聖書の探求(092) 民数記 序論(1) 名称、目的、民の数、おきて、不信仰と失敗

1、民数記の名称について

ユダヤ人は、本書を「荒野において(「一つの荒野」という意味)」と呼び、また、ヘブル語で、「ヴァ・イド・ハッバア(そして彼は言われた)」と呼びました。それはこの書がこの言葉から始まっているからです。ユダヤ人は書物の最初に記されている言葉を書物の題名として用いる習慣がありました。

七十人訳聖書では、「数」とされており、ヴルガータ訳聖書は、七十人訳聖書に従い、日本語訳聖書は「民数記」としています。

これは本書中、二回、人口調査が行われている(1章‥シナイにおいて、26章・・モアブにおいて)ことによっています。

2、目的

本書は、イスラエルの民がシナイの荒野で、神の民としての国家組織を形成し、神の約束の地力ナンに向かって行進を続ける旅路の記録です。しかし本書の中には、レビ記の中に記されていた律法の続き、特に祭司的律法も含まれています。

内容としては、

・シナイ出発のための諸準備
・シナイ出発とその旅路の出来事
・モアブの平野に到着
・約束の地の占領と分割に対する指示
・そこで起きた事件

これらの内容は総じて、エジプトを脱出してからカナンの地に入るまでの間の不名誉な記事が多く、これをクリスチャンの生活に当てはめて考えるなら回心経験をしてから聖潔の恵みに与かるまでの生活状態を示していると言えるでしょう。

民数記の主題は、神の寛容とあわれみです。その中には、神の忠実さや聖さ、神の支配などがみられます。

3、レビ記と民数記の関係

レビ記 対 民数記

(1)Worship(礼拝) 対 Walk(歩み)
(2)Purity(純潔) 対 Pilgrimage(放浪)
(3)Spiritual Position(霊的基盤) 対 Spiritual Progress(霊的進行)
(4)Condition(状態) 対 Conduet(行為)
(5)Rights(権利) 対 Responsibility(責任)
(6)Fellowship with God(神との交わり) 対 Faithfulness to God(神への忠誠)

4、シナイ(エジプト脱出時)での民の数と、モアブ(40年後)での民の数の比較

 

この表を見ると、四〇年の間に増加した部族もあれば、減少した部族もあります。
増加した部族は祝福されたと考えられ、減少した部族は何らかの主のさばきを受けたものと考えられます。イスラエル全体の人数も減少していますから、イスラエル全体としては、この四〇年は不信仰の時代であったと言うことができるでしょう。

民数記2章32節のイスラエルの全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、60万3550人(レビ族を除いてある。出エジプト記38章26節と同数である。)

民 2:32 以上がイスラエル人で、その父祖の家ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。

出38:26 これは、ひとり当たり一ベカ、すなわち、聖所のシェケルの半シェケルであって、すべて、二十歳以上で登録された者が六十万三千五百五十人であったからである。

この人数は、20才以上の戦いに耐え得る男子全部を含んでいます。ある人の計算によると、この戦闘員一人に対して、非戦闘員(婦女子、老人)3、4人がいたとすると、イスラエル全民衆の数は180万~240万人にもなると言っています。これを少なく見積もっても、150万人いたことになります。この大軍がシナイ半島を40年間もさまよい歩いたということは、驚くべきというか、恐るべきことです。

しかし懐疑的な見方をする人は、シナイ半島が荒野であるということと、道がひどく悪く、交通が不便なことや、食糧の供給が難しいということを過大に考えて、この人口は妥当ではないと言います。勿論、神を抜きにしては、これだけの大群衆が荒野を40年間、旅することは不可能に思えます。しかし神のご存在を計算に入れれば、すべては解決します。神がその民と共におられたかどうかが問題なのです。そして、これは私たちの信仰生涯にも同じことが言えます。神の同行がなければ、私たちの生活はすぐに行きづまり、旅路は不可能になってしまいます。しかし主の同行があるなら、人の目に不可能に見えることも可能に変えられていくのです。事実、そのように私たちは歩み続けてきたのです。

5、民数記のおきて

Ⅰ、個人的罪及び相互の行動や品性に関するおきて(5章)

ここには、らい病の撲滅のための衛生法規が定められています。モーセの時代に、すでに主は、らい病人をことごとく完全に隔離する律法を制定しておられます。

また、ここでは妻の側からだけですが、不倫の罪に対する律法が明確に規定されています。これは信仰生活を健全に営むためには、夫婦がその中心とならねばならないことを教えています。この点において、クリスチャン・ホームといえども、まだ弱いのではないでしょうか。

Ⅱ、ナジル人のおきて(6章)

ナジル人は、後の修道院制度や、それに似た宗教的階級制度のはしりではありません。ナジル人は、神に対する献身をさらに完全なものとするために、主に誓約を立てた人のことです。

ナジル人の誓約は自発的なものであり、その期間には制限が加えられていました。
ナジル人には実行すべき三つのことがありました。

①ぶどう酒や酒を断つこと。これは生活の享楽から離れることであり、神以外のもので満足を得ようとすることを禁じたのです。これは今日の美食を好む人々への警告でもあります。今日、美食は多くの病気を生み出しています。

②頭髪にかみそりを当ててはならない。これは主への服従を意味しています。ナジル人であったサムソンは、主に従っている間は力を与えられていましたが、誘惑に負けて主の道からはずれてしまった時、頭髪はそり落とされ、力を失い、悲惨な最期を遂げたのです。

③死体にさわって、身を汚さないように自らを守ること。ナジル人は両親や兄弟姉妹の死体にも同じ規定が当てはめられています。これは親戚関係から生じる人情的義務を断つことを意味しています。クリスチャンも、この人情のしがらみを断ち切らない限り、献身的な力強い信仰者になることはできません。

それ故、ナジル人は聖潔の生きた型であり、その真の姿です。

Ⅲ、赤雌牛のおきて(19章)

この牛の血は、会見の天幕の正面に向かって七度振りかけて、会見の天幕をきよめています。

また、この雌牛の灰で、汚れをきよめる水を作ります。これは罪のきよめに使います。このことはへブル人への手紙9章13節に引用されています。

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(ヘブル9:13,14)

民数記には、洗盤のおきてがどこにも記されていません。それ故、このきよめの水は保存されていて、民たちが荒野を旅していた間、洗盤を必要とする場合に代用されていたものと思われます。

6、イスラエルの不信仰と失敗(13,14章)

エジプトを出発して約二年、イスラエルの民は約束の地力ナンの境界に近いカデシュに到着しました。そこから十二人の偵察隊が派遣されましたが、その偵察隊のうち十人が不信仰な報告をして、人々の間に恐れをひき起こしました。その地には巨人たちが住んでおり、強固な城壁が町を取り囲み、住民は強大であり、そこに攻め上って行くことは不可能であると報告しました。この報告を聞いた一般の民は、恐れをなし、その夜は大声で泣き明かしています。彼らが最初に考えたことは、すぐにエジプトに帰ることでした。その次には、信仰の人モーセとアロン、カレブとヨシュアを打ち殺すことでした。

今でも、教会で会堂建築の問題が出てきたり、新しい幻についての話が出てくると、「それは無理だ」と言い出す人が出てきたり、教会から姿を消してしまう人も少なくありません。なかには、他の人までさそって、教会の中で争いを起こし、信仰の人々を批判したり、攻撃したりする人々もいます。このような人々は、モーセの時代の不信仰な偵察隊と同じようなことをしているのであって、それは神の民を荒野で全滅させようとしているのです。このようなことが、現実に教会の中で多く見られることは残念です。

このような行動をとる理由として、聖書は、「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル3:19)と言っています。彼らの不信仰は、神ご目身が宣言され、彼らのためになされた約束に打撃を与えたのです。

この不信仰は、

①神のみことばに対する非難です。

神は彼らを神の国に導き入れ、これを嗣業として彼らに与えると言われました。神はこの約束をアブラハムに誓われていたのです。それなのに、彼らはその不信仰から、「神はそれをなさらないだろう。」と言い、神が「そうだ」と言われているのに、彼らは「ちがう」と言い、神が「必ず、これをする。」と言われたのに、彼らは「できない。」と言ったのです。

クリスチャンの中にも、主のみことばに対する不信仰と不服従がしばしば見られます。私たちが主のみことばに深く信頼し、忠実に従うなら、もっともっと主の栄光を拝することができるようになります。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)

②神の権能に対する非難です。

彼らはアナク人を恐れました。しかしアナク人はエジプトの軍隊より強大だったのでしょうか。彼らは町の城壁を見て、それを攻め上るのは不可能だと言いました。しかしその町の城壁は紅海を乗り越えるよりも困難なことだったのでしょうか。

彼らはすでに神の大能のみわざを見てきたはずです。それでも神に信頼することをせず、戦いに出て行くことをしないとしたら、それは神の権能を侮辱していることになりはしないでしょうか。

私たちはよく、日本の伝道は困難だと聞かされます。しかしそれは初代のクリスチャンたちがローマの迫害の中であかしした時より困難なのでしょうか。ウィリアム・ケアリがインドで宣教活動をした時より困難なのでしょうか。ハドソン・テーラーが中国伝道した時より迫害や困難が多いのでしょうか。世界の各地の迫害の中で命がけであかししているクリスチャンたちの戦いより困難なのでしょうか。私たちもまた、神の権能に対して不信仰になっているのではないでしょうか。

このことを私たちは今、真剣に反省し、悔い改めるべきではないかと思います。私たちは自分の不信仰を、自分を取り囲んでいる環境のせいにして、すりかえてしまいやすいのです。この点を回復しない限り、私たちは勝利を見ることができず、この日本の福音宣教は不調で終わってしまいます。

③神の善意に対する非難です。

神は神の民に対して愛とあわれみを示されました。
神はイスラエルの民を、エジプトでの苦しい奴隷状態から救い出されました。
さらに荒野の旅路を火の柱と雲の柱で先導されました。そのお蔭で彼らは道をさまようことはなかったのです。少なくとも、カデシュに着くまでは。その上、その道すがら、マナをもって養い続けてくださったのです。戒めを与えられたのも、彼らに千代に至る恵みと祝福を与えるためでした。

しかし自己中心な、不信仰な者には、どんな愛も、あわれみも、親切も通じないのです。ただ、彼らの心の中にあるものは神を捨てて、自分の好き勝手なことをすることだけです。イスカリオテのユダは主イエスの愛の通じない人間になってしまったのです。

イスラエルの民は、目の前に神の約束の地、カナンの全地を見渡した時、神に感謝するかと思えば、逆に、不信仰になり反逆してしまったのです。神がイスラエルの民を約束の地が見渡せる地カデシュに連れて来たのは、何のためだったのでしょうか。神はここで力が尽き果ててしまったのでしょうか。それとも民をここで滅ぼすためだったのでしょうか。主は約束通り、ここからカナンの地に導き入れるためではなかったのでしょうか。

神のお気持ちが分からないことは、まことに悲しいことです。神のお心が通じていないと、目の前に見ていることも、戒めも、すべてが形式化して、信仰がむなしくなり、聖書を読むことも、お祈りすることも、教会の集会に出席することも、信仰を持つことすら、重荷に感じてきます。それはもう、不信仰になっており、心は神よりもこの世の楽しみに向いており、滅びの道を歩き始めています。
このようになるのは、回心をした後、すぐに聖潔の恵みを求めなかったからです。

主イエスは、ルカの福音書7章9節で、百人隊長の信仰に驚かれました。

「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。『あなたがたに言いますが、このようなりっばな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。』」

しかし、マルコの福音書6章6節では、主が郷里に行かれた時、「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」と記しています。主を喜んで迎え入れ、賛美をするはずの人々の心のうちに深く不信仰が食い込んでいることに驚き、悲しまれたのです。

私たちクリスチャンのうちにも、この不信仰が深く食い込んでいないでしょうか。
主は、その不信仰を深く悲しみ、嘆かれるのです。主はベタニヤのラザロが病気で死んだ時、「もしあなたが信じるならあなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)と言っておられます。神は約束してくださいました。しかし、その約束は私たちが信じる時に実現し、神の栄光を見ることができるのです。不信仰からは決して栄光を見ることができません。つぶやきと叫びと嘆きがあるだけです。

テンカンの病気の息子の父親が主に、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言った時、主は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と力強く、叱責ともとれるおことばを語られました。するとすぐに、その子の父は、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫んでいます(マルコ9:22~24)。主は息子の病気よりも、父親の不信仰に問題があることを教えたのです。ですから父親は、「息子を助けてください」と言わず、「私をお助けください。」と言っています。マルチン・ルターは、「不信仰のほかに、だれも私を罪に定めるものはない。」と言っています。主が私たちに求めておられるものは、不動の信仰です。

まわりの目に見える環境や状況に左右されない、主のお気持ちが通じている信仰をしっかりと持ってください。そうすれば必ず、神の栄光を見ることができます。

あとがき

今回から、モーセの五書の第四巻「民数記」に入りました。引き続きご愛読いただければ幸いです。聖書のことばは解説者が自分勝手に解説することは許されていません。しかし、できるだけ分かりやすく、掘り下げて解説することは許されています。

神のみことばを、主のみこころを損わずに、そのまま現代の私たちに受け入れられ、実行され、各々が豊かな実を結び、主の栄光を現わすことができるようにと祈りつつ、執筆を続けております。
どうぞ、全うできるようにお祈りください。
霊の働きは祈ることなしに、聖霊の助けなしに、健全に全うすることは不可能です。

神のみことばは、ただ人の心を慰めたり、励ましたりするだけでなく、実際に信じられて、行われて、収穫を得られることが必要です。そうでなければ、みことばの働きもむなしくなってしまいます。みことばの働きは前進が遅いように見えますが、確実に実を結んでいきます。主のたねまきのたとえの如く、百倍の実を結ばせていただきましょう。
(まなべあきら 1991.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1907年に出版されたBible cardのイラスト「The Two Reports of the Spies(偵察隊の二つの報告)」 (Wikimedia Commonsより)


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