聖書の探求(078a) レビ記 10章 アロンの子ナダブとアビフの罪

いつでも大成功の次には、危険な落し穴のワナが待っているものです。すなわち、大成功をネタム者、高慢な者が問題を起こすようになるのです。教会が小さかった時、みんな純粋な信仰で、よく戦っていたのに、教会が大きくなるにつれて、問題や争いが教会の中で絶えなくなってくることをよく聞きます。

大きな祝福を得、大成功した時には、私たちはすぐにへりくだらなければなりません。大抵の人が、かなり霊的にすぐれた人と思われている人であっても、高く昇り、権力と繁栄を持つようになる時、高慢になってしまいます。ナダブとアビフはこのワナに陥ったのです。

1~7節 ナダブとアビフの罪

レビ 10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を【主】の前にささげた。
10:2 すると、【主】の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。
10:3 それで、モーセはアロンに言った。「【主】が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』」それゆえ、アロンは黙っていた。

9章において、神に近づく正しい道が示され、神の栄光が現わされたのに、その直後に、10章でもうすでに祭司の中に罪を犯す者が現われ、神の恐ろしい審判が下っているのを見ます。私たちは、神の栄光を現わす働きをした直後でも、油断してはいけません。成功の故に、高慢が忍び込むスキができるのです。

ナダブとアビフはアロンの四人の息子のうち、年長の者たちであったことと、この二人の心には、神をあなどる高ぶりがあったようです。この二人はなぜ、神の審判を受けて死んだのでしょうか? 彼らの罪は何だったのでしょうか?

第一に、彼らは聖別された火皿ではなく、自分の火皿を用いました。

第二に、香をたくのは大祭司のなすべきことであるのに、二人は父アロンをさしおいて香をたきました。これは高ぶりです(ウジヤ王の例、歴代誌第二26:16~23)。

Ⅱ歴代 26:16 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、【主】に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして【主】の神殿に入った。
26:17 すると彼のあとから、祭司アザルヤが、【主】に仕える八十人の有力な祭司たちとともに入って来た。
26:18 彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。「ウジヤよ。【主】に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である【主】の誉れは与えられません。」
・・・

第三に、祭壇以外のところから取った、異なった火を主にささげたことです(レビ記16:12)。

レビ 16:12 【主】の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。

今日でも、聖霊の力によらず、己の力によって主に仕えたり、自分の才能や技術の故に高慢になって、自分の分を越えたことをして、争いを起こしたり、つまずきとなったりする人がいます。ある学者たちによると、9節にあるように、ナダブとアビフは酒に酔っていて、これらの罪を犯したのだと言っていますが、そういうこともありそうなことです。しかし、何はともあれ、彼らがしたことは高慢であり、神への冒涜であり、利己主義であり、あらゆる罪を含んでいます。

3節で、モーセはもう一度アロンに神の厳粛なみこころを教えています。

「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。」

神は、神の御前で奉仕する者を通して、ご自分の聖と栄光を現わすと言っておられます。それ故、もし、神に仕える者たちが高慢で、汚れた者であるなら、神にとって、それは我慢ならないことになるのです。神に近づいて奉仕する者は、自ら聖とされ、神の聖を現わさなければなりません。

「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)

「ですから、だれでも自分自身を聖めて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、きよめられたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(テモテ第二2:21)

このことは、旧約においても、新約においても同じです。不純な野心や動機、神に対する不真実、不忠実な心を持っているなら、ナダブとアビフの如く、神の御名を汚すことになります。クリスチャンの罪は、自分が審判を受けるからというより、神の聖なる御名が汚されるという点において、避けなければならないのです。教会の中で争いが生じた時、各々の立場や利益が論争の中心になりがちですが、もし神の聖なる御名が汚されるというところに問題の中心がおかれるなら、争いは直ちに終了するでしょう。

モーセのこの話に対して、アロンは黙っているほかなかったのです(3節)。

レビ 10:3 それで、モーセはアロンに言った。「【主】が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』」それゆえ、アロンは黙っていた。

この時のアロンの心の中がどうであったかは知る術もありませんが、あるいは、アロンが出エジプト記32章で金の子牛の偶像を作った、あの事が今回のナダプとアビフの不敬虔な振舞いの原因になっていたと考えていたのかも知れませんし、親として信仰的な生き方に責任を感じていたのかも知れません。よく、親から子への信仰の継承が困難だと言われますが、本当の困難は継承の段階にあるのではなく、親自身の信仰が実際に裏表のないものに確立していないところにあります。継承というのは、確かな信仰があって、それを受け継ぐことを言います。しかし親に確立した信仰がなくて、ただ形式的な信仰があるだけでは、継承の問題すら生じてこないのです。親の真実な、そして真剣な信仰の生き方を見ている子どもは、必ず人格的に大きな影響を受けます。子どもたちには、洗礼を受けさせるという形だけの信仰の継承ではなく、信仰の神髄を継承させたいものです。

4,5節、ナダブとアビフは大祭司アロンの息子という特権に与かっていましたが、どんなに特権に与かっていた者であっても、罪は取り除かなければなりません。

レビ 10:4 モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せ、彼らに言った。「進み出て、あなたがたの身内の者たちを聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」
10:5 彼らは進み出て、モーセが言ったように、彼らの長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した。

6,7節、しかし、モーセはアロンの子、エルアザルとイタマルの上に主のそそぎの油、すなわち、神の任命があることを思い起こしました。

レビ 10:6 次に、モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆に下らないためである。しかし、あなたがたの身内の者、すなわちイスラエルの全家族が、【主】によって焼かれたことを泣き悲しまなければならない。
10:7 またあなたがたは会見の天幕の入口から外へ出てはならない。あなたがたが死なないためである。あなたがたの上には【主】のそそぎの油があるからだ。」それで、彼らはモーセのことばどおりにした。

事実、彼らは忠実な祭司となりました。エルアザルとイタマルには、彼らの兄たちの死に対して、通常の悲しみを表すことが禁じられました。頭のかぶり物をとって髪の毛をふり乱して悲しんだり、着物を引き裂いたりするなら、彼らが神の審判に対して抗議していると会衆が誤解する危険があったからです。

神への奉仕は個人的な感情や考えでしてはなりません。もしそうするなら、エルアザルやイタマルだけでなく、イスラエルの民全体が滅ぼされることになります。しばしば教会の中で問題を起こしているのは、みことばの真理によって行わないで、牧師や信徒の個人的動機から事を行うからです。これらのことからして、クリスチャンが潔められていることが、どんなに大切なことであるかを、教えられます。

8~20節、残された祭司たちへの警告

1、8~11節、酒類の禁止

レビ 10:8 それから、【主】はアロンに告げて仰せられた。
10:9 「会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。
10:10 それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、
10:11 また、【主】がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」

この命令はモーセを通さず、直接、主がアロンに語られていることに注目してください。酒類の禁止は直接、神のご命令であったということです。ナダブとアビフはささげものとして祭壇に注ぐべき酒を自分たちで飲んでしまったのかもしれません。そして、酔って、聖俗の判断がつかなくなり、高慢な罪を犯したのかもしれません。

10節は、酒が禁じられている理由を示しています。酒は人間の神経を麻痺させ、判断力を損い、争いを起こしたり、交通事故を起こしたり、身体的病気を起こすことはよく知られています。しかしここでは、もっと高度な次元において、「聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別する」霊的、倫理的判断力を失わせてしまうことが言われています。それ故、この命令はクリスチャンにも適用されなければなりません。人は酒の禁止を禁欲と考えます。しかし神は人の福祉を考え、霊的、肉体的恵みを与えるために、酒を禁じられたのです。クリスチャンはこのことを十分に悟らなければなりません。

2、12~15節、祭司たちの食べるものについて

レビ 10:12 そこで、モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。「【主】への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。
10:13 それを聖なる所で食べなさい。それは、【主】への火によるささげ物のうちから、あなたの受け取る分け前であり、あなたの子らの受け取る分け前である。そのように、私は命じられている。
10:14 しかし、奉献物の胸と、奉納物のももとは、あなたと、あなたとともにいるあなたの息子、娘たちが、きよい所で食べることができる。それは、イスラエル人の和解のいけにえから、あなたの受け取る分け前、またあなたの子らの受け取る分け前として与えられている。
10:15 人々は、奉納物のももと奉献物の胸とを、火によるささげ物の脂肪に添えて持って来て、奉献物として【主】に向かって揺り動かさなければならない。これは【主】が命じられたとおり、あなたと、またあなたとともにいるあなたの子らが永遠に受け取る分である。」

主への火によるささげ物のうち、穀物のささげ物と、和解のいけにえのうち胸とももは、祭司たちに与えられております。祭司の家族は息子も娘たちも、それを聖なる所で食べるように命じられています。これは祭司が会衆の咎を負うために、神が祭司に与えられたものです。またこれは、神と人とに奉仕する者への養いでもあります。

3、16~20節、エルアザルとイタマルの失敗

レビ 10:16 モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した。しかし、もう、焼かれてしまっていた。すると、モーセはアロンの子で生き残ったエルアザルとイタマルに怒って言った。
10:17 「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、【主】の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜ったのだ。
10:18 その血は、聖所の中に携え入れられなかったではないか。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べなければならなかったのだ。」

この日は、ナダプとアビフの悲しい出来事があったせいか、エルアザルとイタマルは、食べるべき罪のためのいけにえを食べずに、祭壇の上で焼いてしまいました。モーセは「けんめいに捜した。」(16節)とありますから、モーセがいかに主に忠実であろうとしたかが分かります。そして、すでに焼かれてしまったことが分かると、モーセはエルアザルとイタマルを激しく叱っています。ここにも、あくまでも主のご命令に忠実であろうとするモーセの真摯な態度が見られます。これに対してアロンは自分の感情に左右されやすく、また自己流に流れやすい性質が見られます。これは信仰生活上、最も危険な性質であると言っていいでしょう。

19節で、アロンは急いで、自分たちがいけにえの肉を食べなかった理由を正直に話しました。アロンの言葉からは、ナダブとアビフの事件が強く意識されているように思われます。モーセはそれを聞いて、納得したようです。

レビ 10:19 そこでアロンはモーセに告げた。「ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、【主】の前にささげましたが、こういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、【主】のみこころにかなったのでしょうか。」
10:20 モーセはこれを聞き、それでよいとした。

しかし私たちは、この10章から大なる教訓を受けなければなりません。イスラエルの民は少なく見積もっても約二百万人はいたと考えられるのに、この民に対して祭司はアロンとその子ら四人しかいませんでした。これだけでも、あまりに少なすぎたのに、神はナダブとアビフの罪を大目に見逃がさなかったのです。二人は死に、祭司の数は三人になってしまいました。神はギデオンの戦いの時にも、集まった三万二千人の中から、わずか三百人を選ばれました(士師記7章)。神は精兵士を用いられます。神の精兵士が多くなるのはよいことですが、ただ数だけ増すために、罪がはっきり解決していない者を神の奉仕に加えることを神は拒絶されるのです。クリスチャンはきよめられた器となって、主に用いられたいものです。

(まなべあきら 1990.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、アメリカの作家、Charles Francis(1870–1942)とJulius August(1877-1953)により1908年に出版された「The Bible and its story」のレビ記10章の挿絵(Princeton Theological Seminary Library蔵、Wikimedia Commonsより)


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