聖書の探求(077b) レビ記 9章 祭司任職後の礼拝と、主の栄光の顕現

9章は、8章の祭司の任職式が終わった後、民が主にいけにえをささげて礼拝した時に、民全体に主の栄光が現われたことです。この章の特長は、なんといっても主の栄光の顕現です。私たちは毎日、主を礼拝し、主の栄光の中で生活したいものです。それは理想的な願望ではなく、実際に可能なのです。それは、キリストの十字架のいけにえがすでにささげられ、聖霊時代に住む私たちにとっては、普通の健全な信仰生活の状態なのです。それは私たちには手の届かない状態ではなく、だれでもが、日々、礼拝する生活をするなら、経験できることなのです。

1~7節、祭司職執行の命令

レビ 9:1 それから、八日目になって、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、
9:2 アロンに言った。「あなたは、子牛、すなわち、若い牛を罪のためのいけにえとして、雄羊を全焼のいけにえとして、それもまた傷のないものを取って、【主】の前にささげなさい。
9:3 あなたはまた、イスラエル人に告げて言わなければならない。あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。
9:4 また【主】へのいけにえとして、和解のいけにえのための雄牛と雄羊を、また、油を混ぜた穀物のささげ物を、取りなさい。それは、きょう【主】があなたがたに現れるからである。」
9:5 そこで彼らは、モーセが命じたものを会見の天幕の前に持って来て、全会衆が近づき、【主】の前に立った。
9:6 モーセは言った。「これは、あなたがたが行うように【主】が命じられたことである。こうして【主】の栄光があなたがたに現れるためである。」
9:7 それから、モーセはアロンに言った。「祭壇に近づきなさい。あなたの罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげ、あなた自身のため、またこの民のために贖いをしなさい。また民のささげ物をささげ、【主】が命じられたとおりに、彼らのために贖いをしなさい。」

1節の 「八日目」は七日間の祭司の聖別式の終わった翌日のことです。

レビ 9:1 それから、八日目になって、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、

この日初めて、祭司制度のもとでの礼拝が行われました。そしてこれが、その後長い間続いた旧約時代の礼拝の型となったのです。この日から、旧約の中でも、新時代が始まったと言えるでしょう。その時代にあって、画期的なことが始まりました。祭司たちはキリストの仲保を予表する仲保的奉仕を始めたのです。

モーセは、アロンとその子らだけでなく、イスラエルの長老たちも呼び寄せています。この「呼び寄せる」という行動は、その時のモーセの緊張感や厳粛さを伝えています。モーセはこれから人類にとって偉大なことが始まろうとしていることを感じていたのです。その緊張感を今日に伝えています。

次に、注目したいことが二つあります。一つは、いけにえに使われた獣の種類です。もう一つは、いけにえの種類です。

最初に、獣の種類について考えてみましょう。まず、罪のために子牛がささげられています(2、3節)。

レビ 9:2 アロンに言った。「あなたは、子牛、すなわち、若い牛を罪のためのいけにえとして、雄羊を全焼のいけにえとして、それもまた傷のないものを取って、【主】の前にささげなさい。
9:3 あなたはまた、イスラエル人に告げて言わなければならない。あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。

いけにえに子牛が求められているのは、ここに唯一の例があるだけです。これについての伝統的なユダヤの見解は、アロンが金の子牛を作った事件に対して(出エジプト記32:4)、神は子牛によって彼の罪のあがないをされたとみなしています。

出 32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。

次に、雄羊が全焼のいけにえとして用いられています(3節)。

レビ 9:3 あなたはまた、イスラエル人に告げて言わなければならない。あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。

雄羊はアブラハムがモリヤの山でイサクを全焼のいけにえとしてささげようとしていた時、神が備えられたいけにえと同じです(創世記22:8~13)。これはアブラハムの信仰の従順を記念するものです。

創 22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

3節、15節では、やぎが民の罪のためのいけにえとしてほふられています。

レビ 9:3 あなたはまた、イスラエル人に告げて言わなければならない。あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。

レビ 9:15 次に、彼は民のささげ物をささげ、民のための罪のためのいけにえとしてやぎを取り、ほふって、先のと同様に、これを罪のためのいけにえとした。

これはヨセフの兄弟たちがヨセフをエジプトに奴隷に売った時、彼の衣にやぎの血をつけたことを記念しています(創世記37:31)。

創 37:31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。

3節の子羊は、アベルがささげた子羊のいけにえ(創世記4:4)を記念しているといってよいでしょう。

創 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

あるいは、エデンの園から追放されるアダムとエバのために神がほふって、皮衣をとった獣を記念していたのかもしれません(創世記3:21)。

創 3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

神がいけにえとしてこれらの様々な獣を選ばれたのには、それなりの意味があることは確かです。

次に、いけにえの種類について考えてみましょう。アロンのためには、罪のためのいけにえと全焼のいけにえが命じられているだけですが、民のためには、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえ、穀物のためのいけにえが求められています。この中に、罪過のためのいけにえが含まれていないのは、それが損害賠償を含むいけにえだからです。

ここで大事なのは、ささげられたいけにえの順序です。

第一は、罪のためのいけにえ、これはいつも最初です。それはこのいけにえが神と人とを隔てている罪の状態を取り除き、罪人を神に近づけるようにするためです(エペソ2:14~19)。

エペ 2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

第二は、全焼のいけにえ、これは主によって救われた人が全き献身をし、その全生涯が神のものとして聖別されることを示しています。

第三と第四は一つです。これは和解のいけにえです。これは聖餐をとおして、主との交わりをすることを示しています。その中の一つは、主から受けたあわれみを感謝し、なお続けてあわれみが与えられることを祈り求めるものです。他方、穀物のささげ物は主との契約の交わりを示しています。

これらの順序には、罪のあがない、献身とその生涯、そして神との交わりの信仰生活における三つの基本的意味が強調されています。

しかし、これらのいけにえはなお、不完全で予表的なものでした。なぜなら、祭司であるアロン自身が自らの罪のためにいけにえをささげなければならなかったからです。これらのすべてのいけにえは、イエス・キリストによって完成したのです。それ故、真の祭司職はイエス・キリストの時まで待たなければなりませんでした(ヘブル7:27)。

ヘブル 7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

私たちは今日、イエス・キリストにあって全く救われることができるのです(ヘブル7:25)。

ヘブル 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

8~24節、祭司職の執行と主の栄光の顕現

レビ 9:8 そこで、アロンは祭壇に近づき、自分のために罪のためのいけにえの子牛をほふった。
9:9 アロンの子らは、その血を彼に差し出し、彼は指をその血に浸し、祭壇の角に塗った。彼はその血を祭壇の土台に注いだ。
9:10 彼は罪のためのいけにえからの脂肪と腎臓と肝臓の小葉を祭壇の上で焼いて煙にした。【主】がモーセに命じられたとおりである。
9:11 しかし、その肉と、その皮は宿営の外で火で焼いた。
9:12 それから、アロンは全焼のいけにえをほふり、アロンの子らが、その血を彼に渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。
9:13 また、彼らが全焼のいけにえの部分に切り分けたものとその頭とを彼に渡すと、彼はそれらを祭壇の上で焼いて煙にした。
9:14 それから、内臓と足を洗い、全焼のいけにえといっしょにこれを祭壇の上で焼いて煙にした。
9:15 次に、彼は民のささげ物をささげ、民のための罪のためのいけにえとしてやぎを取り、ほふって、先のと同様に、これを罪のためのいけにえとした。
9:16 それから、彼は全焼のいけにえをささげ、規定のとおりにそうした。
9:17 次に、彼は穀物のささげ物をささげ、そのうちのいくらかを手のひらいっぱいに取り、朝の全焼のいけにえと別に、祭壇の上で焼いて煙にした。
9:18 ついで、彼は民のための和解のいけにえの牛と雄羊とをほふり、アロンの子らがその血を渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。
9:19 その牛と雄羊の脂肪の部分、すなわちあぶら尾、内臓をおおう脂肪、腎臓、肝臓の小葉、
9:20 これらの脂肪を彼らが胸の上に置くと、彼はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にした。
9:21 しかし、胸と右のももは、アロンが、モーセの命じたとおりに奉献物として【主】に向かって揺り動かした。

8~21節は、アロンとその子らによる、祭司制度制定後、最初の職務が執行されています。その方法と順序は、すべてモーセが命じたとおりでした。10節には、「主がモーセに命じられたとおりである。」とあり、21節には「モーセが命じられたとおりに」とあります。モーセは主から命じられたとおりに祭司に命じ、祭司たちはモーセから命じられたとおりに行いました。こうして祭司は主のご命令どおりに行うことができたのです。このことは主の栄光を受けるのに不可欠の重要な条件です。主のための奉仕はただ熱心であるだけでなく、神のみことばに忠実でなければなりません。しばしばクリスチャンは自分勝手の熱心に陥りやすいのです。それはパリサイ人時代のサウロの姿であって、自分では一所懸命に神に仕えているつもりであっても、決して神に喜ばれるものではありません。主の働き人に求められることは、先ず忠実であること、その上に熱心で、しかも忍耐強く続ける時、神の栄光が現わされます。アロンたちの、これらの沢山のいけにえをささげる奉仕は大変重労働だったと思われ、忍耐のいる仕事であったに違いありません。

22節、アロンは、いけにえをささげ終わった時、民に向かって両手を上げて祝福しました。

レビ 9:22 それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。

これは彼自身、自分の奉仕が神のみこころにかなったものであり、神に受け入れられたという確信を持っていたことを表しています。このように、主のみこころにかなった働きをするならば、非常に疲れていても、他の人々を祝福することができるほどの充実感と満足感にあふれ、みなぎっていることができるのです。クリスチャンの毎日の生活はこのようでありたいものです。

23節、アロンがいけにえの祭壇から降りてくると、モーセはアロンを会見の天幕に導き入れました。

レビ 9:23 ついでモーセとアロンは会見の天幕に入り、それから出て来ると、民を祝福した。すると【主】の栄光が民全体に現れ、

それまでモーセだけが会見の天幕に入り民のために執り成しをしていたようです。しかしこの時点で、モーセは仲保者としての祭司的務めのすべてをアロンとその子らに渡しました。こうしてモーセの役割は少しずつ変わり始めました。

二人が会見の天幕から出てきて、民を祝福した時、主の栄光が民全体に現われました。この「栄光」という語は特別な用語で、ヘブル語の語根は「カーベイド」で、「重い」とか、「重量がある」という意味です。聖書中で、神の臨在が人の目で見ることのできる形で現われたものを指しています。

この「栄光」という語は、

①、シナイ山でイスラエル人の経験したもの
②、ソロモンの神殿に満ちたシェキナの光
③、イザヤ書六章の神殿におけるイザヤの経験したもの
④、主の降誕の時のベツレヘムの野原で羊飼いたちが経験したもの
⑤、変貌山で弟子たちが見たもの

について使われています。

24節、この栄光が現われると同時に、神の火が下って、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪は焼き尽くされました。

レビ 9:24 【主】の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。

これは、神がこのいけにえを受け入れられ、それをささげた者たちの礼拝を受け入れられたことを示しています。

パウロはすべてのクリスチャンに、「あなたがたのからだを(日常生活のすべてを)、神に受け入れられる、整い、生きた供え物としてささげなさい。これこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)と、すすめています。

民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏しました。神の栄光が現わされること以上に、クリスチャンの信仰の覚醒と救霊に効果があるものはありません。私たちの信仰と祈りと、奉仕が現実に実を結んで、神の栄光を現わすこと以上に効果のある伝道方法はありません。真の礼拝、真の献身、真の賛美は、必ず実を結んで神の栄光を現わします。

パウロは、

「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(コリント第一10:31)

と教えました。私たちは、何ごとをするにも、主の栄光を現わすためにしたいものです。


上の絵は、イギリスの画家シメオン・ソロモン(Simeon Solomon, 1840年-1905年)により1864年に描かれたレビ記9章の挿絵「The First Offering of Aaron(アロンの最初の捧げもの)」(The Higgins museum and gallery, Bedford蔵、Wikimedia Commonsより)

あとがき

詩篇119篇103節に、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とあります。私たちの信仰生活が味わい深い、実り豊かなものになるのは、神のみことばが自分のものとなってきた時です。しかし私たちが知っているキリスト教的知識、教理、そして信仰生活についての知識などは、どれくらい直接、みことばと結びついているでしょうか。それは説教で聞いたすぐれた話であるかも知れません。しかしそれが自分のうちで、みことばに根ざしていなければ、ただの知的感動で終わってしまって、豊かな実をみのらせることができません。時に、単なる感動とみことばの味わいを混同している人がいます。感動はやがて消え去り、忘れ去られます。しかしみことばの味わいには、内なる人を育て養う力があります。主が私たちに下さった信仰の客観的根拠は、聖書しかありません。このことは、聖書が味わい深いものになれば、必ず実り豊かになることができることを示しています。

(まなべあきら 1990.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


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