聖書の探求(100b) 民数記 8章 レビ人の聖別とその奉仕の任務

この章は、レビ人の聖別とその奉仕の任務を記しています。

1~4節、燭台の点火

民 8:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
8:2 「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」
8:3 アロンはそのようにした。【主】がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけた。
8:4 燭台の作り方は次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。【主】がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。

ここでは、幕屋にある燭台のともしびの点火が命じられています。これは、いよいよ幕屋での働きが正式に始まることを示しています。燭台は七つのともしび皿で照らすように命じられています。ヨハネの黙示録では、燭台は教会を意味しています(ヨハネの黙示録1:20)。

黙 1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

その光は霊的真理を照らす聖霊の光です。教会はまず、内側が真理を照らす聖霊の光で明るく照らされていなければなりません。それはさらに、外側に対しても真理を照らす光となるのです。ジョン・ウェスレーの働きも、アルダスゲートの小さな集会で彼の心に聖霊によってみことばのともしびがともったことによって始まりました。ジョージ・ミュラの働きも小さな家庭集会で聖書の話を聞いたことから始まりました。私たちの霊魂に聖霊によって、みことばの点火がなされる時、神のみわざが始まるのです。主は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)と命じられました。

イスラエル人は、これから旅に出発しようとする時に、先ず、ともしびを点火するように命じられたのです。あなたのうちには、今日、聖霊の火は点火されているでしょうか。天の御国に向かって進む旅路に出発する前に、必ず、心にはみことばのともしびがともっていなければなりません。一日を始める前に、聖霊の火があなたのうちにともっていなければなりません。その火があなたを一日中明るくしてくれます。また、天の御国への旅路を守り、支え、力づけてくれるのです。

5~15節、レビ人の潔めの命令

民 8:5 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
8:6 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。
8:7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、
8:8 若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたも別の若い雄牛を罪のためのいけにえとして取らなければならない。
8:9 あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、
8:10 レビ人を【主】の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。
8:11 アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として【主】の前にささげる。これは彼らが【主】の奉仕をするためである。
8:12 レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして【主】にささげなければならない。
8:13 あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として【主】にささげる。
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。
8:15 こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。

レビ人の任務については、すでに4章において詳しく記されています。しかしいよいよレビ人がその任務を始めようとする時、その前に、霊的に、個人的に準備がされなければなりませんでした。主の御前で奉仕をするためには、レビ人という集団で聖別され、任命されるだけでは十分ではなかったのです。ひとり一人が聖なる人となっていなければならなかったのです。それ故、ここに記されている「きよめ」は非常に厳密なきよめの儀式です。その各段階は徹底しています。儀式的、律法的聖別とともに、身体的きよめも行われています。

7節で初めて、「罪のきよめの水」(19:9、17)の使用が記録されています。

民 8:7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、

民 19:9 身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。

民19:17 この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。

この「きよめの水」は前もって用意されており、祭司がいつでも使うことができるように準備されていました。すぐに間に合う「きよめ」として、まさに「キリストの血によるきよめ」を見事に描き出しています。私たちはイエス・キリストの血によって救われ、潔められるまでは、主の奉仕にふさわしくない者なのです(ヘブル9:13,14、ヨハネ第一1:7、2:1,2)。

ヘブル 9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

Ⅰヨハ 2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

キリストから離れた状態での私たちの正しい行為は、「汚れた衣」(イザヤ64:6)でしかありません。

イザ 64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

このレビ人のきよめにおける段階は、クリスチャンをきよめるための神のご計画を示しています(イザヤ52:11)。

イザ 52:11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。【主】の器をになう者たち。

①、きよめのための条件(ヨハネ第一1:7)

Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

②、きよめのための心の準備(コロサイ3:5~10)

コロ 3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。
3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

③、きよめの実現(ヘブル10:22)

ヘブル 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

10節では、イスラエルの代表者たちが神の御前でレビ人の上に手を置きました。

民 8:10 レビ人を【主】の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。

こうして全会衆は自分たちに代わってレビ人が主のために奉仕をしてくださるようにと、誓約したのです。これは誓約の按手ということができます。今日、教会の奉仕者たちは、全会衆から信頼と誓約の按手を受ける必要があります。それが教会が主の御前に粛々として一致して進むことができる秘訣です。これがないと、たえず教会の中にいさかいや争いが生じてくるのです。

12節では、レビ人が雄牛の頭の上に手を置いています。

民 8:12 レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして【主】にささげなければならない。

これは、レビ人自身の罪の贖いと全き献身を表しています。こうして実際的に、レビ人は神のものとなり、実際の奉仕にたずさわることができるようになります。
現代のクリスチャンは、このような実際的な徹底した潔めの経験なしに奉仕についていますから、有効に働くことができないばかりか、主の御名を汚す問題を次々とひき起こしているのです。

16~26節、主のものであるレビ人の任務

16~18節は、レビ人がなぜ、神のものとなったのかを説明しています。

民 8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。
8:17 イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。
8:18 わたしはイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取った。

それはイスラエル人の初子の代わりに、主がレビ人を聖別されたからです。イスラエル人の初子が主のものであるという根拠は、エジプト脱出の時に、神がエジプトのすべての初子を打ち殺されたことにあります。このことはこれまで何度も繰り返されてきましたが、ここでも、もう一度、繰り返されています。このように度々、同じことが繰り返されているのは、それが重要なことであって、神が民の意識の中に十分に根づくほどに植えつけようとされる意図があるからです。パウロもクリスチャンに対して、「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:19,20)と教えています。
クリスチャンは、もっと自分が神のものであるという認識を深めて、生活する必要があります。ただ、教会に出席している、洗礼を受けている、説教を聞いているという程度にとどまっておらずに、神のみことばを自分自身に語られたものとして受けとめ、それに従って生活するようにすべきです。しかしサタンのささやきとこの世の習慣に従うことに慣れてしまっている私たちは、自分が神のものであるという意識を強く持ち続けるためには、何度でも忍耐強く繰り返して意識する必要があります。ですから、主はこうして、事あるごとに何度でも、「レビ人はわたしのものだ。」と繰り返しておられるのです。私たちは、キリストのものであり、キリストのものであり続ける時、多くの実を結びますが、キリストから離れると、枯れて捨てられ、火で焼かれるようになります(ヨハネ15:6)。

ヨハ 15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

クリスチャンはできるだけ早く、「自分はキリストの血によって買い取られて、キリストのものなのだ」(コリント第一6:19,20、7:23、使徒20:28、ペテロ第一1:18,19)という意識を深める必要があります。

Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

Ⅰコリ 7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。

使 20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

Ⅰペテ 1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

こうならないと、たえずキリストから離れていく傾向性はなくなりません。

19節は、レビ人の奉仕についての命令が繰り返されており、20~22節は、その実行が開始されたことを示しています。

民 8:19 わたしはイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕でイスラエル人の奉仕をし、イスラエル人のために贖いをするようにした。それは、イスラエル人が聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないためである。」
8:20 モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて【主】がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行った。イスラエル人はそのとおりに彼らに行った。
8:21 レビ人は罪の身をきよめ、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として【主】の前にささげた。またアロンは彼らの贖いをし、彼らをきよめた。
8:22 こうして後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々は【主】がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。

ここには、どのような人が神のために働くことができるかを記しています。すなわち、罪から救われ、潔められ、はっきりとキリストのものとなっていることを認識している人です。これは神の国の働きが秩序正しく、かつ効果的に行われるために不可欠なことです。信仰の不明確な者が神の国の働きにつくことによって、真理は曲げて教えられ、神の国建設が妨げられてしまう危険があります。私たちはキリストの十字架によって救われ、潔められた者で、全くキリストのものとなったことを確信しないうちは、何一つ神の御前に価値ある奉仕をすることができません。ここで、モーセも、アロンも、全会衆も、神が命じられたとおりに、レビ人に対して行ったと記しています。神は私たちひとり一人にいろいろな才能をお与えになりました。しかし才能だけでは神の働きをすることができません。キリストの十字架がはっきりと自分の心に深く刻み込まれてこなければなりません。そういう人だけが神のために働くのにふさわしい人となるのです(ガラテヤ2:20)。

ガラ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

23~26節では、奉仕ができるレビ人の年令制限について記しています。

民 8:23 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
8:24 「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。
8:25 しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。

4章3節では、三十才から五十才までの人が奉仕できるとされていますが、ここでは二十五才から五十才までとされています。おそらく、二十五才から三十才までの五年間は、見習期間だったと思われます。それにしても、二十五才から五十才は働き盛りの時代です。現代、クリスチャンはこの年令の期間をほとんど、この世の仕事に専従しています。勿論、停年退職したあと、主の働きに専念するために献身することは、尊いことですが、しかし、なんとかして、この一番働くことのできる期間に、信仰を養う学びをし、訓練を受けて、実力をつけ、主のために働けるようにしたいものです。

26節では、五十才を過ぎた人に対しては、直接、幕屋での奉仕からは身を引かなければなりませんが、監督をしたり、教えたり、助けたりする仕事が与えられています。

民 8:26 その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできるが、自分で奉仕をしてはならない。あなたは、レビ人に、彼らの任務に関して、このようにしなければならない。」

こうして主のために働く力と機会が長い間与えられているのです。今日、この世の社会では停年退職後の働き場が問題になっていますが、キリスト教会は、停年退職されたクリスチャンの奉仕する場をも備えていくようにしていかなければなりません。このようにして教会建設は、霊的には神の国の建設ですが、この地上にあっては、信仰による家庭建設も必要であり、また信仰によるクリスチャンの社会形成も必要になってくるのです。これらのことを堅実に計画していかないと、クリスチャンは子育てにおいても、家庭建設においても、働くことにおいても、老後のことにおいても、この世の渦巻の中に放り出されたままで、とまどい、この世の生き方に呑み込まれていって、信仰を失ってしまう人も起きてきます。

聖書を探求するなら、現代社会がかかえている問題に、すでに多くの光を与えていることを見い出すのです。

(まなべあきら 1992.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、「バイブル・ワールド、地図でめぐる聖書」(ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊)より、幕屋の想像図。


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