聖書の探求(058) 出エジプト記21章 神と民との契約(生命に関して)

21~24章は、神と民との間における契約の書であるということができるでしょう。

おおまかに言えば、
21章は、生命に関して
22章は、道徳に関して
23章は、祭りに関して
24章は、礼拝に関して
と、言うことができるでしょう。

そこで、21章から入っていきましょう。

Ⅰ.1~6節、男奴隷の権利の保護

1節をみますと、これは当時、慣習的にすでに守られていた律法を成文化したもののように思われます。

出 21:1 あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。

2節、モーセの律法の中に奴隷制度が認められていたことにつまずく人もいます。

出 21:2 あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。

しかしモーセの律法が定めている奴隷制度は、ローマ時代以後の残虐な奴隷制度とは全く異なっています。むしろ、それは使用人制度に近く、奴隷は人格者としての権利を認められていました。確かに奴隷は労働力として働きましたが、決して牛や馬と同様に扱われたのではありません。
奴隷は、六年間仕え、七年目には自由の身になることができました。それ以前に、ヨベルの年があれば、その年に自由になることができました(レビ記25:10)。

レビ 25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。

このような自由の権利が保証された奴隷は、イスラエル民族以外に見ることができません。

3,4節、奴隷の結婚関係も保証されていました。

出 21:3 もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。
21:4 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。

ただし、主人の奴隷の一人と結婚した場合は、六年間の奉仕が終わるまで、主人のものとならなければなりませんでした。

5,6節には、通常の奴隷の間には見られない、高度な関係が記されています。

5節、愛の故に、奴隷となる人のことが記されています。

出 21:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、

これはまさに、真のクリスチャンの型であると言ってもよいでしょう。主人を愛し、家族を愛している故に、家族もろとも、主人に仕え続けたいという自発的愛の服従は、実に信仰的なことです。

6節、彼は証人の立会いのもとに、戸口の柱に耳をきりで刺し通してもらったのです。

出 21:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

これは彼が愛の故の自発的な奴隷であることの証拠です。「耳」は主人の命令に従順に聞き従うことの象徴です。戸口の柱は、彼が仕えるべき家を表わしています。
私たちも、神のみことばに忠実に聞き従うべき耳を持ち、きりで神の家の柱に刺し通される如く、潔められていたいものです。

モーセも神のしもべ(奴隷)と呼ばれ、パウロも神のしもべとなりました。「神のしもべ」は最高の栄誉ある称号です。イエス・キリストは私たちを愛する故に、しもべとなって十字架の死にまで従ってくださいました(ピリピ2:6~8)。

ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

クリスチャンである私たちも、神の子どもであるとともに、愛の故に、忠実なキリストのしもべとならせていただきたいものです。

Ⅱ.7~11節、女奴隷に対する特別な扱い

当時としては、特に弱い立場にあった女性に対して、ここにも神の深い配慮が見られます。このような女性に対する律法は他に例を見ません。

出 21:7 人が自分の娘を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできない。

ここでは、不幸にして親に女奴隷として売られた娘の権利が、男奴隷の場合以上に保護されていた。普通、未婚の女性が奴隷とされた場合、六年後に自由の身となることができました。

11節の「三つのこと」とは、ヘブル人の娘を女奴隷とした場合、次の三つのことをすることができるということです。

(1) 8節 自分の妻とすることができる。一度、妻にした後、気に入らなくなった場合は、神の民であるその女性を神を知らない外国の民に売ってはならない。むしろ、彼女を贖(あがな)って自由の身にしなけれはならない。

21:8 彼女がもし、彼女を自分のものにしようと定めた主人の気に入らなくなったときは、彼は彼女が贖い出されるようにしなければならない。彼は彼女を裏切ったのであるから、外国の民に売る権利はない。

(2) 9節 自分の息子の妻にすることができる。この場合、主人はその女奴隷を娘として扱う定めがあった。

21:9 もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女を娘に関する定めによって、取り扱わなければならない。

(3) 10節 もし主人が他の女をめとっても、先の女性の食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。妻として扱うように定められている。

21:10 もし彼が他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。

もし、これらのことが行なわれなかったなら、彼女は無償で去り、自由の身となることができました。

21:11 もし彼がこれら三つのことを彼女に行わないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。

このように、特に女奴隷で結婚した者にとっては、自由な身分の妻となんら異なることがない権利が保証されていました。これは神のもとでは、すべての者が平等に扱われるべきことを示しています。特に、とかく虐待されがちな者に対して深い神の配慮が見られます。神は弱い者に御手をのばされる神なのです。

その一つの例として、エジプト人の女奴隷ハガル(彼女はへブル人ではありませんでしたが)がサライによって夫アブラムに妻として与えられた時のことが創世記16章に記されています。ハガルはやがてみごもると女主人サライを見下げるようになり、サライからいじめられ、サライのもとから逃げ出しました。その時、主の使いはハガルをやさしく扱い、ハガルの子孫を大いにふやすと励ましています。さらに創世記21章で、ハガルの子イシュマエルがサラの子イサクを嘲笑うようになり、ハガルとその子がアブラハムのもとを去らなければならなくなった時、神の使いはハガルとその子を助けています。理由がどうであれ、アブラハムのように二人の妻をもつことは必ず悲劇を起こしますが、ここでは神が弱い立場にある女奴隷ハガルを(しかも彼女がエジプト人であったにも拘らず)手厚く扱われていることに注目しなければなりません。

また、この女奴隷についての規定は、罪の奴隷であった私たちがキリストの十字架を信じることによって、キリストの花嫁となることのひな型であると言ってもよいでしょう。

Ⅲ.12~21節 殺人と父母をのろう者

12,14節、故意の殺人者は、必ず殺されなければなりません。

出 21:12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。
21:14 しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。

たとい神の祭壇のところにいる者であっても殺されなければならないとありますから、これは厳しい刑罰です。故意の罪に対しては、死をもってその代価を払わなければなりません。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪のために払われた代価なのです。

13節、過失致死の場合には、「のがれる場所」が備えられています。

21:13 ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。

彼は遺族の復讐から守られます。この「のがれる場所」も、キリストの十字架です。私たちにとって、故意でない罪、単なる過失もともに、キリストの十字架のあがないを必要としています。

15,17節では、両親に対する子どものとるべき態度が厳しく規定されています。

出 21:15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。
21:17 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。

両親に対しては、打ったり、のろうだけでも、必ず殺されることになっています。これは、親の立場が神聖なものであり、子どもが成人するまでは、親は神の代理人であることを表わしています。それ故、親は子どもを神を畏れるように育て、子どもは親に忠実でなければなりません。ここに、親子関係は、神との関係の中で育てなければならないことが示されています。神との関係が断たれていて、健全な親子関係はあり得ないのです。

16節、誘拐は殺さないまでも、人の自由を奪うことになりますので、極刑が課せられています。

出 21:16 人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。

18,19節、争いで傷を負わせた場合は、損害賠償と医療補償をしなければなりません。

出 21:18 人が争い、ひとりが石かこぶしで相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、
21:19 もし再び起き上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。

このような点は、今日の進んだ保険制度を見るような思いがします。旧約時代であってもイスラエル人は非常に進んだ規定を持っていたのです。

20,21節、イスラエルの国以外ではたいてい奴隷の殺生与奪の権は、主人が持っていました。

出21:20 自分の男奴隷、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければならない。
21:21 ただし、もしその奴隷が一日か二日生きのびたなら、その者は復讐されない。奴隷は彼の財産だからである。

しかし神の律法は奴隷の生存権を保証しています。

21節、奴隷が打たれた後、一日か二日か生きのびた後に死んだ場合、主人には刑罰が課せられませんでした。それは主人に殺意がなかったことの証拠とされています。また、主人にとっても、経済的に価値のある労働力としての奴隷を失ったという損失が考慮されたものと思われます。ここで言われている奴隷とは、ヘブル人の奴隷ではなく、異邦人の奴隷のことです。

このように見てみますと、モーセの時代にすでに、神の律法は今日以上の水準を保っており、その基準は今日よりも、もっと高く、厳しいものであったことがわかります。ここにも、人の律法よりも、神の律法 のすばらしさをみます。いつの時代にも、神のみことばの水準は高く、純粋であり、それによって養われている民は幸いです。

Ⅳ.22~36節、代償について - 目には目

21:22 人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。
21:23 しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。
21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。
21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。

ここでは殺傷事故がある場合とない場合が区別されています。殺傷事故がない場合は罰金刑が課せられていますが、殺傷事故がある場合は、同じ種類の刑罰が課せられるということが規定されています(23~25節)。しかし、モーセの時代に、すでに、殺人以外においては、罰金刑で代えられていたことには驚きを感じます。すでに人格を重視する律法が行なわれていたのです。しかし今日では、このすぐれた律法が逆の意味で悪用されているように思われます。すなわち、罰金さえ払えば何をしてもいいといった安易な考えになっているのではないでしょうか。数十億円の悪徳商売をしても、数十万円から数百万円の罰金を払えばよいというのなら、安易な悪徳商売はなくならないでしょう。

26,27節の奴隷に対する定めは、注目に価します。

21:26 自分の男奴隷の片目、あるいは女奴隷の片目を打ち、これをそこなった場合、その目の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。
21:27 また、自分の男奴隷の歯一本、あるいは女奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。

当時は21節にもあるように、奴隷は主人の財産であると考えられていた時代であるのに、奴隷は片目、あるいは歯を一本損った代償として自由の身とされることが保証されていました。これはまさに、キリストの十字架によって、罪人が罪の奴隷から自由にされることの型です。

28節以後は、家畜のことについての定めです。家畜には倫理的意識はありませんが、人に人命の神聖さを教えるために、人を突き殺した牛は殺されなければなりませんでした。

21:28 牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。
21:29 しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。
21:30 もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。
21:31 男の子を突いても、女の子を突いても、この規定のとおりに処理されなければならない。
21:32 もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。
21:33 井戸のふたをあけていたり、あるいは、井戸を掘って、それにふたをしないでいたりして、牛やろばがそこに落ち込んだ場合、
21:34 その井戸の持ち主は金を支払って、その持ち主に償いをしなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。
21:35 ある人の牛が、もうひとりの人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。
21:36 しかし、その牛が以前から突くくせのあることがわかっていて、その持ち主が監視をしなかったのなら、その人は必ず牛は牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は自分のものとなる。

29節では、家畜の持ち主の管理責任が問われています。もし、牛が以前から突くくせがあるのに、持ち主がそれを知っていながら、監視をせず、必要な管理を怠っていたなら、その持ち主の責任も問われて、殺されるか、贖(あがな)い金が課せられました。
持ち主の責任が問われることについては、33節の井戸のふたをせず、あけ放っていて、家畜がそこに落ちて死んだ場合も同様です。その井戸の持ち主は、管理不行届の責任が問われて罰金が課せられています。

このような管理責任の問題は、今日、毎日のように起きています。国の河川の管理、企業の廃水や煙などの公害に対する管理、施設の管理、ホテルの火災防止の管理、ちょっと子どもをあずかった時にも事故が起きると管理責任が問われます。

しかしモーセの時代に、神はイスラエル人に正しい管理を怠らないようにという管理規定まで与えておられたのです。しかもそれらに対する決裁の仕方についても記しているのですから、イスラエル人がいかに進んだ社会生活を営んでいたかがわかります。現代人はむしろ、なんでもお金で片付くと思って、責任感がうすくなり、慎重さを欠いていたり、無思慮になっている面がないでしょうか。また逆に、いたずらに管理責任を追求して、相手の個人的愛や親切を踏みにじってしまうことも起きているように思われます。
人の世界は、すべてを規定で定めることができません。赦し合ったり、思いやったり、互いに耐え忍んだりすることも必要です。権利と責任だけの世の中は、人が住めなくなります。私たちは無責任の故に罪を犯すことがないように、十分に自らの責任を自覚すべきですが、またキリストの愛の故に、互いに赦し合い、忍び合い、助け合う社会をつくっていかなければならないのではないでしょうか。

あとがき

クリスマスが来る度に思うことは、ただ楽しい雰囲気に浸っていてはいけないということです。主イエスにとって降誕は十字架の道が始まったことを意味し、彼は生まれたのではなく、十字架と同じほどの自己犠牲をもって天の御座を下られたのです。このことを覚えることなしに、クリスマスを真に祝うことはできません。
また、町中がジングルベルで騒ぐのではなく、日本のすべての家庭で静かに家庭礼拝が行なわれるようになりたいものです。飲み食いのクリスマスからキリストを礼拝するクリスマスがこの日本人の心に浸透していくことをひたすら祈る者です。
さらにもう一つつけ加えるとするなら、教会で興味あることをするから出席するというのではなく、キリストを礼拝するという最も素朴で単純で、しかも敬虔な動機から教会に集まるという、そういう信仰心はどのようにすれば育つのでしょうか。おそらくこれは、幼い頃から信仰心を養っていく外に方法はないでしょう。今年もご愛読を感謝致します。

(まなべあきら 1989.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、イギリスの風景画家 Elijah Walton (1832-1880)が描いた「Mt. Sinai(シナイ山)」(Wikimedia Commonsより)


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