聖書の探求(064a) 出エジプト記30章 香壇と洗盤

30~31章では、いよいよ幕屋が完成しています。そのうち、30章では主に香壇と洗盤がつくられています。

Ⅰ.1~10節、香壇と祈り

出 30:1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。
30:2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。
30:3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。
30:4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。
30:5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。

香壇はアカシヤ材で長さ、巾共に一キュビトずつの正方形につくられ、高さだけ倍の二キュビトです。この正方形は神の義を表わしていると思われます。またこの香壇は純金でおおわれています。金は神の権威を表わす象徴です。

6節、この香壇は通常、あかしの箱をおおう垂れ幕の手前、すなわち、聖所に置かれました。それは、毎日、朝夕、祭司が香をささげるためです。至聖所には大祭司が一年に一回だけ入ることが許されていたのです。

出30:6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。
30:7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。
30:8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、【主】の前の常供の香のささげ物である。

この香壇がクリスチャンの祈りを表わしていることは、代々の聖徒たちによって語り継がれてきています。祈りは毎日、神にささげるものです。
また、この香壇は聖所に置かれていたものの、あかしの箱の最も近く、すなわち、神にお会いする場所の最も近くに置かれています。このことは、祈りはみことばとともに、神と交わるために最も重要なものであることを教えています。
しかし、この香壇は、大祭司が一年に一回、至聖所に入っていく時には、至聖所に移されました(へブル9:3~7)。

ヘブル 9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、
9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。

それ故、祈りは、神と交わるためとともに、救いやきよめの恵みを受け、その恵みを確立するためにも重要です。

9節、この香壇に対する警告は、異なった香をささげてはならないことと、規定に従わないささげ方をしてはならないことです。

30:9 あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。
30:10 アロンは年に一度、贖罪(しょくざい)のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖(あがな)いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖(あがな)いをしなければならない。これは、【主】に対して最も聖なるものである。」

レビ記10章1,2節で、アロンの子ナダブとアビフは、高慢とモーセに対するねたみによって、神のみこころに反する異なった火を主の前にささげて滅びました。

レビ 10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を【主】の前にささげた。
10:2 すると、【主】の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。

歴代誌第二26章16~23節では、ウジヤ王も高ぶりの故に、祭司がささげるべき香を自分でささげようとしてらい病になりました。

Ⅱ歴代 26:16 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、【主】に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして【主】の神殿に入った。
26:17 すると彼のあとから、祭司アザルヤが、【主】に仕える八十人の有力な祭司たちとともに入って来た。
26:18 彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。「ウジヤよ。【主】に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である【主】の誉れは与えられません。」
26:19 ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、その祭司たちの前、【主】の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にツァラアトが現れた。
26:20 祭司のかしらアザルヤと祭司たち全員が彼のほうを見ると、なんと、彼の額はツァラアトに冒されていた。そこで彼らは急いで彼をそこから連れ出した。彼も自分から急いで出て行った。【主】が彼を打たれたからである。
26:21 ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は【主】の宮から絶たれたからである。その子ヨタムが王宮を管理し、この国の人々をさばいていた。
26:22 ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。
26:23 ウジヤは彼の先祖たちとともに眠った。人々は彼を王たちの墓地の野に先祖たちとともに葬った。彼がツァラアトに冒された者だと言われていたからである。彼の子ヨタムが代わって王となった。

しかしヨハネの黙示録8章3~5節では、聖徒たちの祈りが香の煙とともに神の御前に立ち上っているのが見られます。

黙 8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
8:5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。

高ぶった祈りはかえってのろいを招きますが、へりくだった敬虔な祈りは神に受け入れられます。私たちは朝に夕に、神に敬虔な祈りをささげたいものです。
「悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。」(箴言15:8)
「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」(箴言28:9)

Ⅱ.11~16節、贖(あがな)い金

出 30:11 【主】はモーセに告げて仰せられた。
30:12 「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を【主】に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。
30:13 登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを【主】への奉納物とする。
30:14 二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、【主】にこの奉納物を納めなければならない。

この贖(あがな)い金はイスラエル人で成人した者(二〇才以上)に課せられました。これが示す根本的な意味は、キリストの十字架の贖(あがな)いの代価を示すことです。神は民にこのような贖(あがな)い金を納めさせることによって、罪深い人間が神と交わるためには、贖(あがな)いの代価が必要であることを徐々に示されました。その金額はわずか半シュケル(数百円)でしたが、その示す意味は重要です。
マタイの福音書17章24~27節で主イエスが納められた宮の納入金も、この贖(あがな)い金のことです。

マタ 17:24 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」
17:25 彼は「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。
17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

主イエスはその時、ご自分は納める必要はないと言われました。それは当然です。罪のないお方が罪のための贖(あがな)い金を納める必要はないからです。しかし主イエスは罪人の身代わりとして、十字架にかかられる意味をこめて納められたものと思われます。しかし主イエス以外のすべての人は贖(あがな)い金を納める必要があり、納めなければわざわいに会います。すなわち、神の民の中から追い出され、滅びるのです。勿論、私たちにとっての贖(あがな)い金とはイエス・キリストの十字架であり、それを自分の罪のための贖(あがな)いの代価として信じることです。

15節、この贖(あがな)い金は富んだ者も半シュケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なくしてはなりません。

出30:15 あなたがた自身を贖うために、【主】に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。

これは、すべての人が、救われる為にはイエス・キリストの十字架に何かを加えても、また差し引いてもいけないことを教えています。

16節、ささげられた贖(あがな)い金は、会見の天幕の用に当てられました。

30:16 イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、【主】の前で、イスラエル人のための記念となる。

ささげる金銭は信仰のしるしです。私たちはイエス・キリストの十字架によって救われたのであって、金銭をささげることによって救われたのではありません。しかし救われたなら、感謝と献身の信仰をこめて献金をささげるのがよいのです。その献金は主のみわざのために用いられます。

Ⅲ.17~21節、洗盤

出 30:17 【主】はまたモーセに告げて仰せられた。
30:18 「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。
30:19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。

しばしば、「主はまたモーセに告げて仰せられた。」(17節)という言葉が記されています。これは、ここに記されているすべてのことが、モーセの考えによるものではなく、神によるものであることを明確にしています。すなわち、これらのことは、人間の指導者の権威によるものではなく、神の権威によるものであることをはっきりと示しているのです。教会の中でも、しばしば神の権威より人の権威が優先されがちです。これは十分に注意して取り除いていかなければなりません。指導者は自分の権威を振りかざさなくても、神の権威を示しているだけで、十分、人々から尊敬されるようになります。聖書の中には、何度も何度も同じようなことが繰り返し記されていて、読む者を退屈がらせていますが、実はそこに重要な意味が含まれているのです。読み過ごさないように注意したいものです。

この洗盤は、会見の天幕と祭壇の間に置き、祭司が会見の天幕に入る時も、祭壇にささげ物をする時も、祭司たちはこの洗盤で手足を洗うのです。
この新約的意味は、ヘブル人への手紙10章22節に記されています。

ヘブル 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

「からだをきよい水で洗われたのですから、」
これは、からだを用いての霊的生活が潔められていること、すなわち、歩みや行ないが神のみこころにふさわしいものとなることを意味しています。神の子どもたちは内的にも、外的にも、全生活が神に喜ばれるものとなるようにと、神は求めておられます。もし、クリスチャンが内的信仰だけでなく、実際生活の中で具体的な良いあかしができるようになれば、家族や身近な人々にもっと力強い霊的影響を与えることができるでしょう。

20、21節では、二回、「彼らが死なないためである。」と記されています。

出 30:20 彼らが会見の天幕に入るときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、【主】への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
30:21 その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」

もし、内的信仰があっても、それが行ないや生活の中に具体的に現われてこなかったら、やがてその内的信仰も失い、聖書から、祈りから、教会から遠去かっていき、堕落していきます。ヤコブが、「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)と言ったのは、このことです。

Ⅳ.22~33節、聖なるそそぎの油

出 30:22 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
30:23 「あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分──二百五十シェケル──、におい菖蒲二百五十シェケル、
30:24 桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン。
30:25 あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。
30:26 この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、
30:27 机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、
30:28 全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。
30:29 あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。
30:30 あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。
30:31 あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。これはあなたがたの代々にわたって、わたしのための聖なるそそぎの油となる。

この油は幕屋の設備と祭司となる人々を主のために聖別するために注がれます。後に、この油そそぎは王や預言者にもなされるようになりました。そして、この油そそぎによって、各々、神のために働くのに必要な力が与えられることを示したのです。さらに、この油そそぎは、新約における聖霊の賦与を象徴しています。今も、主のために奉仕する者には、この聖霊の油そそぎが必要です。これなしには、力強い奉仕をすることができません。説教も、賛美も、祈りも、礼拝も、その他主のためにするどんな小さい奉仕にも聖霊の油そそぎが必要です。これがある時、主が豊かに用いてくださいます。

また、ヘブル語のメシヤ、ギリシャ語のクリストスは、「油そそがれた者」を意味します。キリストは祭司、王、預言者としての職分をなされるお方です。それ故、この聖なるそそぎの油は、イエス・キリストの職分を表わすためのものであると言ってもいいでしょう。幕屋そのものも、すべての備品も、祭司も、キリストの職分を表わしているからです。

32節には、この油を「だれのからだにもそそいではならない。」とあります。

30:32 これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。
30:33 すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。」

これは、この油がキリストにのみ適用されるべき聖なるものであることを予表しており、新約において、キリストの昇天後には、信仰の条件を果たした者の上に、聖霊の油がそそがれているのを見ます。

また、「これと似たものを作ってはならない。」ことも、命じられています。聖霊のみわざに見せかけた人間のわざは、のろわれるべきものです。ユダヤの祭司長スケワの七人の息子たちは、この愚かなことを演じました(使徒19:13~16)。

使 19:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
19:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
19:15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。
19:16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

またサマリヤの魔術師シモンは、ピリポによって信仰に導かれていましたが、彼は金によってこの聖霊の油そそぎを手に入れようとして、ペテロにいさめられています(使徒8:9~24)。

使 8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。
8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
8:18 使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
8:20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
8:21 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
8:22 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
8:23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
8:24 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

私たちも、主に用いられたいと願うあまりに、人工的に偽りの油を作らないようにしなければなりません。

Ⅴ.34~38節、聖なる純粋な香油

出 30:34 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。
30:35 これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。
30:36 また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。

これは神にささげる香で、最も聖なるものです。神は地上に香り高い花や木を与えてくださって、私たちを楽しませてくださっています。しかし、神にとって最も芳しい香りは私たちの祈りです。この香油は祈りを表わしています。
「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(ヨハネの黙示録8:3,4)

37節には、この香は、「自分自身のために作ってはならない。」と命じられています。すなわち、自分の欲を満足させるためだけの自分中心の祈りはのろわれることを教えています。38節も、同様の意味です。

出30:37 あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを【主】に対して聖なるものとしなければならない。
30:38 これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」

私たちの祈りは、主の栄光を現わすためのものでなければなりません。
「正しい者の祈りは主に喜ばれる。」(箴言15:8)
「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」(箴言15:29)
「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」(箴言28:9)

祈りは、祈りの言葉よりも、祈る人の実質が大切です。主に喜ばれる祈りは、主に喜ばれる人からしか生まれません。祈りもまた、「人」であることを強く教えられます。

あとがき

福音書を読む時、主イエスと弟子たちとの違いがはっきり分かります。それは、主イエスはご自分が語られた真理を実際に、具体的に知っておられ、弟子たちはそれをただの知識として学び、良い教訓として受けとめたに過ぎません。ですから、弟子たちは主イエスのみわざの真似をしましたが、その力を発揮することはできませんでした。そればかりではなく、仲間の間で争いすら起こしていました。主イエスが語られた真理が、彼ら自身の中で活かされていなかったのです。それ故、実りがありませんでした。

パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。」(テモテ第二4:2)と言いましたが、私たちは先ず、みことばを知識として知っているだけでなく、その真理を体験していなければなりません。そうでなければ、聖霊を受ける前の弟子たちの如く、実りがありません。真理を体験していなくても、真理について説教することはできます。しかし霊魂はむなしいのです。みことばを知って、伝えましょう。

(まなべあきら 1989.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型内の備品を撮影したもの(2013年に訪問)


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