聖書の探求(093) 民数記 序論(2) 民数記のキリスト、いくつかの主な題目、分解
7、民数記のキリスト
民数記は、イスラエルの子孫が神の約束の地カナンに入ることも、これを占領することもできなかった残念な失敗の記録です。
イスラエル人がカナンの地に入ることは、主がアブラハムに約束され、度々、その約束が更新されていたにもかかわらず、失敗してしまったことを、私たちは覚えなければなりません。
エジプトの奴隷生活からイスラエルの子孫を救い出された神のご目的は、彼らを約束の地に導き入れることでありましたが(出エジプト記3:8)、神は彼らを、最も近い道を通らせるようなことはなされませんでした。
出 3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
なぜなら、最も近い道は、強敵ペリシテの地を通る道だったからです。その道をとられなかったのは、神のあわれみによる配慮でした(出エジプト記13:17)。
出 13:17 さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」
しかし、シナイの荒野を導いて、律法を授けた後、イスラエル人がカデシュについた時に、カナンの地に入るべき神の時が到来したので、彼らはすぐにそこからカナンに攻め入り、カナンを占領すべきでした。
ところが民数記13、14章によりますと、神の約束とみ力とに対する不信仰と、神のご命令に対する不服従の故に、彼らは約束の地に入らなかったのです。その結果、イスラエル人は四〇年間も荒野をさまよい、カレブとヨシュア以外の成人していたすべての者はこの荒野で死んでしまったのです。
このことは、イスラエルに対する神のご計画の中にはなかったことです。これはイスラエル人の不信仰が生み出した結果なのです。
今日においても、神の子どもとなった者のうち、多くの者が、贖われて、サタンの縄目から解放されているのに、まだキリストの福音の満ち足れる恵みの中に入っておらず、そのために、やゝもすると不信仰に陥り、再び罪の生活に逆もどりしている者が少なくないのです。
しかし神は、このような失敗ばかりしているイスラエルの子孫たちが荒野をさまよっている間、神は彼らを捨てず、あわれみ、保護し、養い、導かれました。そうですから、私たちは信仰生活において、度々、失敗や敗北を経験するでしょうが、そこで長い間、坐りこんでしまわず、すぐに信仰に立ち直って、神に従う道へと歩んでいただきたいのです。失敗がないのに越したことはありませんが、そういう人はめったにいないでしょう。大事なのは、不信仰に陥って罪を犯した時でも、それで神を拒み続け、反逆し続けないことです。それを続ければ、心は頑なになり、滅んでしまいます。すぐに心が砕かれて、信仰を回復し、立ち上がって神の道へと歩んでいただきたいのです。
民数記は、イスラエルの荒野の旅と戦いの書であり、初めの数章には、イスラエル人の旅路のために、神が完全な仕度を整えられたことが記されています(1:3、4:5~、9:15~、10章など)。
民 1:3 あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。
民 4:5 宿営が進むときは、アロンとその子らは入って行って、仕切りの幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、
4:6 その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真っ青の布を延べ、かつぎ棒を通す。
・・・・・
これは今日のクリスチャンの生活と、サタンやこの世との信仰の戦いを教えている書であると言えるでしょう。
また、イスラエルの子孫が会見の幕屋のまわりに宿営を張ったことは(2:2~)、イエス・キリストがご目分の民の真中におられることを示しています。
民2:2 「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。
これはキリストを教会のかしらとした姿と見ることもできるでしょう(コロサイ1:18)。
コロ 1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
8、いくつかの主な題目
一、ささげ物の規定(7章)
7章には、各部族の族長たちが、ささげ物をしたことを記しています。そのささげ物は全部同じであるのに、これをひとまとめに総括して記さないで、一人一人、別々に繰り返して記しているのは(7:12~)、神が一人-人のささげ物を尊重し、喜んでおられたからです。
民 7:12 第一日にささげ物をささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションであった。
7:13 そのささげ物は、銀の皿一つ、その重さは百三十シェケル。銀の鉢一つ、これは七十シェケルで、聖所のシェケルによる。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。
・・・・・
貧しいやもめがその持ち物のすべてであるレプタ二つをささげた時、主イエスはそのささげ物をどんなに喜ばれたことでしょうか(マルコ12:41~44)。
マル 12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
12:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
ベタニヤのマリヤが主の御足に香油を注いだ時、主は、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:3~9)と語られました。
私たちは主のためにする、どんな小さなことも軽く考えてはいけません。主がそれをどんなに喜んでいてくださるかを心にとめて、心から感謝にあふれて行うべきです。その報いは大いなるものとなります。主は私たち一人一人の小さな信仰のわざを喜んでいてくださるのです。
ささげ物について、ユダヤ人たちは、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。-万軍の主は仰せられる。-わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ書3:10)と言われています。
この「十分の一」とは、イスラエルの民が主にささげた物のごく一部分に過ぎず、そのほかに、一年のうちにささげた様々なささげ物を加えると、イスラエル人の収入の約四分の一か、あるいは三分の一にまで達していたのです。これらのささげ物をした上で、さらにある人々は、心より願う自発的な感謝のささげ物をしたのです(出エジプト記25:2)。
出 25:2 「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
これがイスラエルに非常に大きな祝福をもたらしました。
これと同じようなことが、新約のマケドニヤの教会でも行われています。
「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみのゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(コリント第二8:1~5)
このような聖句を読むと、主のために力以上にささげなければならないんだと思って、重荷に感じる人が出てくるでしょうが、それは信仰によるささげ物ではありませんから、主に喜ばれません。心から喜んでささげられる物をささげて下さい。
マケドニヤのクリスチャンは極度の貧困の中にあったと言っていますから、多額の献金はできなかったでしょう。彼らが「力以上にささげた」というのは、金額のことではなく、彼らの信仰をさしているのです。
パウロは、
「どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意(祝福)に満ちた贈り物として用意しておいてください。」(コリント第二9:5)
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(コリント第二9:7、8)
と言っています。
私たちは、ささげ物をする時、信仰と動機に注意しなければなりません。惜しみながらとか、いやいやながらとか、無理してするのでは、主を喜ばせることはできません。喜んで、自発的に、感謝してささげる信仰と動機とを持たせていただきたいものです。もし私たちクリスチャンがこのような例にならってささげ物をするなら、国外宣教も急速に進み、救われる人々も急増するはずです。献金の大きさは、金額の量ではなく、信仰の大きさであると悟らなければなりません。いつでも感謝して、喜んでささげさせていただきましょう。そうすれば、主はささげた人をも祝してくださるのです。
二、雲の柱、火の柱(9:15~)
民 9:15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
9:16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
9:17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。
9:18 【主】の命令によって、イスラエル人は旅立ち、【主】の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
幕屋の至聖所の上に、雲の柱、火の柱がとどまっていました。多分、広大な幕のようなものが全宿営の上をおおっていたものと思われます。この雲の柱は、昼は炎熱を避ける日陰となり、夜は火の柱が全宿営を照らす光となりました。
この雲の柱は全宿営の移動を支配していました。雲の柱が幕屋から離れると、ただちに進めのしるしですから、その号令として銀のラッパが吹き鳴らされました(10:1~6)。
民 10:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
10:2 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を召集し、また宿営を出発させなければならない。
10:3 この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。
10:4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。
10:5 また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。
10:6 あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。
昼でも、夜でも雲が止まったら、イスラエルの子孫は止まり、雲が昇ったら前進しました。これはイスラエルの子孫が主の命令に従い、主の戒めを守ることを身につけるための実際的訓練でもあり、これはまた、神が必ず、その民を導いて行かれるという約束の表れでもあったのです。
この雲の柱、火の柱は、私たちにとって主イエス・キリストご自身を示しています。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
私たちとしては、この主の導きを見失わないように、常に主イエスに目をとめていかなければなりません(ヘブル12:2)。
三、銀のラッパ(10:1~10)
民 10:7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。
10:8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。
10:9 また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、【主】の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。
10:10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、【主】である。」
銀のラッパは雲の柱と密接な関係があります。
銀のラッパの音は、ある時は道に進むため、ある時は戦いに出るため、ある時は喜びの日の祭を守るために人を集める号令でありました。このラッパの音は、宿営の端から端までよく響き渡り、イスラエル人はこの音を聞いたら、ひとり残らず従うべきだったのです。
主のみことば(御声)は純化された銀のようです(詩篇12:6)。
詩 12:6 【主】のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。
私たちはそのみことばと御声に耳を傾け、従うべきです。
「しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:2~4)
イスラエル人はそれぞれ、その父祖の旗印のもとに宿営しており(2:2)、銀のラッパが鳴ると、主の契約の箱が彼らに先立って進みました(10:33~36)。
また、イスラエルの長子の代わりにレビ人を聖別して、幕屋の役事に当らせています (3:6、7、8、12)。
民 3:6 「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。
3:7 彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。
3:8 彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。
進行中は、すべての聖なる器具におおいをかけています(4:4~15)。
民 4:4 ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。
4:5 宿営が進むときは、アロンとその子らは入って行って、仕切りの幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、
4:6 その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真っ青の布を延べ、かつぎ棒を通す。
・・・・・
これらのことはみな、聞く耳ある人には、新鮮な教訓となってくるはずです。
四、アロンに関する教訓
①、執り成しと贖罪
イスラエルの民が、モーセとアロンに逆らって、つぶやいたために、神は疫病を送って彼らを罰されました。その時、アロンは急いで、火皿を取って会衆の中に走って行って、香をたき、民のために贖いをなし、すでに死んだ者とまだ生きている者との間に立って疫病を止めました(16:3、41~48)。
民 16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。」
これは実に、アロンより大いなる大祭司キリストの型です。人間はキリストを冒涜し、主を十字架に釘付けましたが、キリストは人間のために全き贖罪を成し遂げて、今は、私たちのために執り成しつつ、常に生きておられるのです(ヘブル7:24~28)。
ヘブル 7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
②、芽を出した杖
アロンが執り成しをした後、神はすぐにイスラエルの十二部族を代表する族長たちに命じて、各々、一本の杖を持ってこさせ、十二本の杖を幕屋の中にあるあかしの箱の前に置かせ、「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。」と告げられました。
その夜、十二本の杖は終夜そこに置かれましたが、夜が明けてみると、アロンの杖だけが芽を出し、つぼみをつけ、花が咲き、その上、アーモンドの実を結んでいました(17章)。
この族長たちの杖は、ただ人間的な権力、主張のしるしでしかありませんでしたが、アロンの杖は神の権威と力、霊的力のしるしでありました。人間的な力だけでも、人間を外見的に、一時的に改善し、また文化的にすることができます。
世の中で行われている社会改革や教育改革はみな、これです。それはいつも外見的で、一時的改善でしかありません。
このアロンの芽ざした杖は、キリストの復活のいのちと、御霊の実を結ぶ聖霊の力とを示しています。真に人間の霊魂を変え、新しい神の命を与えるのは、主イエスの力だけです(コリント第二5:17)。
Ⅱコリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
③、祭司の産業
祭司たち及びレビ人は、「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。」(民数記18:20)と言われています。
祭司やレビ人に対しては、神ご自身がその産業となられたのです。しかし彼らは、その為に決して損をしていなかったのです。民数記18章8~24節で、主が祭司とレビ人に与えると約束されたものは、莫大なものでありました。そこには物質的なものだけではなく、会見の天幕の奉仕をするという偉大な特権が与えられていました。
私たちクリスチャンも同じく、主の祭司とされた者であって(ペテロ第一2:9)、主イエスご自身が私たちの産業となってくださり、私たちは主にあって、万物を持っている者なのです。
Ⅰペテ 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16:5、6)
④、アロンの死
アロンの死期が来た時、モーセは神の命令に従い、アロンとその子エルアザルとを引き連れてホル山に登り、アロンが着ていた祭司の衣服を脱がせて、その衣服をエルアザルに着せ、アロンはそのままホル山で死にました (20:25~29)。
民 20:25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。
20:26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」
20:27 モーセは、【主】が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。
20:28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、
20:29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。
アロンは真の祭司のタイプ(型)でしかありませんでしたから、死によって祭司の職務を終えましたが、その真の栄光の大祭司イエスはアロンよりはるかにまさったお方です。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」(ヘブル4:14)
「その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」(ヘブル7:16)
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」(ヘブル7:24~26)
⑤、岩
モーセとアロンが神の約束の地に入ることが許されなかった理由は、彼らの不従順のためでした。神は、「岩に命じれば、岩は水を出す。」と言われました。
それなのにモーセは二度も杖で岩を打ったのです(20:7~12)。
民 20:7 【主】はモーセに告げて仰せられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
最初、神の命令により岩が打たれて、岩から水が流れ出た(出エジプト記17:6)。これは、十字架の上に打ち砕かれた救い主の型です。イエス・キリストが私たちを救うために打たれたのは、唯一度で十分であり、二度と繰り返される必要はなかったのです。また繰り返してはいけなかったのです。ですから、二回目には「岩に命ぜよ。」(すなわち、「祈れ」という意味)と言われたのです。
ヘブル語によれば、出エジプト記17章6節の「岩」の語は、「地盤の岩」であって、十字架のイエスを示しています。
民数記20章8節の「岩」は、「高くそびえた岩」であって、昇天のイエスを示しています。
五、汚れをきよめる水(19章)
これは、神の民がその日常生活の間に犯す罪や汚れを深めるために、神が備えさせたものです。この「きよめの水」をつくる方法は、19章2~9節に記されています。
これは原罪の上に立てられた潔めの定めであって、光の中を歩む人をすべての罪から潔め続ける(現在形-継続を表す)イエス・キリストの血の予表でした。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(現在形)」(ヨハネ第一1:7)
また、主イエスがユダヤ人の指導者ニコデモとの会話の中で、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)と言われたのは、この「きよめの水」を指していたものと思われます。しかしニコデモはユダヤ人の学者であったにもかかわらず、その意味を理解していなかったので、主イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」(ヨハネ3:10)と言われたのです。
私たちも、何年も聖書を読み、聖書の話を聞いていながら、ニコデモのように真理を悟っていないことがあります。文字上の意味を理解していても、主が意味された真理の内容を理解していないことが多いのではないでしょうか。ですから、いつでも心へりくだって、聖霊の教えを乞わなければなりません。また、真剣にみことばを学んでいく姿勢を持たなければなりません。
六、青銅の蛇(21章)
イスラエルの子孫がエドムの地をめぐり、アカバ湾の沿岸の砂地に来た時、彼らは非常に失望して、神とモーセに向かってつぶやいたので、神は火の蛇(火が燃えているように赤かったか、かまれると火が燃えるような激しい痛みが伴ったので、火の蛇、燃える蛇と呼ばれたと考えられています。)をイスラエルの民の中に解き放ち、人々にかみつくままにさせておかれたのです(21:4~9)。
民 21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
これは神が人々の身近にあるものを用いて、み旨を行われたのです。
イスラエルの民がつぶやく前も、この蛇はいました。しかし神は民を守るために、旅の間中、この蛇をとどめておられました。しかし民が不信仰のつぶやきをした時、神はこれらの猛毒を持つ蛇を解き放たれました。私たちは普断、平穏無事に過している時、神を忘れがちですが、私たちが平穏無事でいられるのは、神の偉大な御手によって、あらゆるわざわいが差し止められているからであることを知って、感謝しなければなりません。また、一寸した不信仰のつぶやきや不平不満がどんなに恐ろしい罪であるか、また大きなわざわいを引き起こすかを悟って、慎まなければなりません。
イスラエルの民は、その痛みの故に罪を告白し、モーセに神への執り成しの祈りを求めました。その時、神はモーセに命じて、青銅の蛇を作らせて、それをさおの上に挙げさせました(21:9)。
主イエスはこの高く挙げられた青銅の蛇をご自分に当てはめて、人は、主イエスを信じて救われることの真理を教えられたのです。救いの力がこの青銅の蛇にあったのではありません。(しかしユダヤ人の中には、後に、この青銅の蛇を偶像にして、ネフシュタンと呼んで、偶像礼拝を行っていた者もいました。列王記第二18:4)
Ⅱ列王 18:4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。
この青銅の蛇はキリストの十字架を表していたのです。神であり、人であられた主イエスは、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに十字架にかかられました。この十字架上の主イエスを仰ぎ見る者は生きるのです。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14、15)
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、
この方にあって、神の義となるためです。」(コリント第二5:21)
毒蛇にかまれた人々は、死毒を受けたのであって、死んだも同然でした。しかし青銅の蛇を仰ぎ見た者がことごとく生きたのは、ただ癒されただけでなく、命を受けたのです。ここに「仰ぎ見る」ことは信仰の行為を表しており、「生きた」ことは永遠のいのちを受けて新生したことを意味しています。これがキリストによる新創造です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)
(青銅の蛇とキリストとの類似的真理)
1、蛇の毒と罪
2、青銅の蛇による療法‥‥キリストは罪の肉の形をとり、罪となられた。
3、青銅の蛇が上げられた。‥‥キリストは十字架上に上げられた。
4、仰ぎ見ていやされ、生きた。‥‥キリストを信じて、仰ぎ見て救われる。
七、バラムの預言(22~24章)
イギリスの博物館に古代エジプトの手紙の一片が保存されています。これはエジプトのメネフタ帝の第三年に、エジプト政府からツロの王に送られた手紙です。この皇帝の親書は、ツィポルの子バラクに託して送られたものであることが分かっています。この古い記録によると、民数記のバラクに関する記事が真実であることを示しています。
イスラエル人の来襲を恐れたモアブの王(ツィポルの子バラク)の名は、民数記の記事の時代の前後百年から二百年の間、その地方に知られていました。ユーフラテス河のほとりにあるベトルの町(民数記22:5)も、現在、証明されています。
民22:5 そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばにとどまっている。
バラクによって、神の民イスラエルをのろうために、わざわざ遠国から招かれた預言者バラムは、ただ、イスラエルを祝福するより外に何もできなかったのです。その時、バラムが宜べた祝福の言葉は、イスラエルにとって預言となり、それ以来、その言葉通りに成就して今日に至っています。
バラムは、「見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。(万の民の中に列ぶことなからん。)」(23:9)と預言しています。
モーセの五書(創世記から申命記まで)の中には、イスラエルの民とカナンの地に関する預言がいろいろな面から記されていますが、今日、その預言どおりに成就しています。たとえば、
「あなたがたは、あなたがたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」(レビ記26:33)
「主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。」(申命記4:27)
「この民はひとり離れて住み」(民数記23:9)
これらの預言はアッシリヤ、バビロン捕囚以後、今日に至るまで、歴史の中で何度も、イスラエル民族の上に起きてきたことは周知のとおりです。イスラエル民族のほかに、このような恐るべき歴史を持つ民族は一つもありません。私たちはユダヤ人を見る度に、そのニュースを聞く度に、神のみことばが真実であることを証明する証人に会うことになるのです。
更に、バラムは後の世を予見して、来たらんとする一人の御方を示していました。
「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。‥‥ヤコブから出る者が治め、」(24:17~19)
主イエスの降誕された時、東方の博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:2)と言いましたが、彼らは旧約聖書に主イエスの王権と彼の星について預言されていたのを知っていたので、その星が他のすべての星にまさって光り輝き、ベツレヘムの幼児のいる家の上にとどまるのを見て、それと分かったのです。
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸数会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(ヨハネの黙示録22:16)
9、分解
(1)出来事による分解
1章 人口調査
2~4章 宿営の構成
5~6章 諸規定
7~9章 旅行の準備
10~11章 約束の地への出発
12章 ミリヤムとアロンの高慢
13~14章 十二人の偵察隊の派遣
15、18~19章 供物、祭司、レビ人に関する規定
16~17章 コラの反乱
20章 カナンへの最後の出発
21章 カデシュからヨルダンまで
22~25章 預言者バラム
26章 第二回目の人口調査
27~36章 様々な規定と事件
(2)場所による分解
1~10章 シナイ山での旅行の準備(二〇日間)
秩序正しい奉仕
1~4章 人口調査
1章 軍事的人口調査(国家的)
2章 秩序正しい陣営の配置(政治的)
3~4章 レビ人の義務(宗教的)
5~6章 宿営での諸規定
5章 きよい宮での悪事の禁止
6章 ナザレ人の誓願と生涯
7~9章14節 宗教生活
7~8章 幕屋における礼拝
7章 自発的なささげ物
8章 アロン系及びレビ人の奉仕
9章1~14節 過越祭の制定
9章15節~10章 神の導き
9章15~23節 導く雲
10章1~10節 銀のラッパ
10章11~36節 旅立ち
11~20章 シナイからカデシュへ(37年11ヶ月、38年のさまよい)
7回のつぶやき
②11章1~3節 道に対して
②2章4~35節 食物に対して
③12章 指導者に対して
④13~14章 約束の地に対して
⑤16~17章 神の任命に対して
⑥20章2~13節 渇きに対して
⑦21章4~9節 食物に対して
15、18、19章 宗教的立法
21~36章 モアブでの滞在(9ヶ月と十日間、)
カナン入国の準備
21章1~3節 アラデの王に対する勝利
21章4~9節 青銅の蛇
21章10~20節 モアブへの旅
21章21~35節 シホンとオグに対する勝利
22~25章 バラムとバラク
26章 第二回目の人口調査
27章 相続地に関する律法
28~30章 ささげ物と誓願に関する命令
31章 ミデヤン人に対する勝利
32~36章 約束の地に入る準備
(3)世代による分解
1~14章 古い時代
15~20章 推移(交代)の時代
21~36章 新しい時代
10、各章
1~4章は、イスラエルの民がその地に定着していなかったことを示しています。これらの四つの章に対しては、これまで三つの反論がなされてきましたが、それらをここに紹介し、読者の中に疑問を持つ人がいれば、それを解決していただきたいと思います。
第一の反論、イスラエルの兵士の数が六十万三千五百五十人(1:46)であったとすれば、全人口は約二百五十万人にも達し、ヤコブの時代にエジプトに来た七十人の家族(出エジプト記1:5)が、四百年間あったとはいえ、その圧迫期間に、かくも速かに増大したことは不可能であると主張する。
その解答、確かにこの急増は異例のことではあるが、不可能なことではなかったし、聖書が、ヘブル人の多産と急速な増加を強調していることに注目しなければならない(出エジプト記1:7)。しかもすでにこの時代に、ヘブル人の間では助産婦としての職業的専門家がいたことも驚くべきことです(出エジプト記1:15~21)。
第二の反論、シナイの荒野では、このような大群衆の集団を養うことができないと主張する。
その解答、イスラエルの民がジュベル・エス・サフサフの前方のエル・ラハの平野に宿営したとすれば、延長6.5Km、そして数個の広い谷間が会するかなり広い平野にいたことになる。さらに、民の食物はシナイの自然の産物ではなく、主から与えられたマナで養われていたのです。
第三の反論、2章と10章14~28節に記されているような各軍団ごとの行進の順序はありえないことだと主張する。
その解答、もし、このことが実行不可能なことであれば、神はそれを命じなかったであろうし、モーセも実行しなかったであろう。勿論、このような記録をあえて書き記すこともなかったであろう。ただ、聖書はこの軍団の行進について、ほんのその概略を記しているだけであって、行進の詳細についてはほとんど何も述べていないので、その詳細について議論することはできない。モーセは出来事の概略を史実として記しただけである。
あとがき
前回から民数記に入りました。レビ記に入った時は、関心がなくなったからと、購読をやめられた人もいましたが、それとは反対に、レビ記がよく分かるようになったと言ってくださった方もおられます。聖書の探求は途中でやめてしまうと、効果はなくなってしまいます。私も主が許して下さる間、この聖書の探求を書き続けますので、続けてご愛読いただければ幸いです。各書にはその特徴がありますので、皆さんの関心にそえないこともあるかと思いますが、聖書全体に関心を持っていただいて、探求を続けてください。
主が私たちの信仰のために与えてくださった客観的なものは、聖書だけです。この聖書のことばに聖霊の火がともる時、リバイバル1が生まれます。そのために私たちが聖書を探求することは、機関車に石炭を積んでいるようなものです。パウロが用いられたのは、彼の旧約聖書に対する知識に、聖霊の火がともったからに外なりません。燃えやすい燃料が沢山あれば、聖霊の火はつきやすいと思いませんか。
(まなべあきら 1991.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、スペインの画家、Esteban March (1610 – 1668) によって描かれた「Moses and the Brazen Serpent(モーセと青銅の蛇)」(Fundación Banco Santander蔵、Wikimedia Commonsより)
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