聖書の探求(069b) 出エジプト記40章 幕屋の完成と主の栄光の顕現

いよいよ出エジプト記の最後の章に到達しました。この章は、幕屋建造の締め括りの章であるとともに、エジプト脱出の締め括りの章でもあります。出エジプト記ではエジプトから脱出して、離れていくという印象が強かったですが、レビ記や民数記ではむしろ、これから行く、神の約束の地力ナンを強く意識しておられるように思われます。それ故、出エジプト記を終えるということは、エジプトははるか彼方に遠去かって、いよいよ、これから向かう約束の地に心をしっかりと向けるべきだという思いがします。私たちも救われた当初、罪の生活(エジプト)からあまり遠去かっておらず、しばしば昔の生活が思い出されたものですが、神中心の生活に進めば進むほど、罪の生活は意識の中でも遠去かっていき、心は神の国に向けられていきます。

40章は、幕屋の完成と主の栄光の顕現が記されています。

Ⅰ.1~15節、幕屋の設置と聖別の命令

(1) 39章で幕屋とすべての備品は備えられました。しかしまだ、それらは神のご用のために用いられるべく、整然と組み立てられ、設置されていませんでした。

出 40:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
40:2 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。
40:3 その中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前を仕切り、
40:4 机を入れ、その備品を並べ、燭台を入れ、そのともしび皿を上げる。
40:5 あなたは香のための金の壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入口に掛ける。
40:6 会見の天幕である幕屋の入口の前に、全焼のいけにえの祭壇を据え、
40:7 会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。
40:8 回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。

これは、主が私たちに与えられた知識、能力、賜物を、ただそれらをバラバラに気まぐれに用いているだけではいけないことを教えています。それらは主のみこころにかなって正しい方法で組み立てられ、つなぎ合わされ、あるべき場所で用いられる必要があります。

教会もまた、一つ一つの集会や計画がバラバラに行われているのではなく、神のご目的に沿って順序立てられ、最もふさわしいように組み合わされる必要があります。そうしないと、一つ一つがすばらしくても、全体的な主の働きに効果を上げることができません。

またキリストの枝であるクリスチャンは、一人一人が有能で、力強く働いていても、あまり効果を上げることができません。しかしひとり一人のクリスチャンがキリストの体に連なって、祈りの座、あかし、賛美、説教など、様々な奉仕において、神のみこころにかなって一つに組み合わされているなら、大きな力を発揮することができます。

すべての備品が出来上がっていても、それをただ、積み上げておくだけなら、幕屋としての用をなしません。それらは神のご目的にふさわしく組み合わされることによってのみ意味をもつのです。

(2) 次に、幕屋は組み合わされて設置されるだけでなく、それが神のために聖別されて用いられなければなりません。

出 40:9 あなたは、そそぎの油を取って、幕屋とその中のすべてのものにそそぎ、それと、そのすべての用具とを聖別する。それは聖なるものとなる。
40:10 あなたは全焼のいけにえの祭壇と、そのすべての用具に油をそそぎ、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。
40:11 洗盤とその台とに油をそそいで、これを聖別する。
40:12 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗い、
40:13 アロンに聖なる装束を着けさせ、彼に油をそそぎ彼を聖別する。彼は祭司としてわたしに仕える。
40:14 彼の子らを近づかせ、これに長服を着せなければならない。
40:15 あなたは、彼らの父に油をそそいだように、彼らにも油をそそぐ。彼らは祭司としてわたしに仕える。彼らが油をそそがれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」

9~15節では、すべての用具には油をそそいで聖別しています。「そそぎの油」は聖霊を表わすものですから、今日、クリスチャンと教会は聖霊によって、聖別され、潔められる必要があります。

12,13節では、祭司アロンとその子らは、まず水で洗い、その後、油をそそいで聖別されています。このことは、神に仕えるすべてのクリスチャンは真に救われ、聖霊の満たしを受ける必要があることを教えています。この点をうやむやにして教会の活動を営むなら、やがて聖なる礼拝の場所がネタミや争いの場に変わっていくのです。

神はモーセを通して、これから幕屋を中心にした信仰生活をしていくイスラエルの民に対して、これらのことを明確に教えられましたが、それは今日の私たちにも重要な意味をもっています。

Ⅱ.16~33節、忠実な服従

出 40:16 モーセはそのようにした。すべて【主】が彼に命じられたとおりを行った。
40:17 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。

17節、第二年目の第一の月の第一日に幕屋は建てられました。ちょうど一年前の第一月の十四日にイスラエル人はエジプトを脱出したのです。そしてわずか一年の間に律法の授与と幕屋建造の大事業を成し遂げたのです。このような偉大なわざは、人の力ではとうてい一年では成し遂げられません。しかし神のご計画なら、不可能も可能になってきます。

「主に不可能なことがあろうか。」(創世記18:14)
「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」(民数記11:23)
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)

私たちは自分の手に負えそうにないと思うと、すぐに止めてしまいますが、その前に、それが主のご計画であるかどうかをよく祈って考えてみましょう。もし主のご計画なら、困難に見えていても、必ず道は見つかります。あきらめずに、求め、接してください。

40:18 モーセは、幕屋を建てるとき、台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、
40:19 幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕のおおいを掛けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:20 また、彼はさとしを取って箱に納め、棒を箱につけ、「贖いのふた」を箱の上に置き、
40:21 箱を幕屋の中に入れ、仕切りのために垂れ幕を掛け、あかしの箱の前を仕切った。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:22 また、彼は会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の北のほうの側で垂れ幕の外側に、机を置いた。
40:23 その上にパンを一列に並べて、【主】の前に供えた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:24 彼は会見の天幕の中、机の反対側の幕屋の南側に、燭台を置いた。
40:25 そうして彼は【主】の前にともしび皿を上げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:26 それから彼は、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の壇を置き、
40:27 その上でかおりの高い香をたいた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:28 彼は、幕屋の入口に垂れ幕を掛け、
40:29 全焼のいけにえの祭壇を、会見の天幕である幕屋の入口に置き、その上に全焼のいけにえと穀物のささげ物とをささげた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:30 また彼は、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。
40:31 モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。
40:32 会見の天幕に入るとき、または、祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。【主】がモーセに命じられたとおりである。
40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。

16~33節では、幕屋とその用具や備品が一つ一つ正確に据えられています。そして、その一つ一つが据えられる度に、「主がモーセに命じられたとおりである。」という確認の言葉が付けられています。おそらく、実際に、各用具や備品を設置する度に、確かめたものと思われます。それにしても、どの一つにおいても、神のみこころにかなわないものはなく、神のご命令のとおりに作られていたとは、スゴイと言わざるを得ません。奉仕者の中に一人でも、気を抜く者や、いいかげんな者がいれば、こういう奇跡的仕事はできません。

私たちの生活や行いも、かくの如く、その一つ一つが神のみこころにかなっているかどうか、十分に確かめつつ行いたいものです。かくの如く行えば、人の自分中心の思いや人の妥協が入り込むスキ間がなくなり、神の祝福を得ることも確実です。神の栄光を拝することができないのは、どこか、神のみこころからズレているところがあるからです。しばしばそれは、この世にならっているところがあるからです。パウロは次のように言っています。
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 (ローマ12:2)

動機が不純であったり、この世と調子を合わせた生き方をしているなら、一時、順調に行っているように見えても、決して神の祝福を受けることはできません。最初から最後まで、神のご命令に従っていくなら、苦難の道を通っても、必ず祝福が与えられます。モーセはそのようにして、偉大な仕事を成し遂げたのです。

Ⅲ.34~38節、主の栄光の顕現

出 40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。

(1)、この雲は神の臨在を現わす雲で、自然界の雲ではありません。主イエスの昇天の時にも、この雲が現われました(使徒1:9)。

使 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

この時、聖書は、「雲に包まれて、見えなくなられた。」と告げています。それ故、主イエスはある所までは空中の天に昇って行かれましたが、雲に包まれてからは、雲に乗って宇宙の彼方に飛んで行かれたのではなく、天界に移られたのです。この雲はそれを象徴するために現われたのです。この雲は主の空中再臨の時にも現われると予告されています(テサロニケ第一4:17)。

Ⅰテサ 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(2)、この主の栄光の顕現は、モーセ以下、すべての奉仕者が全く主に忠実に従ったことを主が非常にお喜びになったことを直接示されたのです。主は私たちを喜びになる時、そこに臨在を現わしてくださいます。

(3)、この雲はこれまでシナイの荒野を旅する時に、民を導いて来ましたが、今や、彼らのうちに満ち、彼らを支配し、彼らのうちに住まわれることを表わしています。神は導かれるお方ですが、また内にお住みになられるお方です。
この臨在は、まだ幕屋における臨在でしたが、これは明らかに新約における内住の臨在を予表しているものです。私たちが全く、神に従順であるなら、神は私たちの内に満ちて、常住してくださるのです。

(4)、35節、主の栄光の顕現があまりにも畏れおおかったので、主と顔と顔を合わせて語ったほどのモーセすら、天幕に入ることができませんでした。

出40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。

それほど、人間には耐えられないほど圧倒的な臨在でした。通常、罪ある者が直接、神の臨在に触れるなら、それは死を意味していました。しかし主は祝福のためにも、ご自分の臨在を現わしてくださるのです。

主イエスはモーセが出来なかったことを私たちのためにしてくださいました。すなわち、主は手で造った聖所ではなく、天の聖所に入られ(ヘブル9:24)、その恵みのみわざによって、私たちは大胆にまことの聖所に入ることができ、神に近づくことができるのです(ヘブル10:19~22)。

ヘブル 9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

ヘブル 10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

私たちの信仰はここまで到達しなければなりません。これが信仰の極致です。

36~38節は、通常の旅について簡略に記しています。

出40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

これは出エジプト記の続きがあることを示していますが、それとともに、信仰経験においても、特別に顕著な主の臨在を経験する時もあれば、通常の信仰生活を営む時もあることを示しています。どちらにしても、主の臨在の中にいるということが大切なのです。

あ と が き

69回目にして、やっと出エジプト記を終えることができました。早かったような、遅かったような複雑な気持ちですが、お祝いをしたいような気持ちでもあります。よく、ここまで書き続けることが出来たな、と思いますし、また読者の皆様も、よく読み続けてくださったと感謝致します。読者の方々のお励ましがなかったら、ここまで到達することはできなかったでしょう。
次回から、レビ記に入ります。どうぞ、お祈りください。最近、「みことばの黙想(2)出エジプト記」を早く出せ、というお声をいただいています。私も何とかしたいとは思っていますが、聖書から霊的なものを書くことはかなり大変なことで、思ったように進めることができません。どうぞ、私の霊魂がいつも聖霊に満たされ、健康も与えられ、書く時間も与えられるようにお祈りください。
これまで、ひたすらお読みくださった皆々様に、心より御礼申し上げます。

(まなべあきら 1989.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大モデル(模型)の入口に掛けてあったポスター(2013年の訪問時に撮影)

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


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