聖書の探求(054a) 出エジプト記16章 民のつぶやきとマナの開始

16章は、民のつぶやきとマナの開始です。

Ⅰ.1~12節、主に対する民のつぶやき

主は15章26節で、民を試みると仰せられました。

出 15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」

民はマラでの試みを十分に学んで身につけていなかったようです。私たちは、みことばを学び、信仰を教えられていても、それを身につけ、実際に自分の生活に活かすのに、どんなに鈍いことでしょうか。それ故に、同じ失敗を繰り返してしまうのです。

出16:1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。

民は、エジプトを出て一ケ月半、そしてエリムを立ってすぐにシンの荒野にはいりました。そこで再び、神の試みが始まったのです。私たちは、神に助けられては試みを受け、試みを過ぎるとまた休みが与えられます。このようなことを何度も繰り返しつつ、私たちは信仰の高嶺へと導かれていくのです。

出 16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。

2節、民は試みに会うと、すぐにつぶやき始めました。信仰がいかに身につきにくいかを表わしています。マラの時もそうでしたが、神のしもべとなって信仰を指導するものは、よほどの忍耐が必要です。また、信仰が身につくまで、神は何度も忍耐強く同じ学課を学ばせなさることもわかります。人の知恵による指導者なら、別の学課を与えるでしょうが、神は乗り越えられるまで同じ学課を与えなさるのです。

しかしモーセはなぜ、つぶやかなかったのでしょうか。彼はもうすでに四十年間、荒野の試みを受け続けてきていたからです。ここに、従って行く者はぜひ、神が立てた信仰の指導者を尊敬していただきたいと思います。相変らず足りない人間であっても、指導者として立てられるためには、人知れず長い間の試みを通ってきているはずですから。良い信者は良い牧師をつくり、良い牧師は良い信者を育てるのです。

出 16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

3節、先にイスラエルの民は飲む水のためにつぶやきましたが、今度は食べ物のためにつぶやいたのです。私たちは、主イエスがマタイの福音書6章で、飲む物、食べる物のために思いわずらってはならないと警告されたことを思い出さなければなりません。

マタ 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

民はつぶやき始めると、その不満な心は急速にふくれ上がって、「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。」とまで、主に対する反抗心をつのらせています。これは小さなつぶやきがいかに恐ろしい神に対する反逆心を生み出すかを示しています。彼らは小さな困難のために、エジプトの奴隷の苦しみから解放してくださった神をのろったのです。私たちも、しばしば自分のために十字架にかかってくださった主イエスを忘れて、目先のわずかな困難のためにつぶやくことがあります。これはいつでも人の心の中に起きる不信仰であり、神に対する反逆心であって、これがある限り、私たちは勝利に到達することができません。これは深められなければなりません。

しかし、「主の手にかかって死んでいたらよかったのに。」とか、「私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」という悪口雑言は目にあまるものがあります。彼らは、後々までこのようなつぶやきを重ねていて、ついに四十年間荒野をさまよい続け、荒野で滅びたのです。

出 16:4 【主】はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。

4節、ここでも主は再び、超自然的方法で天からパンを与えておられます。主は全く忍耐のお方です。しかしこれは民が主のおしえに従って歩むかどうかを試みるためでした。私たちは主から祝福が与えられる時、ただ喜ぶばかりではなく、ますます主に忠実に歩むようにと、信仰を新にしなければなりません。後に、イスラエルの民は主から祝福が与えられても、バアルやアシュタロテの神々が祝福してくれたのだと言うようになり、ついに捕囚に会ってしまったのです。私たちはしばしば主の祝福を、「自分ががんばったからだ。」とか、「運がよかったから」と言ってしまいやすいのです。気をつけたいものです。しかし神は、審判を受けるべきはずの者にあわれみを与えてくださいました。これを当り前のこととして受け取ってはいけません。

出 16:5 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」

5節、主は、日用の分を毎日与え、六日目には二倍与えられました。これは、七日目の安息日に、神を礼拝するためでした。

出 16:6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、【主】がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、
16:7 朝には、【主】の栄光を見る。【主】に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」
16:8 モーセはまた言った。「夕方には、【主】があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを【主】が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、【主】に対してなのです。」

6~8節は、イスラエル人に対するモーセとアロンの言葉です。ここには二つのことが言われています。
一つは、夕方と朝のことです。神の民は、昼間は忙しく働いていても、夕方と朝は手を休めて、静かに神を仰ぎ、神とお会いする必要があります。

この時は、夕方には肉が与えられ、朝には満ち足りるほどのパンが与えられることによって、神を意識させられるということです。

夕方は反省の時です。「あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、」とあるように、夕べには、私たちはどなたが罪の奴隷の中から救い出してくださったかを新に悟る必要があります(イザヤ書51:1)。

イザ 51:1 義を追い求める者、【主】を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

朝は、信仰と希望をもって祈り、神を仰ぐ時です。そのために主は天からのパン、命のパンを与えて、神の栄光を現わされます(ヨハネ6:47~58)。

ヨハ 6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

このようにして、神の民は毎日の生活を過すべきなのです。

二つ目は、つぶやきについてです。民は指導者のモーセやアロンに向かってつぶやきましたが、モーセとアロンは「あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」と言いました。しばしば私たちは人に向かって不平や不満のつぶやきをもらしますが、それは見当違いです。私たちが人に向かってつぶやいているつぶやきは、神に対してのつぶやきであることを心に留めなければなりません。つぶやきは、私たちが神を忘れて、他人に不満を持つときに出てくるものです。

民のつぶやきが主に対してであるという証拠は、主が夕に肉、朝にパンを与えられることによって明らかです。この肉とパンは民のつぶやきに対する主の答えなのです。

出 16:9 モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『【主】の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから』と言いなさい。」
16:10 アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。【主】の栄光が雲の中に現れた。

10節で、「主の栄光が雲の中に現われた」というのは、主の臨在の可見的しるしです。これは、先のモーセとアロンの言葉が真実であることを裏付けるためのものであったと思われます。

出 16:11 【主】はモーセに告げて仰せられた。
16:12 「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、【主】であることを知るようになる。』」

12節のみことばは、毎日の食べ物が与えられていることによって、私たちは主を知らなければならないことを教えています。たとえ、霊的必要が満たされることの意味 がよく分からない者であっても、からだの必要が満たされることによって、神を知らなければなりません。しかししばしば人間は、からだの必要が満たされる時、神を忘れてしまうのです。

Ⅱ.13~36節、マナ

出 16:13 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
16:14 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
16:15 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは【主】があなたがたに食物として与えてくださったパンです。

このマナが与えられた記録は、マタイの福音書6草33節の「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」を思い起こさせます。主 はマナを与えることを通して、主に全くより頼んで忠実に従っているなら、日ごとのすべての必要が与えられることを教えようとされているのです。

このマナは自然的な産物ではなく、創造者なる神が特別な目的のために備えられたものです。それ故、マナには奇跡的特性がいくつもあります。

(1)、マナは朝早く与えられ、日が熱くなると溶けた(16節)。これは、主が朝早く恵みを与えられることを示しています。

16:16 【主】が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」

(2)、集められたマナは、みんなが食べる分に、多くもなく少なくもなく、ひとり一オメルずつであった(16~18節)。これは、すべての必要が過不足なく満たされることを教えています。

16:17 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
16:18 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。

(3)、翌朝まで残しておくと、虫がわき、悪臭を放った(19,20節)。これは人間が貧欲になったり、怠慢になったりすることを禁じています。

16:19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
16:20 彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
16:21 彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。

(4)、六日目だけは、二倍のマナを集め、翌朝まで保存しても腐らなかった。焼いたり、煮たりして保存することができた(22~24節)。これは安息日に主を礼拝するためです。

安息日については、十戒が与えられる前に既に制定されていました。主は安息日の礼拝のために、すべての備えを配慮してくださるのです。また私たちも、聖日の礼拝のために、前日に十分な備えをしておきたいものです。

16:22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
16:23 モーセは彼らに言った。「【主】の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、【主】の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」
16:24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。

(5)、七日目には、マナはなかった(25~28節)。これも奇跡的なことです。神を礼拝すべき時に、この世の働きをしても決して神の祝福は得られません。

それでも欲張る者がいて、マナを集めに出かけて行って、主から叱責を受けました。人の貧欲や見栄は、仲々なくならないものです。これは潔められなければなりません。

16:25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは【主】の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
16:26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」
16:27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
16:28 そのとき、【主】はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。
16:29 【主】があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」
16:30 それで、民は七日目に休んだ。

(6)、このマナは民がヨルダン川を渡って、神の約束の地に入り、その地のものを食べるまで続きました(ヨシュア記5:12節)。

私たちはこの地上を去って、神の約束の国に入るまでは、毎朝、信仰によって神の恵みを受けなければなりません。

出 16:35 イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。

ヨシ 5:12 彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。

(7)、このマナ、一オメルをつぼに入れ、あかしの箱に納めました。おそらく、この箱の中のマナは腐らなかったのでしょう。

16:31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。
16:32 モーセは言った。「【主】の命じられたことはこうです。『それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。』」
16:33 モーセはアロンに言った。「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを【主】の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」
16:34 【主】がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。
16:36 一オメルは一エパの十分の一である。

それ故に、このマナはただの自然的物質ではありません。31節では、「コエンドロの種のようで、白く、その昧は蜜を入れたせんべいのようであった。」とありますが、これは神が特別につくられたものであり、決して自然の法則に従っているものではありません。
神はこのマナを与えることによって、民が神の命令と教えに忠実に従うかどうかを試し、訓練しておられたのです。

主イエスはヨハネの福音書6章48~58節において、ご自身が天から下ってきたパンであり、このパンを食べる者は永遠のいのちを持ち、永遠に生きると約束されました。今日においては、主イエスとそのみことばに私たちが忠実に従うかどうかが試めされているのです。

〔 あ と が き 〕

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このような、面白おかしいところがないものは、ある程度、霊的に堅い食物が食べられる人にしか好まれないのかもしれません。しかしあちこちから聞き伝えで購読を申し込まれる方もいらっしゃつて、現在では毎月三百部発行しています。
今までの印刷は古い型のファックスと輪転機でしていましたが、今回はデジタル式の印刷機を借りて印刷してみました。以前のより読みやすくなったと思います。この印刷機を近い将来、購入したいと祈っています。費用は百五十万円かかりますが、少しずつ与えられています。このためにもお祈りいただけれ
ば幸いです。

(まなべあきら 1988.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、17~18世紀頃のポルトガルの学校にあった「The Fall of Manna(マナの降下)」(作者不明、Wikimedia Commonsより)


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