを心によく刻みこんで、常に、主に忠実な生き方をしたいものです。

このように、過越と種なしパンの祭りとを学んでみますと、歴史的な出来事と記念の行事、一度で終わるものと継続的なものとがあることが分かります。これは私たちにとって、イエス・キリストを信じてクリスチャンになることと、その後、信仰生活を忠実に続けることの二つを教えています。

Ⅲ.21~28節、過越のいけにえの命令

出 12:21 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。

21節、モーセはイスラエルの長老たちに、先ず、過越のいけにえの命令を詳しく教えて、これを徹底しました。これは大切なことです。
信仰の働きで最も大切なことは、どんな行事をするかということではなく、神のご命令を責任をもって実際に民を指導する者に十分に徹底して教えることです。今日の教会にとっては、どんな華やかなイベントをするかということではなく、教会のリーダーとなる者を十分に訓練するかどうかということです。このようなリーダーが大勢育つことによってのみ、福音宣教は可能になるのです。私たちは迷わず、このことに専念したいと思います。

次に、モーセが「あなたがたの家族のために」と言っていることにも注目しなければなりません。キリストの救いは個人的ですけれども、その救いはそれぞれの家族にも波及していかなければなりません。クリスチャンが家族の中で孤立していることは、非常に危険です。親子が、あるいは夫婦がまず信仰に導かれるように、祈り、また働きかけていかなければなりません。使徒16章31節にありますように、主は私たちの家族が救われることを期待しておられます。

使 16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

出 12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
12:23 【主】がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、【主】はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。

22,23節、過越のいけにえの血は、かもいと二本の柱にぬられ、朝までその家にとどまっていなければならないことが命じられています。これは、私たちがキリストの血を信じ、そこにとどまり続けるべきことを教えています。キリストの血から離れて、誘惑にさそわれていく時、神のさばきを受けるのです。私たちの救いは条件付です。キリストの血の中にとどまり続けている間だけ安全なのです。主イエスも、「わたしにとどまれ」と言っておられます(ヨハネ15:4~11)。

ヨハ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

出 12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。

24節、このことは、人類が永遠に守らなければならない真理なのです。

出 12:25 また、【主】が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。
12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言ったとき、
12:27 あなたがたはこう答えなさい。『それは【主】への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。

25~27節、モーセの時代にはまだ神の啓示が十分ではなかったので、真理を示すために過越の儀式が必要だったのです。しかし今日、私たちには、キリストの十字架とみことばの約束がありますので、儀式が信仰の中心ではありません。それとともに、私たちは、キりストの十字架とみことばの意味を正しく理解し、それを正しく伝えていかねばなりません。これは私たちの責任なのです。私がこのように聖書の探求を発行しているのも、その一つの働きです。モーセからこれらのことを聞いた時、民がひざまずいて神を礼拝したのはよいことです。真にキリストの十字架の救いに与(あず)かり、その意味を体験する時、人は霊とまこ
とをもって礼拝するようになります。しかし、知識だけとか、感情だけの人は、決して真実な礼拝をささげることができません。そのことは時間とともに露になってきます。

出 12:28 こうしてイスラエル人は行って、行った。【主】がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

28節で、イスラエル人が命じられたとおりに行なったのは、彼らが神のみことばを信じた証拠です。真実な信仰には必ず、行ないが伴います(ヤコブ2:14~26)

ヤコブ 2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、
2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
2:25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。
2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

Ⅳ.29~33節、エジプト脱出の命令

出 12:29 真夜中になって、【主】はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。

29節、「真夜中」とは、人々が神の審判の警告を忘れて、罪に浸る時です。人々が神のみことばに耳を傾けず、己が道を歩むようになる霊的真夜中に神の審判は下るのです。テモテ第二4:3,4)

Ⅱテモ 4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

イエス・キリストがベツレヘムの飼葉おけに伏された時も、人類は霊的暗黒の中にいたのです。(ルカ1:79)

ルカ 1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

主の降臨は、信じる者には救いをもたらしましたが、拒む者には裁きとなりました。そして主の再臨も、霊的真夜中に起きると、主によって預言されています。(マタイ25:6)

マタ 25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

真夜中は、クリスチャンもしばしば信仰の居眠りをしているので、気をつけたいものです。

また、パロの初子から、地下牢の捕虜の初子、すべての家畜の初子まで、主に打たれたことは、主の審判の徹底さを示しております。小羊の血のない者は、一人も主の審判から逃れられないことを示しています。クリスチャンは今一度、この神の厳しさを自覚して、自らの信仰を点検し、また明確な福音のメッセージの重要さを覚えなければなりません。メッセージの割引や水増しは決して許されないのです。

出 12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

30節は、審判が来るまでは、勝ち誇って豪語していた者たちの悲惨な姿です。これは、神の前で高ぶるすべての者が受ける刑罰です。

出 12:31 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、【主】に仕えよ。
12:32 おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」
12:33 エジプトは、民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、「われわれもみな死んでしまう」と言ったからである。

31~33節、パロは、神を信じたから、神に従ったのではありません。彼は神の審判に対する恐怖の故に神に従ったのです。
今も神の裁きを恐れて、神に従おうとする者が後を断ちません。しかし、それは信仰ではありません。
また、パロは自分がイスラエルを解放するのだと勘違いしています。イスラエルを解放したのは神なのです。
真の信仰は、神に対する恐怖から取るものではなく、神からの愛を受け入れ、神を愛することです。また、真の救い、真の解放、真の自由は、人の権力によるものではなく、神の力によるものです。
33節では、聖書は「パロ」と言わず、「エジプト」と言っています。この後、数節の間、「エジプト」という名前が象徴的に使われています。これは、「神に敵対する勢力」を象徴しているものと思われます。「エジプト」は、常に神に敵対する「この世」を示し、それは神の前には常に敗北するのです。

Ⅴ.34~42節、種なしパン

出 12:34 それで民は練り粉をまだパン種を入れないままで取り、こね鉢を着物に包み、肩にかついだ。

34節、出エジプトにおける特長の一つは、「種なしパン」です。これは、39節によると、エジプト脱出の出来事があまりにも急であったので、種を入れることができなかったといっています。しかし新約聖書では、この「パン種」は罪と不信仰を表わしています。
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」(マタイ16:11)
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」(コリント第一5:7,8)

出 12:35 イスラエル人はモーセのことばどおりに行い、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。
12:36 【主】はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。

35,36節には、神が人間の感情に介入しておられるのが見られます。通常なら、イスラエルの神がエジプトを苦しめているのですから、エジプト人はイスラエル人を憎むはずです。しかし逆に、エジプト人はイスラエル人に好意を示して、イスラエル人の金、銀、着物の要求を聞き入れています。しかしまた、聖書は、イスラエル人は「エジプトからはぎ取った。」とも記しています。ここに神の干渉があるのです。
私たちはこれらのことを熟考する必要があります。どんな困難な状況の中でも、神の干渉があるなら、容易に乗り越えることができるし、神の干渉がなければ、どんな好条件の中でも失敗するということです。

出 12:37 イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。
12:38 さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。
12:39 彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れてないパン菓子を作った。それには、パン種が入っていなかった。というのは、彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。
12:40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。
12:41 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、【主】の全集団はエジプトの国を出た。

40,41節、出エジプトにおけるもう一つの大きな意義は、ヤコブの家族がエジプトに移住して以来の四三〇年のエジプト生活に終止符が打たれたことです。これは主によって預言されていたことでしたが(創世記15:13)、この実現はイスラエル人にとって画期的なことでした。

創 15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。

その人数が壮年の男子だけで約六十万人(37節)とは、婦人と子どもを加えると二百万人を越すことを意味しており、これはもはや一つの部族というより、一つの国をなすほどになっていたのです。イスラエル人は、苦難の奴隷生活の中で増し続け、国をなしていったのです。二千年間のキリスト教信仰も迫害の連続の中でふえ続けてきたのです。今日、私たちは、自ら苦難の中にあっても悲観的にこれを捕えず、キリストの福音の拡大、増強の時として受け留めたいものです。そうするなら、日本のクリスチャンの信仰は迫害にも、困難にも耐え得る強固な信仰となって、日本人の心に深く根を張っていくことができるでしょう。苦難の中にいるクリスチャンの信仰は、決してその人個人だけのものではなく、大きく日本人の心の中に影響を与えていく信仰であることを覚えて、これを乗り越えていかねばなりません。クリスチャンはすべて信仰によって結ばれており、その信仰は互いに力づけ合い、増強していくべきものなのです。イスラエルも同じようにして四三〇年の苦難の歳月の後に、神を中心とした国家をつくり上げたのです。
この意味においても、出エジプトはイスラエル国家の形成に一大転機となったのです。

出 12:42 この夜、【主】は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、【主】のために寝ずの番をするのである。

42節、この夜、主は民のために寝ずの番をしたとあり、民もまた、主のために代々にわたり、寝ずの番をするのであると記されています。ここには、出エジプトの出来事は、主の慎重なみわざであるとともに、また、人の側での真剣な信仰であることが示されています。これは、出エジプトが示す罪の生活からの救いにおいても同じことが言えます。救いのみわざは、主のみわざであるとともに、救いは私たち人間の信仰に従って与えられるものです。
とにかく、イスラエル人がエジプトから脱出することによって神の民となったように、私たちも罪の生活からはっきりと救い出されることによって神の民としての特権が与えられるのです。

Ⅵ.43~51節、過越のいけにえの恵みを受けられるもの

この「過越のいけにえ」は、イエス・キリストの十字架を表わしており、このいけにえを食べることは、キリストの福音を信じて、その救いの恵みに与かることを意味しています。主イエスも、「だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6:51)と言われました。これは明らかに、過趨のいけにえを食べることから引用されたものです。

ヨハ 6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

「食べる」という信仰の表現は、聖書が示す体験的信仰の奥義を示します。これは単なる知的記憶や同意や、また教会のグループに加わることではありません。自分の霊魂の内にキリストを迎え入れることです。「過越のいけにえ」を食べる人は、厳しく制限されています。

出 12:43 【主】はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。

43節、「外国人」、すなわち、神の民でない者、今日で言うなら、不信者は食べることができません。彼らはキリストの恵みに与かることができません。

出 12:44 しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。

44節、「金で買われた奴隷」、彼らは外国人であっても、神の民の中で生活している者です。このような人は、割礼を施せば、食べることができます。これは今日で言うなら、求道中の人です。求道者はそのままでは神の恵みに与かることはできませんが、はっきりとキリストの御救いに与かる信仰の決意ができるなら、豊かな恵みを受けることができます。

出 12:45 居留者と雇い人は、これを食べてはならない。

45節は、一時的にイスラエル人の間にとどまっている旅人や商人や雇い人のことです。彼らは食べることができません。これは、興味本位や、キリストの救いを求めるのではなく別の動機で教会に出入する者のことです。彼らはキリストの恵みに与かることができません。
しかし、48,49節をみると、神は決して外国人を排他的に扱われたのでないことが分かります。

出 12:48 もし、あなたのところに異国人が在留していて、【主】に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。
12:49 このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。」

ただ、神の民である信仰を明確にすることを求められたのです。しかもそれは生産的なものでなければなりません。

出 12:46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。
12:47 イスラエルの全会衆はこれを行わなければならない。

46節の、過越のいけにえの「肉を家の外に持ち出してはならない。」と言われたのは、食することが、好い加減に行なわれたり、妥協したりすることを禁じたのです。これは今日においても同じです。信仰が好
い加減であったり、この世と妥協したりしていると、神の恵みを受けることができなくなります。
「またその骨を折ってはならない。」は、キリストの十字架の預言の一つです(ヨハネ19:33~36)。

ヨハ 19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。

これはキリストの完全性、またキリストと御父との全く一つなる完全性が破壊されないことを示しています。

出 12:50 イスラエル人はみな、そのように行った。【主】がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。
12:51 ちょうどその日に、【主】はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。

50~51節、イスラエル人たちが、過越のいけにえを食べるという重要なことを守った時、主はイスラエルをエジプトから連れ出されました。これは私たちが救いの信仰をはっきり持った時、新しい人生が始まることを表わしています。(コリント第二5:17)

Ⅱコリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

あとがき

聖書を知ることは最大の教育です。テニソンは、「聖書を読むこと、そのことが教育である。」と言いました。私も、その通りであると確信しています。あらゆる科学、政治、経済の知識を身につけても、聖書を知らない国民は無知な国民であると言わなければなりません。そしてその国民は必ず、滅びるのです。一時の繁栄があっても。この事実は歴史が証明しています。
これは、なぜでしょうか。それは聖書は真に人間が生きる道を教え、その命とカの源を示し、それを得る方法も教えているからです。しかし科学や政治や経済は、人間そのものの生き方を教えません。ただ表面的な世渡りの方法を教えるだけに過ぎません。
私たちは二十年間の。CS教育と研究を基にして昨年より徹底して聖書を教える全日制のCS幼稚クラスを教師の訓練をも兼ねて始めてみました。そこで発見したことは何であったかというと、全く生き方の異なる人間が育つということです。聖書は真実です。
(まなべあきら 1988.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、アメリカのステンドグラスデザイナーであり、子どもの本のイラストレーターであるClara Miller Burd (1873–1933) 「Preparing for the Passing Over of the Angel of Death(死の天使の過越のための準備)」(アメリカ国立国会図書館蔵、Wikimedia Commonsより)
下の写真は、1897年のBible Pictures「What They Teach Us by Charles Foster(チャールズ・フォスターによる”それは私たちに何を教えているのか”)」からのイラスト「The Angel of Death and the First Passover(初子を殺そうとする天使と最初の過越)」 (Wikimedia Commonsより)


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