週報No.2253 希望の預言エゼキエル書(37)「エジプトでの罪」 エゼキエル書 20:1~9

2020年9月20日(日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エゼキエル書 20:1~9
20:1 第七年の第五の月の十日、イスラエルの長老たちの幾人かが、【主】に尋ねるために来て、私の前にすわった。
20:2 そのとき、私に次のような【主】のことばがあった。
20:3 「人の子よ。イスラエルの長老たちに語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。──神である主の御告げ──
20:4 あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ。あなたはさばこうとするのか。彼らの先祖たちの、忌みきらうべきわざを彼らに知らせよ。
20:5 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルを選んだとき、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせ、わたしがあなたがたの神、【主】であると言って彼らに誓った。
20:6 その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った。
20:7 わたしは彼らに言った。『おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、【主】である』と。
20:8 それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。
20:9 しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージ>(一部分)

 エゼキエルは、神の審判の理由、彼らの罪の譴責を命じられています。

 イスラエルの歴史をたどっていけば、イスラエルに下された神の審判が正しいことは、明らかになってきます。しかしユダの長老たちがエゼキエルの所に何度も繰り返し遣わされていることは、彼らが自分たちの罪を正しく理解していなかったことを表わしています。自分の正しい認識は、自己反省ではできません。聖霊によって示されるのでなければ、自分が神を持たない罪人であることを悟る
ことはできません。

 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:8~9)

罪とは、ギリシャ語で「ハマルティア」で、「神が創造された目的から的外れの生き方をしていること」です。

 神が私を創造された目的とは、「全き愛と信頼によって、神と交わり、隣人と愛し合うこと」です。神の永遠のご計画は、この状態を取り戻すことです。

 しかし一旦、神に逆らって、心にサタンの侵入を許した人間は、神に逆らう性質を持ってしまったのです。二度と自分の努力でもとの神との関係と幸いな状態を取り戻せなかったのです。それで神ご自身の、私の罪の身代わりの代価が必要になったのです。神だけが神との交わりの道を回復できるのです。

 「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)

 20:5~9、エジプトでのイスラエルの罪

 この部分は、出エジプト記6:2~9の、モーセの時に、エジプト脱出の約束を主がして下さった時、イスラエル人は落胆と激しい労役のために、モーセに聞き従おうとしなかったことを取り上げています。それ故、この部分は、イスラエルの民がエジプトにいた時の罪を取り扱っています。

 モーセがミデヤンの荒野で四十年の神の訓練を受けた後、神はモーセに神ご自身がアブラハムと結ばれた契約、即ち四代目にエジプトから連れ戻されることと、カナンの地を相続地として与えられる約束について、語られたのです。

 その契約の回顧の中で、神はご自身の新しい名を名乗られました。
「わたしがあなたがたの神、主である。」(出エジプト記6:7中)

…このお名前は特に、「契約を必ず成し遂げられる神」を強調しています。
「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト記3:14)
この神のお名前は、「わたしはある。」です。即ち永遠に生きておられる神、永遠者なるお方、神のご性質を表わしています。それ故、イエス様が「わたしはいのちのパンです。」「わたしは門です。」「わたしが、道です、真理です、いのちです。」「わたしは良い羊飼いです。」「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われた時、主イエス様は「わたしはある。」という構文を使われて、ご自分が神であることを示されたのです。…
 モーセの呼びかけ(出エジプト記6:9)にも、エゼキエルの「主に従え」(エゼキエル書20:7)という呼びかけにも、神の悔い改めの要求が含まれています。民は落胆し、従わなかったのです。
…しかし神は、それでもイスラエル人をエジプトから連れ出した理由について、記しています(エゼキエル書20:9)。

 …主は、ご自分の御名のために、契約を守られ、みわざを行なわれるのです。それ故、イスラエルの民が不信仰、不服従であったにも関わらず、エジプトからの救出を実行されたのです。
主は、特にご自身の御名を尊ばれ、モーセの執り成しの故に、ご自分の契約の民をエジプトの奴隷状態から救い出されたのです(出エジプト記20:7、マタイ6:9)。

 エゼキエルの教えは明白です。イスラエルの民は神に選ばれた選民ですが、その全歴史を通して、罪に支配されていたことの故に、神はさばきを下されたことです。

 人間の神に対する反逆は、アダムとエバの堕落以来、人間の誕生から死に至るまでに及んでいます。しかし、イエス・キリストの十字架を信じることによって、罪の支配から解放されて、神のいのちに接ぎ木されるのです。

 「もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木に接がれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木に接がれるはずです。」(ローマ11:24)

<今週の活用聖句>

ローマ人への手紙11章22節
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」

<集会案内>
         
◇9月23日(水)聖別会(6) 午前10時半
 「罪の二面性(2)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421

**************************************************

【メッセージCDの販売】
メッセージCDは、一回分CD1枚500円+送料で販売しています。
(送料1~3枚160円、4~8枚210円、9枚310円、10枚以上送料無料)

【礼拝メッセージ・CD、テープのホットサービスのご案内】
毎週、日曜日の礼拝メッセージをお送りしています。全国どこでも、火曜日か、水曜日には、お手元に届きます。一年間ご予約下さると幸いです。
1年間ご予約(60分CD、52~53回分)36,000円(送料含む)
1ケ月毎の分割(1ケ月3,000円4~5回分)もできます。

いずれも代金前納で、お申し込み下さい。
お支払いは、郵便振替をご利用ください。
 口座番号 00250一1-14559
 加入者名 宗教法人 地の塩港南キリスト教会
      電話・FAX 045(844)8421