聖書の探求(101a) 民数記 9章 過越の祭りの制定、雲による主の臨在

この章は、前半に過越の祭りの制定を、後半に雲による主の臨在について記しています。

1~14節、過越の祭りの制定

民 9:1 エジプトの国を出て第二年目の第一月に、【主】はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。
9:2 「イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。
9:3 あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時に、それをささげなければならない。そのすべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない。」

1節をみると、この命令は出エジプト後、第二年目の第一月に語られていますから、この出来事は1章1節の人口調査(出エジプト後、二年目の第二月の一日に発令)よりも前にあったことが分かります。すなわち、民数記の記録は期日順に並べられていないのです。

民 1:1 人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、【主】はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。
1:2 「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。

さて、過越の祭りはエジプト脱出の時(出エジプト記12章)に行われただけで、その後行われていなかったのです。それは民が、律法の授与や幕屋建造のために専念していたために、主は過越の祭りを命じられなかったものと思われます。しかし今や、すべての礼拝と旅の準備は整えられたので、主はイスラエル人の礼拝の中心となるべき過越の祭りを命じられました。過越の祭りはイスラエル人にとっては、歴史的にエジプトの奴隷生活からの解放を祝うものでしたが、クリスチャンにとっては、罪の奴隷としての生活からの救いを祝うことを意味しています。

クリスチャンは礼拝において、先ず覚えなければならないことは、自分のためにイエス・キリストが十字架にかかってくださり、血を流し、自分を罪の奴隷の中から救い出してくださったことです。この基礎の上に立って、主を讃美し、感謝し、献身し、礼拝すべきです。その時に、私たちは「霊とまことによって礼拝」するようになります(ヨハネ4:24)。これは神学的な理屈ではなくて、実際の霊的経験として知るのです。

ヨハ 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

残念ながら、イスラエルはこの過越の祭りを忠実に守り続けませんでした。その結果、民族的規模で偶像礼拝に陥り、捕囚という厳しい審判を受けるに至ったのです。もしイスラエルがこの命令に従い、過越の祭りを忠実に守り続けていたなら、捕囚されることはなく、祝福は続いたことでしょう。

これは私たちが、ただ毎週教会に行っているという外見的信仰生活で自己満足せず、神のみことばに忠実に従うこと、守り行うことの大切さを教えてくれます。私たちにとっても、イエス・キリストの十字架の血によって、自分が罪の奴隷から救い出された恵みが心の中で風化して忘れ去られていく時、教会に出席し、讃美歌をうたい、感謝の祈りをしているように思っていても、次弟に自己中心になっていき、高慢になり、この世的人間的宗教に堕落していきます。ここに陥らないためには、私たちは毎日、みことばと聖霊によって生きる外に道はないのです。

イスラエル人にとってエジプト脱出は何千年たっても決して忘れられない大事件であったように、私たちクリスチャンにとってイエス・キリストの十字架は二千年たっても決して忘れてはならない「最大の恵みの出来事」なのです。このことがクリスチャンの信仰の中心からはずれかけていないでしょうか。

4~7節、そこで、イスラエルの民は主の命令に従い、出エジプト後、初めての過越の祭りを行いました。

民 9:4 そこでモーセはイスラエル人に、過越のいけにえをささげるように命じたので、
9:5 彼らはシナイの荒野で第一月の十四日の夕暮れに過越のいけにえをささげた。イスラエル人はすべて【主】がモーセに命じられたとおりに行った。
9:6 しかし、人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々がいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に近づいた。
9:7 その人々は彼に言った。「私たちは、人の死体によって身を汚しておりますが、なぜ定められた時に、イスラエル人の中で、【主】へのささげ物をささげることを禁じられているのでしょうか。」

しかし初めてのことで、いろいろな律法に矛盾することが生じてきました。すなわち、イスラエル人で過越のいけにえをささげない者は絶たれるという戒めと、死体に触れた者は汚れているので、過越のいけにえをささげることができないこと。あるいは、旅に出ている者、イスラエル人の中に住む外国人などの問題が具体的に出てきました。実際に、律法を運用しようとすると、細かい点で矛盾が生じてくることがあります。

8節、モーセはこの問題が生じた時、自分の知恵による判断を下さず、主に尋ねました。

民 9:8 するとモーセは彼らに言った。「待っていなさい。私は【主】があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」

このことが大切です。私たちはこういう時に、安易に自分の知恵、自分の考えに頼りやすいので、注意しなければなりません。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)

10~14節は、この問題に対する主の解答です。

民 9:9 【主】はモーセに告げて仰せられた。
9:10 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人は【主】に過越のいけにえをささげなければならない。
9:11 第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜といっしょにそれを食べなければならない。
9:12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。
9:13 身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、【主】へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。

ここには、私たちが神のみことばを守ろうとする時に、心得ておかなければならない注意が記されています。

その第一は、律法を守ったことにするために辻褄合わせをしないこと。これはパリサイ人の形式だけの厳格主義に陥ります。

第二は、10、11節で、死体に触れて身を汚していたり、遠い旅に出ている場合、一か月遅れの過越のいけにえが認められていますが、こういう例外処置を悪用しないことです。
家にいるのに旅に出ていることにしたり、わざと身を汚すことによって、いけにえをささげることを延期したり、近い所への旅なのに遠い旅にしてしまうことなどです。このようなことは、安易な考えから行われやすいので、私たちも注意する必要があります。主が一か月遅れの過越のいけにえを認められたのは正真正銘の無理な場合だけです。しかし自分に甘く、御都合主義で、世俗的な人は、こういう例外的処置を、自分の欲や都合を通すためにどんな小さなことにも当てはめて、自分のなすべきことをしないことを正当化しようとする傾向があります。これにならう者はのろわれます。

ここでは、主は決して形式的に律法を守ればいいとしていないことに注意しなければなりません。旧約聖書においても、民が心から真実に神のご命令を守り行うことを求めておられるのです。

14節、在留異国人が過越のいけにえをささげる時のことが記されています。

9:14 もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、【主】に過越のいけにえをささげようとするなら、過越のいけにえのおきてと、その定めとに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。」

そのおきてと定めは一つで、イスラエル人の場合と同じです。このことは、イエス・キリストの十字架の福音が全人類に対して普遍的なものであることを予表しています。だれでも自らすすんでイエス・キリストの恵みに与りたいとして近づく者に、恵みは与えられるのです。

15~23節、雲と火による主の導き

民 9:15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
9:16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
9:17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。

このことは、イスラエル人の行軍と生活が超自然の神の導きによるものであったことを示しています。この雲も火も、同じ真理を意味しています。すなわち、それは神の臨在です。昼は雲がおおい、夜は火のようなものに変わったのは、民の目に見えるためです。新約聖書においても、神の臨在が雲で現わされていることが記されています。

マタイ17章5節の変貌の山での「光り輝く雲」、使徒1章9節で、昇天される主を迎えて包んだ「雲」がそれです。

マタ 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

使 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

火は、使徒2章3節の「炎のような分かれた舌」は、その顕著なものです。

使 2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

これは明らかに聖霊のみわざを示しています。それ故、この雲や火は、ただ、神の臨在を可見的に示したものというだけでなく、神のメッセージや潔めの恵みのみわざを強調するものです。

イスラエル人の旅は決して、人が相談して決めたり、人間的考えや決断で行われたものではありませんでした。クリスチャンの信仰生活も、人間的、この世的考えで営まれるべきではなく、超自然の神の臨在の導きによるものでなければなりません。今日、神は私たちをみことばと聖霊という雲と火をもって導かれますから、忠実な信仰をもって従って行きたいものです。

この雲は、出エジプト記40章34~38節の幕屋建造の時にも、神の栄光として現われていますが、ここでは実際に旅に出発しようとする時に、より一層強調されています。

出 40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

クリスチャンにとって、神の臨在が日常の具体的な生活の中でより一層明確に自覚されなければなりません。クリスチャンは神の超自然の導きを受けつつ生活をしているという信仰の意識を持たなければなりません。この信仰の自覚を主に向ける時、私たちはすぐに神の臨在におおわれることができます。

ヘブル12章2節にも、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と命じています。もし私たちが真の導き手である主イエスとの人格的交わりをはっきりと意識する生活をするなら、たといシナイの荒野のような生活をしていても、不安や悩みは解消してしまいます。このような主の臨在意識を容易にもつようになるためには、やはり聖潔の恵みをもつ必要があります。

イスラエルの民は、この主の導きに忠実に従ったことが記されています。主の臨在が長くとどまっていようと、すぐに再出発しようと、民は呟かず、主に従ったのです。このことは民が、何も考えないで、ただ奴隷的に従ったことではありません。民は主を信頼し、愛している故に、自然にこのように従っていったのです。

18節からは、雲や火のしるしの動きが「主の命令」と言われています。さらに21節では、民はこの主の命令に「ただちに」「いつも」従ったことが記されています。

民 9:18 【主】の命令によって、イスラエル人は旅立ち、【主】の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
9:19 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は【主】の戒めを守って、旅立たなかった。
9:20 また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは【主】の命令によって宿営し、【主】の命令によって旅立った。
9:21 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
9:22 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。
9:23 彼らは【主】の命令によって宿営し、【主】の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された【主】の命令によって、【主】の戒めを守った。

また22節では、「ただ雲が上ったときだけ旅立った」とあるのは、他の条件や状況によっては旅立たなかったことを示しています。

彼らは、朝でも、昼でも、夜でも、神の臨在の移動の命令があれば、すぐに従ったのです。これが祝福を受ける秘訣です。

あとがき

この百一号を新な献身の心をこめてお送りできますことを感謝申し上げます。とりあえずは、二百号を目指して再出発を致します。
皆様のあついお祈りをよろしくお願い申し上げます。豪華な雑誌でもないし、面白おかしい内容でもないのに、大いに恵みを受けられたというお励ましのお便りをいただき、主の聖名を崇めております。
今後も、主の聖名のため、また皆様の霊的成長に少しでもお役に立てるようにと祈りつつ、執筆を続けます。

聖書中にはいくつも難所があります。これまでも何回か、どうしようかと思ったことがありますが、御霊の助けをいただき、乗り越えさせていただきました。振り返って読んでみます時、よくもまあ、このようなことが書けたものだと思うことがしばしばです。これらはみな、私の知恵や研究から出たものではなく、御霊の教えによるものです。それ以外に考えられません。

聖書の真理がまず、クリスチャンの一人一人に浸透し、それが福音宜教に活かされるように、切に祈っております。

(まなべあきら 1992.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、Dickes, William (1815-1892)による Bible picture bookの挿絵「The tabernacle erected in the wilderness, surrounded by an enclosure and miles of tents (囲いと何マイルにも及ぶテントに囲まれ、荒野に建てられた幕屋)」(Publisher: Society for Promoting Christian Knowledge (Great Britain)、Wikimedia Commonsより)


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